日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

続々・冬眠中の寝言

2005年11月30日 23時05分59秒 | 未分類
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)27日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

 ぐおー、ぐおー

 
 本屋に行ったら『世界遺産学検定』とやらの本が売っていた。常識だの色彩だの、何でも検定にするんだな。


 日本旗章学協会(国旗・旗を研究する学術団体)に属していたときに、「国旗検定をやりましょう!」と言ってメンバーに笑われたことがある。


 でも、今の世の中なら違和感なさそう。
 そのうちに「イスラーム検定」とかできたりして。


ふう、すぴー、はー、う~ん。胸

続・冬眠中の寝言

2005年11月29日 23時40分47秒 | 未分類
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)26日 ヤウム・ル・スラーサーィ(火曜日)

 クカー、クカー


 わーい、昼飯は松屋でヘルシーチキンカレー食うぞ


 ん? ヘルシーチキンカレーの写真の左下に小さな紙が貼ってあるな、どれどれ。


 「豚肉入り」


 ガーンガーン、ガーン、ガーン、ガーン、ガーン、

 

 チキンカレーに豚肉入れるなよ!! 食えないじゃないか…ごにょごにょ。すぴー、すぴー

冬眠中の寝言

2005年11月28日 22時33分48秒 | 未分類
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)25日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

ぐー、すぴー、ぐー、すぴー
 久しぶりに『コーランを読む』(井筒俊彦著、岩波セミナーブックス1)に目を通した。
 ムスリムになった頃に読んだきりだけど、今読み直しても新鮮。絶版なのが残念。
むにゃむにゃ…

映画「ALWAYS三丁目の夕日」からアラビア半島へ

2005年11月26日 23時56分40秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)23日 ヤウム・サブティ(土曜日)

 いやあ、よかった、「ALWAYS三丁目の夕日」
 言葉は乱暴だけど性根の優しい人々、訳有りだけど必死で生きる人々など、ベタなんだけど泣ける。
 あの時代に生きていたわけではないのに「ああこんな時代あったなあ」と実感してしまう。原作の漫画もいいけど、映画の方が、より感情移入してしまう。



 という気持ちを引きずったまま、『コーラン入門』を読む。
 昨日の投稿で触れたあたりをうろうろしているが、イスラーム以前のアラビアの人々のことを考えて感情移入してみた。


 当時の彼らにしてみれば、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの戦いは、世界の終末を思わせるくらいの不安だっただろう。


 そしてアラビア社会に広がる貧富の差。多くの庶民が何かにすがりたいような世の中だったのではないか?


 そうしてさまざまな宗教が現れ、最後にイスラームが勝ち残った。
 最後の預言者が7世紀のアラビア半島に現れたことの意味はなんだろう? そして、もう預言者が出ないことが確定して1400年も経ったことの意味は? 
 永遠に変わらない価値と、変わりゆく世界。どちらも神の意思。


 昭和30年代の日本もみんな必死で生きていたけど、7世紀のアラビア半島でもみんな必死に生きていたんだろうなあ。


 全部は書ききれないけど、いろいろなことを考え、感情移入しているうちに結局今日は3ページしか進まなかった。

超スロー読書

2005年11月25日 23時36分44秒 | 『クルアーン』
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)22日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

CLIPMAPIO(WORLD) の素材を Photoshop Elements3.0 で加工。

 おそろしく遅いペースで『コーラン入門』を読んでいる。


 地名が出てくれば、場所が気になるので調べ、クルアーンの文言が出てくれば気になってアラビア語と各種の訳を参照し…という感じで、亀さん状態だ。


 イスラーム以前のアラビア半島の宗教状況については文章でさらっと書かれても理解しづらいので、自分で調べて地図を描いた。ついでに、コンピューターでも地図を作ってみた(上の地図)。
 

 そして、クルアーンの方は、訳者が引用している第12章:ユースフ章の第106節が気になった。アラビア語の勉強を兼ねて考える。
 ジャーヒリヤ時代の多神教について触れた部分。


