日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

子供の感覚で見るグエル公園

2006年09月23日 10時10分34秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)30日 ヤウム・サブティ(土曜日)
‎‎
60戸建てられる予定だった家は普通っぽいデザイン。これはガウディの家として建てられた。

 グエル公園はイギリスを意識して、スペイン語の「パルケ・グエル」ではなく英語の「グエル・パーク」という名前がつけられた…と、ガイドが説明するのだが、いったいどの辺がイギリスを意識しているのかがよくわからない。
 分譲される予定だった住宅がイギリス風ってこと?(上の写真参照)


 グエル公園は子供の感覚で見てみると、センスの是非を超越して楽しいかもしれない。

 ←「あー、壁に人が張り付いている!! 変なのぉーーー! ギャハハ! オレもやろうっと♪」(子供の感覚で見た地下遊歩道)

 ここでも、水平と垂直が直角に交わる構造が見られない。巨大な生き物の消化器の中にいるような不思議な気分になる。

 少し歩いて、正面階段へ抜ける。

 「あ! 変なトカゲ! うわっ、カッチョわりぃ~。口からゲロゲロと水吐いてやがんの。」(子供の感覚で見た正面階段の像)
 本当はドラゴンである。でも日本で出版されているガウディ関係書籍や、ガイドブックではトカゲと書いてあるものもある。素直に見ればやはりトカゲだ(ヤモリも可)。ドラゴンと思いこむには相当な精神的エネルギーが必要だ。トカゲもどきドラゴンと名付けたい。

  

 「あ! 首チョンパ猫! こいつも口から水吐いているぞ。カッチョわりぃ~。」
 「えー? こいつ犬じゃねえの?」「ジャガーだよぉ」(子供の感覚で見た正面階段の像)
 正解はライオンである。
 グエル公園は、破砕タイル(割れてしまって売り物にならないタイル)などをうまく利用していて、エコロジカル&エコノミカルなのは素晴らしいが、やはりセンスは不思議だ。

 正面階段を下りきると、そこは公園への正面出入口。傍らにある守衛所は見ようによってはお菓子の家みたいなテイスト。
 ん? なんか変なものが見えるぞ(下の写真の赤丸内)。

 近寄ってみると、トカゲもどきドラゴンの着ぐるみを着た人物がいる。ふむふむ、子供にトカゲもどきドラゴンの帽子をかぶせて、あ、一緒に写真に写って…で、お金をもらうと。なるほど、そういう商売か。
 なんだか、ウルトラマンとか仮面ライダーに出てくる怪獣・怪人のたぐいみたいだなぁ。デパートの屋上でショーやってそうな雰囲気。
  

 ガウディもビックリのトカゲもどきドラゴン人間を横目に見ながらグエル公園を後にした。

グエル公園と外国人ツアー客

2006年09月15日 21時43分03秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)22日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)
‎‎ 
グエル公園の正面階段。柱の下は市場。上は大広場。

 スペイン国民は1ヶ月のバカンスをとらないといけないという「義務」があるので、市街は思いのほか人が少ない。みんなリゾート地に行っているらしい。ああ、うらやましい。

 しかしいくら市街地が空いていても、観光地には人もあふれている。グエル公園も例外ではない。フランス・イタリア・ロシア・ドイツ・ギリシアなど様々な国から観光客が訪れている。
 昔は日本人の団体ツアーは評判が悪かったが、最近ではイタリア人やフランス人の団体ツアーも、その人数の多さから、かなり迷惑な存在となっている。

 イタリア人など1グループ50人くらいの団体があるから驚く。で、ベストポジションを50人で占拠してガイドが長々と説明したり、みんなでカンツォーネを歌ったりする(若干の脚色有り)。
 さて、グエル公園には裏手の方から入り、ぶらぶらと散策して正面階段に抜けた。

