日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ④

2006年01月31日 23時21分51秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)1日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

 職場の合併も決まり、主宰する道場の合併も決まり、落ち着かない日々が続く。違った価値観やスタイルを持った二つの団体が一つになるのだから、さまざまな調整をしなくてはならない。
 自分の日常でも「誤差を縮める努力」がなされている。

※イスラム教徒以外の方にも結構このブログを読んでいただいていることがわかったので、アラビア語や専門用語はできるだけ使わないことにしています。

【そもそもイスラムは完全なのかについて】

 「全体と部分について」では、イスラムの目指す方向性は、人類をひとり残らずイスラム教徒にすることではないと述べた。
 多様な価値観が渦巻く世界で、「イスラムはすばらしいから改宗しろ」と強く言えばいうほど、相手の気持ちは逆に離れてゆく。気持ちが離れればお互いの排除へとつながっていく。
 
 だから、「誤差を縮める努力」が必要なのだ。相手と自分の違いを縮めることで、共存のための新たな枠組みを作っていく(「妥協」とか「弁証法」という言葉はあえて使わない)。それが排除を避ける道である。

 ところで、イスラムと非イスラムの関係を見てきたが、そもそもイスラムは完全なのだろうか? 答えは「否」である。
 アッラーやクルアーンが完全であっても、人間は完全ではない。完全ではない人間の営みであるイスラムの枠組みが完全であるわけがない。

 ウマイヤ朝の末期には、「こんなにヒドイ世の中がアッラーの意思であるわけがない」という考えから、天命やアッラーの存在自体に疑問が投げかけられた。

 11~12世紀の大学者ガザーリーは、そもそもイスラムの信仰と不信仰の境目がどこなのかに大いに悩み抜いた。

 法学者が法解釈(イジュティハード)を行う際、誤りは許されている。間違った解釈を行ってもアッラーから報奨は与えられるし、正しい解釈を行えば二倍の報奨を与えられる。
 それゆえ、法学者も間違いを恐れることなく法解釈をおこなってきた。
 法学者であっても完全ではないことの証左だ。

 新しい事象が現れれば、それについて解釈し、*1)五つの規範のどれにあてはまるのかを決めていかなければならないが、法学者によって解釈が違うことだってあるし、共通の解釈が定まるまで数世紀かかることだってある。例えばコーヒーだって認められるまでに2世紀以上もかかった。

 ベリーダンスについて、エジプトなどの法学者がどのような解釈を出しているのか寡聞にして知らないが、あるいは「許容」くらいはされている可能性はないのか?(さすがに無いか…)
 もし「禁止」や「忌避」だとしたら、なぜこれほどまでにベリーダンスはエジプトで受け入れられてきたのか?

クルアーン第2章:第173節
 かれがあなたがたに、(食べることを)禁じられるものは、死肉、血、豚肉、およびアッラー以外(の名)で供えられたものである。
だが、故意に違反せず、また法を越えず必要に迫られた場合は罪にはならない。アッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。

 豚肉や死肉でさえ、必要に迫られた場合は罪にならない。ベリーダンスはそれより重いのだろうか?

 クルアーン、ハディース、アラビア語、類推の手順などに精通した法学者でも誤りを犯す。ましてや一般のイスラム教徒が「完全なイスラム」などを実践できるわけもない。
ブハーリーのハディースの最初の方にも次のような言葉が出てくる。

信仰の書:29-(1)
 アブー・フライラによると、預言者は「イスラームは行うに易しい教えであるから、掟を守るのにあまり厳格にならぬよう。さもなければ、人は耐えられない。それで正しい方向を目指し、完全に近づくようつとめ、よい報いを望み、朝の祈り、夕の祈り、そしていくばくかの夜の祈りに助けを求めよ」と言った。
(『ハディース イスラーム伝承集成』全6巻、牧野信也訳、中公文庫)
 

