日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

突入! サグラダファミリア

2006年08月31日 19時49分16秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)7日 ハミースィ(木曜日)
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遠くから見た方が美しく見えるかも…。
 私がまだ少年の心を持っていた頃、初めてサグラダファミリアを見たときの感想は「なんじゃこりゃ?」だった。初めてコーヒーを飲んだときの感想に似ていたような気がする。不気味な印象も受けた。

 それが大人になるに従って、文化や建築というものに関心を持ち、ガウディやサグラダファミリアについて知っていくうちに、
「ほうほう」「ふむふむ」「なるほどなるほど」
となり、ついには「サグラダファミリアってなかなかいいよね」と、違いのわかる男を演じながらネスカフェゴールドブレンドを飲むに至った。
 建築に関心があるので、教会であることには別に何の抵抗も無い。

 今回の旅行では果たして実物を見ても、違いのわかる男でいられるのかというのがひとつのテーマである。

 そして対面のときがやってきた。最初の感想―「うーむ、デカイけど普通だな」
 日本人彫刻家外尾悦郎氏の彫刻でも有名な生誕の門ではなく、裏側の受難の門から入ったのもそのような感想を抱いた原因かもしれない。
 なんというか、入り口がそこらへんにある博物館のようだ。
受難の門にある入り口。彫刻家(外尾氏ではない)がガウディのデッサンを無視して自分のセンスで彫刻を作った。

 別に日和(ひよ)るわけではないが、著書『ガウディの伝言』で外尾氏が主張しているように(288ページ)、受難の門は「過ち」なのではないか? ガウディのデッサンと彫刻が全然違うし、角々していてなんだか味気ないぞ。
 これなら、スタジオジブリがアニメ映画を作ったときに、たまに日テレが喜々として汐留に作るアニメの模型などの方がレベル高いんじゃないか?

 近くにある案内板がまた安っぽく感じる。案内板自体は悪いデザインではないと思うが、サグラダファミリアでこの案内板はミスマッチなのでは?
受難の門近くにある案内板。こんなにデカイ写真を載せる必要はなかった。

 せっかくだから案内板で説明すると、②の受難の門から大聖堂に入場。④の周辺は現在工事中なので、右側の壁に沿って、大回りし、⑤のあたりを通って、①の生誕の門に抜けた。その後、上の方の⑥から地下博物館に入り、展示物やガウディの墓などを見て、下の方の⑥から出てきた。⑧は土産物屋。
 
 「中に入ればまた印象が違うんだろうな」と期待を込めて入場。果たして、そこで私を待ちかまえていたものは!?
 もったいぶって次回に続く。

個人主義でマイペースなカタルーニャ

2006年08月30日 21時31分05秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)6日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)
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バルセロナの街並み。夜8時近いのにこの明るさ。
 「飛行機の中は寒い」という人が多い。しかし平熱が37度以上ある私にとっては適温、または暑いくらいである。
 ということで、いつも機内ではタンクトップ・短パン・サンダルという出で立ちで、周りから「何なの、この人?」という怪訝そうな視線を浴びている。今回も例外ではない。
 
 例外なのは旅行中はその格好をしなかったことだ。バルセロナに着いたときの気温は約24度。とても過ごしやすい。いきなり「アル・アンダルスの暑い夏」というタイトルに反する展開だ。
 6月、7月と猛暑だったのに、8月に入ったら涼しくなったらしい。どうやらカタルーニャは私を歓迎してくれているようだ。そこで今回は普通にジーンズやTシャツなどで旅することにした。
 いい加減いい年してタンクトップに短パンという姿が恥ずかしくなったという点も見逃せない。

 さて、バルセロナはカタルーニャ自治州の州都であり、オリンピックが行われたことですっかりと有名になった地域である。
 昔から独立志向が強く、バルセロナオリンピックのときには、いわゆるスペイン語(カスティーリャ語)ではなく、カタルーニャ語で放送をしたり、スペイン国旗でなくカタルーニャの旗を振り回したりしていた。スペイン国王ファン・カルロス1世がいや~な顔をしていたのが印象的だった。

