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アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン!

‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐
 フィリピン、そして日本にありがとう!

ホセ・リサール博士ご生誕150周年のフィリピン独立記念日 in 2011

2011年06月12日 | My life in マニラ

 今日6月12日は、フィリピン独立記念日(113回目)“The 113th Philippine Independence Day”です。

 今年は、フィリピン独立の父、国民的英雄の「ホセ・リサール博士」(Dr. Jose Rizal・1861年6月19日~1896年12月30日)ご生誕150周年を一週間後迎えることもあり、例年以上の盛大な記念式典、イベントが予定されています。
 先日、フィリピン政府から、大統領令により、ホセ・リサール博士の誕生日6月19日(日)の翌月曜日をノンワーキングデー(振替休日)にするとの発表もありました。

Philippines to mark Independence Day Manila Bulletin紙・6月10日)


 1898年6月12日にスペインから、そして1946年7月4日にアメリカから、と2度の独立を果たして現在に至っている『フィリピン共和国・Republika ng Pilipinas(タガログ語)・Republic of the Philippines(英語)』…
 
しかし、フィリピンは本当の意味での「独立」した国家と言えるだろうか、フィリピンからの分離独立を求めるミンダナオ島のイスラム過激派グループをはじめ、様々な民族がうまく融合しているだろうか、といった議論も未だに国内にはあるようです。

 
 その国名の「フィリピン」“Philippines”についてですが、実は、16世紀にスペインがこの地を植民地とした当時の、スペインのプリンス“Felipe”(フェリペ王子)、“Prince Philip”(後のスペイン国王フィリップ2世)から命名されたものです。1542年、スペインの征服者が、ビサヤ地方のサマール・レイテ両島を、スペイン王子フェリペ・Felipeの名前をとって“Felipinas”(フェリペの…)と名づけ、その後ラス・フィリピナス諸島“Las Islas Filipinas”と名づけられたことに由来するものです。
「フィリップ王子様の国」が、当初の「フィリッピン」命名の由来だという訳です。
 私は、時々フィリピンの人に、スペインとアメリカからの2度の「独立」時に、「どうして以前の植民地の象徴でもあるような『フィリピン・Philippines』という国名を変えなかったんだろうね?」と尋ねてみますが、そういう問題意識を持つ人はあまりいないようです。1998年、独立100周年に際して、ごく一部の愛国運動グループが、国名の変更を試みた、とも聞いたことがありますが世論は盛り上がらなかったそうです。


 

 青、赤、白、黄橙色の4色からなるフィリピンの国旗について…。
 青は「正義・高潔な理想」を、赤は「愛国心・国民の勇気」を、白は「平和と平等・友愛」を象徴しています。また、黄橙色で描かれた太陽は「自由」を、3つの星はルソン島・ミンダナオ島・ビサヤ島を表し、太陽からの8条の光は、スペインに対して最初に武器をとった8州(マニラ、カビテ、ラグーナ、バタンガス、ブラカン、ヌエヴァ・エシーハ、パンパンガ、タルラック)を表しています。

が、その旗にはこんな歴史がありました。↓ 

The dilemma that is the Philippine flag  (Inquirer Opinion)
「フィリピン国旗に見るジレンマ」(
Inquirer紙社説・6月10日)

 
様々な苦難の歴史を乗り越えて現在に至った「独立国家フィリピン共和国」、その未来に幸多かれと祈ります。 


(ロハス大通りにて)

(以前のブログ記事より))↓

フィリピンの英雄「ホセ・リサール博士」の日(2008年12月30日) 

フィイリピン独立記念日に…。(111周年)(2009年6月12日)

  

さて、突然ですが、私的な事情により、当ブログはこれにて終了させていただきます。 

『アイ!サラマッポ ~フィリピン人介護者と生きて~』 上・下巻 (寺本一伸著) (拙著・2008年8月刊)

『アイ!サラマッポ in バギオ』 
(前ブログ・フィリピンバギオにて 2008-2009


『アイ!サラマッポ in マニラ』
 (当ブログ・フィリピンマニラにて 2009-2011

『アイ!サラマッポ』3部作完結(^^;)…、「アイ!サラマッポ!」
ありがとうございました。

 
東日本大震災から3ヶ月、被災地の復興を心からお祈りします。

- Isshin


アクセス数100,000突破!「アイ!サラマッポ」 “Ay! Salamat po!”

