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My essay,My life
エッセイを書き続けることが、私のライフワーク

ミューズの晩餐 My essay,My life -よどみ-

2010年12月17日 15時01分00秒 | My essay,My life
こだわっている時には手に入らないのに、「もういいや」ふわりと執着の魂が抜けると、思いがけず転がり込む…そんな出来事がある。ネットという空間に、想いを綴り始め3年と8カ月になるが、その原点になったドラマ評が書けなくなったのは、随分前のことだ。それは、私の心の状態が普通でなくなってしまったのと、関係している。

ストレス解消に、テレビのスイッチを入れる。ただそれだけのことができない。テレビなんか見なくたって生きていけるし、日常生活に何の支障もないが、昔っから番組にまつわる雑感を披露し、ひとり悦に入っていた身としては、その根幹を失ったような、ちょっとうら寂しい気分になる。

(こちらが構えている程、周囲は気にしちゃいないんだよな~)

その対象が本であれ、映画であれ、ドラマであれ、神経がくたびれている時には、受信するのもままならぬ。しかし、そういった有様をかいくぐり、時折心に届く作品がある。すっかり狭まったアンテナに、それでも触れる周波数。私、まだ感じることができる!?そうして汲み取ったモノに、想いを重ね、文字にしてみる。あれこれ模索しながら、文章に彩色を施しているうち、ゆっくりと心が満たされていく。

(ああ、私はやはり、こんな風に言葉を綴っていくのが好きなんだ)

何かを受信し、そこから世界を構築して発信するのは、エネルギーのいる作業だ。対象への興味、引き継ぐ気力、一つ一つのステップを踏み、その先の創作活動へ行き着く。私の場合、つくづく健康な肉体と安定した精神が、必要だなぁと思う。基礎体力なさ過ぎ!のクセに、余計な行動を取ったりしてね・・・挙句、感じるのが辛くなって、アンテナ縮小に至るとは、ナンノコッチャですよ。

限られた人間の価値観に、おじけづくことなどなかったのだ。そう考えられるようになるまで、出会いと別れを繰り返した。私が悪いのだろうか?同様の結果がもたらされると、やはりヘコむ。しかし、それでも人と係わるうち、’似たような行為をして、こんなに反応が違うの!?’ という出来事もでてきた。

Aさんが疎ましく感じた私の性質を、Bさんは気にしていない。Cさんとの間で成立し得なかったものが、Dさんとの間で成立する。同じ相手だって、あの時にしかできなかったこともあれば、あの時にはできなくて、今できることがある。そう考えれば、どんな形であろうと、何かが成立している間柄って嬉しいものだな、と思えてきた。だったら、それを大切にすればいい。

’過去のしがらみから解放されるには、新しいバスに乗ることだ’と、教えてくれたお仲間さんがいた。頭では理解できる。でも、感情がついていかなかった。移行していく時期は、仕方がない。サッと切り替えられる人間ばかりではないのだ。

ただひたすら、癒されたい時期があった。少し冷静になり、周囲を眺めてる時期もあった。両手で包むように抱えた小箱の中には、大切なガラス細工が入っていて、ガタゴト揺らされたら、壊れてしまうかもしれない。それよりは、ゆっくり、のんびり、歩いていくのがいいのかなぁ・・・と、行き過ぎるバスを見送ったりした。そんな時、ひょっこり一台の自転車が現れた。

状況は少しずつ好転している。人との触れ合いが、喪失した自信を、よみがえらせてくれた。捨てる神あれば、拾う神あり。そうして、戻ってくる神もあり。別れとは、哀しい結果に終わるばかりじゃない、と気付いた。

人生その時々で、自分にとって必要なモノは、変わっていく。かつての軋轢については、どちらが悪かったというより、心に余裕がない状況下で、お互いのニーズがすれ違っていった・・・。今は、そう解釈している。とにかく、焦らず、クサらず、落ち込まず。手にしているカードで、できることを考えてみよう。

さて、そんなじんちゃんの元に、思いもよらぬ知らせが。「人気脚本家、母校で講演会」 なぬっ!?それは動かねばなるまい…