JINCHAN'S CAFE

My essay,My life
エッセイを書き続けることが、私のライフワーク

GUTS

2014年07月05日 09時15分29秒 | 想い
元交際相手を傷つける事件が、また起きた。男がめっきり弱くなってしまったのを、ひしひしと感じる。恋愛対象を取ってしまったら何も残らぬ、からっぽの孤独な人間が、増えたように思えて仕方がない。

かつて、修羅場の煽りを食うのは、どちらかと言えば、男の側だった。のぼせ上がって、浅はかな行為に及ぶのは女と、哀しい哉相場が決まっていた。フル側とフラレル側、どちらに立つのか、その確立は五分と五分。今の時代だって、苦い思いを噛み締めている女は、いるはずだ。

なのに、反撃の狼煙は上がらない。泣き寝入りというケースもあるのかもしれないが、恋以外に自分を支える何かを持っていたり、事に及んだところで割に合わないといった判断が、働くからではないか。

女性による事件は、依然として存在している。しかし、金銭目的の為に人を殺めることはあっても、恨みごときで己の手を染めることはない、といった思惑が透けて見えるのが、昨今の特徴である。

女性は、ドライで即物的に
男性は、ウェットで感情的に

犯罪の世界を眺めていると、そんな変遷の構図が、浮かび上がってくる。どこまで現代の社会を反映しているのか、わからないけれど。

話を元に戻そう。

男性が元交際相手を傷つける事件は、去年頃からさらに目立ち始めた。ストーカーという言葉で括り、常軌を逸した特殊な人間が起こした出来事のように、語られることが多い。しかし、本当にそうなのだろうか?彼らは狂人で、我々との間には大きな隔たりがあると?

粘着体質なら、程度の差こそあれ、フツーの人の中にも存在している。恋は盲目といった状況下では、尚の事そうした性質が、表面化してくるものだ。気持ちが傾いている時から、追って!追って!追いまくっていたのか。無理矢理切られ、残っていた想いが、余計に募ってしまったのか。

切る方は容易い。こちらだって辛いと言うが、少なくともその判断は、自分で下したこと。ところが、受け止める側は違う。そこで相手のプライドや尊厳に、多少なりとも配慮する気持ちがあれば、また違う展開になっていたかもしれない。

根っからのストーカーに、手を施すのは厄介であるが、踏み止まれる余地のある人々も、いるのではないか。逆上してしまった人間を押さえこむのは、至難の業。その領域へ行ってしまう前に、できることはないのだろうかと感じる。

どこかで踏み止まれるのと、行ってしまうのと、その境目は、何なのか?どういったモノが、自分をつなぎとめてくれるのか?去年起こった事件をきっかけに、幾度となく考えていた。

恋に全体重をかけてしまわない。相手以外の係わりを、いくつか持っておく。今日から明日へ、淡々と自分を流していく作業、没頭できるモノ。若ければなお、そういった術を知らないし、気を紛らわせたり、落とし所を見つけたり、できなかったのではないか。もっと上の世代ですら、自分を持て余して、苦戦しているのだから。

しっかりしろ!!中高年!!

男も女も、互いに感情のある生き物。思い通りにいかなくなっても、仕方がない。そこを強引にねじ伏せてみたって、意味がない。新たな恨みも買えば、傷も負うだろう。’死んでしまうがいい’そんな感情と無縁で生きて来れた人は幸せ。人を恨まず気持ちを切り替えていくのは、そう容易くない。しかし最後まで、あきらめないでほしいのだ。

「しんどくなったり、絶望したり、ぷっつん切れたりしながら、(人間)社会との程よい距離の取り方を学んで、我慢するところと自分を出すところ、諦めるところと頑張ってみるところ、どんなバランスだと自分が幸せか、わかっていくと良いと思う。」

とある映画の所感として、友人が口にしていたのだが、自分自身、彼女が言ってるようなことで、日々悶々としていた。ややもすると、キレイ事で収めようとしてしまう。が、心の内にはいろんな感情が、渦巻いているんだよねぇ。。。

それでも、こう思うのだ。GUTSは、人を傷つける為ではなく、自分が前に進む為に使いたい。

若者たちよ、目先の勝ち負けにとらわれるな。
フラれることを恐れるな!!



コメント
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