2011年05月05日 | My life in マニラ

昨日5月4日に、当ブログ『アイ!サラマッポ in マニ・Ay! Salamat po in Manila』のアクセス数が、おかげ様で100,000の大台に乗りました。

 

アクセス状況

トータル  閲覧     100,188  PV
       訪問者    56,359  IP

 

ブログ開設493日目。記事数は107。

 

これまでで、一番アクセスが多かったのは4月12日でした。

2011.04.12()   1,686 PV(閲覧)     1,274 IP(訪問者)
           261  /  1,566,345ブログ中

 

「アイ!サラマッポ」
“Ay! Salamat po.”


マルティン神父様(マラテ教会)と、荻神父様(岡山教会)。

2011年03月07日 | My life in マニラ

先週の金曜日(3月4日)、マラテ教会のマルティン神父様、岡山教会の荻神父様と、マラテ教会近くのレストランで、お昼をご一緒させていただきました。↓ 

 

  
(右から荻神父様、マルティン神父様、Rinaさん、向かい側に里子のような存在の若い二人…。
マルティン神父様と荻神父様は初対面です。)

荻神父様は、今回も、カトリック広島教区の姉妹教区であるケソン州、オーロラ州のインファンタ教区を訪ねられた後、お忙しい日程の合間にマラテを訪ねてくださいました。

 

食事の後、マルティン神父様は、私たちを、教会のミッション展示コーナーへと案内してくださいました。↓
 

シアター・ルームでは、マラテ教会の案内の映像とともに、その歴史、マニラ市街戦の映像(DVD)も見せてくださいました。↓

 
 
(これは、マニラ市街戦の時の映像の一部、米軍が撮影したものです。)


 そして、その展示コーナーの最後の部屋で…。
 何と、荻神父様がずっと以前に滞在されていた、アテネオ大学のEAPI(East Asian Pastoral Institute)で一緒だったというカトリックのシスターと偶然に再会!みんなで記念写真を撮りました。↓
 

 

 以前も、当ブログで記事にしたことがありますが、このマラテ教会2階のミッション展示コーナーの一室には、「マニラ市街戦・1945年2月3日~3月3日」の写真やパネル、当時の様子が再現された模型なども展示されています。

マラテ・カトリック教会のミッション展示コーナー・Mission Exhibition(2010年9月)

 

 そのマニラ市街戦について触れられたマルティン神父様、「(当時の)日本がどうの、アメリカがどうの…、ということも大切だが、このマニラ市街戦で、約10万人もの罪の無いフィリピン人一般市民が『戦争によって犠牲になった』という事実は忘れてはならない。」と…。

「戦争による犠牲者」だったのだと…。「Victims of the WAR」と、2回強調されました。日本人である私たちを気遣ってか、「罪を憎んで人を憎まず」ともおっしゃっているようにも思えました。
 当時、爆撃により大きな被害を受けたこのマラテ教会…、コロンバン会の神父様5人も、そのマニラ市街戦で犠牲になりました。


  

(“Pieta Malate 1945” マラテ教会にあるマニラ市街戦による犠牲者を悼む像)
 
 

(マラテ教会駐車場にある、戦中、戦後を生き延びたであろう大きなゴムの木・Rubber tree)

 そして、爆撃を受けた聖堂の石レンガのすき間からも、その若い枝木がたくましく芽吹いていました。↓

 

 


 この「マニラ市街戦」についても、実際にあったことがよく伝えられていなかったり、隠蔽されたりと、事実誤認が少なからずあるようです。
 わずかに生存する「マニラ海軍陸戦隊」の元兵士たちも、人生の最晩年を迎えて、ようやく重い口を開き始められたと…。

フィリピン 絶望の市街戦マニラ海軍防衛隊 - 証言|NHK 戦争証言

 その、「数十年の年月を経ないと、本当のことを語ることができない…」ということ自体が、「戦争」がいかに悲惨なものであるか、また当時の日本の極めて厳しい状況を、伝えようとしているかのように感じました。


