アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン!

‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐
 フィリピン、そして日本にありがとう!

ホームヘルパー募集中!(パート・アルバイト…主婦・学生etc. 資格・経験問わず) -調布市調布駅近く-

2024年02月04日 | マイ・ライフ in 調布市


ホームヘルパー(パート・アルバイト)を募集しています。

内容は、在宅での「家事」、または「できる範囲での簡単な介護」です。

ヘルパー資格、経験、性別や国籍は問いません。主婦・学生の方…、初心者大歓迎です。

場所は、京王線調布駅から徒歩11分、京王相模原線多摩川駅からは徒歩7分の所です。

当ブログ「メッセージ」の欄(向かって右、中程)からご連絡(メール)ください。

「メッセージ」欄からのメールの内容は、一切ブログには反映されませんのでご安心下さい。

希望時間帯、時給等の詳細はメールにて…。

よろしくお願いします。

- Isshin


神代植物公園(調布市)の華やかなバラたち -The Autumn Rose Festival on Oct. 20, 2015-

2015年10月25日 | マイ・ライフ in 調布市

神代植物公園(調布市)の華やかなバラたち on parade

Taken on Oct. 20, 2015 @ 10:06

Congratulations to Y & M!


“Tchaikovsky Violin Concerto” Akiko Suwanai in 1990

 

Taken on Oct. 20, 2015 @ 11:32

神代植物公園(調布市)『秋のバラフェスタ』 - 東京都公園協会
(11月1日まで)
 

(参考)

神代植物公園のバラ(2014秋のバラフェスティバル) "Happy St. Valentine's Day!"

2015年02月13日 | マイ・ライフ in 調布


マニー・パッキャオさん、サラマッポ!(フィリピンフェスティバル2015) Salamat Manny Pacquiao!

2015年09月20日 | マイ・ライフ in 調布市

Manny Pacquiao… “Ay! Salamat po!”

(マニー・パッキャオさん、アイ!サラマッポ) 

Taken on Sept. 19, 2015 @ 10:33 Manny Pacquiao at Yoyogi Park, Tokyo

たまたま介護者が手にする私のカメラに笑顔で…。ドキッッッ!

 

Taken on Sept. 19, 2015 @ 10:33

 

Taken on Sept. 19, 2015 @ 10:33

 

 これは、9月19日(土)に、代々木公園イベント広場で開催された「フィリピンフェスティバル 2015」の、オープニングセレモニーのステージで…。

 

Taken on Sept. 19, 2015 @ 10:30 Philippine Festival 2015 at Yoyogi Park
 

Oh! Manny Pacquiao (Pacman) !!!

マニー・パッキャオがスピーチをしているではあ~りませんか!

ごれはすごい!!

超ラッキー!!!

 


Taken on Sept. 19, 2015 @ 10:37

Philippine Ambassador to Japan Manuel M. Lopez

(フィリピン大使マヌエル・M・ロペスご夫妻)と…。

 

 私も、マニー・パッキャオのタイトル・マッチの時、これまでに何度か当ブログで書かせていただきました。↓

「マニー・パッキャオ vs. フロイド・メイウェザー・ジュニア」 Manny Pacquiao vs. Floyd Mayweather
(May 3, 2015 in アイ!サラマッポ in フィリピン 

フィリピン、ショック…。マニー・パッキャオ(パックマン) Manny Pacquiao (Packman) 6回KO敗け!
(December 9, 2012 in アイ!サラマッポ in フィリピン
 

マニー・パッキャオ(パックマン) Manny Pacquiao (Packman) 敗れる!
(June 10, 2012 in アイ!サラマッポ in フィリピン 

強い!マニー・パッキャオ・Pacman
(March 13, 2010 in アイ!サラマッポ in フィリピン

  

 そして、セレモニーが終わって私がいたすぐそばを…。黒いジャケットの大柄なボディーガード・Bodyguardがマニー・パッキャオの周囲を取り囲み、厳戒警備の中…。

 何と、マニー・パッキャオさんが私に向かって声をかけてくれたのです。私はビサヤ語で「Maayong buntag Pacman! 私はフィリピンに15年間住んでいた…。応援していました…。」などと話しかけ…。

Taken on Sept. 19, 2015 @ 11:00

 誰かが差し出した銀色のマジックを手に取り、私のTシャツの右肩にサインを下さった上に、握手まで…!

