日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

ハリリ前首相暗殺現場とアル・アミン・モスク

2005年12月27日 06時12分02秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)24日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

新築された、アル・アミン・モスク。パヴィルヨン式(トルコ式)で大変美しく、他のどの宗教施設よりも大きい。

 中東ヘロヘロ紀行の最後の訪問地は、ベイルートのアル・アミン・モスクだった。


 ここには、2005年2月14日に、暗殺された、ラフィク・ハリリ前首相の遺体が安置されている。


 昨日も少し触れたが、ハリリ前首相は、レバノン内乱終了後にサウジアラビアから帰国し、自らが筆頭株主を務めるソリダール社を使って、レバノンを復興した。


 一方、シリア軍は内乱終了後もレバノンに駐留を続け、内政にも強く干渉し続けた。
 2004年9月2日には、国連安保理が「レバノンからの外国軍の即時撤退要求」を採択。外国軍という表現を使っているものの、該当するのはシリア軍しかない。しかしシリア軍は撤退しなかった。
 
 2004年10月、親シリア派のラフード大統領が憲法を改正し、自分の任期を延長。ハリリはこれに抗議するために首相を辞任。その後も、シリア軍の撤退を主張した。



 そして運命の2005年2月14日。


 ハリリ前首相は、4名の警察官、12人の護衛を乗せた6台の車列で、ベイルート市内を移動していた。
 ハリリ前首相の乗った車は、当時世界最高レベルのテロ対策を施したものであった。
 窓ガラスは世界最高レベルの防弾能力を持ち、レーダーで爆発物をキャッチして未然に避ける性能を備えていた。


 にもかかわらず、セント・ジョージ・ホテル前を通過した瞬間、車は大爆発を起こし、ハリリ前首相と7人の護衛、巻き添えになった12人の市民が死んだ。(写真の赤い星印が爆発した場所)


 この事件には、シリアの関与が疑われており、現在も国連の独立調査委員会が調査中である。
 これをきっかけに、レバノン国民は大団結をし、シリア軍駐留反対デモを各地で繰り返した。そしてついに4月26日にシリア軍が完全撤退。


 
反シリアの大デモの様子(左)と、アル・アミン・モスク前に描かれたハリリ前首相(右)。


 
アル・アミン・モスクに入ってすぐの所に、ハリリ前首相の棺が安置されていた。


 アル・アミン・モスクの中に設置された、ハリリ首相の安置所で遺影に手を合わせた。
 「ハリリ氏が天国へ行けますように。レバノンに平和を。そして世界に平和を」
 そう願った後、帰国便に乗るべく空港に向かった。

ナジュム広場のカフェに残された、「ハリリ前首相の最後の足跡」。
車に乗る直前のもの。金属板で保護されている。

諸宗教の施設が集う、ベイルートのナジュム広場

2005年12月26日 17時26分20秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)23日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

ナジュム広場の中央あたり。ヨーロッパっぽい雰囲気が漂う。

 
 レバノンは、地中海とレバノン山脈に挟まれた平地が回廊のようになっており、ここを多くの民族が往来した(地図上の黄色い矢印参照)。
 かのアレクサンドロス大王もここを通っていった。


 それと同時に、山がちの地形は、迫害された宗教の信者たちが身を隠すには適した場所だった。
 その結果、レバノンにはさまざまな宗教が共存することとなった。


 そのレバノンは1975年から1990年まで内乱で荒廃した。レバノンに逃げ込んだパレスチナ人が、レバノンからイスラエルに向かって攻撃を加えたことがきっかけになったという。


 イスラエルはレバノンに報復攻撃をした。この攻撃に対し、レバノン国内のキリスト教徒は、イスラム教徒を非難した。「お前たちのせいだ!」
 こうして対外的にはイスラエルと戦いつつ、国内ではキリスト教徒とイスラム教徒が内乱を演じることとなった。


 結局、シリア軍の援助(介入?)もあって、長い争乱は終わったが、国は荒れた。そんな中、救世主として登場してきたのが、ラフィク・ハリリ率いる、大手ゼネコン、ソリダール社だった。


 ハリリはサウジアラビアで興した建設業で成功を収め、サウジアラビア国籍を取得していたが、レバノン内乱終了後、祖国に戻り、首相に就任。急ピッチでレバノンは復興していった。


