JINCHAN'S CAFE

My essay,My life
エッセイを書き続けることが、私のライフワーク

じっちゃんの名にかけて・・・

2008年08月26日 08時21分13秒 | 本と雑誌
  ’じんちゃん’ちゃいますよ。’じっちゃん’ですよ。ブログ復活ふかつ絵里。しょーもないことをつぶやいておりますが、新しいお仲間さんにも加わっていただき、非常に気をよくしての早めの更新です。さて現在の私、手に取っていた山田詠美『ひざまずいて足をお舐め』をしばし中断、田辺聖子の新刊エッセイ『愛を謳う』へとりかかりました。ええ、こんなことしょっちゅうです。日常生活でも「物事をやりっ放しで次へ行く!」と夫に叱られておりますの。で、またしばらくして後へ戻る。異性関係に、この傾向が当てはまるかどうかは、ご想像にお任せします。

 『愛を謳う』。何やら美輪明宏さん的なタイトルですが、おセイさんの魅力-心ほっこり、元気がでる-満開の作品。家庭、結婚、男と女、愛のかたち、そんなテーマにまつわる彼女なりの思いを綴ったもので、おセイさんのエッセイのエッセンスが(早口言葉ちゃいますよ)、ぎゅっと詰まった内容です。今まで発表されたものの美味しいトコ取りという構成は、従来のファンにも、そうして初心者にも、楽しめるんじゃないかしら。

 冒頭から、人は何のために生きるかなんて真面目なお話が出てきましてね、そこで自分が指針としているものに行き当たったの。”人を愛し、人に愛される為に生きている。”あはっ。まだこの言葉を吐ける程、人間できてませんよ~!おセイさんの人柄だから素直に伝わるんです。私がCafeの片隅でつぶやいたってね、「けっ何を言ってやがる」失笑されるのがオチですから。人にものを伝えるには説得力、或いはそれを支える信頼感も必要でしょう。まだまだ修業の身、頑張ります♪(←中年の主張か!)

 おセイさん曰く、仕事をするのも読者に愛されたいためではないだろうかと。自分を理解してくれる人、愛してくれる人を、一人でも多く得たいために書く。わかる気がしますねぇ。私は、基本自分の為に書いています。思いを言葉にすることで落ち着くの。けれど、そこで止まっていてもつまらない。やはり誰かへ伝えたい、わかってもらいたいんですよ。そして願わくば、クスリと笑ってくれたら、うんうんってうなずいてくれたら、そこから思いをめぐらしてくれたら、こんなに幸せなことはありません。 「ホントそう!」「でしょう?」「こういう見方もあるよ」「そっか~」 楽しく、そんなやり取りができれば嬉しいじゃないですか。非常に、こっぱずかしいんですが・・・エッセイやブログを書く原動力となるのは、LOVEなんです。愛情を感じる対象と、声援と、この二つがあれば書き続けることができる気がします。今までぼんやりと感じていたこと、おセイさんが「大丈夫。そのまま行きよし」って、後押ししてくれたみたいで、嬉しかった。

 ”幸福とは、自分の価値を知ってくれる人のそばにいることである”フランスの哲学者、アランの言葉も登場します。けだし名言。ただしその後に続く、”だとすると家庭の主婦というのは、何という幸福の条件にみちていることだろう”とのおセイさんの見解はね、30年以上の月日が流れ、家族の形態・意識、それを取り巻く環境も変わっているからでしょうか、そうかなぁ~って。今の時代、家庭の主婦のありがたみは、どんどん失われているんじゃないかしら。自ら捨て去っているとも言えるし、豊かに便利になることによって、気づいてもらいにくくなったとも言える。食事やお弁当だってね、美味しく食べてもらおうと思ったら手間ひまかかるんですよ。それを支えるのも、家族みんなの話を聞くのも、愛あればこそです。当たり前と思ってほしくない。そこを押さえておかないと、主婦の心は離れていく。逆もまたしかり。家族誰しも、自分の存在価値を身近な人にわかってもらいたいという思いは、共通でしょうから。