 ここフィリピンでも、戦時中に起きたことを知る生き証人は、高齢化により年々少なくなってきていますが、歴史の真実はいろいろな形で語り継がれています。

 

Manila Bay Sunset in Real Time.wmv

(マニラ湾のサンセット・You Tube)

 


※参考:当ブログの以前の記事から…。↓

岡山カトリック教会の荻神父さま…。(2010年8月)


聖母マリアさまThe Virgin Maryのお誕生日(98日)(2010年9月)


マニラ市街戦が終結した日(3月3日) -The Battle of Manila in 1945(2011年3月)


マニラ市街戦が終結した日(3月3日) -The Battle of Manila in 1945

2011年03月05日 | My life in マニラ

 今から66年前の1945年、2月3日から3月3日の1ヶ月間、ここマニラで、太平洋戦争中における市街戦としては最も激しい、悲惨な戦いがありました。
 それまでは、マニラの街は「東洋の真珠」(The Pearl of the Orient)と呼ばれるほど、国際色豊かで美しい街でした。
 その、多くのマニラの一般市民も巻き込み、多くの犠牲者を出した、旧日本軍と連合軍の、まさに地獄絵のような戦いを「マニラ市街戦」(The Battle of Manila in 1945 )といいます。

 1ヶ月に及んだ市街地での激戦で、マニラの街は壊滅状態となり、死者は12万人に達したと言われます。
 
 マニラ市民死者   100,000人
 
 旧日本軍死者     16,555人
 
 米軍死者         1,010人

The Battle for Manila from 3 February to 3 March 1945You Tube

 
(この戦いの後、廃墟と化したマニラ市街 1945年3月)

 
(戦禍で破壊された、イントラムロスのマニラ大聖堂)

 
(現在のマニラ大聖堂・2010年1月撮影)

 そのマニラ大聖堂の裏に、1945年のマニラ市街戦から50年後の1995年に立てられた「メモラーレ・マニラ・1945」(Memorare - Manila 1945)という記念碑があります。
 
(マニラ大聖堂裏にある「メモラーレ・マニラ・1945」 2011年2月23日撮影)

 
(8人の犠牲者が表現されているこの墓碑には、遺族たちの祈り、思いが凝縮されているようです。)

 
 

「この記念碑は、(1945年のマニラ市街戦)で命を落とした、何の罪もないすべての犠牲者に捧げられる。
 その多くは、名前も分からないままに共同墓地に葬られたが、中には、戦火で灰となってしまったり、廃墟の街に塵(ちり)のように埋もれてしまったりした犠牲者もいた。
 この碑を、1945年2月3日から3月3日までの『マニラ開放への戦い』で亡くなった、約10万人の男性、女性、子供に幼子、すべての犠牲者を悼む墓碑としよう。我々は、彼らのことを忘れてはいないし、これからも決して忘れることはない。
 現在の、この神聖なマニラの地で、どうか安らかにお眠りください。」
                  ~愛を込めて~ 1995年2月18日


 さる2月5日(土)には、マニラ市街戦のすべての犠牲者を悼む記念式典がありました。フィリピン人遺族らは、「日本人は許せても、当時の虐殺のことは忘れることできない…。」と語ったといいます。


 また、それに先立ち、マニラ市街戦が始まった日の2月3日(木)には、マニラ大聖堂で、日本からの巡礼団ら百人とともに、カトリック大名「高山右近」(1552~1615)のご遺徳を偲ぶ記念のミサが行われました。日本カトリック教会では、右近がマニラで客死して400年にあたる2015年までに、バチカンに列福(福者認定)をめざし、国内外でそのための活動をされているそうです。


→「最後に、フィリピンで名の通った日本人の一人『高山右近』について触れておきます。前田家の保護の下、その半生近くの二十六年間を金沢で過ごした高槻のキリシタン大名右近は、家康のキリスト教追放令により1614年に金沢からフィリピンに渡りましたが、悲運にもマニラ到着後わずか四十日余りで熱病にかかり、その生涯を終えました。しかし、その時のフィリピン人による右近追悼のミサは九日間にも及び(サンタ・アナ教会)、当時としては異例の待遇だったといいます。その右近が、『剣を取るものは皆、やがて剣によって滅びん。』という言葉を残しています。イスラム教徒とキリスト教徒が共存を模索し続ける、ここミンダナオ島で生活している私の心に、今、その普遍的なメッセージが強く響いてきます。」
(以前機関誌に投稿した記事より・2006年ダバオ市にて)



