日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

しばらくお休みします

2006年02月24日 22時53分34秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)25日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)
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 明日から数日間、雲隠れしますので、ブログの更新がストップ&音信不通になります。

 諸般の事情により行き先は明かせませんが(知っている人は内密にお願いします)、帰ってきたらまたゴチャゴチャと更新する予定ですので、そんときにはまたよろしゅうお願いします。

イブン・シーナー(980~1037) -イスラムが生んだ万能の天才-

2006年02月22日 23時02分02秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)23日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)
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サマルカンド(ウズベキスタン共和国)のウルグベク天文台博物館に展示されている、イブン・シーナーの肖像画。

【濃密なその生涯】

 「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ⑦」で触れたイブン・シーナーについて、もう少しだけ詳しく書いておこうと思う。
 彼は、ブハラ(現在はウズベキスタン共和国の都市)の近郊のアフシャナという町で、イラン系の両親から生まれた。
 ウズベク人が多いウズベキスタン共和国において、イラン系のタジク人が多数派を占めるブハラでは現在でも大英雄である。その人生を年齢と共に簡単に追ってみる。

5歳一家でブハラに移住。
10歳哲学、数学、法学、論理学、天文学、地理学を学び始め、スポンジが水を吸収するように知識を吸収する。
15歳最初のアリストテレス哲学研究を始める。『形而上学』を40回以上読んだと言われる。
16歳 医学の勉強を始める。
17歳サーマーン朝のスルタン、ヌーフ2世の病気を治し、ブハラの宮廷図書館を自由に利用できる権利を与えられる。
18歳宮廷図書館のほとんどの本を読破し、ほとんどの学問を修める。
21歳父を亡くし、ホラズム地方(現在ウズベキスタン共和国のヒヴァなどがある地位)に移住。そこで七歳年上の天才学者ビルーニーと交流を持ちながら、研究活動を続け、著作活動も始める。
32歳カスピ海沿岸のグルガンに移住。歴史的名著『医学典範』の執筆を開始。
34歳 ブワイフ朝の宮廷兼大臣となる。
40歳『医学典範』完成。
43歳反乱が起こり、投獄される。
44歳イスファハンの領主アラ・アッ・ダウラに優遇され、研究・執筆・教育活動を精力的にこなす。
57歳アラ・アッ・ダウラの遠征に従軍し、ハマダンで病死。

 自分の人生を振り返って、彼と同年齢の時に何をやっていたかを考えると「むむむ」という気持ちである。
 著作は290~450冊くらいの間で諸説がある。いずれにせよ、ほとんど眠らずに研究と著作と教育に打ち込んだ超人的な人物であった。彼を育んだ町ブハラの人々が誇りに思うのも当然かもしれない。

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【不思議なその人柄】

 イブン・シーナーは聖人君子のようなタイプではなく、どちらかというと豪快な人物だったようである。酒好きで、子供の頃から勉強に疲れると葡萄酒を飲んでおり、生涯独身だったが、女性とも結構自由な交際をしていたようだ。
 『医学典範』の中でも「性」については結構ページを割いており、「どうやって研究したんだ、おい!?」とつっこみたくなるような記述もある。例えば下のような記述。

 少年との性交は女性との性交より運動量が大きい点では有害だが、射精の量が少ない点では有害ではない。

 何を言っているんだか、このオッサンは。イスラム的には結構「トンデモないヤツ」ではないか。
 また、あるとき、宮廷で「あなたの言葉遣いは感心しない」と言われたのに非常に腹を立て、3年かかって言語に関する研究をまとめて「仕返し」したらしい。
 どうも怒りの表現方法もよくわからない人である。
 「怒りをバネに立派な研究を成し遂げた」という解釈もできるけどね。