【第12章:ユースフ章 第106節】


وَمَا يُؤمِنُ أَكْثَرُهُم بِاللهِ إِلاَّ وَ هُم مُّشْرِكُونَ



ワ・マー・ユーミヌ・アクサル・フム・ビッラーヒ・イッラー・ワ・フム・ムシュリクーナ‎
  1. 【井筒俊彦訳】だいいち、大抵の者はアッラーなど信じてはいない。それどころか愚にもつかぬ偶像のひとつくらいに考えておる。


  2. 【日本ムスリム協会訳】かれらの多くは、アッラーを多神のひとつとしてしか信仰しない。


  3. 【医王秀行訳】人々の多くはアッラーを信じているものの、アッラーに仲間を作っている。



وَ  〔ワ〕



は、前の文章との関係で単なる接続詞「そして」なんだろうな。
で、次の



مَا  〔マー〕



は、過去の否定かな? でも、各種の訳は現在形で訳してあるな。



يُؤمِنُ – بِ =‏  〔ユウミヌ - ビ =〕





は、おそらく原形は、



آمَنَ - بِ =‏   〔アーマナ - ビ =〕




だろう。Ⅳ形だから、未完了形の三人称単数男性形かな。動詞文だから動詞の活用は単数形でいいんだよな。
意味は「―は=を信じる」だろう。
 主語の「―」にあたるのが




أَكْثَرُهُم   〔アクサル・フム〕




で、「彼らの多くは」だな、きっと。
「=」にあたる部分が




الله ُ‏   〔アッラーフ〕



「アッラー(神)」で、前置詞の


بِ   〔ビ〕




の後ろだから、主格が属格(所有格)に変わって、




بِاللهِ   〔ビ・ッラーヒ〕




となるわけだな。
ここまでを総合して訳すと、


①「(そして)彼らの多くはアッラーを信じない」となる。


 次に、



وَ هُم   〔ワ・フム〕




は、さきほどの「彼らの多く」と同じ人々を指しているではないか?
この



هُم   〔フム〕




にも



أَكْثَرُ   〔アクサル〕




がかかっているのではないかな?



مُّشْرِكُونَ   〔ムシュリクーナ〕




の原形は、Ⅳ形の動詞の



أَشْرَكَ   〔アシュラカ〕




ではないか? 未完了形の三人称複数男性形だな。今度は複数形でいいんだよな。
ええと、意味は辞書によると「仲間にする、分け前を与える」。
『コーラン入門』の注意書きだと「(神に)仲間を作る」ということになるな。
 そして、




إِلاَّ-‏   〔イッラー -〕




は「―を除いて、―以外に」という意味だから、この言葉以降をまとめると、



②「(彼らは)神(アッラー)に仲間を作ることを除いては」となる。


さっきの①と②をつなげると、


(そして)「②(彼らは)神(アッラー)に仲間を作ることを除いては、①彼らの多くはアッラーを信じない」となる。


日本語らしく整えたのが、それぞれの訳ということになるのだな。ふむふむ。


 ふう、独学でアラビア語文法を勉強するのは本当に難しい。


 という調子で、超スローペースで読んでいる。
 これで、『コーラン入門』の8ページ分くらい。全部で500ページ近くある本なのに、我ながら気の長い読み方だ。でも、きっといつか読み終わるだろう。

空手の世界チャンピオンになった彼を見て思う

2005年11月24日 23時22分00秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)21日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

 昨晩、なんとなく「トリビアの泉」を見ていたら、知人の空手家で軽量級世界チャンピオンの谷川光(たにがわこう)氏が出演していた。


 たぶん上の方から頼まれたのだろうけど、試し割り(板とか割ること)練習用具「しわりん」とやらをつまらなそうに何回も割っていた。う~ん、老けたなあ。


 空手を始めたばかりの彼が、ラーメン屋で「僕、将来は世界チャンピオンになりたいんです」と伏目がちにつぶやいたのはもう十数年前のことだ。


 その後いろいろあって大変だったが、本当に世界チャンピオンになり、押しも押されぬ超一流空手家となった。


 と言っても、大変だったのは彼自身であり、別に私が彼の空手人生になんの貢献をしたわけでもないけど。どちらかというと常に一定の距離を置きながら迷惑ばかりかけ続けてきた。
 現在では私に替わって、中学校時代の悪友が谷川道場に入門して迷惑をかけている。