 そして、太平洋戦争開戦(1941年12月8日)から70年の今年2011年、NHKが、
NHKスペシャル日本人はなぜ戦争へと向かったのか
という番組を放映しています。
 その最終回『開戦・リーダーたちの迷走』(第4回)が、明日3月6日(日)午後9時~9時49分、総合テレビで放映されます。

「なぜ日本は無謀な戦争への道を選択したのか。太平洋戦争70年の年に問いかける大型シリーズ。最終回は、いよいよ開戦を決定した1941年をとりあげる。…」(番組紹介より)

 ここフィリピンでも、NHKワールド プレミアムで同日同刻に見られるはずなのですが、残念ながら今入居しているコンドミニアムでは、今年から見られなくなりました。↓
「この度、Destiny Cableの長年にわたる契約不履行により、2011年1月4日をもって、同社へのNHKワールド プレミアムの配信をやむなく停止することとなりました。マニラ首都圏では、同社以外にもケーブルテレビ局Sky CableNHKワールド プレミアムを配信しております。」
…という
NHKワールド・プレミアムの案内のとおりです。
 このコンドミニアムには、その
Sky Cableが敷かれていないんです。以前はDestiny Cableで見られたのですが、昨年11月にこの案内があった後、12月初めに突如見られなくなりました。その後、NHKの抗議で3日後に見られるようになったそうですが、私はその時に即刻NHKワールド・プレミアムが入っていると思い込んでいたCable Linkに切り替えました。ところが、入っていたのは「NHKワールド」…。内容は、英語のニュースが中心で、海外向けに編成された全く異なる内容。日本国内で流されているNHKの番組はほとんど見られなくなりました。
トホホ…(
*_*;)。仕方ありませんが…。 

 インターネットでは、昨年8月から、戦争の生き証人の証言をもとに作られた多くの記事が、映像とともに無料で公開されています。↓
NHK 戦争証言アーカイブス


フィリピン「ピープル・パワー革命」25周年 Vol. 2

2011年02月28日 | My life in マニラ

 2月25日(金)、「ピープル・パワー・レボリューション・1986」25周年記念行事が行われた日、私はルネタのリサール公園のお隣にある、ニノイ、コリー・アキノご夫妻の銅像の前に行ってきました。午後3時過ぎ…、フィリピン人や外国人観光客の姿も少しありましたが、もう人影はまばらでした。↓
 

 朝7時半から、ケソン市(Quezon City)のEDSAで行われた記念式典の後すぐに、ノイノイ・アキノ大統領は、この場所へと移動…。ご両親の功績を偲んで、献花が行われました。
 

 

 その献花に先立って、午前9時半、すぐお隣に金色の新しい立像の除幕式が行われました。6年前に亡くなられた「シン枢機卿・Cardinal Sin」(Jaime Lachica Sin)です。↓
 

 カトリック教徒が約8割を占めるフィリピン国民の精神支柱的な存在でした。その発言、行動の影響力は大変なもので(期せずして)、政治、歴代大統領をも動かすほどのお力でした。
 この1986年2月のピープル・パワー革命の時は、2月初旬に行われた大統領選挙(マルコス vs. コリー・アキノ)の開票で、マルコス陣営の不正な操作により「マルコス勝利」が発表されて以降、国内が大騒乱、いつ内戦になってもおかしくない状況でした。
 
そんな中、ついに軍部内でも一部がマルコス政権に反逆、国防省に立てこもりました。その首謀格のエンリレ国防長官がシン枢機卿に電話をしたのは、「25日」の3日前だったということです。国内情勢を憂いていたシン枢機卿は、エンリレ氏に対して協力することを約束、フィリピンのカトリック教会の代表として、人々にイエス・キリストと福音の精神に従うこと、運動の中で絶対に暴力を用いないよう訴えたのです。
 
