宇和島市の石応には今は地元の人たちの努力によって
消波ブロックの設置により奇麗な砂浜があります。
その砂浜の所から坂道を登ると小さな堂崎山があり頂上に
観音堂があります。
この堂崎山の観音堂で起きた悲話が伝えられています。
敗れた平家の童子と女官5人がここの観音堂に壇ノ浦から
逃れ住んだのですが、追手の源氏の兵に見つかり
惨殺されたのです。
私も壇ノ浦で敗れて逃れた平家の一族の一人として
この悲しい伝説に涙が流れます。
今日は石応の堂崎山と唐綿の花を紹介致します。
1.石応の堂崎山
(1)石応の美しい砂浜(写真の右に見えるのが堂崎山です。当時はこの浜は砂浜(砂浜は近年地域の人たちによって人工的に造られた。そのため砂が無くならないように消波ブロックがあります)ではなかったのでおそらく追われた平家の童子と5人の女官たちの船はここに着き、下の写真の登り道(当時は細い道)を通って観音堂に逃れたものと考えます)
(2)上の砂浜の右側にある堂崎山への登り道(軽自動車は上まで登れます)
(3)童子と女官の悲話の記された説明板(文字がかすれて読めない部分があります。このお説明文は元市長が書かれていますので、市役所に行き確認しましたが、残っていなく残念でした)
(4)観音堂入り口の山門(山門の奥に見えるのが観音堂です)
(5)観音堂(この観音堂の天井裏に壇ノ浦で源氏に敗れ、船で逃れて来た平家の童子と女官5人が隠れていたところを源氏の武将・五郎吉武が見つけたが、五郎吉武は一の谷の戦いで平家の武将・山名三郎幸兼ねに命を助けられた恩義があり、殺害を止めたようです。しかし、源氏の兵氏がその制止を聞かず、惨殺したようです)。
(6)山門を入ると右側にあった鐘(この鐘の左側に小さな池が残っています)
(7)鐘の横に残っている池(この池の傍に女官たちが使っていた鏡が保存されていたようですが、今はその鏡がないそうです。当時、どのようにして池に水を引いたのか不明です。今は水道管が引かれています)
(8)観音道の左側にあった千年ほど前の観音像
2.12月22日のまだ庭で元気に咲いている唐綿の花(花図鑑では花期は4月~9月ですが、我が家の庭では写真の様に元気に咲いています)
悲しい伝説がある堂崎山の観音堂ですね。
観音堂上り口に観音開きのガード、山門脇に植木鉢が見られますが、
何方か住まわれているのか、管理されている方がおられるのでしょうか?
手入れも奇麗にされていますね。
こんばんは♪
源氏に敗れた平家の童子と5人の女官の悲話が残っています。
山門の右側に植木鉢が見えますが、山門を入ると左側に住職の家があり、
住職がお世話をされているものです。
観音堂の周りは住職が管理されているようですが、登り道等は地域の人たちが管理しているようです。
登り道は奇麗に舗装され軽自動車で上がれるように、管理されています。
平家の生き残りの一人として感謝を表したいと思います。
本日もお訪ねしてくださりコメントに感謝致しいます。