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【エピソードの数々】

 イブン・シーナーは精神療法やアロマテラピーなどもおこなっていたといわれる。一番有名なのが、グルカンに住んでいた頃、王の近親の若者が正体不明の病気にかかったときのことだ。
 宮廷医たちがいくら治療しても治らない。そこで王は、隊商宿で暮らしていたイブン・シーナーに若者の治療を頼んだ。
 イブン・シーナーは若者の脈と尿を調べた後、「グルカンの町に詳しい人を呼んできてくれ」と言った。
 まわりの人々は不思議に思いながらもそのような人物を連れてきた。
 イブン・シーナーは若者の脈を取りながら「グルカンの町の名前をひとつずつ言ってみてくれ」と奇妙なことを言い出した。
 すると、ある町の名前を聞いた時に若者の脈が乱れた。
 そこでイブン・シーナーは「次にその町にある通りの名前をひとつずつ言ってくれ」と言った。ある通りのなを聞いたとき、若者の脈は乱れた。
 続いて、その通りの家の名前ひとつずつ言わせていった。ある家の名を聞いたときに若者の脈は乱れた。
 最後にイブン・シーナーは、その家に住んでいる人の名前をひとりずつ言わせた。
 ある女性の名を聞いたとたんに、若者の脈は大きく乱れた。
 イブン・シーナーは言った。
 「彼は、その娘に恋をしている。彼女と一緒になれば病気はすぐ治る」
 それを聞いた若者は驚くと同時に、真っ赤になって照れたが、イブン・シーナーの言うとおり、その娘と結婚すると、若者はすっかり元気になった。
 結婚相手を自由に選べる身分だったから解決できたと言えないこともないが、このような方法を使うこと自体すごい。
 彼の著書『医学典範』は12~17世紀のヨーロッパの大学の医学部では最も重要な教科書として使用され続けた。ヨーロッパでは彼は「アヴィケンナ」という名で呼ばれている。

 また、キリスト教にも大きな影響を与えた。12世紀のキリスト教の神学者で、トマス・アクィナスという人物がいる。
 彼はアリストテレスの哲学を使ってキリスト教カトリックの教義体系を確立した。彼の思想体系を一般的に「スコラ哲学」という。
 彼はローマ教皇から「天使博士(なんだかカッコ悪くないですか?)」と呼ばれ、カトリック史上では最も重要な人物のひとりである。
 しかし、彼が体系をまとめるときに、イブン・シーナーのアリストテレス研究の著書『治癒の書』などを大いに参考にした。

 イスラムの歴史上には多くの大学者が現れているが、その中でもひときわ大きな業績を残した人物がイブン・シーナーなのである。でも変わり者…。
サマルカンド国立考古学博物館の中に展示してある、イブン・シーナーの手術用具。

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ⑦

2006年02月20日 06時34分26秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)21日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

 


【イスラム文化圏の発展について】

 「流れる水は腐らない」という言葉がある。人間の活動全般についての箴言である。停滞すれば人間も社会も腐る。

 イスラームを文化圏として捉えた場合も、歴史上ダイナミックな動きを見せていたときには発展を続けた。
 現実世界の動きと、イスラムの枠組みがある程度リンクしながら、動いていた時代である。そしてその中で、異質なムスリムも登場してくる。均質な者ばかりの社会には動きはない。

 世の中には、個人の尺度で測ったら「よろしくないこと」だが、社会や集団にとってはプラスになることがある。
 例えば「お金をどんどん使う」ということ。個人レベルで見たら、浪費家と見られかねないような金の使い方は美徳ではない(使い方にもよるが)。イスラムでも浪費は「よろしくないこと」である。
 ところが社会全体から見たら、個人がお金を使ってくれなくては経済が停滞する。「景気の善し悪し」は、「お金の流れの善し悪し」だから、個人が大いに浪費をしてくれれば金が回り景気はよくなる(はず)。

