シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

適正な社長の報酬・指揮者の報酬とは

2022年06月26日 | カリスマは死せず
左はトヨタ自動車の豊田章男社長 (※1から)。 右は半世紀前の記事※3から。
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先日 トヨタ自動車社長の役員報酬額が報道されていました。
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『豊田章男社長の報酬 6.8億円 過去最高益で前年より 2.4億円増』(6月23日 A新聞 ※1) __
『トヨタ最高益 2.8兆円』(5月11日 共同 ※2) __
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日本最大の企業であるトヨタ自動車の2022年3月期連結決算年間売上は 31兆、純利益は 2.8兆ありますから、その社長報酬額としては妥当というより、逆に ”一桁少ない” のではないかと思います。

この辺りを取り上げて “庶民派メディア” を標榜するA新聞らしい報道です。 これを読んで 私は半世紀ほど前の、同じA新聞の三面記事を思い出しました __

「指揮者の報酬が法外に高いために音楽会が大衆の手の届かぬものになりつつある」という批判に対して、”出演料世界最高” のカラヤン氏がロンドンで「どんなに高くても、よいものなら客は喜んで金を払うものだ」と自信満々で反論した … (※3 1970年代?)

”指揮者の報酬が法外に高いために” と記事中にありますが、これはその当時事実だったのかどうか、それは不明です。 また 音楽会のチケット料金は興行側が決めるもので、出演者が決定権を持つ事はありません。

例えば 上記記事にあるような、カラヤンが出演するロンドンでの音楽会のチケット料金は、興行を請け負う地元主催者が決定します __ カラヤンや BPO (管弦楽団) を管理する団体かベルリン市 (B) が提示するカラヤン BPO の出演料 (C) を主催者が支払い、それに利益 (D) をのせてロンドンでの音楽会のチケット料金 (E) に割り振りるのです。

主催者にとっては Cは仕入れコストで、Eは販売額になります。 カラヤン BPO の出演料はその時々の状況や交渉内容で上下し、また Eに関われません。

興行側にとっては “仕入れコストがいくら” であろうとも、販売額が大きく見込めるならば、問題ではありません。 ポップスやロックなどの、もっと大衆人気の高いものなら、クラシック界の ”出演料世界最高” など 比較の対象ではないはずです。
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そのカラヤンでさえ 戦後 元ナチス党員だった事で占領軍から公開での指揮を禁止され、日々の暮らしの出費にもコト欠いた時期があったなんて信じられないでしょう。

ある YouTube 投稿映像 (知られざるカラヤン2 https://www.youtube.com/watch?v=mfHgNMIqsSw) には 当時のカラヤンを審査した米軍将校の こんな思い出話しが写っていました __

「カラヤンは元ナチス党員だった事を話す際 釈明には関心を払いませんでした。 ヒトラーに嫌われていた事を訊くと あれは芸術上の問題だといい、後は雑談になりました。 その頃 ウィーンでは食糧事情が悪く、その後 カラヤンから私に電話が掛かってきて『”当局が私にウィーンにいて欲しいというのなら” 食糧を何とかしてほしい 出来ればジャガイモか何かを …』というので、最低限の食糧を手配しました。 カラヤンはお願いというよりは、何か “上の者の命令みたいな響き” がありました」という件 (くだり) が、いかにもカラヤンらしいですね。

日本も戦後暫くは至る所で (特に都市部で) 食糧不足で悩まされたという歴史があります。 復員兵がどっと帰国するのと、エネルギーが不十分なのに加え 生産・流通網が破壊されているので、需要に見合った供給体制が整わないのでしょう。 また 十分な生産量があったとしても (当然ながら?) 戦勝国向けが優先されるので、敗戦国向けは後回しになるのだろうと推測します。

十年後の1955年に カラヤン BPO が最初の米国ツアーでシカゴを訪れた際、この元将校がカラヤンに電話すると、「今夜 ホテルで食事しましょう」と誘われ、食後 食事代を払おうと財布を取り出すと、カラヤンはさえぎって「ウィーンで飢えている私をあなたは助けてくれた。 今日は私がご馳走したい」と __ 当然です。

そういう 日々の生活にも苦労した経験があったせいで、ある意味 亡くなるまでせっせと指揮・録音を続けていたのか?と邪推してしまいます。 でも最晩年の80歳になっても “耄碌 (もうろく) した指揮はもう止めろ” というネガティブ批評が出なかったのは、流石 (さすが) です。 “最後まで緩んだ指揮はしなかった” 現役を貫いたマエストロですね。

今日はここまでです。


おまけのエピソード __

1955年に BPO の最初の米国ツアーは、西独政府の米国に対する “感謝の意味” もあったそうです。 それは …

ウィキから __ ベルリン封鎖 (Berlin Blockade) は、第二次大戦終結後の1948年6月 ソビエト連邦政府が、西ドイツの西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路を封鎖した事件。

ソ連側は、物資不足に反発した西ベルリン市民により暴動やストライキが発生し、やがて社会主義革命が発生することを期待していた。 そして 西側に西ベルリンの支配を放棄させることを狙っていた。

しかし 西側からベルリンまでの3本の空路、通称「ベルリン回廊」は、西側諸国による自由な利用が認められていた上に、西ベルリンに居住する市民は 200万人に上り、その生活を支えられるだけの物資を空輸だけで運べるとは到底考えられなかったことと、ソ連としても西側と全面的な対決に陥ることは避けたかったということが、空路の封鎖をしなかった理由として挙げられる。

空輸体制が完成し、1949年1月になると月間輸送量は 171,690 t に達し、1日平均で 5,540 t となった。 空輸作戦の成功が明白となり、さすがのソ連もベルリン封鎖の失敗を認めざるを得なくなった。 こうして1949年5月に封鎖は解除された。

空輸作戦に要した費用は、当時の金額で約 2億2400万ドルで、これは2008年の物価に換算すると約 20億ドルほどになる。 作戦期間中に17機のアメリカ軍機と8機のイギリス軍機が事故を起こし、アメリカ人31人、イギリス人40人を含む合計101人が亡くなった。

以上です。

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