 1年経ったことですし、少しベールを外しましょうかしら。私ね・・・本屋の孫娘なんですよ。父ほどダイレクトに影響を受けていないものの、それでも本屋に居ると落ち着くの。正に’母の胎内のような’感覚。セントレア(中部国際空港)でも、本屋で過ごしているくらいよ。あそこはいい本屋です。限られた空間なのに、手に取りたいものがたくさんある。文豪の名作から今話題の作品まで、バランスよく揃っています。ある作家の中の変化球というのかな・・・そういう作品もあって、三島由紀夫の『美徳のよろめき』とは、ここで運命の出会いを果たしました。それまでのね、おっかないまでに男らしさを追求していた印象が、ガラリと崩れた。この小説に教えられたこと、救われたこと、たくさんあります。女心を、あんなにもたどれる方だとは。ただし、映像化すると・・・東海テレビの昼メロ調になります。(爆)

 文豪の名作、どんどん帰ってきてますね。夏目漱石や川端康成は、新装丁版で若者の目に留まるようになりました。太宰治も、デスノートの漫画家(小畑健さん)によるイラストや俳優(松山ケンイチくん)が表紙を飾ることによって、注目度UP!です。私の年代からすると、何もそこまでという気持ち半分、それでも話題になるのは嬉しいという気持ち半分。内容が上手く伝わってくれるといいのですが。「期待して買ったのに、がっくしやったな。」ってことのないよう。それから児童書にも、スポットを当てていただきたい。子どもたちは未来のお客さん。そんなお客さんを育てる視点も、あってよいのではないかと。子ども向けの名作、帰ってきてほしいですねぇ。ウン十年、作品によっては世紀を越えて読み継がれてきたものには、意味があったでしょうから。

 人生それぞれの地点で、本への向き合い方が変わってきます。ただひたすらに吸収していく時期もあれば、経験を重ねて内容を受け止められる時期、自分なりに何かを返せる時期。現実の経験と本と互いに影響し合い、その世界を膨らませることができるなら、人生もまた、豊かになっていくのではないでしょうか。’じっちゃんの名にかけて’そう感じるのです。

 「こら~ボクの決めゼリフ、勝手に使うなー!」 金田一くんに怒られちゃうかな。ええやないの~金田一少年のけちんぼ!!お仲間さんのネタをパクらせていただきました。ごめんあそばせ♪



風に吹かれて♪

2008年08月20日 19時30分13秒 | 本と雑誌
 ボブ・ディランちゃいますよ。ふと気がつくとブログ開店1周年。ここでの活動もしばらく停滞していたのですが、少しは前へ進もうかと。私ね、風に吹かれているのが好きなの。だからまた、窓を開け放ちます。ブログを始めた当初の気持ち、気軽に、気兼ねなく、色んな事について語りたい。その原点へ帰ってみようかな。

 最近、素直な気持ちを吐き出す場所が欲しいなぁと思っていました。エッセイも手掛けているのだけれど、どうしても作り込む部分が出てくる。プレッシャーもかかります。楽しいけど辛い。辛いけど楽しい。そんな感じなんですねぇ。もっとリラックスした状態で語れないものか?そうだ!ちょうどいい空間があるじゃない。ここはね、ちょっと不思議な場所なんですよ。外部に対して開かれている一方で、私が属しているコミュニティでは、お仲間さんに一歩踏み込んでもらわなければならない・・・そういう空間なんです。裏を返せば、ここまで来てくれる方というのは、私に対してマニアックなお仲間さんだということ。そんな状況を踏まえてできることも、考えていきたいと思います。

 まずは、プライベートトークから始めますか。去年の秋頃から、病的に本を読むようになりました。同じ年代の男性が仕事に打ち込むように、私は本に没頭していた訳です。ここまで激しく傾倒したのは、初めてかもしれません。私の本好きなんて、たかがしれていましたもの。’何かに深く入り込みたい’書くことと同様、読むことも精神安定剤代わりになるのですが、心が波打っている時には、ページを開いて文字を目で追っても、頭の中へ入ってこない。だから、心の健康を計るバロメーターの役割も果たしていました。