 同じように、個人の生き方としては「どうなんだろう、この人は?」と疑問に思われる人でも、もっと巨視的に見れば社会や集団に貢献している人びとは存在する。

 例えばイスラム文化圏の大学者のひとり、イブン・シーナー。

 彼は17歳でサーマン朝のスルタンの病気を治し、生涯に290~450冊(諸説あり)もの著作を残した天才である。
 彼の著書『医学典範』は12~17世紀までヨーロッパの医学大学の教科書として使用されたし、哲学書『治癒の書』(ときどき医学書と間違って紹介している本を見かける)は、ローマカトリックの大学者トマス・アクィナスがスコラ哲学の体系を作り上げるときに大いに参考にされた。。

 しかし彼はムスリムでありながらワインを好んでいたし(しかも子供の頃から)、女性関係もなかなかのものだった。
 『医学典範』の中では「少年愛」についても詳しく書いてある。同性愛ダメでしょ、イスラムは。
(イブン・シーナーについては機会を改めてもう少し説明したいと思います)

 8~14世紀は、ギリシア・ペルシア・インド起源の学問や文化をイスラムが取り入れた時代だし、異質なムスリムが活躍した時代である。イスラムの枠組み自体もダイナミックに変化していっただろう。クルアーンを理論で解釈するようになったのもギリシア哲学の影響だ。
 理論と直感が表裏をなすような形で、後世スーフィズム(神秘主義)が力を持つようにもなったことを考えると、ますますその影響の大きさを感じる。

 だいたい、ギリシアの学問を導入するきっかけを作った、アッバース朝第7代カリフのマームーンだって相当変わった人である。
 アリストテレスと対話した夢を見たことを天啓と考えて、「ギリシアの学術書を全てアラビア語に翻訳せよ」などという勅令を出したのである。
 ギザの大ピラミッドに強引に穴開けちゃうし(現在ではこの穴が観光用の入り口となっている)。

 そういうわけで、ムスリムにも「異質な者」、もっとはっきり言えばイスラムの基準から見ても「変わり者」は結構いたが、イスラム圏全体としては発展していった。

 逆に個人としては立派だが、社会や集団には全く貢献しない人も存在する。そこら辺は、「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ②」で触れたイブン・ハンバルの政治論にも表明されている。

 活発な動きのあった16世紀のオスマン帝国・ムガル帝国・サファビー朝鼎立時代がイスラム文化圏の最盛期であり、当時はヨーロッパは後進地域だったのである。

 ところが1699年のカルロヴィッツ条約でイスラム圏とヨーロッパの力関係が決定的に逆転してしまう。

 イスラム圏が、図③のような状況になっていたのが最大の原因だろう。
 図③が具体的にどのような状態なのか、そしてなぜそうなったのか?

 「お前、いつまでこのテーマで引っ張るつもりだ? いい加減にしろ!」とか「カンボジア・アセアセ紀行はどうなった?」という批判を蹴散らして次回に続く。

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ⑥

2006年02月17日 18時40分22秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)18日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

 cizmaさん、昨日はシラットのご指導ありがとうございました。なんとか棒の型だけは覚えられそうです。
 みなさんも「さすが日本のシラットの第一人者だなあ」と感動していました。
 ぜひまた指導に来てください。私の方もぜひまた目黒道場へおじゃましたいと思います。

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 さて、前回は図だけを掲載したので(実は単に時間が無かっただけ)、今回は例によって自分の考えをダラダラ綴っていきます。
 多少時間がとれたので、前回の図に説明を入れました。図の下の文章からはエラソーな文体になります。



【イスラムのカタチについて】

 ①は仮に「イスラムの原初の姿」を表した図である。7世紀のアラビアでは、イスラムは、このようなものとしてスタートしたと仮定してみる。

 中心の星が「イスラムの核」ともいうべき部分で、ここには「神の唯一性を信じること」とか「礼拝」「喜捨」などが入る。
 時代や場所を問わず、不変でなければならない内容。