 完全を求める態度は狂気をもたらす可能性もある。
 例えば、第4代正統カリフのアリーがウマイヤ家のムアーウィヤと争った末に、カリフ位についてムアーウィヤと交渉しようとしたときのこともそうだ。
 アリーの熱烈な信望者の一部は、正しいと信じていたアリーが、反逆者と交渉をすることになったことに腹を立てて、アリーのもとを去った。
 そして結果的彼らがしたことはアリーの暗殺ではないか。
 正しさとか完全を求めるあまり、イスラム初期のあれほど重要な人物をこの世から消してしまった。

 考えてみれば、「正しくない世の中が許せない。宗教的に完全にただしい世界を作る」という理想に燃えてテロに身を投じたイスラム教徒だっているだろう。

 人間は、アッラーによって不完全に作られている。自分自身を向上させるために完全を目指すのは構わないが、自分が完全になったと思いこめば(勘違いすれば)必ずひずみが生じてくるだろう。

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    *1)五つの規範 
  • ①義務…やらなければならない(ワージブ)
  • ②推奨…やった方がよい(マンドゥーブ)
  • ③許容…やってもよい(ムバーフ)
  • ④忌避…やらない方がよい(マクルーフ)
  • ⑤禁止…やってはいけない(マフズール、またはハラーム)

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? 〔小休止〕

2006年01月30日 23時01分13秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)29日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

 コメントを寄せてくださったみなさま、ありがとうございます。
 本当は毎日、その日のうちに返信コメントをしなくてはならないのですが、現在、記事本文を書くことでいっぱいいっぱいです。
 浅薄な知識を絞り出しつつ、怪しげな理屈を無理矢理組み立てているので、脳みそに余裕がありません。
 後日、少しずつコメントをお返ししますので、今はお許しください。

 で、Amaniのブログと私のブログに寄せられたコメントをちょっと整理しておきます。だいたい次の3種類のご意見に分類できるのではないでしょうか?

①イスラムのことはよくわからないけれど、ベリーダンスという芸術は素晴らしい。

②ムスリマがベリーダンスをやるのは良くないから、すぐにやめるべきだ。

③ムスリマがベリーダンスをやるのは良くないが、すぐやめる必要はない。


 論点は「ムスリマがベリーダンスをすることの可否」なので、①は意見としては尊重するけれど、議論からは外す。
 
 本当は、「ベリーダンスは大好きだけど、イスラムはうざったくて大嫌い」という意見もあるんじゃないかな? 
 私自身はそういう意見を書き込んでもらっても全然かまわないんだけれど、さすがにおおっぴらには書きづらいよね。
 どっちにしろ、これも論点からは外れる。

 ②は、今回の論争(私が勝手に突っ走っているだけという気もするけど)のきっかけとなったコメント。削除されてしまったのが惜しい。

 ③は、「いずれやめるかもしれないし、無いかもしれない。でも、少なくとも今はやめない」というニュアンス。

 結局、②か③かという二者択一なので、単純にいえば私は③を支持している。結果的に、ムスリマが一生ベリーダンサーを続けてもいいんじゃないの? と、思っている。ただし、ベリーダンスが「禁止(ハラーム)」か「忌避(マクルーフ)」かどっちかだとは思う。どっちかということすら知らなくてゴメンなさい。
 肌を見せているから禁止なのかな?

 ②については、「イスラムかダンスか?」と迫られているようで、西洋的偏見の言葉「イスラムか剣か?」みたいでいやな感じがする。

 それだけ言えばいいのかもしれないけれど、「ではなぜ③なのか?」を屁理屈をこねくりながら大げさにタラタラ綴っている次第。

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ③

2006年01月29日 23時57分32秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)28日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

 仕事、その他で時間があまり取れず、雑駁な文章になる可能性があるが、とにかく書こう。

 昨日の話から直接続くわけではないので、「なぜ急にこういう展開?」と思われるだろうけど、最後の方で全てがつながっていく「予定」である。
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【アッラーの完全性と被造物の不完全性について】

第6章:家畜章〔アル・アンアーム〕第96節 
 彼は、夜明けを打ち開く方であり、また休息のために夜を定め、太陽と月を計算のために置かれる。それが、偉力ならびなく全知であられる方の摂理である。

