神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

水海城跡

2024-09-21 23:34:18 | 史跡・文化財
水海城跡(みずうみじょうあと)。
場所:茨城県古河市水海字神明耕地760外。中世城館「水海城跡」は、古河市水海の「神明神社」から「水海小学校」にかけての地域にあったと推定されている。国道354号線「水海小入口」交差点から西へ約170m、突き当りY字路を左折(南西へ)して約190mで右折(西へ)、約40mで「神明神社」参道入口。駐車スペースあり。上記の突き当りを右折(北西へ)して約120m進むと「水海小学校」グラウンドの南東端。駐車場なし。
「水海城跡」は、鎌倉公方の家臣・簗田氏が現・古河市水海に設けた居城跡で、新・旧2つの「水海城」があったといわれている。「旧水海城跡」は国道4号線「新利根川橋」北詰、現・利根川の堤防のすぐ北側辺りとされており、「蔵屋敷」という地名(小字)があるというが、現在は全く遺構等は見当たらない(「いばらきデジタルまっぷ」では、「伝水海城跡」となっている。)。「(新)水海城跡」は、現在の「神明神社」~「水海小学校」付近にあったとされ(通称「城ノ内」というとのこと。)、平成2~4年に行われた発掘調査で「後北条様式」の城郭跡(曲輪跡)が確認されたという。ただし、現況は殆どが平坦な農地等で、遺構らしきものは見られない。簗田氏は、系図上では桓武平氏流大掾氏一門の平維茂の子・良衡を祖とし、近江国久田郡(現・滋賀県長浜市)にいたが、下野国梁田郡(現・栃木県足利市)にあった「簗田御厨」(「伊勢神宮」の荘園)に移住したことになっている。源義家に従って「前九年の役」(1051~1062年)に参戦し、その後「簗田御厨」に定住したとされているが、元々「簗田御厨」周辺の在地土豪だったのではないか、という説も有力となっている。「水海城」(新・旧)の築城時期・築城者は不明だが、旧城は南北朝時代末期頃(14世紀後半?)とされ、享徳4年(1455年)に第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移して初代古河公方となったとき、梁田氏は水海から「関宿城」(現・千葉県野田市)に本拠を移したが、天正2年(1574年)に後北条氏に敗れて「関宿城」を明け渡し、支城だった「水海城」に移ったというので、これが「(新)水海城」らしい。
さて、中世の話が長くなってしまったが、現・古河市水海の「三島神社」(前項)で書いたように、現・古河市水海は古代「猿島郡家」の所在地とする説が有力。水海は平坦な土地が広がっているところで、他の中世城館跡の所在地とはイメージが違うが、かつては東・西・南の三方を大きな沼に囲まれた場所で守りやすく、また、古代~中世の主要な交通手段だった水運の要所だったようだ。「水海」という地名は、もちろん、淡水の大きな沼に面していたことによるのだろうが、郡家の港=「御津(みつ)」があったことを示唆しているとする説もある。
ところで、奈良時代の正史である「続日本紀」宝亀4年(773年)の条に、「下総国猿嶋郡の従八位上・日下部浄人に安倍猿嶋臣(という姓)を賜る」という記事がある。この「日下部」氏の本拠地が、現・古河市水海と前林の間にあった「釈迦沼」(現在は干拓されて田圃になっている。)周辺であり、現在も「日下部」という小字が残っているほか、近世の古文書では「釈迦沼」を「日下部沼」と称しているものがあるという。詳しい考証は省略するが、日下部改め安倍猿嶋臣一族のその後なども含めて興味深いので、関心があれば「総和町史」などを参照願いたい。ただ、1つ付け加えるなら、「続日本紀」神護景雲3年(769年)の条に「下総国猿嶋郡家で火事があり、穀物6400斛(石)が焼損した」という記事がある。これは所謂「神火事件」で、古代に横行した郡司等による不正隠蔽のための放火事件とみられている。古代の郡家関連施設の比定地における発掘調査によって焼け米(炭化米)が大量に出土することがあり、逆に、炭化米が大量に出土する場所が長者伝説と結びついていて、郡家関連施設の所在地と推定されることも多い(例えば、「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)は常陸国那賀郡家・河内駅家、「金田官衙遺跡」(2021年4月17日記事)は常陸国河内郡家の比定地となっている。)。ところが、上記の「水海城跡」の発掘調査においては、8世紀後半頃の須恵器などの土器片が多く出土したが、炭化米は発見されなかった。このことについて、「総和町史」では、日下部浄人ら(安倍猿嶋臣一族)は新興勢力で、旧・郡司らを(放火事件で)追い落とし、8世紀後半頃に自らの本拠地である水海・前林付近に「猿島郡家」を移転させたのではないか、と推測している。