 
左がスペイン国旗、右がカタルーニャの旗。

 もちろん政府や、他地域のスペイン人たちも面白いはずがなく、

「おう、わかった! カタルーニャがそういう態度に出るならこっちにも覚悟がある。カタルーニャだけは新幹線を通してやらん!」

ということになった。
 そんなわけで、スペインが世界に誇る新幹線AVEはカタルーニャを通っていない。
 それに対してカタルーニャは

「スペイン政府が新幹線を通してくれないなら、フランスのパリとの間に新幹線を通すからいいもんね!」

という手段で対抗した。空港もカタルーニャ語がまず最初に書いてあるし、とにかく独立志向が強い。
 個人主義の強い地域でもあり、他人に迷惑さえかけなければ、誰が何をやっていようがあまり干渉しないし、相当強烈な個性の持ち主でも白い目で見られたりしない。だからガウディのような人物も生まれたのだろう。このブログを読んでいる個性の強いみなさんにカタルーニャで暮らすことをお勧めする。私は没個性だからダメだな…。
 
 ホテルの窓から、今回は訪問しないモンジュイックの丘が見えた。オリンピックの聖火台などが見える。9時過ぎなのにまだ夕陽が差すくらいだ。
 翌日から観光が始まる。それと同時にささやかな戦いも始まっていたことにこのときはまだ気付かなかった。
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【補足】
「スペイン国内で話されている言葉」という意味で言えば、スペイン語は四つある。すなわち、北部のガリシア語、東部のカタルーニャ語、バスク地方のバスク語、そして世界中で「スペイン語」として認識されているカスティーリャ語である。このうちバスク語だけは言語系統が全然違う。

スペイン・ポルトガルに行ってきました

2006年08月28日 23時50分57秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)4日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)
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コルドバのメスキータの内部。現地では「コルドバ大聖堂」と呼ばれ、カトリック教会が大聖堂として管理している。
 
8月17日から26日までスペイン・ポルトガルに行ってきた。冬に行ったカンボジアの旅行記が全く進まないまま無謀にもスペイン・ポルトガル旅行記も平行して綴っていくつもりである。
 とはいえ、現在なかなか身動きがとれないので、本格的に始められるのはいつになるのか見当もつかない。とりあえずメスキータの写真をアップしてみた。

 私が「旅行に行く」というと、なぜかバックパッカーかフリー旅行と無条件に判断されることが多いが、今回もツアーである。
 「自力で行かないと旅の真の醍醐味もわからんし、その土地の生の雰囲気にひたれないではないか」と主張する方々もいるが、私の旅の最大の目的は「ひとつでも多くの観光地(主に遺跡と古い建築物)を回る」ということに尽きる。
 夏休みと有給休暇の限られた日数の中で効率よく回るにはツアーしかないのである。そして効率が良すぎた場合、苦難の旅となること請け合いだ。今回もとてもハードなツアーを経験させて頂いた。
 その中で、本来無いはずの自由時間を捻出したり、行かないはずの所に行ってみたり、現地の建築に詳しいガイドと名刺交換をする仲になったりと隠密行動が繰り広げられるのである。まあ詳しくは徐々に…。 

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 イベリア半島(アル・アンダルス)には約800年にわたってイスラーム文化が栄えた。だんだんとキリスト教勢力に押され、1492年のグラナダ陥落をもってイベリアのイスラームの歴史に幕が下りたわけだが、まだまだイスラームの残り香ともいうべきものは残っていた。国民の9割以上がカトリックとなったスペインで暮らすムスリマとも会うこともできた。
 バルセロナに到着したときには24~26度くらいだった気温が、アンダルシアに行く頃には40度を超えていた。そこで今回の旅行記のタイトルは「アル・アンダルスの暑い夏」とした。

 昨年の中東でイスラーム地域を、年末年始のカンボジアで仏教地域を、そして今回のイベリアでキリスト教地域というように3回シリーズで3大宗教の国々を回ってきたことになる。
 レバノン、カンボジア、スペインはいずれも内戦を経験した国でもある。そこでは宗教は違っても素朴に信仰する人々の姿が見られた。「祈らずにはいられない」―それが信仰の原点なのだろう。