 アッラーがその気になれば一年間(太陽年)を365日ピッタリにすることだって可能だったはずだ。ところが、実際の一年間は365.2422日である。
 (暦の)計算のために太陽と月を置かれたのなら、365日ピッタリの方が人間にとっては計算しやすかったはずだ。しかし太陽と月ですら完全には作られなかった。

 完全なるアッラーは、あらゆる被造物を完全なものとされなかった。とうてい人間など完全であるはずがない。

 ここで、「不完全な人間が、不完全な人間を諫めたりする権利は無い。ゆえに、ベリーダンスをやめてイスラムの勉強をしろという権利は無い」と開き直るというテもある。でも、そういう安易なことはやめておく。
 では、どういう展開に持って行くか? 

 なぜアッラーは完全なものを作られなかったのかを考えてみたい。

 断っておくが、これはイスラムの教義に新たな解釈を付け加えようとか大それた試みをしようとしているわけではない。ただ、自分がイスラムとどう関わるのかの立脚点をきちんと自覚しておきたいだけだ。
  
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【誤差を縮める努力について】

 アッラーが人間に完全なものを与えなかった理由は、人間に「誤差を縮める努力」をさせるためだと思う。
 「理想と現実」「理論と現実」など、世の中にはさまざまなギャップや誤差というものがある。それを縮めようとするところに進歩が生まれる。

 「現実の一年間の長さ」と「暦としての一年間」を合わすために、人間は長い年月をかけて多大な努力をしてきた。
 現在使われている暦でも100%完全なものはない。しかし完全でなくても人間は実生活の中で暦を便利に使っている。

 ロケットだって、軌道計算の際に完全な数字を出さなくても、微分で限りなく近似値を出して行けば、ある時点で飛ばすことが可能らしい。これも誤差を縮める努力が生み出した成果だ。‎ 

 クルアーンやハディースの解釈も、さまざまな誤差を縮めるために続けれてきた不断の努力なのではないか?

 聖預言者(SAS)を通じてアッラーの意思を直接に知ることができた理想の時代は1400年も前に終わった。
 
 その後は、「不完全な現実」が続き、クルアーンやハディースの解釈によって、「理想と現実」の誤差を縮める努力が連綿と続けられてきた。

 「礼拝は必要ない」とか「断食はやらない方がいい」などとムチャなことを言うムスリムはいない(たぶん)。基本的な部分は時代が変わっても変化しない。

 しかし、細かい点では、時代とともに変わりゆく現実と理想をどうすりあわせていくのかさまざまな解釈が生まれてきた。これもまた誤差を縮める努力。

 そして、イスラムの危機の時代には、「あるべき理想」と「苦難の現実」という誤差がなぜ拡大してしまったのかを考え、その誤差を縮める努力をしてきたのではないのか?

 16世紀のようにイスラム色が世界に強く漂った時代もあれば、19世紀のように列強に対して劣勢になった時代もある。平坦でない道のりの先端に今がある。

 現在、トルコはEUへの加盟を希望し、サウジアラビアにはキリスト教の軍隊が駐留し、エジプトでは古代の神々の偶像が売られている。理想と現実の誤差はずいぶん開いているようだ。
 それらの現象を単純に「イスラムの信仰に照らし合わせてけしからん」と言い切ることは簡単だ。でも単に批判だけでいいのか? 
 歴史の中で、なぜそうなったのかという背景は考えておきたい。
 そして、ベリーダンスが、イスラムを標榜する国家の中で生き残ってきたことも同じ文脈の中で考えてみたいと思う。

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 それにしても、自分の理想とするムスリム像と、現実の自分の誤差はあまりに大きい。それを縮めるための努力はしていきたいと思っている。
 でも…現実はキビシーね。なんだか昨日と同じような終わり方だなあ。


 ここまで読まれた方、昨日以上に面倒くさかったと思います。本当にお疲れ様でした。

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ②

2006年01月28日 11時23分05秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)27日 ヤウム・サブティ(土曜日)

