ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)18日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日) |
cizmaさん、昨日はシラットのご指導ありがとうございました。なんとか棒の型だけは覚えられそうです。
みなさんも「さすが日本のシラットの第一人者だなあ」と感動していました。
ぜひまた指導に来てください。私の方もぜひまた目黒道場へおじゃましたいと思います。
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さて、前回は図だけを掲載したので(実は単に時間が無かっただけ)、今回は例によって自分の考えをダラダラ綴っていきます。
多少時間がとれたので、前回の図に説明を入れました。図の下の文章からはエラソーな文体になります。
【イスラムのカタチについて】
①は仮に「イスラムの原初の姿」を表した図である。7世紀のアラビアでは、イスラムは、このようなものとしてスタートしたと仮定してみる。
中心の星が「イスラムの核」ともいうべき部分で、ここには「神の唯一性を信じること」とか「礼拝」「喜捨」などが入る。
時代や場所を問わず、不変でなければならない内容。
周囲を囲む濃い緑の縁が、イスラムの枠組み。原初はこのように丸い形だったと仮定する。
大学者ガザーリーの思想を拝借すれば、この枠組みは信仰と不信仰の境目ということになり、それをを定めるのが神学の役割ということになる。
聖預言者(SAS)が生きていた時代なら話は簡単である。
わからないことは聖預言者に尋ねればよい。クルアーンやハディースに「やたらと尋ねてはいけない」という戒めがあるにしてもである(クルアーン第5章:食卓章・第101節など)。
しかし後世になると、ガザーリーでさえ悩み続けたように、この境目を確定するのは簡単な問題ではなくなる。様々な神学が興亡した。
次に緑の枠内について考えてみる。ここには「相続の仕方」だとか「窃盗に対する罰」だとか「離婚の手続き」などの、近代法でいえば、民法や刑法にあたるものが入る。日常生活の上での注意についても該当する項目がある。
枠内の黄色や紫の星は「非ムスリム」を表す。ユダヤ教徒やキリスト教徒などである。
イスラムは聖預言者(SAS)が遣わされた当時から、非ムスリムと共存をしていた。
「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ②」で書いたことを思い出して頂きたい。イスラムは原初から「イスラム教徒100%」を目標としていたわけではないし、現実にもそうではなかったのである。
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【枠組みの誤差を縮める努力について】
②と③の赤いラインは、現実世界の枠組みを示す。イスラムで禁止されていても、酒や豚肉料理は存在し、それらをたしなむ人びとがいる。
また、イスラム原初にあった風習・文化・技術が失われたり、逆にイスラム原初には存在しなかった風習・文化・技術が現れたりして、世界の枠組みは確実に変化し続けている。従って、この赤いラインは刻々と変化をし続ける。
ここで言いたいのは、イスラム原初の枠組みを、ある程度は現実世界の枠組みに合わせざるを得ないのではないかということである。
「ムスリマのベリーダンサーはけしからんのか? ③」で書いた「誤差の調整」である。
では、なぜイスラムの原初の枠組みを、現実世界の枠組みなんかと調整しなくてはならないのか?
クルアーン第51章:撒き散らすもの章・第56節にはこう書いてある。
クルアーンの中で、アッラーが人間を創った目的が明記されているのはこの箇所だけである。いったい「アッラーに仕える」とはどのようなことなのか?
それは、アッラーを信じ、称えることであろう。クルアーンの中には何回も「アッラーを称えるよう」に記されている。そして、クルアーンには、創造の偉業について何度も繰り返し書かれている(第7章:高壁章:第54節など)。
ということは、アッラーの創造の業を称えなくてはならない。称えるだけでなく、それに対応しなくてはならない。
第10章:ユーヌス章・第4節には次のように書かれている。
あなたがたは皆一緒にアッラーの御許に帰る。アッラーの約束は真実である。
本当にかれは創造を始め、そしてそれを繰り返される。
これは信仰して善行をした者に、公正に報われるためである。
だがかれを信仰しない者には、煮えたった飲物と、痛ましい懲罰がある。これはかれらが不信心であったためである。 |
アッラーは創造を繰り返されている。変わりゆく現実世界も当然アッラーが創造を繰り返しながら顕現している。
しかしその一方、第113章:黎明章・第2節にはこう記されている。
つまりアッラーは、この悪や災難を含めつつ、この現実世界を創造し続けている。なぜ悪や災難まで創造するのか? 人間を向上させ、鍛えるためである。
となれば、現実世界の枠組みの中で、アッラーの恵みとして取り入れるべきものと、アッラーの与えた試練として取り入れてはならないものが混在する。
クルアーンや、ハディースをもとにそれを慎重に判断しながら、イスラムの枠組みと、現実世界の枠組みを調整しながら誠実に生きていくのが、ムスリムの使命なのではないか?
ただし、それをおこなうには生半可な知識や理性ではできないので、ウラマー(法学者)という存在が必要となった。神学はどちらかというと思弁的であり、実用的には法学が、信仰と不信仰の区別を判断することとなる。
ウラマーの起源は、聖預言者(SAS)時代に各地に派遣された「教える者」に求められるが、その後は、イスラムを深く学んだムスリムが周囲の尊敬を集めてウラマーとして認められるようになった。
しかし、いくらウラマーが下した判断であっても、誰もがそれに従えるわけではない。気持ち的に納得できないというケースもあるかもしれないが、それより人間の意思はそれほど強いものではないというのが主な理由だろう。
確かにクルアーンでは「アッラーが正義を命じた」(第7章:高壁章・第29節)という記述はある。
しかし、その反面「アッラーは、人間に能力以上のものを背負わせない」(第6章:家畜章・第152節)という記述も存在する。
人間は種種多様に創造された。それぞれの能力の中で正義に全力を尽くしていくしかない。自分が守れる正義を、他人も守れるとは限らないのだ。
そして、守れない人が多くなると、イスラム色は薄れる。図①に比べて、図②の緑の部分が若干薄くなっているのにお気づきだろうか?
それでも、イスラムの核である部分を守っている限りは、イスラムの根本的な危機にはならないはずである。図②ではそんなことを表現してみた。
なお、こういう時代には、ムスリムの中でも異質な者が現れる。世の中に動きがあるときには、そういう人間が現れ、ときには大きな業績を残したりするものだ。
長くなったので、そこら辺については次回に続く。
最後まで読んでくださった方、お疲れ様でした。