 ベイルートの中心地、ナジュム広場(アラビア語で「星」の意味。フランス語でエトワール広場とも言う)には、宗教共存の願いを込めて多くの宗教施設が再建されていった。


 残念ながら2005年2月14日、ハリリ首相は暗殺された(詳細は次回)。しかし、この広場が宗教共存のシンボルとなることを、そして平和のシンボルとなることをレバノンの人々は願っている。
古代遺跡も混在。ローマ公衆浴場跡。ギリシアカトリックの聖エリアス教会。
アル・アミン・モスクとキリスト教マロン派の聖ジョージ教会が並ぶ。ギリシア正教の聖ゲオルギオス教会。




 ギリシア正教の聖ゲオルギオス教会の内部。内乱で銃弾の穴だらけになった壁画が修復されていた。

 
 ただし、イエス(イーサー。彼の上に平安あれ)の絵だけは、わざと銃弾の痕跡を残したままにしてある。(左の写真では入り口のすぐ左の人物。右の写真は拡大)


 人類の罪を贖うために犠牲になったという、キリスト教の教義に、銃弾を受けたイエスの姿をだぶらせている。


 アル・アミン・モスクの近くには、アルメニアカトリックの聖テリウ教会もあった。

ベイルートの「犬の川」で子猫にメロメロ

2005年12月22日 08時25分08秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)20日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

「犬の川(ニフル・アル・カルブ)」なのに、子猫が住んでいた。しかもかわいい。

 ベイルート郊外には「犬の川」と呼ばれる場所がある。実際に行ってみると、川は無い(近くにはあるけど)。
 昔は川だったらしい。その川岸の崖に、侵入者・征服者たちが、この土地の攻略の難しさだの、征服した記録だのを残していったため、碑文がたくさん残っている。 
 現在では、幹線道路の横っちょの崖っぷちに、それらの碑文が保存され、それ以外は舗装されている。


 たとえば、紀元前のアッシリア軍が「あー、もう、何なんだよ、ここは!? 攻めにくくてしょうがねーじゃねーか!」とか、


 ローマ時代の将軍が「ここ攻めるの大変。もう、プンプン!(さとう珠緒風)」とか、

 
 19世紀にナポレオン3世が「この土地、わしがもらったもんね」とか、とにかく、いろいろな文字でいろいろなことがごちゃごちゃ刻まれている。


 しかし、腹が痛くて、写真を撮る気力が無い。もう、観光はいいから早くトイレのある場所へ行きましょうぜ…という気持ち。


 そのとき、私の目に一筋の光が!!!!


 道路っぷちのちいさな穴から子猫がひょこひょこ顔を出したり、引っ込めたりしている。そのプリティな姿に私はのけぞった。しかも足先が白い! これは私の好きなタイプである。ひー、たまらん!!


 腹痛や観光はどこへやら、夢中で子猫の写真を撮り続けた。

 
 ということで、「犬の川」に残る碑文などの写真は一切無く、私にとってここは「猫の穴」という印象しか残っていないのである。  


さすが「中東のスイス」と呼ばれた美しさ

2005年12月21日 19時22分33秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)19日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

青い地中海に浮かぶ「鳩の岩」。子供が飛び込んだりして遊ぶらしいが、危なすぎないか?

 いよいよ、観光も最終日だ。
 さて、レバノンでは、写真撮影ができない観光地が多い。
 レバノン国立博物館は、内戦後に建て直し、金属探知器なども完備した、大変に美しい博物館である。
 展示品も素晴らしいし、ショップも素晴らしい。しかし写真撮影はできない。それ以上に驚いたのは、トイレが無い。新しい建物なのに、なぜトイレくらい作らなかったのか? しかも、私は激しい下痢の真っ最中だというのに。
 腹が「ゴロゴロ」というサインを発するたびに、美術館を出て、近くのプレハブトイレまで行き、用が済むと半券を見せて金属探知器をくぐって再入場…ということを何回繰り返したことか。 
作れよ、トイレ!!


 さらに、ジェイダの洞窟も写真撮影禁止である。『地球の歩き方』などでは、非常に軽々しい扱いを受けているが、この洞窟は素晴らしい。
 日本でいうと、岩手県の龍泉洞がスケールアップしたような感じか?
 外のクソ暑さに比べて、ひんやり涼しいし、通路を歩いていると、遙か下方に、美しい紺碧の地底湖が見えたりする。
 ボートに乗っての地底湖探検(と言っても15分くらい)もできる。こんなに美しいのだから、写真くらい撮らせてくれればいいのに。


 などと、写真にこだわるあたり、私も立派な日本人パッケージツーリストである。美しいものは自分の心の中に刻み込めばそれでよいという境地にはまだほど遠い。
ベイルートのアメリカン大学。地中海沿いの道。

夜のベイルート、コルニッシュ海岸散策

2005年12月18日 06時13分14秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)16日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