 左の写真は、高架遊歩道の下の部分。垂直部分と水平部分が直角で接しないで、緩やかに垂直から水平につながっていくところがガウディらしい。
 柱の中は空洞で排水路にもなっている。空洞の方が強度も強いらしい。
 こういう話を聞いて、「人間にも同じことが言えるね。空っぽになった人間は強いよ」という教訓を絡めて誰かに話してみよう…などと考えた人は、たぶん鬱陶しがられているので要注意だ。

 遊歩道の下はそのまま市場につながっている。市場とは言っても一度も市が立ったことは無い。

 グエル公園は、本来60戸の住宅地に隣接する公園として計画されたのだが、家が3戸しか売れなかった。そのうち1戸は設計者ガウディ本人、1戸はパトロンのグエルが購入。ということで家は3戸しか建たなかった。こうなると、グエル公園の市場にやってくる物好きな商売人はいない。
 この日は、金髪の青年が市場の真ん中でバイオリンを弾き、聴衆からいくばくかのチップを得ていた。

 階段を登り、そのまま大広場へ出る。
 知らなかった、地面は土だったのか…。土っぽい色の石だと思っていた。我ながら意外に無知だ。

 気を取り直して、うにょうにょした石造りのベンチに座ってみる。よく観光ガイドなんかにも写真が載っているアレだ。座り心地は悪くないが、特別良いわけでもない。でも、24度の気温に、涼しい風が心地よい。

 バルセロナの町が眼下に広がり、遠くにサグラダ・ファミリアが見える。もし、バルセロナに住んでいたら、ぶらっとやってきてのんびりと本を読んだりするのもいいかもしれない。ただし、大人数のイタリア人ツアーのいないときという条件付きだが…。

スペイン人ガイド活用法とサグラダファミリアの塔

2006年09月13日 06時16分21秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)20日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)
‎‎ 
生誕の門の塔の中。

 スペインの法律では、外国人旅行者がガイドを雇う場合「政府公認のスペイン人ガイドをひとりは雇わなくてはいけない」ということになっている。もちろんツアーで雇う場合も同じだ。

 政府公認のスペイン人ガイドは、英語ともう一カ国語をマスターしていて、スペインの歴史・文化に精通していなくてはならない。従って公認ガイドの試験は非常に難しいようだ。

 問題は「もう一カ国語」が日本語であるガイドが非常に少ないことだ。例えばコルドバでは2人しかいない。
 「ツアーだったら添乗員が英語を話せるんだから訳せばいいだろう」と考える人もいるかもしれないが、添乗員の業務は心身共に非常にハードで、とてもではないが現地ガイドの翻訳などということをやっている余裕はない。
 第一、それは添乗員の本来の業務ではないのである。

 となると、スペイン在住の日本人ガイドを雇うのがベストなのだが、前述の法律があるため、スペイン人ガイドも抱き合わせで雇わなくてはならない。

 では、日本人ガイドが日本人ツアー客相手に日本語で説明したり引率している間、スペイン人ガイドは何をしているのか?

 答えは「何もしていない」である。移動中に列のしんがりを務めたり、横断歩道を渡るときに急がせたりする程度で、あとはこれといった仕事はしていない。
 にも関わらず日本人ガイドと同額の報酬を得ている。スペイン人ガイドは政府に手厚く保護されているのである。
 そういう人の報酬もツアー代金に含まれるのかと思うと納得できないものがある。
 納得できなければどうするか? ということで、スペイン人ガイドに働いてもらうことにした。

バルセロナのガイドはラファエロさんという呑気そうなおじさん(左の写真)。やはり日本語は話せないのでスペイン語での会話となる。相対的な問題だが、私にとっては英語よりスペイン語の方がまだマシなのである。片言には違いないけど。

 日本人ガイドの説明はだいたい知っていることばかりなので、ラファエロさんに「ガウディの墓はどこ?」と聞いて先に見に行く。ついでにあれこれ質問をして、さらに「塔に登るエレベーター混みそうだから並んでおいて」とお願い。