 周囲を囲む濃い緑の縁が、イスラムの枠組み。原初はこのように丸い形だったと仮定する。
 大学者ガザーリーの思想を拝借すれば、この枠組みは信仰と不信仰の境目ということになり、それをを定めるのが神学の役割ということになる。
 聖預言者(SAS)が生きていた時代なら話は簡単である。
 わからないことは聖預言者に尋ねればよい。クルアーンやハディースに「やたらと尋ねてはいけない」という戒めがあるにしてもである(クルアーン第5章:食卓章・第101節など)。
 しかし後世になると、ガザーリーでさえ悩み続けたように、この境目を確定するのは簡単な問題ではなくなる。様々な神学が興亡した。

 次に緑の枠内について考えてみる。ここには「相続の仕方」だとか「窃盗に対する罰」だとか「離婚の手続き」などの、近代法でいえば、民法や刑法にあたるものが入る。日常生活の上での注意についても該当する項目がある。

 枠内の黄色や紫の星は「非ムスリム」を表す。ユダヤ教徒やキリスト教徒などである。
イスラムは聖預言者(SAS)が遣わされた当時から、非ムスリムと共存をしていた。

 「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ②」で書いたことを思い出して頂きたい。イスラムは原初から「イスラム教徒100%」を目標としていたわけではないし、現実にもそうではなかったのである。

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【枠組みの誤差を縮める努力について】

 ②と③の赤いラインは、現実世界の枠組みを示す。イスラムで禁止されていても、酒や豚肉料理は存在し、それらをたしなむ人びとがいる。
 また、イスラム原初にあった風習・文化・技術が失われたり、逆にイスラム原初には存在しなかった風習・文化・技術が現れたりして、世界の枠組みは確実に変化し続けている。従って、この赤いラインは刻々と変化をし続ける。
 
 ここで言いたいのは、イスラム原初の枠組みを、ある程度は現実世界の枠組みに合わせざるを得ないのではないかということである。
 「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ③」で書いた「誤差の調整」である。

 では、なぜイスラムの原初の枠組みを、現実世界の枠組みなんかと調整しなくてはならないのか?

 クルアーン第51章:撒き散らすもの章・第56節にはこう書いてある。
ジンと人間を創ったのはわれに仕えさせるため。

 クルアーンの中で、アッラーが人間を創った目的が明記されているのはこの箇所だけである。いったい「アッラーに仕える」とはどのようなことなのか?
 それは、アッラーを信じ、称えることであろう。クルアーンの中には何回も「アッラーを称えるよう」に記されている。そして、クルアーンには、創造の偉業について何度も繰り返し書かれている(第7章:高壁章:第54節など)。
 ということは、アッラーの創造の業を称えなくてはならない。称えるだけでなく、それに対応しなくてはならない。

 第10章:ユーヌス章・第4節には次のように書かれている。
あなたがたは皆一緒にアッラーの御許に帰る。アッラーの約束は真実である。
本当にかれは創造を始め、そしてそれを繰り返される。
これは信仰して善行をした者に、公正に報われるためである。
だがかれを信仰しない者には、煮えたった飲物と、痛ましい懲罰がある。これはかれらが不信心であったためである。

 アッラーは創造を繰り返されている。変わりゆく現実世界も当然アッラーが創造を繰り返しながら顕現している。

 しかしその一方、第113章:黎明章・第2節にはこう記されている。
かれが創られるものの悪(災難)から、

 つまりアッラーは、この悪や災難を含めつつ、この現実世界を創造し続けている。なぜ悪や災難まで創造するのか? 人間を向上させ、鍛えるためである。
 
 となれば、現実世界の枠組みの中で、アッラーの恵みとして取り入れるべきものと、アッラーの与えた試練として取り入れてはならないものが混在する。

 クルアーンや、ハディースをもとにそれを慎重に判断しながら、イスラムの枠組みと、現実世界の枠組みを調整しながら誠実に生きていくのが、ムスリムの使命なのではないか?

