アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン!

‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐
 フィリピン、そして日本にありがとう!

Philippine Nursing Licensure Exam Result (June & July 2012) フィリピン看護師国家試験の結果が…。

2012年08月25日 | フィリピン人看護師・ケアギヴァー

 フィリピンでは、一昨日の8月23日に、さる6月30日と7月1日両日に行われたフィリピン看護師国家試験・Philippine Nursing Licensure Exam.の結果が発表されました。↓

June & July 2012 Nursing Board Exam Result – PRC and NLE Results

 ここバギオ市のSAINT LOUIS UNIVERSITY(SLU)が合格率98.94%(受験者663人中656人合格)で、大学としてはフィリピンで6番目。ラ・トリニダードのBENGUET STATE UNIVERSITY(BSU)が、98.84%(受験者86人中85人合格)で8番目に入りました。

 個人では、バギオ市のUniversity of The Cordilleras(UC)のVanessa Joy P. Gasatさんが84.80%で、全受験者中5番目という好成績でした。
 
昨日の夕方のローカル・ニュースの中で、そのヴァネッサ・ジョイさんは、「医療が十分行き届いていないコーディリエラ地方の僻地で看護を提供するのが夢…。」と話していました。海外就労志向が強い看護課程修了生にしては、珍しいことで、頼もしく感じました。「海外に出稼ぎに行くことだけが、この国の看護師としての道ではない。」と…。

 さて、通常4年間という大学の「看護課程・Nursing course」を卒業するのも、フィリピンではその授業料の高さなどからなかなか大変なのですが、その後、この看護師国家試験に合格して「正看護師・Registered Nurse」になるのも年々難しくなっています。そして、正看護師になった後も、現在は看護職に就けない人が、フィリピンには30万人近くいると言われています。厳しいですね…。

 以下、2005年12月以降のフィリピン看護師国家試験の合格者数、受験者数、合格率です。↓
Dec. 2005 - 13,108 passed out of 24,287 examinees 53.97 % passing rate
Dec. 2006 - 19,712 passed out of 40,147 examinees 49.10 % passing rate
Jun. 2007  - 31,275 passed out of 64,909 examinees 48.18 % passing rate
Jun. 2008  - 27,765 passed out of 64,459 examinees 43.07 % passing rate
Dec. 2008 - 39,455 passed out of 88,649 examinees 44.50 % passing rate
Jun. 2009  - 32,187 passed out of 77,091 examinees 42.12 % passing rate
Dec. 2009 - 37,527 passed out of 94,462 examinees 39.72 % passing rate
Jul. 2010   - 37,679 passed out of 91,008 examinees 41.40 % passing rate
Dec. 2010 - 29,711 passed out of 84,287 examinees 35.25 % passing rate
Jul. 2011   - 37,513 passed out of 78,135 examinees 48.01 % passing rate
Dec. 2011 - 22,760 passed out of 67,095 examinees 33.92 % passing rate
Jul. 2012   - 27,823 passed out of 60,895 examinees 45.69 % passing rate (今回)
(試験年月日 - 合格者数    - 受験者数       - 合格率) 

 現在、バギオ市で私のケアに関わってくれている3人はみんな正看護師…。これまでは、介護士養成課程(Caregiver course・通常6ヶ月間)を修了したケアギヴァーが一人はいて、あとはメディカルの課程でないハイ・スクール卒の人だったり、別の課程の人だったり…、ということが多かったのですが…。看護課程を修了した人でも、国家試験にパスしていない未資格の人はいました。それが、ここ2、3年のうちに、正看護師の応募者が増えてきました。
 
実際には、「看護・Nursing」と「介護・Caregiving」は同じメディカルのフィールドではありますが、仕事の内容はずい分違います。自分自身も、資格や経歴にあまりこだわらずに介護・ケアできる人を入れてきました。「正看護師」だから都合がよい…、ということではなく、今たまたま「正看護師が3人」という状態になった、ということでしょう。
 
