きょうの教会ごはん 

神様との食卓で、一緒にご飯を食べましょう!

心(KOKORO)ごはん:「十人の乙女」から

2015年03月05日 | 羊の声


礼拝でも、聖書塾でも何度も語られている「十人の乙女」の話から。これは、マタイ伝24章のイエス様の終末論に続く4つの譬え話の内の一つ。イエス様が十字架に架かられる直前に、私たちに教えてくださった最後のメッセージ。言わば、イエス様の遺言とも言えるもの。そのイエス様の御心を決して見失ってはいけない!

タラントのたとえ、賢い乙女と愚かな乙女、忠実なしもべと悪いしもべ、羊と山羊、これら4つの譬え話のテーマは、一貫して『天国へ行けるか行けないか。再臨は必ず起こる。目を覚ましていなさい。』というもの。天国へ行けない(=行かない)人への状況は、非常に厳しく書かれている。が、内容としては決して難しいものではない。「光あれ」の神様の言葉から世界ができた、と信じるか信じないか、同様に、イエス様が最後に教えてくださった終末時への警告を受け取るか受け取らないかは、各自の判断次第だ。ただ、自分勝手な解釈をしたり、付け加えたり、薄めたりすることはしてはならない。しても意味がない。信じたことだけが真実なのではい。あなたの真実であっても、絶対的な真理ではない。信じようが信じまいが、真理は真理なのだ。真理は変わらない。

イエス様の譬え話を聞く時には、語られている状況・背景を知り、どういう状況で語られているかを理解し、それぞれの譬えの意味するものを捉えることが重要、と、えんぢぇる師に繰り返し教えられた(叩き込まれた)聖書解釈の原則に則って、十人の乙女を読む。この舞台は結婚式前夜。当時のユダヤ式では、子供の頃に婚約してから結婚式まで、長ければ10年以上も時間があった。そして結婚式は、譬え話の通り夜から始まり、式の後の披露宴は1週間程も続いたらしい。お式の当日は、花婿が花嫁のお家まで迎えに行き、会場として用意している花婿の家に連れて行くところから始まる。この譬え話のシーンそのままだ。そしてまた、花婿の到着が遅れることもよくあることであって、遅刻は問題ではない、

譬えている意味は、
花婿=再臨されるイエスキリスト
花嫁=譬えには直接登場していないが、教会
乙女=教会の信徒たち
灯=詩編119:105にあるように、御言葉
ほとんどの絵画、映像では、ランプを持つ乙女たちが描かれているが、実際の花嫁行列で屋外を移動する時は、屋内用照明のランプではなく、夜道を照らす松明を利用したそうだ。長い夜道を歩くための松明用の油を確保しておくこと。これは花嫁行列での備品なので、当然油も花嫁側、つまり「教会」が整えておくべきものだった、ということ。その油を手元に持っていたか否かが、乙女たちの命運を分けた。ここでの最大の問題だ。ではその「油」は何を指しているのか?

一般的伝統的(ここ曲者!)には、油=聖霊という理解が主流だ。しかし、油は聖霊のことではない。その理由1つ目は秀逸だった。私のアプリケーションで語ってみると、

睦美は唐揚げが大好物。いつでも食べることができるよう、家に唐揚げは常備してあり、睦美は唐揚げと一体になることすら願っていた。睦美は言う。「唐揚げは私を満たし、体の栄養となり、心に安らぎを与えてくれる。そう、唐揚げは私のお母さんそのものなの!」

と、公言したとしたら、さすがの「信友」も何人か距離を置いてしまうかもしれない。言っていることが、ちょっとヘンだからだ。唐揚げがお母さんになる訳がない。同様に、無機質の油を、明確な意思と位格を持つ聖霊様とを同列で考えるのは、失礼な話かもしれない。聖書では、王や祭司の任命式の意味を持つ「油注ぎ」を聖霊様に繋げて語られていて、それは「注がれる」ことに重きを置いて理解しなければならない。だから、安易に油=聖霊様ではない理由として、以下の3つ。

それぞれ異なる位格を持った自在者がひとつの実体となる、三位一体の神の理解において。
 売ったり買ったり貸し借りできる油と、位格ある聖霊様が同列のはずがない。

イエス様を信じた時、救いの証印として聖霊様が与えられるので、すべてのクリスチャンには聖霊の内在がある。
 愚かな乙女が婚礼の式に入れなかったのは、聖霊の内在がなく、信仰の欠如ゆえ。
 最後の審判では、クリスチャンが二つに分けられるのではなく、クリスチャンかそうでないかの二つに分けられる

私たち人間は、愚かで弱い。だから、イエス様は私たちを救うためにこの地上に来てくださった。
 そして悔い改め、救われた者に対し、聖書は「悪い者」「愚か」とは決して言わない。

 愚かな乙女も悪いしもべも、失敗したクリスチャンではなく、最初からクリスチャンではなかった。

つまり「油」は、聖霊の内住という問題ではなく、私たちが絶えず吟味すべき「信仰」のことだ。終末の前に心することとして、イエス様は「信仰」を教えてくださっている。私たちは繰り返し信仰の有無を確認し、そこに焦点を当てなければならない。天国(婚宴)は、主の御心を行う者だけが入ることができ、その御心を行う「信仰」は、他の誰にも分けてあげることができないのだ。「信仰」は、その人の生き方そのもの。神様の天国へ入る前に質問される。「あなたはどうであった(BEING)のか。」と。

自分の限界を知り、いのちをくださる神様を畏れ、信頼する賢さを受け取ること。それが罪からの脱却であり、信仰の始まりだ。最初に書いたように、これら譬え話のテーマは、『主を待ち望む再臨信仰』。迎えつつある終末の時代、暗闇の世界を、御言葉と信仰の光で人生を点し続けてこそ、私たちは歩き続けることができるのだ。

あなたの御言葉は、わたしの道の光
 わたしの歩みを照らす灯。
 (詩編119:105)



聖書塾はこのバナーをクリック!


GNSのメインページはこちら!


最新の画像もっと見る

コメントを投稿