横浜の昼飯は国際的だ

2006年08月06日 10時52分15秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ラジャブ(7月)12日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)
‎‎ 8月3日、4日と横浜に出張。3日の昼飯はワールドポーターズの中のインドネシアレストラン「SuraBaya」にて、ココナッツで煮込んだ鶏肉入りのナシゴレンランチ(消費税込み1050円)。
 2年ぶりだな、SuraBaya。店内のインドネシアっぽい装飾は変わっていない。

 昼食時間にあてられる時間が30分しかなかったが、素早く出してくれたのでゆっくりと楽しめた。バリコーヒーとアイスクリームのデザートもグッド。

 私は基本的に「粉粉した」飲み物が好きなのだ。だからバリコーヒーやトルココーヒーは味もさることながら、あの粉粉感がたまらん。
 インスタントみそ汁も、永谷園の「あさげ」や「ゆうげ」のドライタイプが粉粉していて好きだったのに、今や生みそタイプ一本槍。復活せんかい、ドライタイプ!

 となりの人たちが食べている「ナシ・チャンプルー」もうまそうだったな。インドネシアの料理数種類が大皿に持ってあって1050円。いつになるかわからないけど、今度来たら食べよう。

 食後にワールドポーターズ1階で、激辛チリソース「AfterDeath(コスタリカ産)」を見つけるが、1本860円也。これは高い。地元のスーパーがたまたま仕入れたときには1本399円だったのに。購入を断念。

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 8月4日はこれまた昼食の時間があまり取れず、手っ取り早く食える店は無いか…と探していたら「トルコ料理アリババ」というベタな看板を発見。思わず飛び込んでしまった。

 狭くて決して綺麗とは言えない、ラーメン屋のような店内。トルコ人のお父さんがこれまたラーメン屋のような格好で料理している。顔立ちは、眉毛が豪快で、旧ソ連のブレジネフ書記長っぽい(若い人にはわからないかな?)。
 そんな顔立ちなのに、妙にラーメン屋のご主人っぽさが身についている。
 東洋人の奥さんも「お父さん」って呼んでいるから、町のラーメン屋度がさらにアップだ(トルコ料理だってば)。

 店の中はトルコ風の青いタイルやナザールボンジュウ(目玉を象った魔よけ)、アヤ・ソフィアの写真などが飾ってあるが、雰囲気としては「トルコ:日本=6:4」というところだ。
 箱根神社の商売繁盛のお札が厨房の天井からぶら下がっているのも日本度を上げる一因と思われる。 

 「メニューに載っていないメニュー」という、言葉的に破綻した張り紙が貼ってあるのもうれしい。
 「メニューに載っていないメニュー」に載っている以上、メニューに載っていないメニューを名乗ってはいかんではないか?(何を言ってるんだかわかります?) 
 
 カウンターに座り、ケバブランチ(税込み1050円)を注文。皿の上にご飯、ケバブ、レタス、トマトが乗っかっている。
 お勧めの「アリババの唐辛子」をかけて食べてみるが、これはちょっともの足りない。ふだんから「AfterDeath(さっき書いたヤツね)」に慣れているせいか、辛さの感覚が麻痺してしまっているようだ。

 でもランチ自体は、下町的でうまかった。学生時代に大学の近くにあったら、通ったかもしれないなぁ…と思ったが、ほとんど大学には行ってなかったんだった(あまり大学と相性が良くなかったため)。

 食後にはお約束通りチャイをチャイグラスで飲んだ。
 店の外の看板を改めて見直すと、「トルコ語教室」とか「ベリーダンス教室」とか「トルコのゲーム講座」だとかいろいろなことをやっている。面白そうだからまた来てみよう。

 先週末から体調を崩し、ふらふらになりながらやってきた出張の二日間だったが、昼食が楽しかったせいか、出張自体も充実していたような気分になれた。
 やはり食べることは大切だなと実感した次第。