神明神社(しんめいじんじゃ)。
場所:茨城県古河市水海775。
由緒不明。祭神は天御中主命。明治6年村社に列格。


写真1:「神明神社」境内入口、社号標


写真2:同上、鳥居


写真3:同上、古い鳥居につけられていたであろう神額


写真4:同上、拝殿


写真5:同上、本殿。ちょうど屋根瓦の補修中? 丁寧な仕事ぶりでした。


写真6:「水海小学校」南側から。正門は北側。


写真7:同上、南東側から見る。
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三島神社(茨城県古河市)

2024-09-14 23:36:42 | 神社
三島神社(みしまじんじゃ)。
場所:茨城県古河市水海188。国道354号線「水海」交差点から西へ約400m、ガソリンスタンド「山中商店 水海SS」の角を左折(南へ)、道なりに南西へ約400m。駐車スペースあり。
創建については不明だが、伝承(民話)によれば、次の通り。丘の林の中に一際高いイチョウの大木があった。ある日、そのイチョウの頂上に竹の魚籠が引っ掛かっていたので、村人が集まって大騒ぎとなった。見ると、魚籠の中のものがキラキラ光っている。若者が木に登って下ろしてみると、中に3本の筋がある黒石が入っていて、その筋が3人の人物のようにも見えた。村人らは不思議に思い、社を建てて魚籠ごと黒石を御神体として祀ることにした。これが当神社の由来であるという。明治8年に焼失して廃寺となったが、当神社の西側に別当寺院「満蔵院」があり、その第6世・義空によって享保20年(1735年)に書かれた当神社の由緒書には、古老の言い伝えとして同様の内容が記され、「我は三島の神なり、伊豆の海・空を飛び来たった」との神託があったとしている。また、室町時代の京都「聖護院」門跡であった准后道興の紀行文「廻国雑記」に、上記「満蔵院」に逗留したとして、「下総国こほりの山といへる所に伊豆の三嶋を勧請し奉りて大社ましましけり、・・・」という記述がある。「こほりの山」というのは当地の地名で、今も「凍ノ山」という小字がある。そして、現在の当神社の祭神は大山祇命で、伊豆国一宮「三嶋大社」(現・静岡県三島市、2011年11月4日記事)と同じである(ただし、現在の「三嶋大社」では事代主命と同座に祀り、あわせて「三嶋大明神」と称している。)。
さて、現在の当神社の周囲を見渡すと想像がつかないが、「廻国雑記」の成立した文明19年(1487年)に当神社は既に存在し、しかも京都の神社を見慣れた道興が「大社」と称するほどの威容があったということになる。当神社は、水海の中で「町水海」と称される地区の鎮守(明治4年、村社)で、かつては西側に「日下沼(釈迦沼)」という大きな沼に面していた。そして、中世には、水海は日下沼や利根川の水運の基地(津、港)のようになっていたようである。祭神の大山祇命は、その神名、あるいは娘神の木花之佐久夜毘売が富士山の祭神であることなどから、当然、山の神ではあるのだが、同じく大山祇命を祀る伊予国一宮「大山祇神社」(現・愛媛県今治市)が大三島という瀬戸内海の島にあり、「三嶋大社」は伊豆諸島造島の神ともされるように、海の神でもある。また、別名・和多志大神ともいって、渡船場にも多く祀られているという。よって、少なくとも中世には、港湾関係の富裕な人々によって祀られていた可能性が高い。
そして、上記の地名「凍ノ山」であるが、これが本来は「郡」、つまり、まだ所在地が確定されていない古代の下総国「猿島郡家」の所在地に比定する説がある。この説に対しては、現・古河市域は旧・下総国葛飾郡に属したのではないか、という反対説がある(なお、「葛飾郡家」は「下総国府」(2013年1月12日記事)と同じ現・千葉県市川市にあったとするのが通説。)。ただ、当地は利根川・江戸川に近く、その流路等とも絡み、古代の国境がどうなっていたかは難しい問題である。仮に当地が猿島郡に属したとするならば、当神社を含めた、もう少し広い範囲で「猿島郡家」跡の比定地として想定することも十分あり得ると思われ、それが中世における当地の繁栄につながるのかもしれない。


写真1:「三島神社」境内入口、社号標


写真2:鳥居。額は「正一位三嶋大明神」


写真3:社殿前


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:「社殿再建記念之碑」


写真7:境内社「朝日の宮」(「八幡神社」、「天満宮」、「稲荷神社」の合祀)


写真8:境内社「夕日の宮」(「浅間神社」、「水神宮」、「大神宮」、「住吉神社」の合祀)
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関戸の宝塔