 ただし、それをおこなうには生半可な知識や理性ではできないので、ウラマー(法学者)という存在が必要となった。神学はどちらかというと思弁的であり、実用的には法学が、信仰と不信仰の区別を判断することとなる。

 ウラマーの起源は、聖預言者(SAS)時代に各地に派遣された「教える者」に求められるが、その後は、イスラムを深く学んだムスリムが周囲の尊敬を集めてウラマーとして認められるようになった。

 しかし、いくらウラマーが下した判断であっても、誰もがそれに従えるわけではない。気持ち的に納得できないというケースもあるかもしれないが、それより人間の意思はそれほど強いものではないというのが主な理由だろう。

 確かにクルアーンでは「アッラーが正義を命じた」(第7章:高壁章・第29節)という記述はある。
 しかし、その反面「アッラーは、人間に能力以上のものを背負わせない」(第6章:家畜章・第152節)という記述も存在する。
 人間は種種多様に創造された。それぞれの能力の中で正義に全力を尽くしていくしかない。自分が守れる正義を、他人も守れるとは限らないのだ。 

 そして、守れない人が多くなると、イスラム色は薄れる。図①に比べて、図②の緑の部分が若干薄くなっているのにお気づきだろうか?

 それでも、イスラムの核である部分を守っている限りは、イスラムの根本的な危機にはならないはずである。図②ではそんなことを表現してみた。
 
 なお、こういう時代には、ムスリムの中でも異質な者が現れる。世の中に動きがあるときには、そういう人間が現れ、ときには大きな業績を残したりするものだ。

 長くなったので、そこら辺については次回に続く。
 最後まで読んでくださった方、お疲れ様でした。

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ⑤

2006年02月15日 23時18分37秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)16日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

 とりあえず、これから綴っていこうとしていることについての概念図を掲載しときます。
 また結構堅いこと書きそうなので、せめて図だけでも明るくということで、こんな配色です。
 「デパートの子供の遊び場かなんかじゃないんだからさあ…」という意見もあるとは思いますが。

 勘のいい人は、これを見ただけでも「ああ、こういうこと言おうとしているのね」とわかるかもしれませんね。

 明日か明後日に文章の解説を加えたものを掲載する予定なので、イスハークの野郎がどんなこと考えているのか、あれこれと推理してみてください。


コイツは参った! 「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか?」の記事が…

2006年02月14日 06時15分35秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)15日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

 みなさま、お久しぶりです。

 実は、以前書いた記事「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? 0.5(れいてんご)」と新しく書いた「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ⑤」が消えてしまいました。原因は不明です。
 皆様からのコメントはプリントアウトして保存してあったので、復元可能なのですが、二つの記事はデータバックアップを取っていなかったために復元が不可能です。

 そこでお願いですが、もし「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? 0.5(れいてんご)」の内容をコピーしてとってある…などという変わった素晴らしい方がいらっしゃいましたら、どっかの記事のコメント欄にでも貼り付けて頂けないでしょうか?

 なお、「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか?」というテーマについては、自分なりにいろいろと考えることもありますし、このテーマになってからアクセス数も急増していますので、もう少し続けるつもりです。

 ちなみに消えてしまった「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ⑤」では、「神は自分を称えさせるために人間を作った」という言葉や今までの記事から、「神が世界を創造し続けている以上、人間もダイナミックに活動し続けることが重要である」というようなことを綴りました。

 そしてオスマン帝国の没落後のトルコ史、マムルーク朝後のエジプト史などにも少し触れながら、「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ⑥」につながっていくはずだったのですが…。
 結構長い文章だったので、消えてしまってショックです。

 ベリーダンスがよくおこなわれている国ということで、あとはモロッコ史などにも触れようかなと思っています。

 時間がかかると思いますが、「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ⑤」をとりあえずはもう一度打ち直してアップする予定です。

 それではまた。
PS:
 またもやgooブログアドバンスの調子が悪く、現在メールボックスが開けません。先月もこんなことありましたが…。
 というわけで、今日明日くらいは、isharq@goo.jpの方にメールを頂いても見られないかもしれません。
 連絡は、mixiのメッセージボックスか(mixi会員の方)、コメント欄か、携帯のメール(知っている方)の方へ連絡お願いします。
 大丈夫か、gooブログアドバンス?