 その時々によってね、求めたくなる作品があるの。そういったことからも、心の状態を窺い知ることができます。では現在の私が手にしているのは、どんなものか。山田詠美『ひざまずいて足をお舐め』。あはは。びっくりしましたぁ~?それともああやっぱりでしょうか。SMクラブの女王様が新人賞受賞の注目作家に!詠美さんの自伝とも言える内容ですが、彼女がどんな人生をたどってきたかという興味本位の視点よりも、随所に散りばめられたカグワシキ精神に触れるのが気持ちいいんです。多分、今だからわかること。

 これには前ふりがありまして、直前に読んでいたのが村上龍『すべての男は消耗品である』だったの。私、この本を周期的に読んでるんですね。で、今回はそれまでにない違和感を感じたんです。龍さんの論理って・・・封建的?女性は元気だ。やはり女性にはかなわない。そんな言葉を繰り返しながら・・・軽く馬鹿にしてらっしゃるの?基本的に好きな人なんで苦笑で済ませておきましたが(←これがいけないのよネ)、心にうずいたもやもやを、ピシャリやっつけてくれたのが、詠美さんの解説だったのです。それで今度は、彼女の本を手に取ってみたと。

 ”男の沽券とやらのない世界、私は充分に知り尽くせて、とっても幸せだね。そんなもんがある世界で、どれ程の男そして女がつまらない目にあってることか”

 こんな一文に、共感をおぼえるんですよ。ここ数年わだかまっていた不愉快な思いの原点が、巧みに描写されていました。自由にものが言える時代になったようで、男も女も、依然として昔ながらの縛りに囚われている。Cafeでお仲間さんの日記を読んでいても、そういった空気を感じることがあります。特に女性。類友なのかもしれませんが、気持ちの収め方について、悩んだり迷ったりされてる方が、少なからずいらっしゃる。中でも男性との係わりにおいて、気持ちを溜め込んでしまう、相手の為にこらえている。詠美さん言うところの”それに胡坐をかいてる男、それを許している女”といった状況が、まだまだあるんじゃないかしら。いい形での男女関係を目差したいし、さぐっていきたいのですが・・・前へ進もうとしては、コテンとコケて。口ばかりの女です。詠美さんの迷いのなさが羨ましいわ。

 少し思い出話を。『すべての男は消耗品である』。初デートに、この本を持参した過去がございますの。「ごめんなさい。こんな本を読んでいるの・・・」なんてね。彼はどんな気持ちだったのでしょうか。’カーン。おいら消耗品かよ!’ そらフラれますわねぇ。決して彼を軽んじていた訳ではないのです。当時この本に救いを求めようとしていたの。引いては村上龍さんにかな。制度なんてくそくらえ!みたいな雰囲気があるじゃないですか。従来の縛りに立ち向かっていくような。大丈夫だよって背中を押してもらいたかった。ところが、そうはいかなかったのねぇ。

 当たり前だ。道ならぬ世界へ足を踏み入れておいて、わかってもらおうだなんて虫がいいにも程がある。確かにそうなんですが、渦中にいる時というのは大海の中、たった二人で船を漕いでいる状態。不安で孤独なものですから、「誰も味方になんかなってくれない・・・」 彼の前でね、半ベソかいたんです。イタイイタイ。すると彼は私の肩にそっと手を回し、こう言いました。 「渡辺淳一がいるじゃないか。」

 笑うとこちゃいますよ。二人とも大真面目だったんですから。今はね、思い返すだに肩震わせて笑ろてます。もうね、笑いのツボを心得ている人にしか言えない。しかも後で効いてくるなんて。〇年殺しか!その時はね、「ああ・・・そうね」と若干首をかしげながら。まったく、とんだバカップルですわね。あらあら、また作り込みに入ってしまったようなので、この辺で失礼致します。それでは皆様、御機嫌よう。

 ※ この頃は、エッセイとブログを公開する場が分かれていました。その後一本化されております。