夜のコルニッシュ海岸。背景のマクドナルドがとてもくどい。

 いよいよ中東ヘロヘロ紀行も最後の夜を迎えた。疲れと腹痛で、本当にヘロヘロである。


 でも、せっかく最後の夜なので、地元の人も集まる、コルニッシュ海岸へ繰り出す。添乗員さんを含め、7人のグループ。


 レバノンは一応、キリスト教国ということになっているためか(実際はイスラーム教徒の方が少し多い)、欧米の都市と雰囲気がほとんど変わらない。
 マクドナルドがあり、ハードロックカフェがあり、アメリカ資本のホテルが並ぶ。違うのは、内乱の傷跡が各地に残っていることだ。廃業したホテルに開いた、多くの砲弾の跡とか。


 2005年2月の、ハリリ前首相の暗殺現場も訪れた。この件については、後日改めて触れるつもりだ。


 フェニキアホテルでは、結婚披露パーティーが開かれていた。背中が大きく開いたドレスを着た女性が、男性と一緒に歩いている姿を見ると「ああ、ここはイスラーム圏ではないな。少なくともベイルートは」と感じる。


 夜遅かったので、ショップは閉まっていたが、絨毯屋さんがパンフレットを3冊くれた(全部同じもの)。オールカラーでアート紙への印刷なので、なかなか美しい。ちょっと、うれしい気分になってホテルに帰ってきた。さて、明日は帰国だ。
世界の至る所に存在するハードロックカフェ。派手にライトアップされたモスク。
屋台で売っていたパンを食べる。うまい。果物やお菓子なども海岸沿いで売っている。


テロ組織といわれる「ヒズボラ」との接近遭遇

2005年12月14日 20時15分50秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)12日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

ヒズボラの劇場。「レバノンの自由への抵抗展」というイベントをやっていた。

 レバノンには、ヒズボラ(またはヘズボラ)という、イスラーム・シーア派の組織がある。世界的にはテロ組織として認識されているようだ。
 どんな見方をされているかは、私のもう一つのブログ「イスラム関係ニュースの倉庫」(一週間に一度程度まとめて更新)の検索機能で「ヒズボラ」を検索してもらうと、多少わかって頂けるのではないかと思う。具体的には次のような感じで記述されている(記事の一部)。
9/28イランの核技術がヒズボラ、ハマスなどの過激組織に渡る恐れがある
10/7米政府は、イスラエルの占領に対する武装闘争をしてきたレバノンのシーア派組織ヒズボラへの支援を「テロ支援」とみなしてきた。
10/7ブレア英首相は、イランか、レバノンで活動するイスラム原理主義組織ヒズボラが、イラクで使用されている高性能の路肩爆弾を供給していることを複数の根拠が示している、と述べた。
10/27(レバノンからの外国軍撤退に関する)報告書は、米国がテロ組織と認定し、安保理決議で武装解除が要求されているイスラム教シーア派組織ヒズボラについては、なお多数のロケット弾などを保有する現状を挙げて武装解除を重ねて要求した。
11/22レバノン国境でイスラエル軍とヒズボラ交戦、6人死亡‎


 そんでもって、アメリカの国務省からはテロ組織として認定されている。ちなみに、日本のオウム真理教も米国務省からテロ組織と認定されており、そう考えると、ヒズボラというのもとても危険な組織ということになる。


 平将門さんという方が作られている「叛乱on line」というサイトの、「合衆国国務省 海外テロ組織に関する背景情報」の中に、「ヘズボラ」として紹介されており、ありがたいことにリンク・引用自由ということなので、ここに「ヒズボラとは何か?」ということを転載させていただく。
名  称ヒズボラ(神の党)
別  名・イスラム・ジハード
・イスラム・ジハード組織
・革命的審判組織
・世界被圧制者組織
・パレスチナ解放のためのイスラム・ジハード
・悪に対する正義の組織
・アンサル・アッラー
・預言者ムハンマドの弟子
解  説レバノンで結成された急進的シーア派組織。イラン型イスラム共和国をレバノンに建国し、非イスラム的影響をその地域から除くことを中心とする。強く反西洋的・反イスラエル的。イランと密接に同盟し、しばしば指示を受けているが、テヘランが認めていない行動も行なってきたようだ。
活  動数々の反米テロ攻撃に関与したことが知られている、あるいは疑われている。1983年10月、ベイルートの米海兵隊兵舎、1984年9月のベイルートでの合衆国大使館別館への自殺トラック攻撃など。グループの一部は、レバノン国内における合衆国その他の西洋人の拉致監禁に関与していた。グループは1992年、アルゼンチンでイスラエル大使館も攻撃した。
勢  力数千人。
活動地域ベッカ渓谷、ベイルート南部郊外、南部レバノンで行動する。ヨーロッパ、アフリカ、南アメリカ、北アメリカその他に支部を設立。
外部支援イランとシリアから財政、訓練、武器、爆発物、政治的、外交的、組織的支援を相当受けている。