 ええと、昨日は中途半端なところで終わってしまった。仕切り直しでこちら↓から。

【全体と部分ということについて】

 数学が苦手だったクセに、集合論みたいなことを書く。
 全体と部分の関係については、次の二種類がある。

 ①「鳥類は動物である」
 ②「日本は国である」


 ①については「ゆえに鳩は動物である」とか「ゆえにカラスは動物である」ということが成り立つ。
 ②については「ゆえに神奈川県は国である」とか「ゆえに東京都は国である」ということは成り立たない。

 全体と部分(構成要素)の関係が異なるためだ。

 ①は構成要素ひとつひとつについての規定が全体の規定となっている。
 ②は構成要素ひとつひとつではなく、それらを全体として捉えたときの規定となっている。

 なぜこのようなことを書いたかと言えば、ある宗教のめざすべき道が①か②かによって、その宗教と世界の関わり方が変わってくるからだ。

 めざすべき道が①の場合はこうなる。

「人類は○○教徒である」 

 複数の宗教がこの方向性を目指した場合、宗教共存は危うい。もっと言えば世界平和を危うくする可能性が強い。
 人類がひとり残らず○○教徒になることを目指すのだから、方法としては究極的には次の二つになる。1でダメなら2ということもありうる。

 1.世界中の人を○○教に改宗させる努力をする。
 2.世界中の○○教でない人を根絶やしにする。


 危なっかしいことこの上ない。人類はこのような失敗を繰り返してきたのではないのか? いい加減同じ失敗を繰り返さないようにするべきだと思うが、いまだにこの方向性に執着する人たちが各宗教にいる。

 ではイスラムはこの方向性を目指しているのか? クルアーンから考えるとそれは違うのではないか?

第109章:不信者たち章〔アル・カーフィルーン〕第6節 
 あなたがたには、あなたがたの宗教があり、わたしにはわたしの宗教があるのである。

 アッラーが聖預言者(SAS)に向かって、「不信者たちにこう言ってやれ」と下した啓示の最後の節である。
 ここにはアッラーご自身が複数の宗教(それが真か偽かは別の議論として)を存在させていることがうかがえる。
 全能なるアッラーがその気になればひとつの宗教にまとめられたはずだが、そうはされなかった。

第49章:部屋章〔アル・フジュラート〕第13節
 人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。
アッラーの御許で最も貴い者は、あなたがたのうち最も主を畏れる者である。
本当にアッラーは、全知にしてあらゆることに通暁なされる。


 7世紀のアラビアに下された啓示なので、「種族」「部族」のニュアンスや正確な意味がいまひとつきちんと理解できないのが歯がゆいが、少なくともアッラーが人間を多種多様に分けられたことは確かなようである。
 マディーナにはユダヤ教を信仰する部族もいたわけだから。

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 めざすべき道が②の場合はこうなる。

「世界は○○教文化圏である」 

 ①の場合と比べると歯切れが悪い文章だな…。いずれもう少しこなれた表現を思いつくかもしれないけど、今はこれで妥協。

 この場合は、人類ひとりひとりが○○教徒でなくても構わない。
 「世界各地にそれぞれの宗教の信者だけが住む国を作り棲み分ける」というのは無理だろう。
 となれば、世界全体をいかに○○教の色に染めていくかを目指すしかない。これなら気の遠くなるほどの長い年月をかければ可能かもしれない。

 実は、私がイスラムを受け入れられた理由がこれである。イスラムと出会わなくてはならなかった理由は非常に個人的なものであるが、出会ったときにイスラムにこの方向性がなければ私は受け入れられなかったかもしれない。

 『イスラームとは何か その宗教・社会・文化』(小杉泰著、講談社現代新書)を読んだときにも、②の方向性を実感した。(小杉さんはムスリムですよね?)

