私たち人間にとって、深い悲しみは「愛する人を亡くしたとき」です。私が学生の時、ある教授は「人間の最大の悲しい出来事は、親が自分の子供を先に亡くするときである」と、説明され、その言葉は今でも鮮明に覚えています。人は、自分を育ててくださった親を亡くしたときは、無力感と深い悲しみに陥ります。同じように自分の配偶者や兄弟や親族や友人を亡くした時も深い悲しみと空しい気持ちが押し寄せ涙が溢れます。あなたも、もしかしたらその経験をし、その悲しみを乗り越えるには長い時間を要したかも知れません。それでも、誰もがこの事物の体制下で経験する「愛する人を亡くしたとき」の深い悲しみは、消え去ることがありません。聖書は、現在人間が直面する死について「最後の敵」と記し、その「最後の敵」の死が無に帰せしめられることを、次のように記しています。
「最後の敵として、死が無に帰せしめられます」(コリント第一15:26)。
上の聖句に示されている通り、人間にとって深い悲しみとなる死について、聖書は、適切にも「最後の敵」と呼んでいます。死は多くの場合老化や病気によって、あるいは自然災害や交通事故、戦争やテロによって、突然襲ってきます。愛する人をいや応なしに奪って行きます。死を何人も回避すことができません。ですから、だれにも生じる死とその結果に直面すると、途方に暮れ、深い悲しみで涙が溢れ、空しい気持ちに陥ります。
しかし、上の聖句に記されている通り、「死が無に帰せしめられる」と保証の言葉が記されています。どのようにして神エホバは、「最後の敵」の死を無くしてくださるのでしょうか。聖書は、私たちが死に至るのは、最初の人アダムが神エホバに罪を犯したゆえに、その罪が人類社会に受け継がれ、その罪によって死に至る、死の原因を明らかにしています(創世記2:17;3:1~6,19.ローマ5:12)。神エホバは、この人間の罪と死からの解放の手立てとして、人類を深く愛して、約束通り、ご自分の独り子イエスを地上に遣わされ、そのみ子イエスが贖いの死を遂げて、永遠の命の道を整えてくださっています(ヨハネ3:16)。このイエスの贖いの死の適用によって人類が死ぬことがなくなるのは、神の王国によってこの事物の体制が滅ぼされ、地上に義の宿る新しい社会・地上の楽園が回復された以降となります(ダニエル2:44,45.ペテロ第二3:10~13)。その時の様子・死が無に帰せしめられた様子を聖書の巻末の書啓示(黙示録)は次のように保証しています。
「また神(エホバ)は彼らの目からすべての(悲しみの)涙をぬぐい去ってくださり、もはや死はなく、嘆きも叫びも苦痛ももはない。以前のものは過ぎ去ったのである」(啓示21:4)。
上の聖句の啓示21章4節に記されている通り、人間の「最後の敵」の死が「無に帰せしめられた」新しい義の宿る社会での生活を思い描いてくだされば、愛する人を亡くしたときの悲しみも和らぐでしょう。しかも、それまでに亡くなった愛する人たちの地上への復活が始まりますので、再会の歓びは言語に絶するものとなるでしょう(ヨハネ5:28,29)。あなたも、神エホバの約束に堅く立つ方のお一人であれば幸いです。
良いたより 家々に告ぐ 炎天下 今日の一句
庭に次々と咲く「デュランタ」
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