そのうち、助っ人・Relieverとして少しの間関わってくれた正看護師の一人は、もうじきリビア・Libyaに渡り、公立病院で働く予定です。
 
日本人の感覚だと「エッ!リビア?」と驚きますが、そこは平気で「何か問題ある?」というところがフィリピン人の危うさでしょうか?つい先日も、首都トリポリで反政府勢力(カダフィー派?)による爆弾テロで死傷者が出たところです。以前よりはましでしょうが、政情はまだまだ不安定です。
 
でも、彼女が渡航・就労を依頼したマニラのマカティ市のエージェンシー・Agency(斡旋・仲介所)での手続きの内容を聞くと、確かに条件は悪くないようです。お給料こそ月815リビアン・ディナール(2万7千ペソ・約5万円余り)と高くはありませんが、彼女は5月にそのエージェンシーに申し込んだばかり…(早い)。そしてエージェンシーに支払う諸経費も(リビアでの)1ヶ月分の給料だけ、ということです。その病院では、何人ものフィリピン人看護師が働いている、ということで彼女はそれほど心配していないようです。
 
そういえば、極めて異常な内線が続くあのシリア・Syriaでも、まだ約9千人のフィリピン人就労者がいるそうです。
「リビア…hmmm…Take care!」 

(参考)
Philippine nursing board exam 2012 on June 30 & July 1 フィリピン看護師国家試験
(2012-07-01| フィリピン人看護師・ケアギヴァー)
 

フィリピンの看護師事情。「正看護師」(Registered Nurse・RN)が…。
(2011-03-02| フィリピン人看護師・ケアギヴァー)


もうすぐバギオ市のお祭り! 103rd Baguio Day celebration is coming soon!

2012年08月22日 | My life in バギオ

 9月1日は、バギオ市の103回目の市制記念日・103rd Charter Day of Baguio Cityです。
 あと10日…。
 今年のテーマは…、
“Sustaining a Sense of History, Community and Continuity.”

Baguio launches 103rd Charter Day Anniversary...

バギオ市100周年おめでとう!Happy Centennial of Baguio City
(Article on September 1, 2009)
 

The view of Baguio City

Taken on April 2, 2012 @ 12:04

 ここバギオ市「Baguio」の名前は、ベンゲット州古来のイバロイ語の「Bagiw」(豊富にあるコケ類)からつけられたものですが、台風を意味するタガログ語の「Bagyo」(バギョ)は、ここ「Baguio」(バギオ)に由来しています。
 1911年に、バギオ市に居座り、甚大な被害を出した(24時間で46インチという雨量を観測した)台風以降、typhoon(台風)を「Bagyo」と呼ぶようになったのです。↓
Baguio is the seat of government of the Cordillera Administrative Region. The name of the city is derived from the word “Bagiw” in Ibaloi, the indigenous language of the Benguet Region, meaning “flowering moss”(豊富にある苔類) 

 

Panagbenga 2012 Opening Parade in Baguio City

Taken on February 1, 2012 @ 09:18


 昨年は、台風11号(台風ミナ・Bagyong Mina)の大きな被害により、バギオ市祭の一連の記念イベントはほとんどキャンセルされ、その予算は被災地への復興に当てられました。↓

バギオ市制記念日のパレードetc.が台風被害により中止に…。 -The parade of Baguio Day is cancelled.-
(Article on August 31, 2011) 

 

(参考)
バギオ市100周年特集-9月3日が「フィリピン日本友好の日」(バギオ)に…

(Article on September 3, 2009)


フィリピン人看護師・介護福祉士候補者、2013年度の求人数が増加…。(日比EPA)

2012年08月20日 | フィリピン人看護師・ケアギヴァー

 18日のまにら新聞によると、
「比日経済連携協定(EPA)に基づくフィリピン人看護師・介護福祉士候補者の日本就労で、受け入れ調整機関である国際厚生事業団(JICWELS)は17日、2013年に訪日する第5陣の日本側病院・福祉施設の求人数は176人と明らかにした。求人数は減少、横ばい傾向が続いていたが、2年ぶりに増加。前年比3割増で、増加幅でも過去最高となった。」
…ということです。そして、その理由として、
「制度運用が始まって4年が経過し、国家試験の合格者増、受け入れ施設側の経験の蓄積、国による支援体制の改善…などが背景にあるとみられる。」
…とありました。 

