一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『靖国問題』を読む。その2

2005-06-18 00:12:53 | Book Review
前回「その1」で、著者の指摘した問題点を整理した。

そこで、小生の見解だが、まず(1)および(2)は、まとめることができると思う。
すなわち、社会的な存在として「靖国神社」は、どのような施設であったか、ということである。

まず、事実認識として、思想的な立場を問わず、「靖国神社」は「顕彰」のための社会的施設であったことは認めざるを得ない、と思う。
理由は著者が述べているとおり 。

傍証としては、本書では明確には触れられていない事実として、「靖国神社」が内務省・陸軍省・海軍省三省の管轄であったことを挙げておく(一般の神社は、内務省のみの管轄)。
また、合祀を行なうのは天皇の命令があってのことで、その後に初めて神霊となることも傍証の一つになるだろう(原理的には、陸海軍省や天皇が祀るにはふさわしくないと認定すれば、戦死者であっても合祀されないことになる)。

ブログでどなたかが書いておられたが、まさしく「靖国神社」は「霊的軍事施設」だったわけだ。

ここで反論が出てくるだろう。つまり、
「それは戦前・戦中の話で、宗教法人となった現在では、単なる『追悼』のための施設ではないのか」
ということである(首相の靖国公式参拝の根拠も、ここに置いている)。そこで、著者の指摘する(3)の問題に移ることになる。

まず「追悼」を目的とする施設ならば、遺族の意志が何よりも尊重されるべきであろう、と小生は考える。
したがって、遺族が今のままの祀られ方で良いのなら、それはそれで他人の容喙すべきことではない(ただ、「靖国神社」に祀られていることの意味を理解してほしいと願うだけである)。また、遺族が合祀されたくない、とするならば、分祀すべきであろう。

しかし、実際には「靖国神社」側は、それを認めていない(旧植民地の人びとのみならず日本人であっても。誰を祀るかは、神社側の勝手=「教義」というわけだ)。
ー―「教義」をはっきりと示さずに、一方的に信者(正確には「崇敬者」)にしてしまう宗教というのも妙な話だが。
というのも、遺族の「追悼」の意志を認めてしまうと、「顕彰」目的が達成されないからである。
つまりは、「靖国神社」の教義=「顕彰」目的は、遺族の意志=「追悼」目的と矛盾する場合があるのだ。

これでも今の「靖国神社」は「追悼」のための施設ということが可能であろうか。
「靖国神社」は依然として
「身命を国家のために献げ、赤心(せきしん)をもって皇室に奉仕した忠勳の士を神と齋(いつ)き祀る」
こと=「顕彰」を目的とした宗教施設なのである。

(4)の文化の問題か政治の問題か、ということに関しては、現在のところ、小生には成案はない。したがって、ここでは触れない。

「国立追悼施設の問題」についても同様。

ただ、戦死者および戦災死者を「戦後日本の繁栄の礎となった尊い犠牲者」とするならば、彼らのためにも戦争の主体であった「国民国家」を乗り越える方策を考えるべきであろう、と思う。

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