 その悪友から聞き及んだところによると、谷川氏が「○○さん(私の本名)は、いい指導者と出会えて、もう少し努力していれば一流選手になれたはずなんですけどねえ」と言ってくれたらしい。


 しかし、それは「もう少し鼻が高くて、目がパッチリしていて、唇がしまっていて、髪の毛が薄くなければいい男なんですけどねえ」と言われているのと大して変わらんような気がする。


 「出会いの幸運」や「努力できる才能」には、やはり人によって大きな差がある。
 それは人智の及ばない大きな力によるものだから、うらやんでも仕方ない。自分の中で折り合いをつけるしかない。
 そして、人智の及ばない大きな力こそが神なのだと思う。


 彼は名前からして神に愛されそうである。「光」だもんなあ。
 クルアーン第24章:御光章の第35節から第40節にはアッラーの光について述べられている。
 第40節の最後には、「アッラーが光を与えられない者には、光は無い」と記されている。
 御光章については、ここで私がたわごとを言うより、はでぃじゃねーさん(頭いいのに青汁が嫌い)のブログの記事を読んで頂いた方がためになる→nun:24-35


 そういえば『コーランの世界』(大川玲子著:河出書房新社)の115ページには、「光の章(御光章のこと)」というアラビア書道の作品が掲載されている。大変美しい作品で、ぜひ一度実物を拝見したい。


 なんだかまとまりの無いことを書いた。「トリビアの泉」を見て、まさかこんなことを考えることになろうとは思ってもいなかった。

リチャード・ベルの『コーラン入門』

2005年11月23日 23時51分11秒 | 『クルアーン』
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)20日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

 昨日のブログで触れた『コーラン入門』を読み始めた。

 興味深い部分は多々あるが、最初の方に出てくる、第30章:ビザンチン章の解釈については考えさせられた。


 
1.غُلِبَتِ الرُّومُ





2.فِىَ أَدْنَى الأَرْضِ وَ هُم مِّن بَعْدِ غَلَبِهِمْ ‏سَيَغْلِبُونَ



1.グリバティ・ッルーム
2.フィーーー・アドゥナ・ル・アルディ・ワ・フム・ミン・バアディ・ガラビヒム・サヤグリブーナ




一般的な訳(今回は井筒版)だと、


1.ギリシア人は打ち負かされた。
2.この国の近くで。だが一度は負けても、またきっと勝つ。




ところが、ベルの解釈だと、


1.ローマは勝利した。
2.すぐ近くの土地で。だが勝利の後、彼らは敗北するであろう。



ということになる。


 「ギリシア人(ローマ人)」とは、章名にもなっているビザンチン帝国(東ローマ帝国)のことだが、「ビザンチンが最終的に勝利して喜ぶ理由がムスリムには無い」というのがベルの主張。


 確かに、629年のムータの戦いではムスリム軍はビザンチンに敗れているし、その後のイスラームとビザンチンの関係を見ても、1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落・ビザンチン帝国滅亡まで対立は続いていく。


 しかし、



غُلِبَتِ ‏(غُلِبَتْ)‏  〔グリバティ〕





だと、




غَلَبَ‏  〔ガラバ〕「打ち勝つ、征服する」




受動態三人称女性単数形で「打ち負かされた」となり、一般的な訳の方がふさわしい。


 『コーラン入門』には詳しい説明は書いていないが、ベルは、母音記号の打ち方自体に疑問を持っているのだろうか?
 ベルの解釈なら、




غَلَبَتِ(غُلِبَتْ)‏‏  〔ガラバティ〕「打ち勝つ」





という、能動態三人称女性複数形になると思うんだけど。


 クルアーンの成立過程の中で、母音の振り方が確立していったとしたら、どこかで本来の意味から変わった可能性はあるのかもしれない。


 同様に第3節も、


سَيَغْلِبُونَ  〔サヤグリブーナ〕「勝つだろう」




という能動態直説法三人称男性複数形ではなく



سَيُغْلِبُونَ  〔サユグリブーナ〕「打ち負かされるだろう」





という受動態直説法三人称男性複数形になるのではないだろうか?


