万葉遺跡葛飾早稲発祥地碑(まんよういせきかつしかわせはっしょうちひ)。
場所:埼玉県三郷市早稲田8-17-8。JR武蔵野線「三郷」駅の北、約1.5km。県道21号線(三郷松伏線)「丹後神社」交差点の北の角。駐車場なし。
「万葉遺跡葛飾早稲発祥地碑」は、埼玉県三郷市に「早稲田」(旧・早稲田村)という地名があることから、万葉歌にも詠われた「葛飾早稲」(米)の発祥地であるとしてその中心地にある「稲荷神社」(通称:丹後神社)前に石碑を立てたもの。ただし、地名のほかには「発祥地」であるという根拠はなく、「早稲田村」という村名も明治22年に14ヵ村が合併したときに付けた名のようである。昭和36年、埼玉県指定旧跡。
中根八幡前遺跡(なかねはちまんまえいせき)。
場所:千葉県野田市中根140-53。住宅地の中にあり、目印がなくて説明がむつかしいが、「櫻木神社」という大きな神社の東、約250m。駐車場なし。
「中根八幡前遺跡」は古墳時代初頭(4世紀頃)の遺跡で、昭和26年に1棟の住居跡が発見された。住居跡は5m×3.85mの長方形の竪穴住居で、現在は史跡公園して整備されている。昭和44年、野田市指定史跡。この公園内に、万葉歌碑が設置されている。
「葛飾(かつしか、かとしか)」という地名は古代からあり、奈良・正倉院文書には「葛餝郡」と記されている。古代には、下総国と武蔵国の境界は「住田河」(隅田川)であり、現在の千葉県・東京都・埼玉県・茨城県に跨る広大な地区であった。明治の中頃には、千葉県に東葛飾郡、東京府に南葛飾郡、埼玉県に北葛飾郡・中葛飾郡、茨城県に西葛飾郡があった。「葛飾」の地名の由来には諸説あり、葛(クズ)が繁った土地、あるいは古語で砂州や低湿地を示す言葉だったという説などがあるが、葛も荒地に生える植物なので、いずれにせよ元々はあまり人が住まないような土地だったのではないだろうか。
それが、古代には東京湾に河口があった古利根川等によって運ばれた肥沃な土と豊かな水のあるところで、稲作には好適な場所でもあったのだろう。しかし、低湿地は洪水の被害を受けやすかったことから、台風シーズンの来る前に収穫する早稲米が育てられることになった。これが「葛飾早稲」で、万葉歌に詠われるほど有名であったというわけである。
さて、その万葉歌は「鳰鳥(にほどり)の 葛飾早稲を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも」で、「葛飾早稲の初穂を神様にお供えする夜には身を慎まなければならないのだけれども、あの愛しい人が来たら外に立たせたままにすることなどできるでしょうか。とてもできません。」という意味だそうである。「鳰鳥」というのはカイツブリという水鳥の古語で、ここでは「葛飾」にかかる枕詞。この歌により、葛飾が水の豊かな場所であったこと、(万葉集の成立時期とされる)8世紀には既に「葛飾早稲」が広く知られていたこと、「葛飾早稲」が神聖なものとして認識されていたことなどがわかる。
こうして、郷土の歴史を讃えるべく、上記2ヵ所のほか、千葉県流山市の式内社「茂侶神社」(2012年10月27日記事)や「諏訪神社」の境内に万葉歌碑が建てられることになったようである。上記のように、ピンポイントで現・三郷市が「葛飾早稲」発祥の地というには根拠がないが、古利根川の流域で広く「葛飾早稲」が栽培されたのだろうと思われる。なお、歌碑ではないが、千葉県野田市には「におどり公園」という「葛飾早稲」に因んだ小さな公園がある。
写真1:「丹後(稲荷)神社」。正式名称は単に「稲荷神社」で、社号標は「村社稲荷神社」となっている。祭神は宇迦御魂之命。
写真2:境内入口の左手に「万葉遺跡葛飾早稲発祥地」と刻された石碑が立てられている。
写真3:同上、裏側に万葉歌。
写真4:「中根八幡前遺跡」。小さな公園のようになっている。
写真5:同上。案内板以外には遺跡らしいものはない。
写真6:遺跡公園内にある万葉歌の石碑。
