日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

カンボジア・ツアー第3日目

2005年12月31日 16時43分42秒 | カンボジア・アセアセ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)29日 ヤウム・サブティ(土曜日)

早朝:アンコールワットサンライズ観賞


午前:1.水中遺跡クバルスピアン観光  2.バンテアイスレイ遺跡観光


午後:アンコール周辺遺跡群観光
     ①タケウ  ②スラスラン  ③ネアックポアン  ④プリヤカン


 今日は大晦日。サンライズ観賞が明日なら、アンコールワットで初日の出だったのになあ。ちょっと残念。でも見られればいいや。曇らないでくれよ。
 水中遺跡クバルスピアンが楽しみ。
 シェムリアップのホテルで年越しだな。

カンボジア・ツアー第2日目

2005年12月30日 16時36分43秒 | カンボジア・アセアセ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)28日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

午前:
1.アンコールトム観光
 ①南大門  ②バイヨン  ③パプーオン ④王宮跡  ⑤癩王のテラス
 ⑥象のテラス  ⑦象乗り体験


2.タ・プロム観光


3.現地小学校訪問


午後:アンコールワット観光


夕方:プノンバケンからサンセット観賞


夜:アプサラダンスディナーショー

 象乗り体験か…。前にタイのメンホーソンの象でトレッキングしたときには、象が暴走して大変だったけど、今度は大丈夫かな?


 小学校訪問は、やはり文房具などを持って行くべきか? 定番で、現地の子供たちが日本の歌とかを歌うのかな?

カンボジア・ツアー第1日目

2005年12月29日 16時12分38秒 | カンボジア・アセアセ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)27日 ヤウム・ル・ハミースィー(木曜日)

 本日、カンボジア・ツアーに出発。朝8時に成田空港第2ターミナル集合。
 集合と言っても、添乗員無しだから、各自が勝手に行くことになるわけだが。


 ベトナム航空でホーチミン経由。予定通りにいけば、現地時間の午後5時半にはカンボジア・シェムリアップの空港に到着。ホテルには6時くらいには入れるか?


 まあ、「予定通り」というところにはあまり期待しないことにしよう。

2005年のイスラムライフ&ブログライフを振り返って

2005年12月29日 01時01分32秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)27日 ヤウム・ル・ハミースィー(木曜日)

 ムスリムとして二年足らずの人間が、先輩ムスリムのみなさんをさしおいてエラソーに「日本人イスラム教徒日記」などというブログを作ってはや8ヶ月。


 gooブログの数も5月に始めたときは確か23万くらいだったのが、今や41万! ブログ人口の増加には驚くばかり。


 初めは「誰も読まないし、誰もコメントを書き込まないんじゃないかな?」なんて思ってヤフーブログでスタートしたけど、予想以上の多くの方々に読んで頂き、コメントも書いて頂き、昨日3万アクセス(PV)を超えた。感謝感謝である。
 さきちんさんからもらった、一番最初のコメントはやっぱりうれしかったなあ。
 

 その後、多くのムスリムの方とも知り合い、大変多くのことを学ばせていただいた。中には直接お会いすることになった方々もいた。
 cizmaさんからはインドネシア拳法を紹介して頂き、そちらにも足を踏み入れることになった。どんな出会いがどんな影響を及ぼすかわからないから人生は面白い。


 また、多くの大学生から「レポート作成の参考に意見を伺いたい」というメールを頂いた。あくまで「自分は日本のムスリムの代表ではないし、キャリアが浅いし、必ずしも的確な意見を述べられるわけではない」ということを了承して頂いた上で、これまたエラソーに自分の意見を開陳したりもした。


 二年などという期間は本当に短いもので、アラビア語、クルアーン朗唱、クルアーン暗記、クルアーン学習、イスラーム史学習、アラビア書道を初めとするイスラーム文化など、表面的な部分をなでたくらいで2005年も終わってしまった感がある。


 年末には、「うつ病」などという診断も受け、一時期学習も完全にストップ。弱音を吐かせてもらえれば、辛い時期もあった。そんなときに肋骨の骨折も重なったし。


 でも、健康面では尻つぼみだったけど、人との出会いという意味では尻上がりだったかな?


 mixiに招待してくださったファーティマさん、「ねーさん」として慕っているはでぃじゃさん、出会って間もないとは思えないニサぴょん、実の娘のようにいとおしく感じるmomoさん、しっとりとしたスマイヤさん…最近ごぶさたしているけどSarahさんも元気かな? IRAMさん、YUKIさんなど、日本でもムスリマが増えてきていることを実感。直接のやりとりはあまりないけど、ナディヤさんのバイタリティはすごかったし、越ヌールさんもいろいろなところでお見かけする。
 