2024-09-07 23:32:13 | 史跡・文化財
関戸の宝塔(せきどのほうとう)。
場所:茨城県古河市関戸906(コミュニティセンター「関戸田園都市センター」内)。茨城県道190号線(境間々田線)「関戸」交差点から南に約100m。駐車場あり。ただし、扉が閉鎖されていることが多いようなので、注意。
「関戸の宝塔」は、総高201cmの石塔で、現・栃木県宇都宮市大谷産出の凝灰岩(いわゆる大谷石)製。基礎部分は後補とみられるが、円柱形の塔身、笠、相輪からなり、大ぶりな笠部は本瓦葺風で、笠裏には軒や垂木も彫り出し、木造建築を模したような写実的な造作となっていて、下面には瓔珞や風鐸を付けたとみられる小孔が彫られている。円柱状の塔身上部の四面には宝珠型光背と蓮座を伴う金剛界四方仏(阿弥陀如来・薬師如来・金剛界大日如来・釈迦如来)の種子(梵字)を刻み、その間に更に小さく4つの種子(弥勒菩薩・文殊菩薩・普賢菩薩・観音菩薩)が彫られている。塔身の金剛界大日如来(バン)種子の下に「敬白」より始まる7行の銘文が刻まれているが、風化が激しく判読はかなり困難であるものの、「父母成仏」を願って造立された供養塔であるとみられている。「大願主」(造立者)の名は全く読み取れず、年号は□安4年と、一部判別し難い状態となっている。この年号については、従来、鎌倉時代の「弘安4年」(1281年)とされてきたが、□の文字は人偏らしく、平安時代末期の「仁安4年」(1169年)と考えられるようになった。なお、従来「宝塔」と称されるが、形態からすれば「笠塔婆」で、12世紀代には各地で石製や木製の笠塔婆が造立されているが、「関戸の宝塔」はそれらの初現期の重要資料とされ、古河市指定文化財となっている(旧・総和町の指定文化財第1号)。この塔の造立年代が平安時代末期にまで遡り、また、精巧な造りなどからすると、京都文化の影響が考えられ、造立者が当地の有力者であれば、当時の領主・下河辺氏の一族だったのではないか、と推定されている。下河辺氏は、俵藤太こと藤原秀郷の子孫といわれ、平安時代末期、太田行義が八条院(暲子内親王、第74代・鳥羽天皇の皇女)領の荘園・下総国下河辺荘の荘官として下河辺荘司と称し、下河辺氏を名乗った。行義は源頼政の郎等として活動し、以仁王の挙兵(治承4年(1180年))のとき、行義が敗死した頼政の首を本領である現・古河市に持ち帰り、「頼政神社」を創建したという伝説がある(「頼政神社」(2022年1月8日記事))。そして、この行義の兄が小山氏の祖・小山正光で、「下野国府」官僚組織の実質的なトップである下野大掾職を務め、官道交通路を管轄する御厩別当職も兼ねていたというところから、大谷石の石材採取や運搬には小山氏の協力が不可欠だっただろうと考えられている。


写真1:向かって右から、旧「金剛寺 不動堂」、「関戸の宝塔」覆屋、石仏等


写真2:旧「金剛寺 不動堂」。元は、天台宗「金剛寺」という寺院があったが、廃寺となり、堂宇としては不動明王を祀る「不動堂」のみが残っている。


写真3:「関戸の宝塔」保護のため設けられた覆屋と説明板


写真4:「関戸の宝塔」


写真5:同上。五輪塔の一部と思われる石造物も置かれている。


写真6:石仏等


写真7:近くにある浄土宗「関宝山 阿弥陀寺 千手堂」(通称:関戸観音)。堂本尊は千手観世音菩薩で、葛飾坂東観音霊場第29番札所(場所:茨城県古河市関戸1229、「関戸」交差点の北、約50m)。現在は観音堂のみとなっている。
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寶林山 地蔵院 円満寺