場所:埼玉県三郷市早稲田8-17-8。JR武蔵野線「三郷」駅の北、約1.5km。県道21号線(三郷松伏線)「丹後神社」交差点の北の角。駐車場なし。
「万葉遺跡葛飾早稲発祥地碑」は、埼玉県三郷市に「早稲田」(旧・早稲田村)という地名があることから、万葉歌にも詠われた「葛飾早稲」(米)の発祥地であるとしてその中心地にある「稲荷神社」(通称:丹後神社)前に石碑を立てたもの。ただし、地名のほかには「発祥地」であるという根拠はなく、「早稲田村」という村名も明治22年に14ヵ村が合併したときに付けた名のようである。昭和36年、埼玉県指定旧跡。
中根八幡前遺跡(なかねはちまんまえいせき)。
場所:千葉県野田市中根140-53。住宅地の中にあり、目印がなくて説明がむつかしいが、「櫻木神社」という大きな神社の東、約250m。駐車場なし。
「中根八幡前遺跡」は古墳時代初頭(4世紀頃)の遺跡で、昭和26年に1棟の住居跡が発見された。住居跡は5m×3.85mの長方形の竪穴住居で、現在は史跡公園して整備されている。昭和44年、野田市指定史跡。この公園内に、万葉歌碑が設置されている。
「葛飾(かつしか、かとしか)」という地名は古代からあり、奈良・正倉院文書には「葛餝郡」と記されている。古代には、下総国と武蔵国の境界は「住田河」(隅田川)であり、現在の千葉県・東京都・埼玉県・茨城県に跨る広大な地区であった。明治の中頃には、千葉県に東葛飾郡、東京府に南葛飾郡、埼玉県に北葛飾郡・中葛飾郡、茨城県に西葛飾郡があった。「葛飾」の地名の由来には諸説あり、葛(クズ)が繁った土地、あるいは古語で砂州や低湿地を示す言葉だったという説などがあるが、葛も荒地に生える植物なので、いずれにせよ元々はあまり人が住まないような土地だったのではないだろうか。
それが、古代には東京湾に河口があった古利根川等によって運ばれた肥沃な土と豊かな水のあるところで、稲作には好適な場所でもあったのだろう。しかし、低湿地は洪水の被害を受けやすかったことから、台風シーズンの来る前に収穫する早稲米が育てられることになった。これが「葛飾早稲」で、万葉歌に詠われるほど有名であったというわけである。
さて、その万葉歌は「鳰鳥(にほどり)の 葛飾早稲を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも」で、「葛飾早稲の初穂を神様にお供えする夜には身を慎まなければならないのだけれども、あの愛しい人が来たら外に立たせたままにすることなどできるでしょうか。とてもできません。」という意味だそうである。「鳰鳥」というのはカイツブリという水鳥の古語で、ここでは「葛飾」にかかる枕詞。この歌により、葛飾が水の豊かな場所であったこと、(万葉集の成立時期とされる)8世紀には既に「葛飾早稲」が広く知られていたこと、「葛飾早稲」が神聖なものとして認識されていたことなどがわかる。
こうして、郷土の歴史を讃えるべく、上記2ヵ所のほか、千葉県流山市の式内社「茂侶神社」(2012年10月27日記事)や「諏訪神社」の境内に万葉歌碑が建てられることになったようである。上記のように、ピンポイントで現・三郷市が「葛飾早稲」発祥の地というには根拠がないが、古利根川の流域で広く「葛飾早稲」が栽培されたのだろうと思われる。なお、歌碑ではないが、千葉県野田市には「におどり公園」という「葛飾早稲」に因んだ小さな公園がある。
写真1:「丹後(稲荷)神社」。正式名称は単に「稲荷神社」で、社号標は「村社稲荷神社」となっている。祭神は宇迦御魂之命。
写真2:境内入口の左手に「万葉遺跡葛飾早稲発祥地」と刻された石碑が立てられている。
写真3:同上、裏側に万葉歌。
写真4:「中根八幡前遺跡」。小さな公園のようになっている。
写真5:同上。案内板以外には遺跡らしいものはない。
写真6:遺跡公園内にある万葉歌の石碑。
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