 そのヒズボラが、バールベック遺跡の隣の建物で、展覧会&ショーをやっていた。


「ひぇ~っ! テロ組織が町中で堂々と活動している」


と思って驚いたが、ヒズボラはレバノン国内では政党を組織しており、国会議員まで出している、れっきとした合法組織なのだ。
 いったいどのような展示を行い、どのようなショーを繰り広げるのか興味は尽きなかったが、ツアーでそんなものを見るわけにはいかないようで、あっさりと通り過ぎた。そもそもコースに入っていなかったし。


 しかし、ヒズボラ直営の土産物屋があったので、店の親父と話し込み、ヒズボラのTシャツを買うことにした。下の写真のように、前面は左胸にヒズボラのマーク、背面は全面的にヒズボラのマークがあしらってある。
 このTシャツ、普段着ていて大丈夫なんだろうか?
  

 日本円で約800円程度で購入したのだが、なかなかおつりを持ってこない。「他の土産も見てみんか?」とか「茶を一杯どうだ?」という感じで、時間を引き延ばす。それがアラブのホスピタリティと言われりゃそれまでなんだが、こちらはツアーだし、バスの出発時間が迫っているので余裕が無い。
 「うむ、仕方ない。一発かますか」と思い、


「この野郎! さっさとつりを持ってこいと言ってるんだ! つりを持ってこないならTシャツはいらん。金を全額返せ! 金を返さないのなら、ただではおかん。私は日本のカラテ・マスターだ! おまえら全員地獄へ行きたいか!?」(と、カタコトの英語で啖呵を切った)


 すると、店員一同、おおいに驚き、すぐにおつりを持ってきた。しかも500円ほどにまけてくれた。
 そして年配の店員が小声でひとこと。「君、ヒズボラに入らないか?」
 外国人観光客を勧誘するんじゃない! 入ってどうするんだ!?


 急いでツアーのバスに戻り、添乗員さんにことの顛末を話すと


「良かったじゃないですか。Tシャツ売ったお金も銃弾代くらいにはなるからヒズボラも助かりますよ」


と淡々と言われた。
 この国も、添乗員もただ者ではないと改めて思い知った。
 私の払ったTシャツ代が銃弾なんぞに化けないように祈るばかりである。

腹痛かかえてバールベック・5

2005年12月13日 07時55分11秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)11日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

バールベックの、まだ発掘・公開されていないエリア。ヴィーナス神殿跡。

 バールベック遺跡の見学も終わり、「シャハラザード」というレストランで昼食をとった。左下の写真は、レストランから遺跡の全景を眺めたところ。
 なぜか、私以外にも腹を壊す人が続出して、みんな代わる代わるトイレに行っていた。


 右下の写真は、石切場。エジプトのアスワンにも「切りかけのオベリスク」という、切り出す途中のままの巨大な石があるが、こちらは途中の上、なぜか傾いている。なぜ、このような形で残されたのか?
 長さは21.5m、幅は4.8m、高さは4.2m。先端にはレバノン国旗が立ててあって、登った人はみな、レバノン国旗を持って写真に収まる。
 まあ、何にしても無事にバールベック観光が終わって良かった、良かった。


腹痛かかえてバールベック・4

2005年12月10日 23時50分52秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)8日 ヤウム・サブティ(土曜日)

バッカス神殿の回廊の天井。ギリシア時代の権力者や有力者のレリーフが観光客を見下ろす。ちょっとコワイ。

 様々なレリーフにあふれたバッカス神殿を出た。
 そして、ジュピター神殿の土台をそのまま利用したという地下博物館へ。ひんやりしていて、気持ちいいなあ…と思ったら、また腹が痛くなってきた。 
 展示品や展示図は素晴らしいし、写真撮影もOKなのだが、例によってパンフレットやガイドが無い。写真は暗くて写りにくい。デジカメでさえ光が拾えないくらいの暗さだ。
 参ったなあ、もうー! と思いながらバールベック遺跡を後にした。
クレオパトラではないかと言われているレリーフ。実物も横向き。ジュピター神殿跡の丘から見下ろした、バッカス神殿全景。反対側に入り口がある。

ジュピター神殿の基壇の下に広がる空間を利用した博物館。遺構をそのまま利用。とても涼しい。

腹痛かかえてバールベック・3

2005年12月09日 19時20分07秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)7日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