 まず、イスラム共同体(ウンマ)の住民の構成を「剣の人(統治者・軍人)」「筆の人(ウラマー)」「職の人(一般信徒・庶民)」と分けている(169ページ)。

 そして「共同体全体を維持するためには、統治者は悪徳であっても共同体を守れる力があればよい」という、イブン・ハンバルの政治論(264ページ)へとつながる。

 統治者自らがイスラム共同体を破壊するような言動を繰り返した場合は、ウラマーが歯止めをかけなくてはならないが、そうでなければ統治者の人間性や信仰の篤さは問題ではないと言う(あくまでイブン・ハンバルの主張であり、異説はあるだろうけど)。

 統治者が不信心であっても、その場合、アッラーに裁かれて地獄に行くのは本人だけである。こんな統治者であっても力があれば、共同体全体を維持できる。

 逆に統治者がどんなに信仰深くても力がなければ、共同体を維持できない可能性がある。この場合、統治者本人は救われるかもしれないが、共同体全体は救われない。

 ここには「すべての人間がイスラム教徒でなければならない」とか「すべての人間が真面目なイスラム教徒でなければならない」という思想は無い。全体として保たれれば可である。

 また、『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座』(井沢元彦著、徳間書店)の中で、ムーサー・ムハンマド・ウマル・サイード氏が対談でこう述べているのも、②の方向性を強く感じた。

…イスラム宗教国家というのは、一定の宗教国家ではないのです。今現在みなさんが思っておられるイスラムという教えだけを強制するのじゃなくて、みんなそれぞれ自分が持っている宗教は守ってもらってかまわないのです。むしろ、そうした環境を積極的につくらなくちゃいけない。(以降省略)

 全体としてはイスラムが統治するけど、個人個人は必ずしもイスラム教徒でなくてもかまわない。
 よく言われるように、世界の歴史の中でイスラム国家は、他宗教に寛容であったことが多い。めざすべき方向性はやはり②が良いということだ。

 ★フィクションだけど、『千年医師物語1 ペルシアの彼方へ』上下巻(ノア・ゴードン著、竹内さなみ訳、角川文庫)は、かつてのイスラム国家の雰囲気が描かれていて面白い。実在した天才医師イブン・シーナも出てくるし。

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 というわけで、今回は、宗教と世界の関わり方から、イスラムのめざす方向性ということを考えてきた。

 「イスラムとダンスの関係はどうなったんだ?」という人もいると思うけど、それについては、まだまだ続く屁理屈の挙げ句にようやく結論に結びつく予定である。

 「なんとまあ回りくどいヤツなんだ」と感じるかもしれないが、性格なのだから仕方ない。

 なお、全体と部分ということを述べたが、「私」という部分はイスラムの道を守る生き方をしたいと思っている(実際にどの程度できているかはわからないけど)。

 ここまで読まれた方(いるのかな?)、本当にお疲れ様でした。私も疲れました… (続く)

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ①

2006年01月27日 17時13分50秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)26日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

 【能書き】
 ええと、このブログでは、ある事象についてイスラムと照らし合わせてどうかというような内容のことはふだんあまり書いていない。‎
 そういうホームページやブログは他にたくさんあるし、あんまり難しいこと書けないし、書くの面倒くさいし、そんなもん書いちゃうと自分でも読み返すのかったるいし…。‎
 
 などとぶつぶつ言っているけど、今回は、友人のベリーダンサーAmaniのブログで「イスラムとダンスの関係について」意見を求められてしまった。

 なんでもAmaniのブログArabian Cafeに、カイロ在住の日本人ムスリマから「ムスリマがベリーダンスをやるとはけしからん。そんなことやめてもっとイスラムの勉強しろ」という趣旨のコメントが入ったらしい(感情的には、それだけでもう余計なお世話だと思う)。
 詳しく読んでいないので(削除されたため)わからないけど、中傷的な内容だったとか。

 ということで自分なりの考えを綴っていくことにするけど、‎「ムスリマがベリーダンスをすることはけしからないか」については、世界の歴史・イスラムを取り巻く現在の状況など、多少あっちこっちに敷衍することになる。

