一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「つむじ曲がり」の効用 その1

2005-09-29 00:02:00 | Essay
  惠子謂荘子曰、子言無用、荘子曰、知無用、而始可與言用矣(『荘子(そうじ)』)
(惠子(けいし)が荘子(そうし)にむかっていった。「あなたの話は(現実離れで)実際の役には立ちませんね。」荘子は答えた。「役に立たない無用ということがよくわかってこそ、はじめて有用について語ることができるのです)
と、荘子が惠子に答えた時から、既に「無用の用」は「より大きな有用性」という概念に掠め取られてしまっている。

荘子は言う。
「いったい大地はどこまでも広々として大きなものだが、人間が使って役立てているのは足でふむその大きさだけです。しかし、そうだからといって、足の寸法にあわせた土地を残して、周囲を黄泉にとどくまで深く掘り下げたとしたら、人はそれでもなおその土地を役に立つ有用な土地だとするでしょうか」
ああ、荘子よ、おまえもか、と言いたくなる。

ましてや、合理主義・能力主義の追及に汲々たる現代人においておや。

エリートばかり集めた営業所はかえって成績が上がらず、1人2人の能力の劣った人間を入れた方が、かえって成績もよくなる、とか、ブナの木は木材としては使えないが、水源資源確保のために役に立つ、とか、所詮は「無用」は「用」のダシとなるか、「無用」の「有用さ」を訴える言説ばかり。

「無用」は「無用」のままで、屹立とした意味がある、という論はないのか。

と他に期待していても仕方がないので、以下、「無用」に関して、いささか考察してみることとする。
題して、「つむじ曲がり」の効用。

本論は次回から。
諸子、刮目して待つべし。