 あぶーさきーなさんやアブドゥルワーヒドさんのような、自分とはレベルの違うムスリムの方とも接点を持つことができた。


 Divaneさんは真面目で知的な人だけど、実際お会いすると結構おかしな人なのかもしれない、しょせんはB型だし(失礼)。などなど、いろいろなことが思い浮かぶ。イスラームという範疇を超えて、旅つながりで、めておらさん、habari?さんや、SuuSuuさんとも出会った。gaddさんは元気かな? 


 直接の友人のアマーニやmakiさんもずいぶんコメント残してくれた。アリーマ山口さんやカフェ・バグダッドなど、ライター系or業界系(?)の方とも知り合えた。知人のjanaちゃんもこのブログを探し出してコメント残してくれた。そしてmixiでは、我が人生で忘れ得ぬ人物である「ゴゴちゃん」とも再会できた。


 来年はどんな出会いがあるのだろう。旅行で6日間ほどブログを更新できないけど、返ってきたらまた毎日更新を目標にしたい。そして多くの人たちとの交流の中で自分をより高めていけたらと思っている。


 このブログに一度でも寄って頂いた皆様、本年度は本当にありがとうございました。


 最後になりましたが、すべての皆様に神の祝福とご加護がありますように祈っております。

カンボジアからの絵ハガキ希望の方、今日の夜11時くらいまでにメールください

2005年12月28日 19時49分33秒 | 未分類
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)25日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

 ここ数ヶ月物忘れがヒドイ。脳細胞がガンガン死んでいるのかもしれない。


 すっかり忘れていたけれど、8月の旅行のときに「希望する方には現地から絵ハガキ送ります」という企画をやって、「冬にもまたやります」と書いたような気がする。


 夏に応募していただいた方には無条件で送りつけようと思っています。その他、希望される方がいたら、急ですみませんが、今日の夜11時くらいまでに連絡ください。連絡はメールのみでこちらです
 
 → isharq@goo.jp


 郵便番号・住所・本名を明記してください。もちろん、絶対他には漏らしません。8月のときにも、誰の情報も漏洩してないはずです(当たり前だけど)。


 ただし、手紙が日本に着くより間違いなく本人が先に帰ってきますのでご了承ください。
 それに、現地の状況によっては出せない場合もあり得ます。その場合は、なんか別の形で埋め合わせをしようと考えています。

 
 今年一年の総括というか感想を書きたいけど、これから掃除機がけなので、また後で

年末だねえ

2005年12月28日 16時52分29秒 | 未分類
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)25日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

 昨日、PCで年賀状を作ろうと思ったら、プリンターのインクが切れていた。
 

 インクカートリッジ買いに、電化製品の量販店を回ったが、どこも品切れ。プリンターの型が古すぎて、インクカートリッジ自体があまり流通していないらしい。


 ええい、それなら仕方ない


 思い切って新しいプリンターを購入


 新しいプリンターは、カラーコピーや、スキャナー機能がついているし、デジカメ媒体から直接写真をプリントアウトできる。
 もちろん、ふつうのプリンターとしてPCからも印刷できる。
 いやあ、便利便利。中学校の(遙か後の)後輩、松○亜○がCMしているアレ。


 今や、これくらいの機能は当たり前なのかもしれないが、なにしろ古いプリンターを7年近く使っていたので、とても新鮮だ。


 しかし、通院したり、株の配当を受け取りに郵便局行ったり、PCに住所録打ち込んだり(7月19日にPCが故障してデータが全部消えたため)しているうちに、一日経ってしまった。年賀状はできなかった。


 明日からカンボジアだというのに、やはり年末は慌ただしい。

ハリリ前首相暗殺現場とアル・アミン・モスク

2005年12月27日 06時12分02秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)24日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

新築された、アル・アミン・モスク。パヴィルヨン式(トルコ式)で大変美しく、他のどの宗教施設よりも大きい。

 中東ヘロヘロ紀行の最後の訪問地は、ベイルートのアル・アミン・モスクだった。


 ここには、2005年2月14日に、暗殺された、ラフィク・ハリリ前首相の遺体が安置されている。


 昨日も少し触れたが、ハリリ前首相は、レバノン内乱終了後にサウジアラビアから帰国し、自らが筆頭株主を務めるソリダール社を使って、レバノンを復興した。


 一方、シリア軍は内乱終了後もレバノンに駐留を続け、内政にも強く干渉し続けた。
 2004年9月2日には、国連安保理が「レバノンからの外国軍の即時撤退要求」を採択。外国軍という表現を使っているものの、該当するのはシリア軍しかない。しかしシリア軍は撤退しなかった。
 