 「ツアーでそういう勝手なことが許されるのか?」といえば、添乗員に「この人は放っておいても大丈夫だな」と思われれば許されるのである。結果的に、他のツアー客も早くエレベーターに乗れたし。
 さらに、一度ツアーを離れて後で合流するという「離団」というワザも可能である(「離団証明書」という書類を書く必要がある)。

 エレベーターに並んでいてもらったのは正解だった。1回につき7人ずつしか乗れず、運行の間隔は約3~4分。ツアーは一カ所あたりの自由時間が少ないので、うかうかしていると長蛇の列ができて登れなくなってしまう。しかし結構余裕を持って乗ることができた。

 30秒ほどで一気に塔の上の方まで到達。エレベーターを降りると早速螺旋階段がある。至る所からバルセロナの町が見下ろせる。
塔の上からバルセロナの町を一望。

 ゆっくりと螺旋階段を下りてゆく。ウズベキスタンで何カ所か登ったミナレットを思い出す。ただしミナレットは円柱の周りに螺旋階段があるような感じだったけど、ここは螺旋階段が吹き抜けのようになっていて、はるか下まで見える。
 最初は時計回りに下っていたのが(冒頭の写真参照)、途中から反時計回りの階段に移動する(下の写真参照)。ずっと同じ方向で回っていて平衡感覚がおかしくならないための工夫であるということを何かで読んだことがある。
 
  

 ガウディ自身は、この塔が完成したときには老齢だったために、登ることはなかったらしい。本当は登りたかっただろうに、自らの体力の限界を知ってあきらめていたのだろう。
 
 螺旋階段の途中ですっかり疲れて座り込んでいる年配の婦人を見かけた。若い娘は写真を撮りまくりながら、母親をなだめたり叱責したりしている。
 「お母さん、自分で登るって言ったんだから」
 「ほら、後ろから来る人のジャマになるわよ。こっちによけて」

 そんな姿を見ながら、ガウディの分別に改めて感心した。

サグラダファミリア完成まであと何年?

2006年09月06日 21時13分36秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)13日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)
‎‎ 
  
ガウディ(左)と、サグラダファミリア完成予想図(右)。

 「サグラダファミリアは2020年の完成を目指しています」とガイドは言った。

 つい十数年前までは「サグラダファミリアは完成までにまだ200年はかかる」という話だった。
 バルセロナオリンピックを機に世界の注目が集まり、それに伴って寄付もスタッフも集まった。さらに主な建材を石からコンクリートに変更し、最新の建設機器を導入した結果、建設のスピードが急激に高まったらしい。

 それにしてもなあ…。
 現在、いちおう完成しているのは生誕の門と受難の門だけであり、大聖堂や栄光の門(これがメインの入り口)は作り始めたばかりである。
 上の完成予想図と、下の生誕の門の写真を比べてみるとわかるが、完成している部分はほんの一部である。ここまで作り上げるのにかかった年数が124年。
 それなのに、あと14年で生誕の門の何倍もの建物を完成させてしまうとは!
  
生誕の門(左)と受難の門(右)。この二つの門の間に、巨大な塔が何本も建てられる。

 サグラダファミリアを取り巻く状況は刻々と変化しているので実際に2020年に完成できるかどうかはわからない(個人的には無理だと思っている)。だが、このままいけば自分が生きているうちには完成するだろう。
 
 「自分が生まれるはるか前から建設している」とか「自分が生きているうちには完成した姿が見られない」という、永遠を感じさせる時の流れの中に価値を見出すのがヨーロッパのカトリックだと思っていた。ちょっと意外な感じのする現状だ。

 もっともバルセロナの人々は「サグラダファミリアがいつ完成するかなんて考えたこともない」らしい。
 彼らにとっては、そこにあるのが当たり前という存在がサグラダファミリアなのだ。

 唐突だが、マッカのハラーム・モスクを思い出した。1000年以上前から拡大しながらそこに存在し続けている。世界中のムスリムが目指す聖地だが、そこの住民にとっては、あるのが当たり前の存在なのだろう。

 宗教を違っても、「大いなる存在」が日常の中に、空気と同じくらいの当たり前さで存在する地に住む人々はうらやましいと思った。
サグラダファミリアの地下にあるガウディの墓。生きていたらガウディは今の状況をどう思うのだろうか?