マルコス大統領とイメルダ夫人は、国民感情が自分たちから離れていることに気づき、状況を打開するため、シン枢機卿に自分たちの側について国民を説得してくれるよう依頼しましたが、枢機卿はこれを丁重に拒否。大統領と夫人に対して、マルコス打倒を叫んでエドサに集結していた群衆に対して武力行使を行わないようお願いしました。にもかかわらず、大統領は軍に対してデモ制圧のための武力行使といった強権を発動したのです。
 
戦車と兵士の一隊がデモの大群衆に接近した時、デモに参加していた民衆はその場にひざまずき、ロザリオの祈りを唱え、聖歌を歌いました。これを見た兵士たちは、マルコス大統領の武力制圧の命令を拒否したばかりでなく、一部は逆にデモ隊に加わりさえしたそうです。
 

 晩年のシン枢機卿…。2002年頃。
 
 私は、ラス・ピニャス市のピラール教会で、一度、そのお姿を拝見しています。ものものしい警備の中、車から降りられ、車椅子に移られる様子をすぐ近くで…。辺りが神々しい雰囲気に包まれたことを覚えています。(2002年)。

 2001年1月には、ジョセフ・エストラーダ大統領の賭博汚職疑惑で国民の不満が再び高まり、シン枢機卿は再び政変の中心人物へと…。大統領の汚職の発覚に怒った人々が再びエドサに集結、シン枢機卿がこの運動を支持、承認したことが大きな力となり、大統領は退陣に追い込まれました。副大統領だったグロリア・マカパガル・アロヨが大統領の座に…。これが「ピープル・パワー2・People Power 2」と呼ばれる政変(2001年1月20日)です。↓
 
 左から、故コラソン・アキノ元大統領(コリーさん)、故シン枢機卿、アロヨ前大統領です。
 コリーさんの後ろで右手を上げていらっしゃるのは、40歳のノイノイさん、現フィリピン大統領です(2010年6月30日~)。当時はターラック州選出の下院議員でした。20日前に、51歳になられました。

 
 リサール公園の前で…。ロハス大通りには、コリーさん(ピープル・パワー革命)のシンボル・カラーの黄色の旗が延々と立てられていました。

「ピープル・パワー1」(エドサ革命)から24年
(2010年2月25日の当ブログ記事)


ピープル・パワー革命25周年・ People Power Revolution of 1986

2011年02月26日 | My life in マニラ

 25年前の昨日2月25日(1986年)、マルコス政権に抗議する約100万人もの群衆が、エピファニォ・デ・ロス・サントス大通り(Epifanio de los Santos AvenueEDSA)を埋め尽くし、それが大きな力(ピープル・パワー・People Power)となって、マルコス政権を退陣、ハワイへの亡命へと追い込み、リベラルなコラソン・アキノ政権(初の女性大統領)が誕生しました。
 
この政変がエドサ革命(EDSA Revolution・フィリピン人は「エッツァ」と発音)です。一般的には、「Philippine People Power Revolution of 1986」と
して、世界中に知られている、フィリピン国民が誇りとする無血革命でした。↓
 

「コリー・Cory」という愛称で、ずっと人々に慕われている故コラソン・アキノ元大統領。1986年の2月、シンボルカラーの黄色のドレスで、「闘い-Laban
(タガログ語)」を表す「L」の文字を、親指と人差し指を広げて高々と掲げる映像が大変印象的でした。↓
 

 夫は、1983年8月21日、亡命先のニューヨークからマルコス政権打破のために帰国した際、マニラ国際空港で到着直後に暗殺された民主派のベニグノ(ニノイ)・アキノ元上院議員(
Benigno Servillano “Ninoy” Aquino Jr.)。

People Power: The 1986 Philippines EDSA Revolution - Google ビデオ
(ピープル・パワー20周年の2006年に編集されたビデオ。真実が明らかに…。衝撃映像あり。大統領就任後、米議会での、コリーさんのスピーチ後のスタンディング・オベーションに涙。)


 25日は、そのご長男で現在のフィリピン大統領、「ノイノイさん」の愛称で親しまれているベニグノ・アキノ3世(Benigno Simeon "Noynoy" Cojuangco Aquino III)を中心に、「25周年記念」を祝う盛大なセレモニーが、早朝からEDSAのピープル・パワー記念碑・People Power Monument前の特設ステージで行われました。↓
 
(記念スピーチをするノイノイ・アキノフィリピン大統領。)

 