 確かに、今年初めに行われた看護師国家試験と介護福祉士資格試験の結果では、政府の外国人受験者への配慮もなされて、予想以上の合格者を出しました。↓

介護福祉士国家試験に、外国人受験者36人が合格!
(2012-03-28 17:38:55 | フィリピン人看護師・ケアギヴァー)

 ただ、その後、インドネシア人の介護福祉士資格試験合格者の帰国…という事態もあり、受け入れ側と、外国人応募者の意識の違いも表に出てきました。
 
ここフィリピン現地での自分の感覚では、おそらく看護師候補者は3年の内に、介護福祉士候補者は4年の内に、仮に合格できずにフィリピンに帰国、ということになったとしても、それはそれでよい…、といった感覚の応募者も少なくないような気もします。
 人口の1割以上が海外で就労する出稼ぎ大国フィリピンの、海外就労の雇用契約は、通常2年から3年といった短い期間のものです。(フィリピン国内での雇用契約も「6ヶ月」といった短い契約が少なくありません。)
 EPAを通じて日本の看護師・介護福祉士候補者に応募する人たちも、3~4年日本での看護や介護の経験を積めればよい、それで日本語研修後の受け入れ機関での就労を兼ねた研修ではお給料も出るから、まとまったお金を家族に送金したり持ち帰ったりして、フィリピンでのファミリー・ビジネスの資金に…などといった感じで…。
 
実際に、今年、介護福祉士の試験に合格後に帰国を決めたインドネシア人は、「当初から、日本で介護の経験を積みたかった」、「4年経ったら、インドネシアの家族の元に戻るつもりだった」などと話していました。

 今回、日本側の求人数増加の背後には、やはり特に介護の現場での人手不足と人手の確保が厳しい…という実情があるように思えます。そしてまた、フィリピン人ケアギヴァーの介護が日本の介護の現場で通用する、外国人のスタッフが加わることで相乗効果が期待できる、といったことなども現場が感じ始めているのではないかと思います。
 今後、ますます介護現場での外国人の人手も必要になってくるでしょう。

 自分としては、個人の雇用契約でのフィリピン人介護士(ケアギヴァー)受け入れといったことも、今後視野に入れていってほしい…と期待しています。 


 さて、18日(土)には、バーンハム公園近くのJapanese Memorial Garden(日本庭園)へお参りに行って来ました…。
 

Filipino-Japanese Friendship Memorial Shrine in Baguio City
The Baguio War Memorial Monument

Taken on August 18, 2012 @ 10:07
 

Japanese Memorial Garden symbolizing Filipino-Japanese Friendship and World Peace in Baguio City

Taken on August 18, 2012 @ 10:03

(参考)
フィリピン人看護師・介護福祉士候補者第4期生(2012年度)が5月27日に日本へ。
(2012-05-20 12:05:20 | フィリピン人看護師・ケアギヴァー)


ビートルズ50周年!「4人」(ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ)がそろった日。 1962年8月18日

2012年08月18日 | 音楽

Happy 50th Anniversary of The Beatles! 

 今年2012年は、「ビートルズ50周年」の年…。
 
今日8月18日は、新ドラマーのリンゴ・スターが加わって「4人」(ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ)がそろった日です


Abbey Road(逆向きアビーロード)

 ビートルズのアルバム『Abbey Road』(アビイ・ロード1969年)で、 4人が横断歩道を渡る有名なジャケット写真とは逆向きに歩いている未使用写真。5月22日、ロンドンで競売にかけられ、事前予想の約2倍に当たる1万6000ポンド(約202万円)で落札された。写真は、アルバムの収録を行ったロンドンのアビイ・ロード・スタジオ前で69年8月に撮影されたもの。
 実際のジャケット写真では4人が左から右に歩いているが、この未使用写真では右から左へと逆向き。ジャケットで裸足のポールが、この写真ではサンダルを履いている

