イエス・キリストは「最初の者が最後に、最後の者が最初になる」と、弟子たちに話された意味を、ぶどう園の働き人の例え話を用い、弟子たちに教えられました(マタイ20:1~16)。このイエスの教えは1世紀から現在にまで及ぶ重要な審理です。昨日の紹介記事をお読みくだされば嬉しく存じます。次に、イエスは弟子たちに三度目の、ご自身が祭司長や書士たちに引き渡され、愚弄され、むち打たれ、杭に付けられ、死に処せられ、三日目に復活させられることを予告された場面が、マタイの福音書に次のように記されています。イエスは、ご自分が地上に遣わされている目的を何度も明らかにし、愛する弟子たちに備えをするように促しておられます。
「さて、エルサレムに上ろうとするにあたり、イエスは十二弟子たちだけを連れて行き、その途中で彼らにこう言われた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子(イエス)は祭司長や書士たちのもとに引き渡され、彼らはこれ(イエス)を死罪に定め、ついで、これ(イエス)を愚弄し、むち打ち、かつ杭につけるために諸国民の者たちに引き渡すでしょう。そして、三日目に彼(イエス)はよみがえらされます」」(マタイ20:17~19)。
イエスが弟子たちにご自身の死と、三日目の復活について告げられるのは、これで三度目です。イエスは愛する弟子たちに備えをさすために、漸進的にご自身が地上に遣わされ、贖いの死を遂げる時の様子を、具体的に予告されています(マタイ20:28)。イエスはエルサレムに上った時に、そこで捕縛され、祭司長や書士たちに引き渡されることを告げておられます。彼ら、つまり当時のユダヤ教の宗教指導者たち・祭司長や書士たちは、非道にもイエスを無実の「死罪に定める」ことを明らかにされています。それだけではなく、イエスは人々に愚弄され、むち打たれ、一般の罪人と同じように杭に付けられ、死に処せられる残忍な内容も明らかにされました。しかし、イエスは三日目には復活させられることを明言し、弟子たちに動揺しないように話されています。
この時の弟子たちの反応は、マタイの福音書には記されていませんが、弟子たちはやはりイエスの贖いの死の予告と復活は大いに悲しみのもとだったと思いますが、マタイの福音書の続く場面を読むと、弟子たちの中でだれが一番偉いのか、と誤った論議をしていることから、イエスの教えの意味をまだ十分に悟っていなかったことが分かります。マタイの福音書を読むと、イエスの予告が、その通り、どのように進行するか、詳しく分かり、イエスは最後まで弟子たちを愛し導きを与えられます。イエスがみ父エホバのご意志を完全に成し遂げる愛に基づく謙遜で従順な方であったことが確証されています(フィリピ2:5~8)。イエスの足跡はまさに、世界中の人々にとって福音であることが分かります。
ホオジロや かごに飼われし 哀れかな 今日の一句
小雨の降る「JR宇和島駅前通り」
わたしの地方はいい天気です。
JWみやさんの方はいかがですか?
もし十二弟子の一人だったらわたしも彼らと同じく主の死と復活の予告を聞いて大いに悲しんだと思います。
それでも後になってその意味を知るとき、主が繰り返しご自身の死と復活を告げておられた理由を悟ると思います。
このキリストの死と復活こそが使徒たちによって語り継がれた福音であり、この福音によって救われるのだということを今日のJWみやさんの記事の最後の一文から考察することができました。
こんばんは♪
いつも励みの多いメッセージをお送り頂き感謝致します♪
私の住む宇和島市の25日は、少し寒い風もあり、曇り空でした♪
我が家の庭の緋寒桜も8分咲になりましたので、
本格的な春もそこまで来た感じです♪
イエスの三度目の、ご自身の死と復活の予告、特に死の予告は、
弟子たちも大きな悲しみと信じ難い気持ちを抱いたかも知れません・・・
イエスは、弟子たちに神の王国の真理を証ししただけではなく、
あらゆる疾患とあらゆる病を即座に治し、大群衆には満ち足りる食事を与え、
嵐を鎮め、水の上を歩き、少女を復活させ、
そのような奇跡を行う能力をみ父エホバ神から授けられている証拠を見ました!
そのような師であるイエスが「捕えられ死に処せられる」という予告は、
受け入れにくく思ったのも当然かも知れません。
イエスは、どのような場合でもみ父エホバのご意志を優先し、
弟子たちを愛し、辛抱強く漸進的に
物事を明かにされる導き方にたくさん学べます♪
イエスの死と復活に至るまでの足跡が記されているマタイ、
マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は、まさに福音であり、
深い感謝の念に包まれます♪
深い意味を込められたメッセージに重ねて感謝致します♪