*『死の淵を見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。62回目の紹介
『死の淵を見た男』著者 門田隆将
「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」
それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)
吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。
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**『死の淵を見た男』著書の紹介
第19章 決死の自衛隊
重装備での出来事 P294~
(※「重さ20キロの「鉛」の防護衣」は、前回で終わりました※)
自衛隊への命令は、空中からの放水だけではなかった。地上からの放水に対しても各自衛隊に折木統合幕僚長から指令が飛んでいた。
「消防車2台と隊員6名で福島第一原発に行き、放水を実施せよ」
茨城県小美玉市百里にある航空自衛隊・百里基地で施設隊長をつとめていた松井敏明・2等空佐(40)に命令が下ったのは、3月16日から17日へと日付が変わる頃である。
施設隊とは、基本的には、基地の施設の維持・管理を担当する。そのほかにも、火事が起こった時に、消火活動も行うため、自前の消防車を持っている。
「福島第一原発で水素爆発などがあって大変な状況であることはテレビでも出ていましたので、わかっていました。しかし、その頃はまだ、われわれが行くことになるとは思ってなかったですね」
松井二佐は、当時をそう振り返った。
「それが15日か16日か、だんだん、いろんなルートで ”もしかしたら消防車を持っていくかもしれない”という話が耳に入ってきてました。消防車というのは、航空自衛隊の基地には、通常2台あります。消防車の座席は、移動中にパッと着替えられるように、消防服などを普段からいろいろ積んでるんです。だから、座席に余裕があるかというと、そうでもないんですね。命令を受けて、1台に3人ずつ乗って出発しました。座席は2列ありますから前に2人、うしろに1人です。放射線に関して、不安がなかったといえば、うそになるんですけど、不安よりは、”すぐ準備をして出てくれ”という命令だったので、できるだけ早く準備をして、早く出発しなければいけないという意識の方が強かったと記憶しています」
出発したのは、3月17日の午前3時半ごろだった。基地を出る前に、放射線を測る線量計を衛生隊から借りた。衛生隊からは、
「この線量計のアラームが鳴ったら退避してください」
という説明があった。
「その線量計をつけて私たちは出発しました。消防車というのは、スピードが遅いですから、(原発からおよそ50キロ南にある)四倉パーキングエリアについたのが、朝7時から8時ぐらいだったと思います。出発して4、5時間はかかったと思います。すでに陸上自衛隊の消防車が何台も来ていました。そこに陸上自衛隊の二佐の方がいまして、その人が指揮官になり、”今から、Jヴィレッジに再度集合したのちに、原発に向けて移動する”と言われたんです」
Jヴィレッジに行くにあたって、通常のホースによる消防活動をおこなう消防車ではなく、ターレット付きの消防車が選ばれた。ターレットとは、強力な噴射機のことで、消防車の座席の上ぐらいのところについている。航空自衛隊から派遣した消防車は、1分間におよそ6トンの水を噴射できる威力を持っている。最長で80メートル先にある目標物に大量の水を浴びせることができるものだ。ホースをつないで海から海水を入れ続けたそれまでの作業とはまったく異なる冷却・注入方式が可能な消防車だった。
「通常のホースでしか消化できない消防車は、Jヴィレッジのところで待機することになりました。最初は、1台に10トン入るAM-B3という消防車に乗って、私と原田克哉・一等空曹(43)の2人で行くことにしました」
Jヴィレッジに着いたものの、そこから第一原発への出動命令は、なかなか出なかった。防護衣(タイベック)を来て、ゴーグル式のマスク姿で待機していた松井と原田が、やっと原発に向かって出発したのは、薄暗くなりはじめる午後4時台のことだった。
「どうして待機が長かったのかは説明がなかったので、よくわからないんです。別に悲壮感はなかったです。Jヴィレッジから隊列を組んでいったので、2時間ぐらいかかったような気がします。ふつうの乗用車で行くと、1時間ぐらいと聞いていたんですけど、消防車で隊列組んで、もともとスピードが出ない消防車なので、すごい時間がかかりました」
この時、陸上自衛隊の木更津駐屯地からも、はるばる消防車が来ていた。木更津駐屯地本部管理中隊の救難消防班にいた斎藤祐之・2等陸曹(39)たちである。
「四倉からヴィレッジに行き、そこから第一原発に向かっていきました。時間がかかったのは、やはり暗かったことが一番ですね。案内役の東電の人は、道のどこに亀裂が入り、どこに隆起があり、また、どこが危険か、ということを知っているのでサッサと行けますが、こっちはそうはいきませんから」(略)
(次回は「突然鳴り始めたアラーム」)
※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、
2016/5/26(木)22:00に投稿予定です。