2024-08-31 23:35:22 | 寺院
寶林山 地蔵院 円満寺(ほうりんさん じぞういん えんまんじ)。
場所:茨城県古河市小堤1405。国道125号線「小堤」交差点から東に約150m。駐車場あり。
寺伝によれば、大同4年(809年)、弘法大師(空海)が陸奥国「湯殿山」(現・山形市鶴岡市。「湯殿山神社本宮」(2016年4月6日記事))への参詣の帰りに当地に滞在し、「寺家山」(現在地から南に約300mのところ)に一宇を建立したことが始まりという。寺宝の金銅三鈷杵・五鈷鈴(密教の法具、茨城県指定文化財)は、その際に弘法大師が納めたものとされる。弘法大師自身が当地に来たというのは伝説に過ぎないだろうが、この金銅三鈷杵・五鈷鈴は中国・唐(618~907年)からの渡来物と考えられており、また、これを模して造られたとみられる平安時代作とされる金銅独鈷杵・五鈷杵もあって、創建当時のものであれば、平安時代末期に現・古河市周辺を支配した下河辺氏の関与があった可能性がある。一方、当寺院の創建の地は中世城館「小堤城」の内堀と中堀の間に当たり、元は城内にあった城主の持仏堂であったものが、後に城域全体を寺院の境内とするようになったのかもしれないという。小堤城主については、室町時代、古河公方の家臣・諏訪三河守頼方であるとの伝承がある。その後、江戸時代に堂宇は数度に亘って焼失したが、天保11年(1840年)、行盛法印によって再建された。⼤正15年に本堂の⼤規模な改修、昭和52年に現在の観⾳堂建⽴、同53年に鐘楼堂が再建されたという。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は延命地蔵菩薩。また、正徳4年(1714年)に開創された葛飾坂東観音霊場の第33番札所となっている(観音堂本尊は十一面観世音菩薩)。観世音菩薩は33の姿に変身して衆生を救うとされるので、本来、観音霊場の札所は33ヵ所とされることが多く、本来は当寺院が結願の寺だった(現在は番外を含め41ヵ寺が参加。)。このためか、12年に一度(午年)に行われる観音御開帳の運営事務局も当寺院に置かれているという。


真言宗豊山派 円満寺のHP


写真1:「円満寺」入口、寺号標


写真2:寶聖大観音菩薩像(手前)、聖観音菩薩像(奥)


写真3:山門、鐘楼、イチョウ


写真4:山門


写真5:山門裏のイチョウ。太さからすれば、古木というほどではないと思われるが、乳垂根が多く、長く伸びている。


写真6:本堂


写真7:観音堂
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諏訪神社(茨城県結城市上山川)

2024-08-24 23:32:08 | 神社
諏訪神社(すわじんじゃ)。通称:結城諏訪神社、上山川諏訪神社。
場所:茨城県結城市上山川161。茨城県道23号線(結城坂東線)と同54号線(明野間々田線)の「芝崎」交差点から南に約400m。駐車場あり。ただし、こちらは社殿の裏側に当たり、西向きの社殿の前に約250mの真っすぐな参道があって、入口に朱塗りの両部鳥居がある。
社伝によれば、天慶3年(940年)、「平将門の乱」に対して、俵藤太こと藤原秀郷に将門討伐の宣旨が下り、秀郷が信濃国一宮「諏訪大社」(現・長野県茅野市ほか)から諏訪大明神の神霊を勧請して、現在の境内地で必勝祈願を行ったのを創建とする。将門に勝利した秀郷は下総国と下野国の守護に任じられたことから、諏訪大明神の御神徳に感謝し、社殿を建築して、神事に使った鏑矢を御神体として奉納した。それ以来、源頼朝に従い奥州合戦に参戦した当地の領主(結城郡地頭)の結城氏初代当主・結城朝光が戦勝祈願して勝利を収めるなど、万事必勝の神として多くの武将の信仰が篤かったという。江戸時代には、慶安2年(1649年)に社領五石を認められた。明治6年、村社に列格。現在の祭神は、建御名方命・事代主命・八坂刀女命。
なお、社殿の前にある「勝負岩」は、将門の軍勢の矢から秀郷を守ったといわれ、岩に触るとパワーを授かり、願いが叶うとされている。また、毎月4月3日の神武祭に行われる「太々神楽(だいだいかぐら)」は五穀豊穣、氏子・崇敬者の安寧を祈願するもので、茨城県指定文化財となっている。「太々神楽」自体は茨城県西部・南部の他の神社等でも行われているが、当神社においては、神楽師が半世襲的な伝承形態で、伝承者全員が舞を踊り、笛・太鼓を一通り演奏することができる免許皆伝となった者で構成されており、結城市内の他の神社にも出張して演じることに特徴があるという。


結城諏訪神社のHP

結城市のHPから(上山川諏訪神社太々神楽)


写真1:「諏訪神社」鳥居(社殿正面)


写真2:拝殿。社殿が西向きなのは、本社である信濃国一宮「諏訪大社」の方角を向いているためという。


写真3:本殿。室町時代に再建、元文2年(1737年)改修とされ、結城市指定文化財。


写真4:本殿横の鳥居。ちょっと変な場所にあるが、社殿の背後に県道が通り、専らそちらから参拝者が来るためだろう。


写真5:神事殿(神楽舞台)


写真6:由緒碑


写真7:境内社「天満社」。他にも、石祠の境内社がいくつかある。


写真8:「勝負岩」
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