ビートルズ - Wikipedia
 

<メンバー>

ジョン・レノン (John Lennon)
1940年10月9日 - 1980年12月8日(満40歳没) 

ポール・マッカートニー (Paul McCartney)
1942年6月18日(70歳) 

ジョージ・ハリスン (George Harrison)
1943年2月25日~2001年11月29日(満58歳没) 

リンゴ・スター (Ringo Starr)
1940年7月7日(72歳) 

 ビートルズの楽曲の中で強烈なインパクトだったのは、たくさんありますが、中でも先日ポールがロンドン・オリンピックの開会式でも歌った『ヘイ・ジュード(Hey Jude)』…。当時、普通は3分前後のシングル盤レコードにおいて、約7分もの長い曲…、革命的でした
♪Hey Jude (訳詞付き)

 そういえば『レボリューション(Revolution)』も…音楽自体が革命的でした。
 それと、やっぱり初めて耳にした時からずっと心に響き続けている『レット・イット・ビー(Let it be)』。

『LET IT BE』(Paul McCartney)の「mother Mary」
(Sept. 14, 2010 in アイ!サラマッポ in フィリピン 

 中1の春(1970年4月)、「ビートルズが解散」という衝撃的な事件がクラス、学校、日本、世界中で話題となりました。が、その後もずっと、いつかきっとまたこの「4人」でビートルズが再結成されるだろう…、という期待感を持ち続けていました。

 そして、大学4年の冬(1980年12月8日)、「ジョンが暗殺された」という絶望的な事件によって、その期待感は消滅しました。暗殺…、それも、自宅前、ヨーコ・オノの目の前で…。

ジョン-John Lennonの命日に…。アイ!サラマッポ in バギオ
(December 8, 2008)
 

 それまでの社会の一般的な常識を、ことごとく覆すような若者文化を創出したのもビートルズ。それは、単に音楽のアーティストにとどまらない、世界中に発信されたもの凄い影響力でした。
 私自身も、高校を卒業し、♪自由になった気がした(?)大学では、髪の毛を肩まで伸ばしていました…。 

♪吉田拓郎『ビートルズが教えてくれた』

吉田拓郎『ビートルズが教えてくれた』 

吉田拓郎『こうき心』 & 『ビートルズが教えてくれた』 in 1973 with 小室等


 今日はまた、5年前に逝去した私の祖母が生まれて100年目の日でもあります。(私事で恐縮)
バギオの花々2 -The flowers in full bloom in Baguio Vol. 2-

(August 18, 2011 in リボーン・ライフ in バギオ
 


(参考)
「オリンピック、今回もまた見られないなぁ…。」~フィリピン・バギオにて~
(July 28, 2012 in アイ!サラマッポ in フィリピン
 

ビートルズ・The Beatlesの悪夢 in フィリピン(1966)
(July 3, 2010 in アイ!サラマッポ in フィリピン
 

「ジョンの魂」…ジョン・レノン・ミュージアムはどこへ?
(July 1, 2010 in アイ!サラマッポ in フィリピン


終戦の日(67回目)の祈り in バギオ -The 67th anniversary of the end of The War of Japan-

2012年08月15日 | My life in バギオ

The Prayer for PEACE in Baguio
On the 67th anniversary day of the end of The War of Japan in 2012  

Filipino-Japanese Friendship Memorial Shrine in Baguio City
The Baguio War Memorial Monument


Taken on January 19, 2012

終戦の日(66回目) in バギオ -The 66th anniversary of the end of The War of Japan-
(August 15, 2011 in 『リボーン・ライフ in バギオ』-Reborn Life in Baguio-)


Taken on August 13, 2011


Taken on August 13, 2011

バギオ友好慰霊碑建立由来 -HISTORY OF THE BAGUIO WAR MEMORIAL MONUMENT

 