サグラダファミリアの礼拝堂で連想ゲーム

2006年09月01日 21時39分51秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)8日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)
‎‎ 
あなたはこの礼拝堂を見て何を連想しますか?
 礼拝堂の中に入ると、真っ白な柱がニョキニョキと立っていた。上の写真は、昨日掲載の案内板でいうと⑥あたりにあたる場所である。いわゆる「身廊部」と呼ばれている中心部分がここ。

 パッと見た感じは教会っぽくない。キリスト教的な装飾がまだほどこされていないためかもしれない。
 はるかに規模が小さければ、白いおしゃれな教会という感じなのかもしれないが、とにかくデカイせいかギリシアの神殿風にも見えるし、多柱式モスクにも見える。彫刻や絵画などの装飾がほどこされて教会らしさを増してゆくのだろう。

 個人的には「シンプル・イズ・ベスト」で、極力装飾をしないのもいいと思う。
 一本一本の柱は、根本が6角形で上に行くに従って12角形、24角形、円形へと美しく変化してゆく。この柱が整然と並ぶだけでも十分に美しい。

 「ユニ・セックス(男女の区別がないこと)」という言葉をもじるが、礼拝堂はこのままなら「ユニ・レリジョン(宗教の区別がないこと)」という感じになる可能性を秘めているのではないか?
 キリスト教会なので、教会らしくなっていっても別に文句はないが、世界にひとつくらいは宗教の別を感じさせない巨大な宗教施設があっても良さそう。
 どこかに小さなミフラーブでも作ってもらって、クリスチャンもムスリムも同じ場所で祈れたらなかなか素敵なことだと思うのだが(当然無理だろうけど)。

 実はそんなマジメなことばかりを考えていたわけではなく、上を見上げながら「うっわぁー、巨大な高足ガニを下から見上げたみたいだな」などとくだらないことも考えていた。あばら骨のようにも見える。上の写真を見てそんな感じがしませんか?

 天井の装飾がまたいろいろな花を連想させる。
ひまわり? 蓮? アカンサス? それとも…

 ひまわりにも見えるし、ギリシア時代の装飾によく使われたアカンサス(ハアザミ)にも見える。また聖預言者ムハンマド(サッラッラーフ・アライヒ・ワ・サッラム)のシンボルのバラにも見えるし、仏教のシンボル蓮にも見える。
 まったくそのように見えない人もいるかもしれないが、私にはいろいろなものが連想されたのである。そしてそれがまたユニ・レリジョンへの希望を感じさせる。

 左の写真のように、資材がゴロゴロ転がっていて、「まだまだ工事中なんだなあ」ということを実感する。
 しかし急ピッチで工事が進められているので、現在は入れないこの区域にも、あと何年かすれば入れるようになるのかもしれない。
 その頃には、資材置き場も足場も無くなり、今とは違った姿を現すはずである。いつかそんな姿を見に、ふたたび訪れるのもいいかもしれない。

 そしてサグラダファミリア自体が完成するのはいつなのか? それについてはまた次回に続く。

突入! サグラダファミリア

2006年08月31日 19時49分16秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)7日 ハミースィ(木曜日)
‎‎ 
遠くから見た方が美しく見えるかも…。
 私がまだ少年の心を持っていた頃、初めてサグラダファミリアを見たときの感想は「なんじゃこりゃ?」だった。初めてコーヒーを飲んだときの感想に似ていたような気がする。不気味な印象も受けた。

