神エホバの霊感を受け、聖書のイザヤ書を書き記したイザヤは、神エホバが「聖なる方」であることを告げられ、「わたしは災いだ!・・・わたしは唇の清くない人間である」と、謙遜に自分の罪深い状態を悟って呆然としていました(イザヤ6:3、5)。天の神エホバからはどのような反応が返って来るでしょうか。一人のエホバのみ使いが、イザヤを助けようとします。次のように聖書のイザヤ書に記されています。
「すると、セラフ(み使い)のひとりがわたし(イザヤ)のところに飛んで来た。その手には祭壇から火ばしで取った真っ赤におこっている炭があった。そしてわたしの口に(その真っ赤な炭が)触れて言った、「見よ、これがあなた(イザヤ)の唇に触れたので、あなたのとがは離れて行った。あなた(イザヤ)の罪は贖われている」」(イザヤ6:6,7)。
上の聖句に記されている「真っ赤におこっている炭」は、象徴的な意味で、汚れから清める力があることを示しています。このセラフ・み使いは、神殿の祭壇の聖なる火から取った真っ赤におこっている炭をイザヤの唇に触れ、イザヤが神エホバから恵みと任務を受け取るのに必要な程度まで、罪が贖われている、と言って安心をさせました。このことから、神エホバの親切な対応に、本当に安心感を抱くのではないでしょうか。私たち人間は罪深く、聖なる方・神エホバに近づくのはふさわしくないと思うかも知れません。しかし、イエスの贖いの死の犠牲によって、私たちは信仰を働かすなら、罪から受け戻されており、神エホバの恵みを受けることも、祈りによって神エホバに近づくこともできます(ヨハネ3:16.コリント第二5:18,21.ヨヤコブ4:8.ハネ第一4:10)。
エルサレムの神殿には、祭壇が二つ設置されていました。至聖所の垂れ幕のすぐ前には、小さな香の祭壇があり、また、聖なる所への入口の前には大きな犠牲の祭壇があって、そこでは、絶えず火が燃やされていました(レビ記6:12,13;16:12,13)。しかし、地上の神殿の祭壇は模型的なものであり、より壮大なものを予表していました(ヘブライ8:5;9:23;10:5~10)。ソロモン王がエルサレムに神殿を築き奉献した時、祭壇上の焼燔の捧げ物を焼き尽くしたのは、天から下った火でした(歴代第二7:1~3)。上の聖句の、イザヤの唇の罪・汚れを取り除くのは、天的な神エホバの神殿から取った火を表していました。ですから、イザヤの唇を火傷することもなく、清いものとしてくださったのです。
神エホバの対応から、神エホバの愛ある親切を理解される方々は幸いです。あなたも、そのような神エホバに近づく方々のお一人であれば幸いです。
盆梅や 紅白並ぶ 門の外 今日の一句
庭に咲いている「椿」
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