コメント欄への書き込みありがとうございます。

2006年02月05日 07時15分23秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)6日 ヤウム・ル・アハドゥ(日曜日)

 二日ほどパソコンから離れている間に、コメント欄があんなに熱い展開になっていたとは知らずに失礼しました。

 シャディアさんには初めての書き込み以来、きちんとした返信をしていなくて本当に申し訳なく思います。
 
 また、無神さんにも、違った角度からのご意見を頂きありがとうございました。

 はでぃじゃねーさん、Amaniもありがとうざいました。

 ファーティマさんには、間違いのご指摘をお礼申し上げます。

 今日、仕事と道場が早く終われば、コメントへの返信をさせて頂きます。そちらが長引いたら明日以降になってしまうかもしれませんが…。

ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? 0(ゼロ)

2006年02月02日 21時45分15秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)3日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

 いろいろなコメントが寄せられ、論点が見えにくくなっているので、もう一度基本的なことを整理しておこうと思います。

 私が、「イスラム教徒やイスラム教に関心のある人くらいしか、こんなブログ読んでいないだろうな」と思いこんでいたのが失敗でした。ごめんなさい。

 思ったより多くの、非イスラム教徒の方も読まれているようなので、イスラムの基本的な部分を含めて、何が問題になっているのかをまとめておきます。
 ということで、①より前の段階の話なので、今回はタイトルの後ろに「0(ゼロ)」とつけてみました。

 すごく基本的なことから大雑把に説明するので、イスラム教徒の方は、いらいらするかもしれませんが、我慢してください。またあんまり細かいところで突っ込まないようにお願いします。

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 まず、ムスリマというのは、女性のイスラム教徒のことです。これはいいですか? そして、今問題になっているのは、ムスリマがベリーダンスをやっていいのかどうかということです。
 
 ですから、イスラム教徒でない女性がどんなに肌を出してセクシーにベリーダンスをやろうが、イスラム教徒としては知ったこっちゃないということになります。好きな方はどんどんやってください。

 ところが、イスラム教徒となると話は別です。
 イスラム教では、人間の言動を次の五つに分けています(一昨日も書きました。採録です)。
  1. 義務(やらなきゃいけないこと)
  2. 推奨(やった方がいいこと)
  3. 許容(やってもいいこと)
  4. 忌避(やらない方がいいこと)
  5. 禁止(やってはいけないこと)

 人間のある営み、たとえば、酒を飲むとか、踊るとか、車に乗るとか、そういうあらゆることをこの五つの分類に振り分けるわけです。
 といっても、実際は1、2、4、5が決まれば、それ以外は自動的に3になります。

 では、どのような基準で分類するのでしょうか?
 それは、まず『クルアーン(コーラン)』が基本です。イスラム教で最も大切な聖典、神の言葉を記録した本です。
 それから、いくつかの「ハディース」と呼ばれる文書群。聖預言者ムハンマド(SAS)が、どのような言動をしていたのかの記録書です。

 この二つにストレートに「やれ」「よし」「だめ」とか書いてあることはあまり問題になりません。
 ところが、これらの文書が成立してから、ずいぶん長い年月が経ち、新しいものがたくさんこの世に現れました。コーヒーとかとか電話とか。

 そのような新しく現れたものについて、たとえば「コーヒーを飲むことについて」『クルアーン』や「ハディース」を手がかりに、偉い学者さんたちが、五つのうちのどれにいれるかを決めるのです。
 これにはすごく時間がかかることもあります。場合によっては、判断が決まるまで数世紀かかることもあります。
 