 それが大人になるに従って、文化や建築というものに関心を持ち、ガウディやサグラダファミリアについて知っていくうちに、
「ほうほう」「ふむふむ」「なるほどなるほど」
となり、ついには「サグラダファミリアってなかなかいいよね」と、違いのわかる男を演じながらネスカフェゴールドブレンドを飲むに至った。
 建築に関心があるので、教会であることには別に何の抵抗も無い。

 今回の旅行では果たして実物を見ても、違いのわかる男でいられるのかというのがひとつのテーマである。

 そして対面のときがやってきた。最初の感想―「うーむ、デカイけど普通だな」
 日本人彫刻家外尾悦郎氏の彫刻でも有名な生誕の門ではなく、裏側の受難の門から入ったのもそのような感想を抱いた原因かもしれない。
 なんというか、入り口がそこらへんにある博物館のようだ。
受難の門にある入り口。彫刻家(外尾氏ではない)がガウディのデッサンを無視して自分のセンスで彫刻を作った。

 別に日和(ひよ)るわけではないが、著書『ガウディの伝言』で外尾氏が主張しているように(288ページ)、受難の門は「過ち」なのではないか? ガウディのデッサンと彫刻が全然違うし、角々していてなんだか味気ないぞ。
 これなら、スタジオジブリがアニメ映画を作ったときに、たまに日テレが喜々として汐留に作るアニメの模型などの方がレベル高いんじゃないか?

 近くにある案内板がまた安っぽく感じる。案内板自体は悪いデザインではないと思うが、サグラダファミリアでこの案内板はミスマッチなのでは?
受難の門近くにある案内板。こんなにデカイ写真を載せる必要はなかった。

 せっかくだから案内板で説明すると、②の受難の門から大聖堂に入場。④の周辺は現在工事中なので、右側の壁に沿って、大回りし、⑤のあたりを通って、①の生誕の門に抜けた。その後、上の方の⑥から地下博物館に入り、展示物やガウディの墓などを見て、下の方の⑥から出てきた。⑧は土産物屋。
 
 「中に入ればまた印象が違うんだろうな」と期待を込めて入場。果たして、そこで私を待ちかまえていたものは!?
 もったいぶって次回に続く。

個人主義でマイペースなカタルーニャ

2006年08月30日 21時31分05秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)6日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)
‎‎ 
バルセロナの街並み。夜8時近いのにこの明るさ。
 「飛行機の中は寒い」という人が多い。しかし平熱が37度以上ある私にとっては適温、または暑いくらいである。
 ということで、いつも機内ではタンクトップ・短パン・サンダルという出で立ちで、周りから「何なの、この人?」という怪訝そうな視線を浴びている。今回も例外ではない。
 
 例外なのは旅行中はその格好をしなかったことだ。バルセロナに着いたときの気温は約24度。とても過ごしやすい。いきなり「アル・アンダルスの暑い夏」というタイトルに反する展開だ。
 6月、7月と猛暑だったのに、8月に入ったら涼しくなったらしい。どうやらカタルーニャは私を歓迎してくれているようだ。そこで今回は普通にジーンズやTシャツなどで旅することにした。
 いい加減いい年してタンクトップに短パンという姿が恥ずかしくなったという点も見逃せない。

 さて、バルセロナはカタルーニャ自治州の州都であり、オリンピックが行われたことですっかりと有名になった地域である。
 昔から独立志向が強く、バルセロナオリンピックのときには、いわゆるスペイン語(カスティーリャ語)ではなく、カタルーニャ語で放送をしたり、スペイン国旗でなくカタルーニャの旗を振り回したりしていた。スペイン国王ファン・カルロス1世がいや~な顔をしていたのが印象的だった。

