きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

心(KOKORO)ごはん:「心の復興」から

2015年03月20日 | 羊の声


東日本震災から4年が経った。教会でも被災地を訪問しているが、メディアを通しての見聞と、その場を訪れて実際に五感で感じることとは天地の差がある。「百聞は一見に如かず」という有名な故事の続きを御存知だろうか。

「百聞は一見に如かず」「百見は一考に如かず」「百考は一行に如かず」「百行は一果に如かず」

と続く。つまり、聞くことより見ること、見ることより考えること、そして考えることより行動することが大切だ。いくら考えて見たところで、実行しなければ何にもならないのだ。そして、その成果を得ることが最後の目的。実際、いざ自分が一歩進んで実行する人はごく僅かで、ほとんどの場合は、忙しない日々の生活の中で出来ない理由を前に立ちすくんでしまう。しかし、出来ることはある。現実をどう受けとめ、それをいかに将来に活かしていくか。ここに人生のポイントがある。

震災は決して対岸の火事で済まされることではなく、日本の縮図だ。誰もが、いつ何時同じような災害に遭うかもしれない。南海トラフが30年以内に起きる可能性は、実に70%というのが専門家の意見で、つまりは時間の問題ということになる。被災者も、2011年3月11日の朝、まさか午後に大地震と津波が自分たちを襲うとは、考えていなかったはずだ。この数週間で、今は終末の時というメッセージを繰り返しているが、これまでにない苦難があると聖書は確かに預言しているのだ。教会はこの誤りのない聖書の真実な、そしてシリアスな言葉を人々に伝えて行く使命がある。人は誰でも、大きな局面に直面する時があり、何よりも人間が死ぬ確率は、例外なく100%。その先の世界について、はっきりとした現実を示すのは聖書以外にはない。

人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている(へブル9:27)

死は厳粛な事実であり、現世での、あなたの選択と判断によってその後の裁きの行方が決まる。だからその前に「天国」(=ほんとうの救い)と「地獄」(=ほんとうの滅び)を知らなければならない。和を尊ぶ日本人は、死後も同じ場所に行くことを望む。気持ちはわかりすぎるくらいわかる。が、押さえるべき以下のポイントを考えてみよう。

人間の本質は霊であるから、肉体が滅んで終わりではない。が、草葉の陰という世界には根拠がなく、その世界は存在しない。死後、霊は「見守っている」状態にはない。

天国は光の国。一方、地獄では光が遮断された完全なる闇の世界。光がないから見ることができず、同じ場所にいても互いに認知はできない。つまり天国以外に、死後に再会できる場所はない。

もし、先に逝かれた愛する人が天国でないところにいたとして、その人は愛するあなたを同じ場所に来てほしいと願うだろうか。あなただけは助かってと願い、それに応えるのが愛だ。

では、なぜ聖書の神様が真の神様と言えるのか?これも聖書はロマ書で応えている通り、この世の自然、被造物を見る時、宇宙の構造を考える時、すべては誰かが何かの目的によってデザインし創ったとしか考えられない。多くの科学者も、知識を得るほどに「何かしらの偉大な力(Something great)」の存在を確信していく。しかし知恵ある彼らも、その存在証明には至らない。証明できないことこそ、神様の意志だからだ。

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。(Ⅰコリント1:21)

聖書では、しばしば信仰を結婚に喩えている。どちらも理解とか証明ではなく、信じるという能動的態度に懸かっているからだ。例えば、この人と結婚したら一生安泰でお金に困らないから結婚します、というのは結婚ではない。営利的取引だ。神様との関係もまた、神の存在が目に見える形で明らかになり、その利益故に信仰を持つことがないように、神様によって定められていることだ。でないと、偽装結婚を求める仮面夫婦志願者ばかりになってしまう。そんな偽りが溢れる場所が天国のはずがない。天国行の切符を得るには、資格も条件も必要ない。ただ信じることによってのみ、手にすることができるのだ。

マタイ13章には天国の喩え話が3つ書かれている。畑に埋められた宝、海で見つけた真珠、そして、網の中に集められた魚のより分け。ここから学ぶことは、

天国という「宝」は、持っているすべてのモノを投げ出しても手に入れるべきもの。
宝を見つけたら、すぐに自分のものにすべき。明日では間に合わないことが人生にはある。
宝の価値を知ること。蔑ろにして後でくやしがっても、時すでに遅し。手遅れになる。

震災から4年。今なお復興が立ち行かず、喪失感や悲しみに打ちひしがれる人にイエス様は、「がんばって、もっと努力すれば、復興できるよ!」と仰るだろうか?NO, NO, NO!山上の垂訓で、極貧で八方塞がりの人々には、「幸いなる哉!貧しき者よ。」と宣言された。ここで使われている「貧しい」という言葉は、もうどうしてよいかわからない、なす術のないような大貧困のこと。当時のイスラエルには、そんな厳しい状況の人が大勢いた。彼らが何故「幸い」か。「天の国はあなた方のもの」だからだ。イエス様の言葉に嘘はない。

確かに、復興にも生活にもお金は切実な要因だ。しかし、お金があれば大丈夫、と思っている間は、真の復興はあり得ない。お金はない、パンはない、どうしてよいかわからない、という人々が、どこに希望を見ることができるのか。現世だけの人生であれば、こんな不公平はない。生まれた時の境遇に甘んじて、諦めて生を過ごすしかない。しかし、人生は来世が統合された時、初めて意味を持つのだ。イエス様の言葉が、その希望に繋がっていく。イエス様によって現世と来世を合わせて、人生は真に充実したものになる。天国への切符を手にする所から、真の復興が始まるのだ。

 

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