 2004年10月、親シリア派のラフード大統領が憲法を改正し、自分の任期を延長。ハリリはこれに抗議するために首相を辞任。その後も、シリア軍の撤退を主張した。



 そして運命の2005年2月14日。


 ハリリ前首相は、4名の警察官、12人の護衛を乗せた6台の車列で、ベイルート市内を移動していた。
 ハリリ前首相の乗った車は、当時世界最高レベルのテロ対策を施したものであった。
 窓ガラスは世界最高レベルの防弾能力を持ち、レーダーで爆発物をキャッチして未然に避ける性能を備えていた。


 にもかかわらず、セント・ジョージ・ホテル前を通過した瞬間、車は大爆発を起こし、ハリリ前首相と7人の護衛、巻き添えになった12人の市民が死んだ。(写真の赤い星印が爆発した場所)


 この事件には、シリアの関与が疑われており、現在も国連の独立調査委員会が調査中である。
 これをきっかけに、レバノン国民は大団結をし、シリア軍駐留反対デモを各地で繰り返した。そしてついに4月26日にシリア軍が完全撤退。


 
反シリアの大デモの様子(左)と、アル・アミン・モスク前に描かれたハリリ前首相(右)。


 
アル・アミン・モスクに入ってすぐの所に、ハリリ前首相の棺が安置されていた。


 アル・アミン・モスクの中に設置された、ハリリ首相の安置所で遺影に手を合わせた。
 「ハリリ氏が天国へ行けますように。レバノンに平和を。そして世界に平和を」
 そう願った後、帰国便に乗るべく空港に向かった。

ナジュム広場のカフェに残された、「ハリリ前首相の最後の足跡」。
車に乗る直前のもの。金属板で保護されている。

諸宗教の施設が集う、ベイルートのナジュム広場

2005年12月26日 17時26分20秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)23日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

ナジュム広場の中央あたり。ヨーロッパっぽい雰囲気が漂う。

 
 レバノンは、地中海とレバノン山脈に挟まれた平地が回廊のようになっており、ここを多くの民族が往来した(地図上の黄色い矢印参照)。
 かのアレクサンドロス大王もここを通っていった。


 それと同時に、山がちの地形は、迫害された宗教の信者たちが身を隠すには適した場所だった。
 その結果、レバノンにはさまざまな宗教が共存することとなった。


 そのレバノンは1975年から1990年まで内乱で荒廃した。レバノンに逃げ込んだパレスチナ人が、レバノンからイスラエルに向かって攻撃を加えたことがきっかけになったという。


 イスラエルはレバノンに報復攻撃をした。この攻撃に対し、レバノン国内のキリスト教徒は、イスラム教徒を非難した。「お前たちのせいだ!」
 こうして対外的にはイスラエルと戦いつつ、国内ではキリスト教徒とイスラム教徒が内乱を演じることとなった。


 結局、シリア軍の援助(介入?)もあって、長い争乱は終わったが、国は荒れた。そんな中、救世主として登場してきたのが、ラフィク・ハリリ率いる、大手ゼネコン、ソリダール社だった。


 ハリリはサウジアラビアで興した建設業で成功を収め、サウジアラビア国籍を取得していたが、レバノン内乱終了後、祖国に戻り、首相に就任。急ピッチでレバノンは復興していった。


 ベイルートの中心地、ナジュム広場(アラビア語で「星」の意味。フランス語でエトワール広場とも言う)には、宗教共存の願いを込めて多くの宗教施設が再建されていった。


 残念ながら2005年2月14日、ハリリ首相は暗殺された(詳細は次回)。しかし、この広場が宗教共存のシンボルとなることを、そして平和のシンボルとなることをレバノンの人々は願っている。
古代遺跡も混在。ローマ公衆浴場跡。ギリシアカトリックの聖エリアス教会。
アル・アミン・モスクとキリスト教マロン派の聖ジョージ教会が並ぶ。ギリシア正教の聖ゲオルギオス教会。




