アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン!

‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐
 フィリピン、そして日本にありがとう!

太平洋戦争「フィリピン戦」終結の日-9月3日

2010年09月03日 | バギオ市 BAGUIO CITY

 今日9月3日は、65年前の1945年に、フィリピンバギオ市のキャンプ・ジョン・ヘイ(Camp John Hay・元米軍保養地)で、旧日本軍フィリピン総司令官山下奉文(ともゆき)陸軍大将が、正式な降伏文書に署名した日、太平洋戦争のフィリピンでの戦いが終結した日です。
(通常、当時の連合国の対日戦勝記念日は日本が東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で連合国に対する降伏文書に調印した9月2日です。)
 
また、「フィリピン戦」が始まったのも、実は1941年12月8日「真珠湾攻撃」と同じ日で、キャンプ・ジョン・ヘイへの旧日本軍の戦闘機による爆撃からでした。

 

 この690ヘクタールという広大なキャンプ・ジョン・ヘイも、コラソン・アキノ政権下、1991年9月16日のフィリピン上院による「比米友好協力安全保障条約」批准拒否を受けて、スービックやクラークといった米軍基地同様、1991年から97年までかけて、フィリピンに返還されました。

 そのわずか3週間前の8月27日には、条約に調印し、クラーク基地返還、スービック基地使用10年延長で合意していたのに、です。その年6月9日のピナツボ火山大噴火により、両基地がほぼ使用不能になったことも、米軍基地返還に拍車をかけたとも言われていますが、比米基地協定を終結させたのはフィリピン議会(上院)でした。

 一昨日の「The Day of Baguio City」には、市制101年を祝ったバギオ市…。
 昨年の今日は、「日比国際平和演劇祭」が。バギオ・コンベンション・センターで、『ケノン・ロード』(演劇・ミュージカル)が初演されました。その副題にも「世界平和と調和への道」とあったように、国や人種の違いを認め合い、共存を模索する中で、バギオ市がより繁栄し、より平和な共生社会へ向かっていくように、との願いが込められて企画されたものでした。忌わしい過去を乗り越えて

 約1年間ロング・ステイしたそのバギオ市のグリーン・バレーを下りて、もう1年になります。

バギオ市100周年特集-9月3日が「フィリピン日本友好の日」(バギオ)に


…フィリピンでその財宝の行方が何かにつけ話題とされる山下陸軍大将は、戦時中の彼の行いに対する自責の念と自由を尊び平和を追求する新しい日本に対する理想を伝えるべく、遺言を残したとのことです。
「日本人が、(来るべき)自由社会の中で倫理的判断に基づいて義務を履行すること」「人類を破滅に導く科学ではなく、人類を不幸と困窮から解放するための手段としての科学の追求と教育」「人間教育における母(家庭)としての役割」の大切さ等が書かれているそうです。
 そしてまた、日本の新しい女性像が次のように希求されています。
「平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮して下さい。自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。」

 ファッシズム、全体主義とは何かを考えさせられる、ずしっと心に響く言葉です。
「自由は、誰からも侵され奪われるものではなく、それぞれが、自分からそれを放棄しようとする時にのみ消滅する…。」

 それでも、太平洋戦争は勃発し、多くの悲劇を生みました。111万人のフィリピン人が命を落とし、フィリピンに派兵された日本人64万人のうち、約50万人が戦死したそうです。

(去年3月のブログアイ!サラマッポ in バギオ記事より)


(追記)9月15日「まにら新聞」より↓
<米軍基地協定:19年前の比米軍事基地協定破棄をあらためて評価する決議案が、下院で提出される。>