 憧れの、偉大なボクサー、フィリピンの英雄と一瞬でも接することができ、夢のような瞬間でした。


 もう周囲は大変な騒ぎ…。私も介護者も、もみくちゃにされながらも、その興奮をシェアしました。

 マニー・パッキャオさん、ありがとうございました!

 

マニー・パッキャオ@Philippine Festival フィリピンフェスティバル
2015-09-19 Manny Pacquiao , PHILIPPINE FESTIVAL 2015
(YouTube)

フィリピン フェスティバル Philippines Festival Tokyo 2015 3/4
(Kalinga native dance・カリンガ族民族ダンス)


<マニー・パッキャオ Manny Pacquiao>
 1995年1月22日、16歳1か月で、ライトフライ級でデビュー以来、次々と階級を上げながらスーパーウェルター級までの11階級を渡り歩き、その過程で幾多の名王者・名選手を撃破、アジア人初そしてボクシング史上二人目、史上最多タイ記録となるメジャー世界タイトル6階級制覇王者である。

 パッキャオが評価されている最大の理由は、メジャー世界タイトル (WBA、WBC、IBF、WBO) 史上2人目である6階級制覇(フライ級、スーパーバンタム級、スーパーフェザー級、ライト級、ウェルター、スーパーウェルター級)という数字よりも、世界王者の中でも超一流の選手を幾多の階級にわたって撃破(その多くは圧勝)してきた点にある。近年のボクシング界では、既に人気を確立したスター選手は世界タイトルを返上してでも、他の強豪選手・人気選手とのビッグマッチを優先させることが多くなってきているが、その象徴的な選手がパッキャオである。パッキャオは、ノンタイトル戦でスター選手のマルコ・アントニオ・バレラに完勝してスターダムに伸し上がったことをきっかけに、世界タイトルを獲得することにこだわらなくなり、ビッグマッチを優先して各階級の最強の選手と戦うようになった。
 2010年に当選してから、2期連続でフィリピンの国会議員(下院議員)を務めている。
 フィリピンプロバスケットボールリーグのバスケットボール選手兼ヘッドコーチでもある。

マニー・パッキャオ - Wikipedia

This picture is from Manny Pacquiao - Facebook
Updated on Oct. 3

See you next year!


フィリピンフェスティバル2015 「グルメと音楽と…。」 @代々木公園 Philippine Festival 2015

2015年09月18日 | マイ・ライフ in 調布市

「フィリピンフェスティバル 2015」

 

フィリピンフェスティバル 2015

「グルメと音楽と…。」

2015年9月19日(土)・20日(日) 9~17時

代々木公園 イベント広場

Philippine Festival - Facebook


アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン! ‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐

2015年09月01日 | マイ・ライフ in 調布市

アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン!

‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐

(Thank you to the Philippines and Japan.)

 (フィリピン、そして日本にありがとう!)

 本日、当ブログのタイトルを以上のように変更しました。
 

 2013年初夏、日本一時帰国中に、アクシデントで左脚の大腿骨頚部を骨折して2年余り…。やはり、今の体の状態で、フィリピンに戻っての再スタートは難しいと思います。
 今後は、この調布市で、私の第二の祖国フィリピンと日本との良好な関係性を探りながら、地道な活動を積み上げていきたいと思っています。

 近々『日本フィリピンボランティアネット・Japan Philippines Volunteer Net (JPVN)』という名称で、規模は小さいが、夢の大きな組織を立ち上げる予定です。今は、そのための準備を進めています。