当ブログのこれまでの記事です。↓
ピ-プルパワー革命平和的人民革命記念日(2009年)

「ピープル・パワー1」(エドサ革命)から24年(2010年)


コリー・アキノ元大統領「安らかに。」
(2009年8月2日の記事・逝去されたのは1日。)
マニラ大聖堂でアキノ元大統領追悼ミサが。(国葬
(2009年8月5日)
コリーさん(故コラソン・アキノ元大統領)のお誕生日に銅像が ...
(2010年1月25日)


Sarah Geronimo - Magkaisa - With Lyrics
フィリピンの若き歌姫サラ・ヘロニモが歌う『
Magkaisa』(The Unity・統一、団結、結束)…マニラ大聖堂での国葬の時の映像。コリーさんに捧げられました。


マニラ・オーシャン・パーク Manila Ocean Park ・ MOP

2011年02月16日 | My life in マニラ

 一昨日のバレンタイン・デー・St. Valentine's Dayに、専従で私の介護に関わってくれているマリアさん、ジェンさんと、マニラ・オーシャン・パーク・Manila Ocean ParkMOPへ行ってきました。3人とも初めて…。この二人の介護者、関わり始めたのは、マリアさんの方が半年ほど早かったのですが、二人とも、それぞれの事情で出たり戻ったりしながらも、もうのべ2年以上関わってくれています。
 さて、3年前の2008年3月に開園したオーシャン・パーク、ホテルや小さなショッピング・モールもある海洋テーマ・パークですが、メインの海洋水族館・Oceanariumは、建物中央のコンコース右側に入口があります。水族館の入場料は大人400ペソ、子供は身長4.5フィート以下が350ペソで、2フィート以下は無料ということです。が、フィリピンの一般庶民にとってはかなり高めです(年中無休)。
 
今回、建物前のチケット売り場でプロモ・ボーイに渡されたチラシがこれ。↓
 
(このプロモは、3月末まで。)
 私たちは、500
ペソの「水族館」「クラゲ館」「アシカ・ショー」パッケージを購入。
「10時に入り口で…」と前々から言っていたのに、一時間半遅れで到着したマリアさん…。ジェンさんと二人でブツブツ…。気を取り直してまずは水族館へ。「ワーッ!」ちょっとしたミニ・ジャングルといった感じで、なかなか良い雰囲気です。
 
出迎えてくれたのは、乱獲が原因で世界的に激減している、南米原産の巨大魚ピラルク・Pirarucu。↓
 

 そして、300種以上の水生生物がいるという水族館の中に入ると、いかにもフィリピンらしい色鮮やかな熱帯魚の数々…。大きな水槽の奥に、お目当ての海底トンネルがありました。約20mもあるトンネルから見上げると、大きなエイやサメも…。「Buhay ng Karagatan」(Ocean's life・海洋の生き物)と呼ばれるこのトンネルのガラスは、水圧に耐えられるように20cm
もの厚さがあるそうです。↓
 

 日本の水族館と比べると規模は小さめですが、介護者の二人は大はしゃぎで写真を撮りまくり…。「オイオイ、誰が編集するんだぁ…。」(ブツブツ^^
;)

 
あれこれするうちにもう1時近くに…。水族館を出る時にはもう体温が上がってしまい、持ってきた氷枕に入れる氷を探すも「インフォメーション」では「アイ、ワラ…(あら、そんなものないわ…)」と即答され…(ブツブツ)。仕方ない…と、水族館向かいのモールの奥のファースト・フードで二人は昼食を…。幸いお隣にシェークのお店があり、コーヒー・シェイクを頼んで氷を分けてもらいました。ホッ。
 
その後、踊るクラゲ館「Jellies」に入ると、暗い室内に数種類のクラゲが入っているいくつかの水槽があり、Dancing Jellyfish…というとおり、音楽に合わせてクラゲがダンスしているように見えました。音楽は、大好きなパッヘルベルの『カノン』、水槽の照明の色が色々と変わって、ちょっとファンタスティック…。それに、冷房がきいてて心地良い空間でした。↓
 
Canon (パッヘルベルの『カノン』)