 第2節では、ローマが国名だから女性単数形を使い、第3節では国民全体ということで、男性複数形を使っているのかな?


 中途半端な知識であれこれ考えてみたけど、クルアーンを解釈する上で、文章の外形からいろいろ考えてみるというのも有効だし、なかなか面白いと思った。暗記の手助けにもなりそう。


 それは信仰的な見方というより歴史的な見方かもしれないが、いろいろと頭を使った後で最後は信仰に戻ればOKなんじゃないかと勝手に納得している。



(アラビア文字、読み方、文法など間違えている部分があったら指摘してください。)

意地で更新しているブログだけど

2005年11月22日 23時57分47秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)19日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

 どこかの寺の坊さんがこんなことを言ったという話を聞いたことがある(いきなり仏教系の話で恐縮)。


  いし(意思)が濁ると、いじ(意地)になる。
  くち(口)が濁ると、ぐち(愚痴)になる。
  とく(徳)が濁ると、どく(毒)になる。



 このブログは「毎日更新しよう!」という意思で始めたが、その志にも濁りが出てきて、最近では書くことが無くて苦しくても意地だけで更新しているのかもしれない。中身がとても薄くなった。


 毎日更新しているわけではないけど「面白いなあ」と感じるブログと対照的だ。でも、やはり毎日更新にこだわってしまう。そこでひとこと。


 いじ(意地)でも、長く続けば「いーじー(easy)」となる。


 う~ん、なんだかよくわからないか。イマイチ。毎日更新するのは、今のところ難しいけれど、そのうち楽になるということで…って説明すると無粋だね。


 『コーラン入門』(リチャード・ベル著、医王秀行訳、筑摩書房)という本を読み始めた。「入門」と言っても、なかなか奥の深い本で、押韻についての説明などは読んでいて「なるほどこういうことだったのか」と溜飲が下がった。
 ヨーロッパの非ムスリムの研究なので、信仰という面から見たら「?」な面もあるかもしれないが、でも面白い。
 最近本を読む時間が無かったけど、明日は少し腰をすえて読んで見ようと思う。

記憶力の偏り

2005年11月21日 23時59分15秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年シャッワル(10月)18日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

 今日は、クルアーンの章名のアラビア語も全て覚えた。


 数字と言葉が一対一対応になっているような単純なものの暗記は、なぜか昔から得意である。歴史の年号を覚えるのとかは苦にならなかった。
 なんとなく数字からイメージが湧いて、言葉とガッチリ結びつく。
 だから、クルアーンの章名を覚えるのも、やってみたら意外にあっさり覚えられた。
 ところが、化学の周期表になると全然覚えられない。不思議だ。


 文章のようなものを暗記するのも苦手である。
 その傾向は今でも残っているようで、クルアーンの本文の暗記が進まないのかもしれない。でもチャレンジするけど。


 数学の公式に至っては、覚える覚えない以前に、最初から脳ミソに届いていないような気がする。三角関数だの二次方程式だの、あんなものを暗記できる人間の頭はどうなっているのか?


 人の顔を覚えるのは得意だと思うが、もしかしたら私を取り巻く人々がみな個性的な顔をしているだけかもしれないので断言はできない(って失礼か。)


 東京の鉄道は何度乗っても覚えられないし、新宿駅は何度行っても迷う。
 そのくせ、世界の国旗は全て暗記している。


 やはり人それぞれ、覚えるのが得意なものと苦手なものってあるんでしょうか?
 良かったら参考までにコメントお願いします。