 ギリシア正教の聖ゲオルギオス教会の内部。内乱で銃弾の穴だらけになった壁画が修復されていた。

 
 ただし、イエス(イーサー。彼の上に平安あれ)の絵だけは、わざと銃弾の痕跡を残したままにしてある。(左の写真では入り口のすぐ左の人物。右の写真は拡大)


 人類の罪を贖うために犠牲になったという、キリスト教の教義に、銃弾を受けたイエスの姿をだぶらせている。


 アル・アミン・モスクの近くには、アルメニアカトリックの聖テリウ教会もあった。

イスラーム圏のサンタクロース(後)・モロッコ編

2005年12月25日 16時30分22秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)22日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

 モロッコの立場は微妙である。

 
 アフリカの国なのに、西サハラ領有権を巡ってアフリカ連盟(AU)からはじき出されて、アフリカで唯一の非加盟国となった。 
 そのため、ムチャなことに「ヨーロッパ連合(EU)に入りたいなあ (・。・)ボソッ」などと言い出している。トルコ加盟でさえあんなにもめているのに…。


 その上、イスラーム国なのに、小学校からフランス語が正規の授業に入っていたりする。ヨーロッパとの貿易も盛んだし、ヨーロッパからの観光客も多い。


 このようにヨーロッパとの関係が深いためか、大都市のホテルなどは、クリスマスの時期にはクリスマス用の装飾をする。
 問題はそのセンスである。





 まずはこの絵から。
 数年前、マラケシュの某ホテルの窓に書かれたサンタクロース。



 ご覧の通り、顔が貧相である。ふつうサンタクロースというとハッピーなイメージがあふれるものだが、これではまるで貧乏神ではないか。
 袋の中には不幸がいっぱい詰まっていそうだ。


 あるいは、「夜逃げするサンタクロース」という雰囲気もある。
 誰かに見つからないように、こそこそとしていそうだし、常に人目を気にしていそうだ。
 右足だけ靴を履き忘れて、靴下のままという風にも見える。
 
 クリスマス・イブに、不幸を振りまきながら、空を天がける貧乏神サンタ…。恐ろしや、恐ろしや。(←久々に登場の妄想癖)











 次もマラケシュの某ホテルの窓の絵だが、こちらは「死神サンタクロース」である。


 何が「死神」なのかについては、写真の中の手が指さしている部分をご覧頂きたい。



 座っているイスに、苦しむ亡霊の顔が現れていないか? あるいは生首かもしれない。(右に拡大写真)


 これではまるで、漫画「デビルマン」に出てくるデーモンの「ジンメン」の甲羅みたいではないか。(←何を言っているのかわからない人はデビルマン読んでください。わからなくてもまったく問題ないですけど)


 しかも、その上に乗っかっている動物は、死神サンタの乗り物「白骨トナカイ(私の想像上の動物)」だと思われる。


 クリスマス・イブに、白骨トナカイの引くソリに乗って、幸せな人々の魂を吸い取ってゆく、死神サンタ…。恐ろしや、恐ろしや。


 楽しいはずのクリスマスに「貧乏神サンタ」と「死神サンタ」。二人ともベルトのバックルに「S」と書いてあるので、ショッカー(初代仮面ライダーの敵の組織)の幹部なのかもしれない。

 
 あんまり書くと、このホテルの関係者に訴えられそうなので、この辺でやめておくけど、イスラーム圏にサンタクロースを登場させようとすると、なぜか歪みが出てくるものかもしれないなあ…なんて気がした。 

エジプトの高級カーテンを売るにはどうしたらいいでしょう?

2005年12月24日 22時43分45秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)21日 ヤウム・サブティ(土曜日)

 昨日少し触れたことなのですが、エジプト料理店の「Deli Shop UCHIMURA」のエジプト人のご主人から相談を受けました。



 一枚50万円ほどする、超高級なエジプト製のカーテンを売るには、どのような方法が良いでしょうか? という内容でした。



 王侯貴族が使うようなカーテンだそうで、お話の様子からすると、店舗用または、高級住宅用または、骨董品蒐集家用という感じらしいです。


 「ヤフーオークションで売ってはどうか?」とか、「いろいろなHP・ブログでアピールしてもらってはどうか?」とか、「写真だけでも店に飾ってPRしたらどうか?」とかいろいろ考えたのですが、決定打がありません。


 私自身がまだ実物を見ていないので、なんともお願いしづらいのですが、何か良い知恵をお持ちの方、アドバイス頂ける方、ご協力頂ける方は一報いただけないでしょうか? よろしくお願いします。