 
外のプールでのアシカ・ショー・Sea Lion Show
(これも南米から)も楽しめました。↓
 

 
オーシャン・パークの奥からはマニラ湾が望めます。停泊中のスーパー・フェリー。これに乗れば3日間で…。「オーイ…、ダバオーッ!」(^^
;)。↓
 

「3時間も入れば充分かな…。」と感じたオーシャン・パーク…、での最後のブツブツ…は、3年前にできたものだけに、もちろんバリア・フリーになっていて車椅子の人たちもけっこういました。が、水族館に通じるスロープは勾配がやや急で、1インチくらいのステップも…。どうせスロープ作るんだったら、もっとゆるやかで安全なものにしてほしいなあ。

 
まあ、それはさておき、そこで出会った一人の車椅子の女性。明るく「ハロー!」と声をかけてくれ、話をするうちに、マカティ市のThe Circle Of Friends Foundation Inc.・COFFI
の福祉車両について教えてくれました。「アイ!サラマッポォ!」今度、ぜひ使わせていただこうと思います。↓
COFFI


 今回のオーシャン・パーク、バレンタイン・デーに、日頃の感謝の気持で介護者に…。二人もそうですが、赤いシャツを召された女性が目につきました。
 
そして、今年はチョコレートとバッグを介護者とお友達に…。フィリピンでは、バレンタイン・ギフトはもっぱら「男性から女性へ」ですが、私もお返しをいただきました(^^
)。

フィリピンバレンタインデー (以前の記事・2009年バギオ市)


マラテ教会のお祭り in 2010

2011年01月14日 | My life in マニラ

 昨年11月21日のことですが、ここマニラのマラテ地区でもお祭りがありました。マラテ教会(Malate church)では、教会近くのマラテ・カトリック・スクールから、小学生やハイスクールの生徒たちも、パーフォーマンスやマーチング・バンドで参加。夕方には、マラテ教会の救済の聖母マリア像(Our Lady of Remedies)やサント・ニーニョ像(Santo Niño・幼きイエス)、聖人の像の行進(Procession)がマラテの街を一周しました。

 
1月は、先日のマニラ・キアポ教会のブラック・ナザレ祭に続いて、ビサヤ地方パナイ島のカリボ(Kalibo・ボラカイ島の近く)ではアティ・アティハン祭り(Ati-atihan・第3週)、セブ市(Cebu City)では、1521年にマゼランから贈られたとされるセブのサント・ニーニョ(Santo Niño・幼きイエス)を祀るシヌログ祭(SinulogSanto Niño de Cebu)が16日(第3日曜日)、そして第4週末には、同じパナイ島イロイロ市(Iloilo City)でディナグヤン祭(Dinagyang
)が…。どれも、フィリピンで観光客を呼び込む人気の高いお祭りです。

 
宗教色の非常に濃い、そして熱狂的なお祭りが多く見られます。その信者の熱狂ぶりには、時には異様な印象を受けたりもします。
 
その最たるものが、パンパンガ州サン・フェルナンドで毎年ホーリー・ウィークに行われる奇祭です。
「マニラ北部パンパンガ州のサン・フェルナンド(PampangaSan Fernando
)では、志願者が実際に十字架に磔(はりつけ)にされる苦行が、多くの観光客を呼ぶ奇祭として有名です。キリストの受難を疑似体験しようと、生身の人間が、大きな釘を手足に打たれて磔にされるのですよ…。」↓
フィリピンのホーリー・ウィーク(聖週間) - アイサラマッポ in バギオ

YouTubeの、この動画はちょっとコワイ…。↓
Holy Week Flagellations, San Fernando Pampanga ...


 今年2011年のホーリー・ウィーク(聖週間)は、4月17日(受難の主日)から24日(復活祭-イースター・サンデー)まで。
 
このサン・フェルナンドの磔の奇祭が行われるのは、イエス・キリストが十字架に架けられて息を引き取るGood Friday
(グッド・フライデー・聖金曜日)だから、今年は4月22日(金)です。見てみたい方はどーぞ。
 
ちなみに、キリストの受難と死の記念日なのにどうして「Good…」なのかというと、キリストの死を通して救いが万人に与えられた、ということだからだそう
です。キリストが、人々の生まれながらにして背負っている罪をすべて背負い、万人のために命を捧げたことで、人々の罪、過ちが許され、神の救いが与えられたから…、ということです。


 さて、マラテ教会の平和なお祭りの様子は、以下写真で…。↓

 
High school students

 
Elementary pupils

 
Santo Niño

 
Our Lady of Remedies

 昼間の人口が多いマラテ地区…。でも、実際にずっとこの地区に住んでいる人の数はそれほど多くありません。
 夜は、カラオケやバー、レストラン…に人が集まり、またにぎやかに?