バッカス神殿入り口。33段の階段。現在でも、ここで野外コンサートをおこなったりする。

 バールベックはギリシアの神々の神殿として作られ、ビザンチン教会堂となり、アラブの要塞になるという変化をした。


 そのため、ジュピター神殿、ヴィーナス神殿、バッカス神殿などという名称が遺跡につけられており、バッカス神殿などは、偶像崇拝の名残があっちゃこっちゃに散りばめられている。


  
 たとえば、上の写真は、バッカス神殿入り口の門を下から見上げたところだが、天使と鷲のレリーフが残っている(全然わからないかもしれないね)。
 その下の写真はバッカス神殿の内部。一番奥にある祭壇には、かつては司祭しか登れなかったが、現在では私のような一般旅行者も鼻歌を歌いながら、スキップなんぞをして気楽に登れる。



 アラブの要塞時代からさらに時が経ち、オスマン帝国時代の1888年には、ドイツ・トルコ協約が結ばれ、このバッカス神殿にも記念碑が設置された(左の写真)。


 ときは、第一次世界大戦前夜、イスラームの力が衰え、ヨーロッパ列強が台頭してきた頃の話である。


 ドイツにしてみれば、3B政策(ベルリン…バグダード…ビザンティウムを結ぶライン。日本以外ではあまり使われない歴史用語)への足がかりだったんだろう。


 この小さく古い神殿が、ギリシアの昔から近代までの、長い歴史の舞台であったことに感動を覚えた。そして感動のあまりしばし腹痛を忘れることができたのだった。

ドイツ帝国皇帝:ヴィルヘルム2世の紋章。(在位 1888-1918)オスマン帝国スルタン:アブデュルハミト2世の(※)トゥグラー。(在位 1876-1909)

※トゥグラー:公文書・軍旗・碑文などに記される、スルタンの印。スルタン本人の名前に、父の名前、尊称などを加えてアラビア語で表記し、デザイン化する。
 左側が丸く、上に複数の線が伸び、右側には右下がりの線があしらわれるのがパターン。日本の将軍なども使った「花押(かおう)」と似たようなもの。

腹痛かかえてバールベック・2

2005年12月08日 22時34分11秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)6日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

ジュピター神殿跡に残る6本の柱と、ライオンの頭の形をした雨落とし穴。

 ビーナス神殿だの、ジュピター神殿だのあるわけだから、ここも当然、ローマ時代からの遺跡である。

 ジュピター神殿跡には現在6本の柱が残り、とても世界遺産チックな雰囲気を醸し出している。
 この柱は一本20mあるらしい。現地で1ドルで買った、日本語の小冊子『バールベック 神の楽園 バールベックの歴史』(著者、出版元不明、全79ページ)によると、


「ギリシアのアテネのパルテノン神殿ですら柱の長さが7.31mだから、バールベックのジュピター神殿はすげえだろ!」


 という、あからさまな自慢が書いてある。「あれ? パルテノン神殿ってそんなもんだったっけ?」という疑問は浮かぶ。でも面倒くさいので、後で調べることにする。
 確かに、左の写真を見てもらうとわかるが、柱の土台は相当デカイ。
 ついでに、転がっていた柱のくぼんだ部分にパンチをするという、ベタなポーズも決めてみたが、やはりデカイ。



 

 世界各地のローマ遺跡などで、このようなデカイ柱を見たときにいつも思うことがある。


「これがちくわだったら、すげえな」 


 まともな言葉を期待していたみなさんには申し訳ない限りである。「くだらんこと考えるんじゃない! バカモノ!」という声が聞こえてきそうである。
 でも、こんなデカイちくわがあったらスゴイでしょ?(←まだ言うか)

 
 ライオンの頭も好きである。子供の頃からライオン風呂とか憧れていたし。
 大学のサークルの飲み会で、口から水をダラーッと垂らして「ライオン風呂!」という一発芸をやったら、しばらく後輩の女の子が口をきいてくれなくなったという苦い思い出があるものの、やはりライオンの頭はいい。あれは若気の至りだった。


 従って冒頭の「遺跡の柱+ライオンの頭」という写真は、私的にはガッツポーズものである。しかもライオンがとてもきれいだ(右下の写真)。
 ところが、同じライオンの頭でも、左下の写真のようになるとアウトである。これは、伊豆の某公園の入り口にあるライオン流水口だが、掃除していないんだかなんだかわからないが、「オェ~、ゲロゲロゲー!」という、とてもバッチイ雰囲気になってしまっている。公園が美しいだけに余計に残念だ。なんとかしろよ、バガデル公園(あ、言っちゃった)。