 ですから「健康に良さそうだから推奨」とか、そういう基準ではないのです。
 例えば、豚肉などはビタミンB群豊富で、疲労回復には良いですし、私も好きですが、禁止といったら禁止なのです。

 一神教とは本来、そういうものなのです。神の命令で「ダメ」と言われたら、別に理由をあれこれ考えることはないのです。好きでもなんでも、酒はダメと言われたらダメ。

 日本的な感覚だと理解しがたいと思いますが。ちょっとした例え話として、上の五つの区分に、イスラム的価値観と、日本的価値観をあてはめて比べてみましょう。

【イスラム】
1.義務の例:一日五回の礼拝
2.推奨の例:義務以外の自発的な施し
3.許容の例:犬の肉を食べる
4.忌避の例:(しまった。ここだけ思い浮かばない。だれかヘルプ!)
5.禁止の例:豚肉を食べる

【日本】
1.義務の例:働く
2.推奨の例:親孝行
3.許容の例:豚肉を食べる
4.忌避の例:猫の肉を食べる
5.禁止の例:電車内で携帯電話で話す

 イスラムの場合は、きっちりと境界線が定められているのが特徴です。

 日本の場合は、はっきりとした境界線がありません。日本国憲法では「勤労の義務」などと言っていますが、実際は働かない若者も多いですし、働かなくても食っていける資産家は、働かなくても別に非難されません(疎まれるかもしれないけど)。
 親孝行も、なんとなくそんな感じになっています。人によっては義務だと言う人もいるかもしれません。これも境界線がはっきりしないからです。

 許容と忌避のところに注目です。イスラムでは禁止や忌避でなければ、逆に何を食ってもいいのです。犬だろうが、猫だろうが、禁止・忌避でなければ全然問題ありません。

 でも、日本では野良猫を捕まえて、包丁でさばいて食ったら、きっと大問題になるでしょう。マスコミも飛びつくかもしれません。「猫をさばいて食った男」とかね。で、評論家みたいな人が出てきて「世の中がだんだんおかしくなっている」みたいなことを、したり顔で言うわけです。
 しかしね。猫を食うことは別に法律で禁止されていませんよ。たぶん全国のどこの条例でも。
 にもかかわらず、猫を食うのはけしからんということになっている。もしかしたら、忌避ではなく禁止だと思われているかもしれない。

 そんなわけで、日本の基準は、なんとなく世間がそういう雰囲気だからという曖昧なものですが、イスラムでははっきりと区別することになっています。

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 イスラムではベリーダンスも1~5のどこかに分類されるはずなのですが、それが、3~5のどれなのだろう? というのがひとつの問題です。
 夫などの親族の男性を除いて、女性は男性の前で肌をあまり露出してはいけないことになっています。
 それを考えると、1や2はあり得ません。
 となると、3~5のどれかだということになります。ここが議論となっているのです。ですから、イスラム内部の問題とも言えます。
 ちょっと図にしておくと下のような感じでしょうか。

 問題になるのは、5という判断がなされている場合です。
 禁止なのに、なぜ、アラブの盟主とも言うべきエジプトやモロッコで、多くの人びとに愛されながらベリーダンスは普及しているのか。
 歴史的な経緯も含めてそこら辺を考えてみようと思っています。

 ということで、論点を二つ、最後にだめ押しでまとめておきます。

1.ベリーダンスは、「許容」か「忌避」か「禁止」か?
2.「禁止」だった場合、なぜベリーダンスが現実にムスリマの間に普及しているのか?

 今回も長くなりました。最後まで読んでくださった方、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。

たぶん投稿できない

2006年02月01日 19時48分42秒 | 未分類
重なるときには、いろいろ重なる。宴もたけなわではございますが、本日はたぶん書き込みできません。コメントくださった皆様ごめんなさい。ええと、コメント欄で自由にやっててもらっていいです。職場の歓送迎会みたいなこと言ってるな…