 バギオは、台風13号(ヘレン・Bagyong Helen)の影響で、一昨日からまた大雨です。今日は、風はまだそれほどでもありませんが、強い雨がザンザカザンザカ降り続いています。


  昨日は、また北ルソン日本人会(JANL)から、以下の様な内容のご案内をいただきました。↓ 

…バギオを拠点に環境NGO活動をされている反町さんが紹介されます。
どうぞご覧下さい。

スパモク (SUPER THURSDAY)
 『世界の果ての日本人』

8月16日木曜日 TBS系列 19時から21時です。
http://www.tbs.co.jp/supamoku/supamoku20120816.html

【フィリピン共和国・バギオ】
リポーター:スマイリーキクチ
首都マニラから250km離れた標高1500mの山岳地域の街バギオに住み、3人の子を育てるシングルマザー・反町真理子さん(49歳)。山岳地帯の村をコーヒーの名産地にしようと使命感に燃える“村おこしの女神”。フィリピン国内の30ヶ所以上の村からオファーがあり、コーヒーの木を植えることで、山の自然を残したまま現金収入を得る方法を教える。

少しでも成長期の子供たちと一緒にいたいとは思っているが、バスで10時間離れた村に風呂もない状態でしばらく滞在することも頻繁。男性である調査員・スマイリーキクチにとっても、決して快適でない過酷なステイ先。自給自足で現金を必要としない物々交換の社会に、「すべての村が理想郷」という女神が地道に農作業を伝授することの意味とは?
(以上、番組紹介より)

 

「バギオ市の自宅での3人キッズとのドタバタ暮らし、アラビカ・コーヒーのアグロフォレストリー栽培プロジェクトに加え、手作りホウキのフェアトレ―ドで村の人を助けるプロジェクトを始めたマウンテン州バーリグ町カダクラン村、今年度環境教育事業を始めたマウンテン州サバンガン町、そして私がコーディリエラ山岳地方に関わるきっかけになったマウンテン州ボントク町マリコン村を、お笑い芸人のスマイリーキクチさんがレポートしてくれました。」
(反町真理子さん記)

 

コーディリエラ地方の三つの村を取材した「世界の果ての日本人」
( August 14, 2012 in Cordillera Green Network ブログ )

バギオの環境NGO『コーディリエラ・グリーン・ネットワーク C.G.N.
( December 14, 2012 in リボーン・ライフ in バギオ -Reborn Life in Baguio, Philippines- )


戦場の軍法会議 ~処刑された日本兵~ 今夜8月14日のNHKスペシャル

2012年08月14日 | My life in バギオ

 北ルソン日本人会(JANL)の小国秀宣会長から、昨日以下の様な内容のご案内をいただきました。

・・・バギオの隣町ラ・トリニダッドにお住まいの映画監督今泉光司さんが、NHKの依頼でフィリピン側での撮影のコーディネートをされたテレビ番組が放映されます。是非ご覧ください。

NHKスペシャル
2012年8月14日(火)
午後10時00分~10時49分総合

戦場の軍法会議 ~処刑された日本兵~

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0814/

「法の番人」であるはずだった法務官たちは、なぜ、軍の上層部に抵抗し続けることができなかったのか。戦場で行われた軍法会議の実態を、ひとりの法務官の軌跡を追うことで明らかにし、戦争の罪を見つめる。
 


以下、北ルソン日本人会(JANL)宛のメールより。↓


…NPOサルボンでは、毎年12月8日に、旧帝国日本軍が真珠湾攻撃の数時間後に奇襲爆撃したここフィリピン・バギオ市の元米軍キャンプ・ジョンヘイにある花の円形劇場にて、アジア太平洋国際平和慰霊祭及び平和フォーラムを行っています。今年はフィリピン大学およびベンゲット州立大学歴史学の教授とバギオ在住の日本人、中国人、そして韓国人コミュニティーを招待し、老人の戦争体験談、アジアの人々がどのように戦争を教えられてきたか、山岳地帯での戦争調査報告、そして戦争の原因の考察など、今年は興味深い報告および議論を予定しております。どうかこの機会に北ルソンの涼しい高原都市、フィリピンで最も人気のある避暑地バギオにぜひお運びくださいますようご案内させていただきます。
NPO法人サルボン 今泉光司