 ‎単に「イスラムとベリーダンス」という関係だけ切り出してきて、是か非かを論じるわけにはいかない。
 目の前に現れたひとつの現象にはさまざまな背景があるのが当然であり、そこまで踏み込まなければ、単純な「良い」「悪い」の平行線をたどるだけで、建設的な議論はできない。
 この問題を提出した人も当然それくらいのことはわかっているものと考えている。‎
 ということで、たぶん1回で終わらないと思うので、タイトルに①とふってみた。

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【結 論】

 「ベリーダンスは肌の露出度などを考えるとムスリマにはふさわしくない。しかしベリーダンスをするかどうかは個人の自由である。
 そして共同体全体としては、ムスリマのベリーダンサーなどもいた方が活気づき、社会の活性化・維持につながる」

 駄文だ。結局言いたいのは、「個としては否」であっても「全体としては是」ということ。そして「個としては否」だからと言って単純な批判はできないということ。
 このことについて、なぜそう考えるのか、つれづれなるままに綴っていくことにしよう。

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【全体と部分ということについて】

 と、タイトルだけ書いたけど、これから出かけなくてはならないので、続きは今晩か明日書く。

 こんなところで続きにするとは、どんなブログだ!? 我ながらふてぇヤロウだけれど、遅刻するわけに行かないので、「続く」

友人の画家、大和田いずみさんの展覧会

2006年01月26日 23時53分16秒 | イベント
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)25日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

我が家の壁にかかる、いずみさんの油絵。スコットランドの湖と教会。ガラスが光って写りが悪い。

 銀座の画廊から展覧会の案内が来た。かつてのスペイン語仲間だった大和田いずみさんが展覧会を開くとのこと。
 彼女は若くしてフランスのコンクールなどに入選している(ごめんなさい。絵の賞についてはあまり詳しくないです)。

 絵だけはなく、最近ではフラメンコの世界でも頭角を現している。その上、英語・スペイン語・フランス語を話す。こういう多才な人がうらやましい。

 でも気取ったところが無く、常に笑顔を絶やさず、それでいてちょっとオッチョコチョイな感じの愛すべき人だ。

 今回の展覧会のテーマは「光を描く」。光はいずれの宗教でも象徴的なもの。光は破壊をもたらす力を秘めているが、安らぎをもたらすものでもある(12月11日の記事にも書いたけど)。

 いずみさんの描く光はもちろん安らぎをもたらす。今回はどんな安らぎをもたらしてくれるのか、久しぶりに見に行ってみようと考えている。

期間:2006年2月2日(木)~18日(土) 〔日曜・祝日休み〕 午前11時~午後7時

場所:銀座ギャラリー 桜の木 
    中央区銀座5-3-12 壹番館ビルディング3階 
    電話03-3573-3313

初日午後6時より、作家とともにオープニングパーティー

順調だった株が下落

2006年01月25日 23時47分13秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)24日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

 「イスラム教徒は株をやっちゃイカンのだったよな、確か」と後ろめたい気持ちで株式投資をおこなってきたが、はでぃじゃねーさんの「別にいいんじゃない?」という言葉に勇気づけられて、その後も株を続けていた。

 サダカに使ってもいいし、振り回されなければ、金はあるに越したことはない。
大学時代、超貧乏ひとり暮らしの経験(食うモン買えなくて、数日間マヨネーズをちゅうちゅう吸ったりしたこともあった)もあるので、余計にそう思う。

 昨年半ば頃からずっと好調だった。もともとの投資額は大きくないが、それでも資産が一年で1.5倍くらいになった。

 ところが!! やはりライブドア・ショックは大きかった。多くの株が価格激減。以前ライブドアの株も持っていたが、売り払っておいてよかった。危ない、危ない。

 中には、ライブドアの株主優待のゲームをダウンロードして、それをネット上のオークションで売って儲けていた人たちもいたようだ。

 今、本屋に行くと「ゼロから始める株式投資」だの「私はこんなに楽に儲けた」だの「株で食っていく方法」だのといった本が腐るほど売っている。

 でも、それらの本の著者がやったことは、みんながやるわけだから、それじゃあ儲けられないのだ。
 うがった見方をすれば、自分の方法を見つけて儲けるだけ儲けた人が、引き際を見極めて本を書き、印税をもらって、株式市場から勝ち逃げ…というところだろう。

