ポンポン岩(ぽんぽんいわ)。
場所:岡山市東区西幸西。西大寺市街地方面から県道28号線(岡山牛窓線)「西大寺浜」交差点から南へ向かう市道を進むと、古社「神前神社」の鳥居前に出る。神社前で道なりにカーヴしているが、そちらに行かないで、狭い道に直進で入り、乙子橋を渡る前に左折(南へ)。堤防上の道路(1車線分しかない狭い道路なので注意。)を約2km。
吉井川左岸(東岸)、河口近くにある巨岩。この岩(名前の由来は不明。)の近くに「河口から0.6km」という標識がある。かつては海の中の岩か島だったかもしれない。少し下流の川の中にも「比沙古岩(びしゃごいわ)」という岩がある。こちらは今は小さな灯台(灯標)が設置されているが、かつては観音像が祀られていたという。
「ボンボン岩」のほうは、石鳥居が立てられ、「祇園社」が鎮座している。「祇園社」だから祭神は牛頭天王(素戔嗚尊)だろうし、仏教色がある。いつからここが神社になったかはわからないが、実に立派な巨岩で、上も平ら。磐座といっても良いように思われる。この辺りは、式内社「安仁神社」の勢力圏で、上記の古社「神前神社」や「乙子神社」にも近い。加えて、この先、現在「テイカ」という会社があるところは「外波崎(そとはさき)」といわれ、岡山藩が「台場」(砲台)を設置したところでもある。児島の小串にも台場があり、それと向かい合う形で設置されたものだという。それだけ、軍事上重要な場所だったということだろう。ちなみに、源平合戦の折、戦死者を葬った「千人塚」があったともいい、「外波崎」というのは、別名「卒塔婆崎」ともいわれたという。
なお、この「祇園宮」については、明治時代の終わりに「幸島稲荷神社」(岡山市東区水門町)に合祀されることになった。すると、原因不明の熱病が蔓延し、地元では「幸西病」といわれた。「祇園宮」の崇りではないか、として、合祀を取りやめ、元に戻したという。
写真上:吉井川堤防上の道に面している。というより、吉井川堤防上にある。下流側は「祇園港」(地図によっては「吉井川マリーナ」)。
写真中:鳥居の奥に「祇園社」。その裏は吉井川。
写真下:南側から。鳥居横の階段から、この巨岩の上に登れる。
場所:岡山市東区西幸西。西大寺市街地方面から県道28号線(岡山牛窓線)「西大寺浜」交差点から南へ向かう市道を進むと、古社「神前神社」の鳥居前に出る。神社前で道なりにカーヴしているが、そちらに行かないで、狭い道に直進で入り、乙子橋を渡る前に左折(南へ)。堤防上の道路(1車線分しかない狭い道路なので注意。)を約2km。
吉井川左岸(東岸)、河口近くにある巨岩。この岩(名前の由来は不明。)の近くに「河口から0.6km」という標識がある。かつては海の中の岩か島だったかもしれない。少し下流の川の中にも「比沙古岩(びしゃごいわ)」という岩がある。こちらは今は小さな灯台(灯標)が設置されているが、かつては観音像が祀られていたという。
「ボンボン岩」のほうは、石鳥居が立てられ、「祇園社」が鎮座している。「祇園社」だから祭神は牛頭天王(素戔嗚尊)だろうし、仏教色がある。いつからここが神社になったかはわからないが、実に立派な巨岩で、上も平ら。磐座といっても良いように思われる。この辺りは、式内社「安仁神社」の勢力圏で、上記の古社「神前神社」や「乙子神社」にも近い。加えて、この先、現在「テイカ」という会社があるところは「外波崎(そとはさき)」といわれ、岡山藩が「台場」(砲台)を設置したところでもある。児島の小串にも台場があり、それと向かい合う形で設置されたものだという。それだけ、軍事上重要な場所だったということだろう。ちなみに、源平合戦の折、戦死者を葬った「千人塚」があったともいい、「外波崎」というのは、別名「卒塔婆崎」ともいわれたという。
なお、この「祇園宮」については、明治時代の終わりに「幸島稲荷神社」(岡山市東区水門町)に合祀されることになった。すると、原因不明の熱病が蔓延し、地元では「幸西病」といわれた。「祇園宮」の崇りではないか、として、合祀を取りやめ、元に戻したという。
写真上:吉井川堤防上の道に面している。というより、吉井川堤防上にある。下流側は「祇園港」(地図によっては「吉井川マリーナ」)。
写真中:鳥居の奥に「祇園社」。その裏は吉井川。
写真下:南側から。鳥居横の階段から、この巨岩の上に登れる。
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