 当ブログ同様、今後ともよろしくお願い致します。

‐Isshin


夏の終わりの「調布よさこい2015」

2015年08月31日 | マイ・ライフ in 調布市

昨日30日(日)は、「調布よさこい2015」が…。お天気も、曇天の中、何とかもった。
調布駅南口会場での初めての「総踊り」。老いも若きも…。


Taken on Aug. 30 @ 12:57

続いて、旧甲州街道650mを踊り抜ける「流し踊り」


Taken on Aug. 30 @ 14:08

午後3時前に布多天神社会場に移動すると、特設ステージではまだ次々にパーフォーマンスが…。
元気だなあ、みんな…。


Taken on Aug. 30 @ 14:52

ミンミンゼミがまだわずかに、しかし声高に鳴いていた。
しばらくすると霧雨が…。帰り道、長袖のTシャツのややしっとりと感覚が、とても心地よかった。 


 振り返れば、今年の夏も、なかなか厳しいものだった。
 梅雨明け直前の7月中旬、急性気管支炎で救急外来・入院…。調布東山病院6階のスタッフの方々には、本当によくしていただいた。その後、北多摩病院でもしばらくお世話になった。
「ありがとうございました。」
 調布飛行場での小型機墜落事故の日、東京での猛暑日連続記録が更新されていた日々を、病院で過ごしていた。苦しい夏だった…。
 それでも、終わりよければ全てよし…とまでは言えないまでも、まあよくやったか…、とも言えそうな、今年の夏が終わった。 

 
調布花火大会 on August 22, 2015 @ 19:38


千鳥ケ淵戦没者墓苑でお参り on August 18, 2015 @ 10:20


『水木しげるの戦争と新聞報道展』 (調布市制60周年平和祈念事業) in 調布市文化会館「たづくり」

2015年08月29日 | マイ・ライフ in 調布市

「 もう俺を苦しめるな。
 時代だ。運命だ。
   自己を、凡てを捨てて、
   死にながらにして生きるのだ。

「 私の心の底には、
 絵が救ってくれるかもしれない、
 と言ふ心が常にある。
 私には、本当の絶望と言ふものはない。

 これは、水木しげる氏が1942年の10月~11月に、召集令状(赤紙)を受け取る以前に、当時の心境を書かれていた手記の一節です。ご本人も忘れていたという原稿用紙の束が最近見つかり、今回の『水木しげるの戦争と報道新聞展』で、その一部が初公開されています。

平和祈念事業「水木しげるの戦争と新聞報道展」 | 調布市

 調布市制施行60周年、終戦70年という今年の夏、調布市名誉市民である水木しげる氏の、『総員玉砕せよ!』『ラバウル戦記』などの作品の複製原画や、言論統制下にあった当時の新聞記事など約90点が、調布市役所横の「調布市文化会館たづくり」で9月13日まで展示されています。(入場無料)

 
8月12日(水)の夕方、ご自身が展示会場へ。
93歳…お誕生日は私と同じでした。
(翌13日朝のNHK「おはよう日本」でも紹介されていました。)

「軍隊で兵隊と靴下は消耗品といわれ、兵隊は“猫” 位にしか考えられていないのです。こと“死” に関しては、やはり人間である。“一寸の虫にも五分の魂”という言葉があるが、兵隊全体の暗黙の同意なしにただ命令というだけでは、玉砕は成立しないと僕は思う。
(中略)
 僕は戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。」
1991年8月 水木しげる (『総員玉砕せよ!』 あとがきより・本チラシ裏)
 

明日30日(日)は、『調布布よさこい2015』
調布市のピンポイント天気予報は曇り。何とかもってほしい…。


千鳥ケ淵戦没者墓苑 -終戦の日に- 2014年8月15日

2015年08月14日 | マイ・ライフ in 調布市

千鳥ケ淵戦没者墓苑-終戦の日に-2014年8月15日正午の黙祷(昨年)


Taken on August 15, 2014 at 12:00 @ 千鳥ケ淵戦没者墓苑 六角堂


Taken on August 15, 2014 at 10:18


Taken on August 15, 2014 at 11:26


Taken on August 15, 2014 at 12:02 
フォーラム「平和・人権・環境」 社民党党首 吉田忠智氏ご挨拶


戦後70年の首相談話 閣議決定(NHKニュース)

政府は臨時閣議を開き、戦後70年にあたっての総理大臣談話を決定しました。談話は、いわゆる「村山談話」に使われた「侵略」や「お詫び」などの文言を用いながら、歴代政権の基本的立場を継承し、平和国家として積極的に国際貢献を行う方針を打ち出しているものとみられ、安倍総理大臣が午後6時から記者会見して発表することにしています。

