皆様方の周りにも、ご自分の考えや義に固執する方や、自分を過渡に賢い者とし、他の人の意見を謙遜に聴かない人がいらっしゃるかも知れません。み言葉聖書を学び、適用しない人たちはそのような尊大な態度を表します。今日紹介します、伝道の書7章の後半には、人間の独自の考えに基づいた「義に過ぎる者」、「自分を過渡に賢い者としてはならない」と教えています。ソロモン王は自ら知恵を用い試したが、人間の知恵にが限界があること、自らの知恵は、「知恵と物事を知り、探求し、尋ね求めるため、また愚鈍の邪悪さと狂気の愚かさを知るためであった」ことも記されています。またソロモンは「まことの神(エホバ)は人間を廉直な者として造られたが、彼ら自身が(災いとなる)多くの計画を探り出した」ことも記しています。伝道の書を読むと、私たちは神エホバの教えを学び、神エホバのご意志を行なうことが永続する幸福に導かれることが分かります。
伝道の書7章の後半には次のように記されています。
「わたしは自分のむなしい日々の間にすべてのことを見た。その義のうちに滅びゆく義なる者がいる。その悪のうちに長らえる邪悪な者がいる。
(人間独自の考えに基づいた)義に過ぎる者となってはならない。また、自分を過渡に賢い者としてはならない。どうして自分の身に荒廃をもたらしてよいであろうか。邪悪に過ぎる者であってはならない。また、愚かな者となるな。自分の時でないのに、どうして死んでよいだろうか。一方をつかむことのほうが良いが、他方からも手を引くな。神(エホバ)を恐れる者はそれらすべてと共に出て行くからである。
知恵は賢い者にとって、都市にいた十人の権力ある者よりも強い。常に善を行なって罪をおかすことのない者は、地にひとりもいないからである。
また、人々が話すかもしれないすべての言葉に心を向けてはならない。あなたの僕があなたの上に災いを呼び求めているのを聞かないためである。あなたの心は、あなた自身も幾度となく他の者たちの上に災いを呼び求めたことを知っているからである。
このすべてもわたし(ソロモン)は知恵をもって試した。わたしは言った、「わたしは賢くなるのだ」と。しかし、それはわたしの遠く及ばないことであった。あるようになったものは、遠くて非常に深い。だれがそれを見いだし得るだろうか。わたしは自ら振り向いた。わたしの心がそうしたのである。知恵と物事の理由を知り、探求し、尋ね求めるため、また愚鈍の邪悪さと狂気の愚かさを知るためであった。
そして、わたしは見いだすのであった。自分の狩猟の網、心を引き網、そして手をかせとする女は死よりも苦いことをわたしは見いだした。これ(手をかせとする女)から逃れるなら、その者はまことの神(エホバ)の前に善良な者であり、これに捕えられるなら、その者は罪をおかしているのである。
「見よ、このことをわたしは見いだした」と、招集者(ソロモン王)は言った。「一つ一つのことに当たり、その要約を見いだすためであった。わたしの魂は絶えずそれを求めたが、わたしは見いださなかった。わたしは千人の中から一人の男を見いだしたが、それらすべての中から女を見いだすことはできなかった。見よ、ただこのことをわたしは見いだした。まことの神(エホバ)は人間を廉直な者として造られたが、彼ら自身が(災いとなる)多くの計画を探り出したのである」」(伝道の書7:15~29)。
まことの神エホバは、わたしたち男性も女性もくすしく「神の像(かたち)」に創造されていますので、神エホバの比類のない愛と公正(義)と知恵と力を学び、それを生活に適用するなら、神エホバの前に「善良な者」として見いだしてくださるのです(詩編139:14.創世記1:26,27)。しかし、神エホバの教えを学び適用しない者は、災いとなる多くの計画を考え出すのです。ですから、イエスはみ言葉を聞いて学び、守り行わない者は、砂の上に家を建てた人に例え、「愚かな人」と教えられました(マタイ7:26,27)。一方み言葉を聞いて学び、その教えを守り行う人は岩塊の上に家を建てた人に例え、「思慮深い人」として教えられました(マタイ7:24,25)。さらに、イエスは神の子でありながら、地上に遣わされている間、ご自分を無にして奴隷の形を取り、自分を低くし、謙遜さの手本も残されました(フィリピ2:58.ペテロ第一2:21)。私たちは、神エホバからの教えの必要を自覚し、廉直な歩みをし幸いな人たちと呼ばれるようにしたいものです(マタイ5:3)。
陽は真上 街中にある お花畑 今日の一句
ご近所の庭の「百日草」
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