 成功した人のマネをすることは大切だろう。しかし、マネは所詮マネでしかない。身につけたことを、どのように自分のオリジナルにアレンジしていくか? それが大切だろう。

 イスラムのスンナ派は「スンナとジャマーア(慣例と団結)の民」だから、聖預言者ムハンマド(SAS)の慣例を記した「ハディース」に従うことは大切である。

 しかし、クルアーンやハディースに書いていないことで、ウラマーや地域共同体がイジュマー(合意)としても決めていないこと、キヤース(類推)による例もないことは、世の中、特に日本社会では数多く存在する。それについては自分の頭で考えていくしかない。

 イスラムは没個性な画一的な人間を作る宗教ではない。だれかのマネをしていればよいというものではない。規範は守りながら、いかに自分なりのオリジナルを作り上げていくかだと思う。
 宗教や株に限らず、何事も最後はそこがツボなのではないか? 最近の、世間の株式投資熱を見てそんなことを感じている。 

「湘南マスジッド」ができるといいなあ

2006年01月24日 06時33分00秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)23日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

 おとといのバトンで、私の地元がすっかりバレてしまった。これもニサぴょんのせいだな。おのれ~ニサぴょんめ ( ` へ´)=○)´ o `)ウリウリ 

 神奈川県内には海老名にマスジッド(モスク)があるが、ちょっとアクセスが不便。車で行くにはいいけど。
 うちからだと東京ジャーミイに行くのと、かかる時間があまり変わらないので、どうしても東京ジャーミイへ行ってしまう。
 それに東京ジャーミイだと、帰りに新宿に出て紀伊国屋書店に行ける。まだ一回しか行っていないけど、Deli shop UCHIMURAさんにも寄れる。

 できれば、茅ヶ崎か藤沢あたり(東海道線沿線なら他でもいいけど)に「湘南マスジッド」ができてくれるとありがたい。でも湘南地方にはどれくらいのムスリムがいるのだろうか?

 6月30日の記事で書いたけど、この地域(湘南地方でした)にはムスリムがあまりいないという情報もある。徐々に増えていくといいなあ。

この人の思考と感覚にはついていけない…。参ったな、この本。

2006年01月23日 21時04分16秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)22日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

 『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座』(井沢元彦著、徳間書店)なる本を読んだ。
 井沢氏の本は、よく本屋に平積みされているが、別段興味はなかった。「SF作家(だっけ?)」+「徳間書店」+「歴史モノ」という組み合わせが、そそらないんだよなあ。
 しかし、以下の3人(登場順)のインタビューは興味があったので読んだという次第。

◆パット・ロバートソン氏:キリスト教福音派のテレビ伝道師。

◆マーヴィン・トケイヤー氏:ユダヤ教のラビ。日本滞在経験あり。

◆ムーサー・ムハンマド・ウマル・サイード氏:イスラミックセンター・ジャパン創設者のひとり。

 中学校のとき、トケイヤー氏の『ユダヤ五〇〇〇年の知恵』、『ユダヤ・ジョーク集』を読んだなあ。懐かしい。


 3人のインタビューは面白かった。3人とも「自分の方には仲良くする気持ちがある。あとは相手の出方次第だ」というスタンスは共通。

 トケイヤー氏とムーサー氏は「誰が何を信仰しようと勝手。別に自分たちの宗教の悪口を言われてもそれはそれで構わない」というスタンスで共通。

 ロバートソン氏は攻撃的な発言はするものの、現実にユダヤ教徒、イスラム教徒が住む地域に援助をしている。偽善という人もいるかもしれないが、口先だけの真実より、実行されている偽善の方がマシだと思う。

 で、井沢氏。この人、序文にこう書いている。

 「高校の社会科課程の中に倫理の分野がありますし、世界史を学ぶには必ずキリスト教ないしはイスラム教の知識が必要です。ですから、若干それに触れる機会はあるのですが、正直言って、教える側もよくわかっていません。そういう人たちが生半可な知識で、世界史や倫理の教科書を書いているのですから、それを読んでもわからないのは当然です。」

 おお、すごいぞ! どんなこと教えてくれるんだ? 行け行けぇー! 