政府は15日の「終戦の日」を前に、午後5時から臨時閣議を開き、戦後70年にあたっての総理大臣談話を決定しました。
談話は、いわゆる「村山談話」などでキーワードに位置づけられた「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」の4つの文言を、歴代政権の取り組みに触れるくだりなどで明記したうえで、歴代政権の基本的立場を継承し、平和国家として積極的に国際貢献を行う方針を打ち出しているものとみられ、安倍総理大臣が午後6時から記者会見して発表することにしています。
安倍総理大臣が14日に談話を発表する背景には、戦後70年となる「終戦の日」の15日は、全国戦没者追悼式が開かれ、天皇陛下がおことばを述べられることから、「静かな気持ちでその日を迎えたい」という意向があるものとみられます。
政府は、安倍総理大臣が談話を発表したあと、諸外国に真意が正確に伝わるよう速やかに英訳を発表するほか、中国語や韓国語の翻訳も公表することにしています。

(2015年8月14日17時27分)

 

 


阿修羅像(興福寺・国宝館) 「asu ra」-「生命・asuを与える・ra者」

2015年06月10日 | マイ・ライフ in 調布市

阿修羅像(興福寺・国宝館) 「asu ra」-「生命・asuを与える・ra者」 (梵語ぼんご・古代インド語)

興福寺・国宝館

興福寺・五重の塔 Taken on May 25, 2014 @ 11:02

興福寺の穏やか表情の阿修羅に惚れなおした日…。


日比谷公園のホセ・リサール博士像に勇気と力を…「マラミン・サラマッポ!Maraming Salamat po!」

2015年05月23日 | マイ・ライフ in 調布市

ホセ・リサール博士の日本滞在記念碑と胸像 in 日比谷公園

Dr. Jose Rizal's monument and bust in Hibiya Park, Tokyo

Taken on May 22, 2015 @ 12:17

 昨日22日、東京駅近くでの用事をすませた後、日比谷公園にある、フィリピンの英雄「ホセ・リサール博士」の日本滞在を記念とする碑と、ブロンズ製の胸像を探しに行きました。
 日比谷交差点から、日比谷公園を日比谷通り沿いに1~2分歩くと、すぐにその記念碑と胸像が見つかりました。感激…!ずっと、一度お訪ねしたいと思っていた場所でした。リサール博士は、マニラの私の古い親友(Eurasian・ユーロシアン)の高祖父様なのです。ようやく、ここへ来ることが出来ました…。

 

 ホセ・リサール博士(Dr. Jose Rizal・1861年6月19日~1896年12月30日)は、スペインからの独立運動に命を捧げた「フィリピン独立の父」、国民的英雄です。1888年2月に、現在の日比谷交差点付近にあった東京ホテルに滞在したことから、その場所に1961年6月19日に記念碑が設置されました。何と、ホセ・リサール博士、ご生誕100年の記念すべき特別な日に…です!

 リサール博士の胸像(上の部分)は、1998年5月8日に、フィリピン独立100周年を記念して作られたものです。

 

日比谷公園ホセ・リサール Jose Rizal 記念石碑

 実物大に作られたというこのブロンズ像、決して大きいとは感じられない胸像ですが、その端正なお顔立ちを眺めていて、大きな勇気と力を与えられたような気がしました。そして、フィリピンで15年間もロング・ステイさせていただいたことに、たくさんの方々に支えられてきたことに、自ずと感謝の念が湧いてきました。
「マラミン・サラマッポ!Maraming Salamat Po!」(本当に、ありがとうございます。)


(フィリピン独立100周年を記念して、ホセ・リサール博士の胸像が増設された。)

