日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

養老孟司氏が講演会で語ったイスラーム

2005年07月26日 06時35分27秒 | イベント
ヒジュラ暦1426年ジュマーダー・ッサーニヤ(6月)20日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)


 『バカの壁』、ずいぶん売れたよなあ。作者の養老孟司ってどんな人なんだ? 
 という興味もあって、先日、養老孟司氏の講演会に参加してきた。職場の研修の一環でもあるのだが。
 講演の中で、信仰としてのイスラーム(というよりは一神教全般だけど)のとらえ方とは違ったとらえ方を説明していたので紹介しておきたい。

■意識には「概念」と「感覚」の二つがあるんだって

  「概念」というのは似たモノ同士をグループ化する働きらしい。例えば、どのリンゴを見ても「あ、リンゴだ」とわかる脳内活動とかね。これは理屈の世界

 一方、「感覚」っていうのはストレートに目の前のことを捉える働きらしい。目の前のリンゴの姿を脳内で意識する個別化の活動なんだとか。こちらは直感の世界

 見ることについてだけでなく、聞くことに関しても同様らしい。
 例えば、どんな声の人が「リンゴ」と言っても、頭の中に「あの果物」が思い浮かぶのが「概念」。
 声を発した人の「リンゴ」という音をそのまま捉えるのが「感覚」。

 すると、猿とか他の動物は、「概念」という意識活動ができないからコトバを覚えられない。私が発する「リンゴ」という音と、アナタが発する「リンゴ」という音が同じモノを差していることが理解できないんだって。へぇ~。

■一神教の誕生

 農耕民族は、働けば働いただけ作物が取れるのが普通だから、頑張って働くし、労働に喜びを見出す。
 すると、ゴチャゴチャ考えるよりは、体で世界を捉える「感覚」の世界になっていく。

 一方、砂漠はいつでも食べ物があるわけではない。働いても食べ物が得られないこともある。
 となると、一生懸命働いても仕方ないので、ほどほどに食い物が得られれば良しとする。こういう所では、時間だけはいっぱいある。
 すると、ゴチャゴチャといろいろなことを考えるようになって「概念」の世界、要するに「リクツの世界」になっていく。

 で、「あれもリンゴ、これもリンゴ」と「あれも梨、これも梨」というのが合わさると、「あれもクダモノ、これもクダモノ」という風に、1個上の階層に「クダモノ」という概念が形成される。
 次に「あれもクダモノ、これもクダモノ」と「あれも花、これも花」を合わせると、「あれも植物、これも植物」という風に、さらに1個上の階層に「植物」という概念ができる。

 これを繰り返していくと、最終的には必ず「ただひとつ」に行き着く。それが「絶対者、神」なんだそうだ。ふむふむ。

 でも、グループ化の仕方って地域や人によって違うから、そこで必ず神学論争みたいのがおきるとか。
 「概念」というのはリクツだから、あんまりこれが支配的になると、人間は息苦しくなる。
 すると、「感覚」の方に揺り返しが来て、ガリレオのように「じゃあ、重い玉と軽い玉、どっちが先に地面に落っこちるか、ピサの斜塔から実際に落としてみようじゃねえか」という、感覚的な人、「実際にやってみよう」派の人が出てくるんだって。
 こういう「とりあえず実験してみようぜ」みたいなのが自然科学。

 「自然科学は、理屈に走りすぎて窮屈になった中世キリスト教社会の解毒剤」なんて、ちょっと過激なこと言っていたな。

 でも、今度は自然科学が行き過ぎると、逆の揺り返しで、「概念」である一神教が息を吹き返したりするんだとか。

 イスラームも一神教だから、このような経過を経て、アラビア半島で成立した宗教ということになる。
 そして、自然科学に対する揺り返しが各地で起こっているのが、原理主義(キリスト教側の言い方だけど)や、復古主義などの動きということになるらしい。

■日本でイスラームがあまり広まらないワケ

  となると、「感覚の世界」の日本では、「概念の世界」である一神教はなかなかなじまない
 「あーしろ、こーしろ」といちいち細かくゴチャゴチャ言われたり、神学やらシャリーアやらの理屈をこねられるよりは、自然に向かって無心で手を合わせる方が、日本人の性に合っている…ということになる。

 たしかに宗教的なとらえ方ではないけど、勉強になる。養老孟司氏は「悪口ではなく理屈です」と断ってから説明していた。キチンとした人なのだ。

 文章力の欠如のため、あまり面白くなかったかもしれないけど、講演会そのものは、養老孟司氏の話術の巧みさもあって、たいへん面白かった。
 ここでは書けない、オフレコなことを聞けるのも講演会の魅力だしね。