 彼の書いた文章を一読した後の感想。

 --この本の内容で、序文にあんなこと書ける神経がうらやましい。

 私は、この人の思考と感覚にはついていけない。本がいっぱい売れているようだし、天下のNHKに出ているくらいの方だから、きっと私の感覚がおかしいんだな、うむ。
 でもなあ…インタビューされた3人とも、よく怒らなかったな。特にトケイヤー氏。

 実際はどうだったのかわからないけど。対談がそのまま活字になることないしね。清水義範の「超現実対談」〔『アキレスと亀』(角川文庫)収録〕を思い出した。対談の現場と活字のギャップを描いた短編。

 たぶん、この人の本を読む機会はもう無いと思うけど、ある意味いい勉強になった。世の中いろんな人がいるんだなあ。 

地元バトンがニサぴょんから回ってきた

2006年01月22日 22時41分32秒 | 未分類
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・ヒッジャ(12月)21日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

 mixi仲間のニサぴょんから「地元バトン」なるものが回ってきました。う~ん、これに答えると、自分のプライベートにかなり肉薄されそうな感じでコワいな。
 それはそうと、ニサぴょんの日記がmixiでしか見られないのが残念! 一般のブログで公開して欲しい。あれは面白い。

◆Q1:あなたの地元はどこですか?

神奈川県藤沢市生まれの、茅ヶ崎市育ち。「お! 生粋の湘南ボーイか」と感じた人はセンスがだいぶ古くなっているのでご注意を。

◆Q2:地元には今までどのくらい住みましたか?

トータルで20年くらいかなあ。「地元」の範囲が難しい。狭い範囲で十数回引っ越ししているから。

◆Q3:地元で自慢できることやものを教えてください。

茅ヶ崎というとどうしても、加山雄三、桑田佳祐、小川直也、野口聡一、松浦亜弥というラインの有名人になってしまう。
海は汚くて自慢できないしな。千の川にカエルが大量発生することがあるってのも自慢にならないな。

◆Q4:では、地元で、自慢することではないが、トリビア的なことを教えて下さい。

1.サザン・オールスターズにあやかった「茶山(さざん)」という銘柄のお茶がある。

2.「サザエ・オールスターズ」「ジャコの海岸物語」などの、サザンあやかり系のメニューを出していたフィッシュセンターは先日つぶれた。

3.茅ヶ崎市の市議会では、夏には議員全員がアロハシャツで議会に出席しなくてはならない。推奨のアロハは7800円。中にはスーツのズボンにアロハシャツの裾を入れて着こなす強者もいるとか。

4.海岸を通る国道134号線の食堂「快飛(かっとび)」では、シラスの入ったアイスクリームを売っている。

5.第二次世界大戦中、アメリカ軍が相模湾から上陸し、国道1号線を通って東京へ攻め込む計画があった。

6.ちょっと離れるけど、大磯の昔からの漁師はタコを食べない。自分の足を食べるタコを食べると、自分の身を滅ぼすという言い伝えのため。

え? もういい? あ、そう。

◆Q5:今でも地元に住んでますか?

神奈川県内には住んでいます(初公開)。

◆Q6:最終的には、地元に戻って住んだり仕事したりしたいと思いますか?

いつでも戻れる位置をキープしているので特に強い希望は無し。

◆Q7:このバトンを回す5人を指名して下さい。

 ええと、「またか!」という人もいるかもしれませんが、momoさん、Amani、はでぃじゃねーさん、cizmaさん、kiriさんでお願いします。もうやってしまった方は連絡してね。