 1898年6月12日、「エミリオ・アギナルドーEmilio Aguinaldo」というフィリピン独立運動の指導者が、3百年以上続いたスペイン統治(植民地)に終止符を打つべく、フィリピンの独立を宣言しました。
 その前年1897年末、スペインとの和平協定を結んで香港に亡命、一旦は独立運動から離れたアギナルドでしたが、翌1898年2月に勃発した米西戦争(アメリカとスペインの利権争い)で事態が急変します。アメリカから、フィリピンの独立に全面協力することを条件に、米西戦争に協力するようにとの要請を受け入れたアギナルドは、米艦隊とともにフィリピンに帰国し独立運動を再開、この6月12日の独立宣言となったのでした。
 アギナルドは、その翌1899年1月にフィリピン共和国を樹立、初代大統領となりましたが、実はその1か月前にスペインとアメリカとの間で結ばれたパリ講和条約で、フィリピンの領有権がスペインからアメリカに、約2千万ドルで売却されていたのです。
 実質は、戦後1946年7月4日に第3次フィリピン共和国として独立するまで、アメリカの統治下(1942~1945年の3年間は旧日本軍の占領下)にあった訳ですが、フィリピン国民にとっては、その6月12日が「独立記念日-Araw ng Kalayaan(Independence Day)」として大切にされており(祝日)、毎年記念行事が盛大に行われています。現在の国旗と国歌も、その時にアギナルドの依頼によって作られたものです。

 そして、そのスペインからの独立運動の闘士として、フィリピンの国民的英雄とされているのが、「ホセ・リサール博士-Dr.Jose Rizal」です。
 スペインの圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状、諸問題を厳しく告発した『ノリ・メ・タンヘレ-Noli Me Tangere(我に触れるな)』(1987)と、『エル・フィリブステリスモ-El Filibusterismo(反対者)』(1891)の二つの著書は、フィリピン独立への気運を高め、自らも1892年に「フィリピン民族同盟」を設立して、フィリピン人の奮起を促そうとしますが、まもなくスペインに対する反逆罪で逮捕され、ミンダナオ島のダピタン(Dapitan)へ追放されました。その流刑の地にあってさえも、四年間、リサール博士は病院と学校を作り、住民の啓蒙に努めました。
「学校を苦痛の場所ではなく、知的な楽しみの場所にしよう。」「何よりもまず、子供たちに、自信、安心、自尊の心を教え込む事が大切だ。」また「私は大衆の福祉を愛する。だからこそ学校を建てるのだ。その幸福を、教育を手段として、順を追った前進によって私は追及していく。光のないところに道はない。」という、博士の強い意志で建てられたその学校で教わった生徒たちは、後に各方面でのリーダーとなり、博士の教えを周囲に伝授していったそうです。
 1896年7月、流刑生活が終わり、キューバでのスペイン軍医を志願してスペインに渡りましたが、フィリピンでは「カティプナン」による独立闘争が開始され、その扇動容疑でスペイン到着と同時に逮捕されてしまいます。マニラに送還され、サンチャゴ要塞(Fort_Santiago)に投獄の後、裁判により銃殺刑が宣告されます。
 1896年12月30日、「あけぼのを染めるのに紅がいるのなら、私の血で染めよ、頃よい時にまき散らし、さしのぼる君の光で金色に照らせ!」という言葉を残して処刑されました。
 アギナルドの独立宣言の1年半前のこと、享年35歳という若さでした。国内のみならず、アジアの民族運動にも影響を与えた方です。
フィイリピン独立記念日に…。(111周年)より-
(2009年6月12日 in アイ!サラマッポ in バギオ

 マニラのリサール博物館に展示されているこのお写真…。「Usui Seiko・臼井勢以子」さん(おせいさん)という方で、リサール博士が東京に来て恋に落ち、日本滞在を40日間にも延ばした、といいます。


Usui Seiko, A daughter of a powerful Samurai.
She was better known to Rizal as Osei-san.
(ホセ・リサール博物館 in Manila)

 名残惜しくも、そこを離れようとすると、何やらクラッシック音楽の生演奏が…。ワーグナー・Richard Wagnerの『ローエングリーン』の第2幕より…。ちょうど、日比谷公園内の野外小音楽堂で、東京消防庁音楽隊による都民コンサート(金曜コンサート)が開かれていました。

しばらく演奏を楽しませていただき、帰路に…。

 ちなみに、リサール博士は、おせいさんと日本での長きに渡る滞在を堪能された後、ドイツへと向かったとのことです。

(参考)当ブログより

ホセ・リサール博士ご生誕150周年のフィリピン独立記念日 in 2011
2011年6月12日 

フィリピンの英雄「ホセ・リサール博士」の日
2008年12月30日