 
左がスペイン国旗、右がカタルーニャの旗。

 もちろん政府や、他地域のスペイン人たちも面白いはずがなく、

「おう、わかった! カタルーニャがそういう態度に出るならこっちにも覚悟がある。カタルーニャだけは新幹線を通してやらん!」

ということになった。
 そんなわけで、スペインが世界に誇る新幹線AVEはカタルーニャを通っていない。
 それに対してカタルーニャは

「スペイン政府が新幹線を通してくれないなら、フランスのパリとの間に新幹線を通すからいいもんね!」

という手段で対抗した。空港もカタルーニャ語がまず最初に書いてあるし、とにかく独立志向が強い。
 個人主義の強い地域でもあり、他人に迷惑さえかけなければ、誰が何をやっていようがあまり干渉しないし、相当強烈な個性の持ち主でも白い目で見られたりしない。だからガウディのような人物も生まれたのだろう。このブログを読んでいる個性の強いみなさんにカタルーニャで暮らすことをお勧めする。私は没個性だからダメだな…。
 
 ホテルの窓から、今回は訪問しないモンジュイックの丘が見えた。オリンピックの聖火台などが見える。9時過ぎなのにまだ夕陽が差すくらいだ。
 翌日から観光が始まる。それと同時にささやかな戦いも始まっていたことにこのときはまだ気付かなかった。
******************************
【補足】
「スペイン国内で話されている言葉」という意味で言えば、スペイン語は四つある。すなわち、北部のガリシア語、東部のカタルーニャ語、バスク地方のバスク語、そして世界中で「スペイン語」として認識されているカスティーリャ語である。このうちバスク語だけは言語系統が全然違う。

スペイン・ポルトガルに行ってきました

2006年08月28日 23時50分57秒 | アル・アンダルスの暑い夏
ヒジュラ暦1427年シャアバーン(8月)4日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)
‎‎ 
コルドバのメスキータの内部。現地では「コルドバ大聖堂」と呼ばれ、カトリック教会が大聖堂として管理している。
 
8月17日から26日までスペイン・ポルトガルに行ってきた。冬に行ったカンボジアの旅行記が全く進まないまま無謀にもスペイン・ポルトガル旅行記も平行して綴っていくつもりである。
 とはいえ、現在なかなか身動きがとれないので、本格的に始められるのはいつになるのか見当もつかない。とりあえずメスキータの写真をアップしてみた。

 私が「旅行に行く」というと、なぜかバックパッカーかフリー旅行と無条件に判断されることが多いが、今回もツアーである。
 「自力で行かないと旅の真の醍醐味もわからんし、その土地の生の雰囲気にひたれないではないか」と主張する方々もいるが、私の旅の最大の目的は「ひとつでも多くの観光地(主に遺跡と古い建築物)を回る」ということに尽きる。
 夏休みと有給休暇の限られた日数の中で効率よく回るにはツアーしかないのである。そして効率が良すぎた場合、苦難の旅となること請け合いだ。今回もとてもハードなツアーを経験させて頂いた。
 その中で、本来無いはずの自由時間を捻出したり、行かないはずの所に行ってみたり、現地の建築に詳しいガイドと名刺交換をする仲になったりと隠密行動が繰り広げられるのである。まあ詳しくは徐々に…。 

********************************

 イベリア半島(アル・アンダルス)には約800年にわたってイスラーム文化が栄えた。だんだんとキリスト教勢力に押され、1492年のグラナダ陥落をもってイベリアのイスラームの歴史に幕が下りたわけだが、まだまだイスラームの残り香ともいうべきものは残っていた。国民の9割以上がカトリックとなったスペインで暮らすムスリマとも会うこともできた。
 バルセロナに到着したときには24~26度くらいだった気温が、アンダルシアに行く頃には40度を超えていた。そこで今回の旅行記のタイトルは「アル・アンダルスの暑い夏」とした。

 昨年の中東でイスラーム地域を、年末年始のカンボジアで仏教地域を、そして今回のイベリアでキリスト教地域というように3回シリーズで3大宗教の国々を回ってきたことになる。
 レバノン、カンボジア、スペインはいずれも内戦を経験した国でもある。そこでは宗教は違っても素朴に信仰する人々の姿が見られた。「祈らずにはいられない」―それが信仰の原点なのだろう。