(続く…?)


「ブラック・ナザレ・2011」THE BLACK NAZARENE 2011 追記

2011年01月10日 | My life in マニラ

 フィリピンINQUIRER.netの記事によると、昨日1月9日の「ブラック・ナザレ祭り」(キアポ教会)に参加した熱心な信者の数は、早朝6時にリサール公園のキリノ・グランドスタンド(Rizal Park’s Quirino Grandstand)で行われたミサの参加者120万人(!)を含めて、約700~750万人(!!)だった、とマニラ警察が発表したとのことです。
 
昨年と同じく、ロサレス枢機卿(Cardinal Rosales
)によるミサの後、午前8時にキリノ・グランドスタンドを出発した「ブラック・ナザレ」像の行進が、キアポ教会に戻ってきたのは、深夜の11時以降…と書かれています。約5kmの距離を15時間以上かかって移動したということになります。
 
今年の行進の模様がもうYouTube
に…。↓

THE BLACK NAZARENE 2011 PROCESSION

Viva! Viva! Nazareno!」(バンザイ!バンザーイ!ナザレーノ!)と叫んでいます。

 
それにしても、小雨降る中、この、人々の熱狂ぶりは…!?
 
昨年は、死者も2名出ましたが、今年、死者は無く、負傷者も5百数十名と、参加者が極端に多かった割には昨年と同じ程度にとどまったようですが…。

Millions escort Black Nazarene - INQUIRER.net, Philippine News for ...
INQUIRER.net, Philippine News for Filipinosの記事)

 
日本の方がアップされたYouTube
の映像も…。↓
Black Nazarene 2011ブラックナザレ祭(キャポ教会)


ブラック・ナザレ(キアポ教会)-Black Nazarene in Manila

2011年01月09日 | My life in マニラ

 今日1月9日は、毎年マニラ市にあるキアポ教会(Quiapo Church・1582年スペイン人が建設)で、フィリピンを代表する宗教行事「ブラック・ナザレ祭り- Quiapo Black Nazarene Fiesta」が行われています。

 

 まずは、昨年1月9日のブラック・ナザレ行進の映像をご覧ください。
 
黒い十字架に触れようと、山車によじ上った若い女性(赤色のTシャツ)が、護衛のスタッフ(黄色のTシャツ)の一人に振り落とされています!
(映像の約1分過ぎに…。アンビリーバボー!)↓
Quiapo Fiesta 2010 -PhilippinesYou Tubeの映像)


 

 これはどんなお祭りなのかというと…。↓
ブラック・ナザレ祭(キアポ教会)-Black Nazarene
アイ!サラマッポ in マニラ昨年の記事)

 

「ブラック・ナザレ」とは、1608年にメキシコから持ち込まれた、キリストの受難を表した木製の聖像で、この写真の「黒いキリスト像」です。
 
キリスト像がどうして黒いのかという理由には、フィリピンへ運ばれる途中、船上で火災に遭遇し表面が黒くなったという説や、メキシコ人、もしくはフィリピン人の、肌の色に合わせられたなど、いろんな説があるようです。
 
また、太平洋戦争の際、マニラ市のキアポが大火災で街中が焼き尽くされましたが、それでもこのナザレ像は無事だったということです。その時、主に貧しい人々に、夢で「キアポ教会へ集まるように」とのお告げがあったとされています。それ以来、このナザレ像に触れると難病が治るとか、問題が解決するという奇跡が言い伝えられるようになったそうです。

 この不況下、今年は「日曜日」ということもあり、かなりの人手が予想されていましたが…。
“At least six million Catholic devotees are expected to join the celebration of the feast of the Black Nazarene on Sunday, Manila Police District (MPD) head Chief Superintendent said on Thursday, Jan. 4…”
(この5日のGMAニュースの記事では600万人は参加…とも!?)