戦争の記憶…。

2012年08月13日 | My life in バギオ

<戦争の記憶…。> (Isshin)
2012-08-10 15:13:59

残暑お見舞い申し上げます。

実は、私の祖父も、切り花農家から戦争に駆り出され、私が今ロング・ステイさせていただいている、ここフィリピンのバギオ市で命を落としたそうです。バギオ陥落(1945年4月25日)の2日前のことだったと聞いています。

また、ここバギオ市は、真珠湾奇襲と同じ1941年12月8日に、旧日本軍によるアメリカ軍基地「キャンプ・ジョン・ヘイ」への空襲によりフィリピンでの戦いが始まった地でもあります。
そして、山下奉文(ともゆき)陸軍大将が捕えられ、やはりキャンプ・ジョン・ヘイで降伏文書に署名した(1945年9月3日・フィリピン戦の終結)のもここバギオ市でした。

戦後67年経った今でも、やはりバギオやその周辺での戦時中の悲惨な話は子孫へと語り継がれています。もちろんバギオだけでなくフィリピン国内のいたる所で…。金沢の「岡西さん」のお話と同じように…。
数年前(!)には、ここバギオの日系人会と日本人のグループが、バギオ市祭のパレードに参列した時に、沿道から罵声が飛んだことがあった…、とも聞きました。
私は、以前ロング・ステイしていたミンダナオ島ダバオ市でも、ここルソン島北部バギオ市でも、その地で生まれ育った日本人の方や日系人の方にも、戦時中や戦後のお話を伺ったことがあります。
バギオ北の山中を逃げ惑う中で多くの餓死者を出し、家族や友人を失った日本人の方の話。戦後も日本姓を隠し、日本とつながる証拠を消し、隠れるように生き延びざるを得なかった日系人の極めて厳しかった境遇…。戦争を経験した生き証人のお話です。
マニラにいた時も、マラテ教会にたたずんでいた老婆に、「日本人かい?ここで戦争によって命を落とした人たちのために祈りなさい…。」と強い口調で言われたことがありました。マニラ市街戦(1945年2月)のことです。

今年もまた、8月15日に、フィリピンのラグーナ州カリラヤ日本人戦没者慰霊園にて、在比日本大使館主催によるカリラヤ日本人戦没者慰霊祭がとり行われます。
私自身は、バギオの戦争犠牲者の追悼碑へお参りに行きたいと思っています。

以下、参考まで。↓
http://blog.goo.ne.jp/isshin3_jph_m/d/20100903

http://blog.goo.ne.jp/chris3_baguio/d/20110903

 
<心と記憶に刻む> (森かずとし)
2012-08-12 08:59:53
 心に浸みる投稿ありがとうございます。

 戦争は、為政者と金持ち達の利益のために、一般市民が駆り出され、民族の違いの名の下に、殺し合わさせられる愚かなものです。人間固有の愚行をいつ、人間は克服出来るようになるのか分かりませんが、そのために生きたいと思います。また8月15日が巡ってきますね。お元気で。

森かずとしのワイワイ談話室 ( 金沢市遺族会の戦争と平和を見つめる会 2012-08-09  投稿内容)


 さて、今日13日付のマニラ新聞によると、先の記録的な豪雨による死者の数は計92人、被災者数も計331万人に上ったということです。
 
私が長年住み親しんだマニラ首都圏とその周辺…。被災された地域の水が引き、一日も早く復旧されますように…。

 そんな中、今度はまた発達中の熱帯低気圧「ヘレン・Helen」、日本の気象庁では「台風13号」がルソン島北部に向かっています。↓


 ここバギオ市も、また影響がありそうです。
 
15日は、バギオ市バーンハム公園の近くの戦争犠牲者の追悼碑へのお墓参りを…、と思っていましたがちょっとその日は無理かも…。


雨季の晴れ間…さあ、買い物だぁ in バギオ

2012年08月12日 | My life in バギオ

  昨日は、午前中久しぶりに青空が広がり、バギオ市の公設市場(パレンケと呼ばれる市場・Public Market)へ買い物に行ってきました。

 その前に、フィリピンのファースト・フード・チェーンNO.1のジョリビー・Jollibeeで軽いランチを…。お決まりの(?)フライド・チキンを介護者2人と…。


Taken on August 11, 2012 @ 11:56 

 なじみの八百屋さんで野菜を買い込み…。野菜の値段は、長雨で少し上がっているようです。
 
ちなみになじみのお店を、フィリピンの人は「suki」と呼びます。「好き」から来てる?
 昨日も「トマトが入荷したばかりだよ…。」と言われ、新鮮なトマトをゲット。はしたのお金はサービスしてくれました。

 先の台風でバギオ市のシンボルの花、背丈が3mにもなろうかというサンフラワーのほとんどもなぎ倒されていました。
 でも、家に戻った1時半過ぎには、まだこんな青空が…。これは珍しい…!

Taken on August 11, 2012 @ 13:29

…と思いきや、直後ににわか雨が…。

Taken on August 11, 2012 @ 14:01

女心(男心?人の心?)とバギオの空…。
お隣の大家さんによると、月曜日からはまた熱帯低気圧の影響で、また雨の日が続きそう…だとか。

…バギオの雨季は、こんな感じです。 

フィリピン・バギオ市の天気予報


久しぶりの青空が…。さあ、外出だぁ! The blue sky after the long rain in Baguio

2012年08月11日 | My life in バギオ

 今朝は、本当に久しぶりのブルー・スカイ!青空が広がっていた。約2週間ぶりの青空…。今日は、これから外出だ…。 


Taken on August 11, 2012 @ 08:30

 首都圏マニラ、ルソン島北中部では、台風9号(ヘネル・Bagyong Gener)の後の熱帯モンスーンの影響による記録的な大雨で、河川が氾濫したり、ダムから水があふれ出したりして洪水が発生、水位が3メートル近くに達した場所もあった。20数人が死亡し、被災者は120万人以上にのぼったという。

  今日11日付のまにら新聞によると被災者は「約250万人」…ということです。

 


平和への祈り in バギオ -The Prayer for PEACE in Baguio on Nagasaki Peace Memorial Day 2012-

2012年08月09日 | My life in バギオ

67回目の原爆忌を迎えた被爆地ナガサキ…。
二つの原爆と福島第一原発による被爆という惨禍を経験した日本が世界に向けて発信すべきこと。…
「放射能に脅かされることのない世の中の構築を…。」 


The Bells of Nagasaki

Nagasaki City –Peace and Atomic Bomb-

(長崎市の『平和・原爆』のページ)


Destroyed Nagasaki City by Atomic Bomb in August, 1945

As far as the eye could see there was nothing but burnt-out ruins after Atomic Bomb. You can see the destroyed Urakami Cathedral on the hill.

A replacement was built in 1959, after a serious debate between Nagasaki city government and the congregation.

The city government suggested preserving the destroyed cathedral as a historical heritage, and offered alternate site for a new church. However, Christians in Nagasaki strongly wanted to rebuild their cathedral on the original place for their historical reasons.
The place is a symbol of the persecution and their suffering. 

 

平和への祈り in バギオ -The Prayer for PEACE in Baguio on Nagasaki Peace Memorial Day 2011-
(Article on Aug. 9, 2011)
 

 

「福者」ヨハネ・パウロ2世 (Pope John Paul II)の『平和アピール』(広島・1981)
(Article on May 3, 2011)
For a world free of nuclear weapons from Nagasaki
(Article on Aug. 9, 2010)
長崎の鐘が…。(小澤征爾さんの『復活』コンサートの思い出-浦上天主堂)

(Article on Aug. 9, 2009)

 

原子力発電所関連(10)