著者が、北は奥州から南は島津領薩摩までの、秀吉による〈刀狩り〉を調べた結論はこうだ。
1. 〈刀狩り〉では、百姓の刀・脇指が没収され、上納された。
2.しかし、百姓たちの刀・脇指が根こそぎ没収されたわけではない。
3.〈刀狩り〉の目的は、武家と百姓を峻別することであった。
4.神事や仏事のための武具は免許により、所持を許可された。
以上のことより、〈刀狩り〉以後も村々には多数の武器が保有されていたことがわかる。
であるから、村と村との水争いや山野利用権の争いでは、所有された武器が使用された。
それを著者は〈村の戦争〉と呼んでいる。
「〈村の戦争〉を〈村の平和〉に転換させるプログラム」が必要とされる。それを著者は〈喧嘩停止(ちょうじ)令〉と呼ぶ。
つまり、武士と農民という身分区別のため、帯刀の習俗は制限するが、村落自衛のためや、害獣を追い払うための百姓の武器保有は認める(「武器の剥奪」ではない)。
しかし、その武器は紛争解決や人身殺傷の目的では使わせない(武器使用目的の制限)。
というのが、〈刀狩り〉と〈喧嘩停止令〉とをワンセットにした、秀吉の政策だったのである。
*方広寺大仏殿の復元図(右は大坂城天主)。〈刀狩り〉によって集められた刀剣は、この大仏殿建設のための釘・かすがいに使われると称せられた。
1. 〈刀狩り〉では、百姓の刀・脇指が没収され、上納された。
2.しかし、百姓たちの刀・脇指が根こそぎ没収されたわけではない。
3.〈刀狩り〉の目的は、武家と百姓を峻別することであった。
4.神事や仏事のための武具は免許により、所持を許可された。
以上のことより、〈刀狩り〉以後も村々には多数の武器が保有されていたことがわかる。
であるから、村と村との水争いや山野利用権の争いでは、所有された武器が使用された。
それを著者は〈村の戦争〉と呼んでいる。
「数多くの村々は、たがいに弓・鎗をそろえ、馬にのって合戦を交え、あげくは、双方ともに数多くの死傷者を出した。刀狩り後の村にも、それだけの武器があり、戦いの体験も豊かに貯えられていた。」
「〈村の戦争〉を〈村の平和〉に転換させるプログラム」が必要とされる。それを著者は〈喧嘩停止(ちょうじ)令〉と呼ぶ。
「刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法ではなかった。だからこそ喧嘩停止令は、村に武器があるのを自明の前提として、その剥奪ではなく、それを制御するプログラムとして作動していた。百姓の手元に武器はあるが、それを紛争解決の手段としては使わない。武器で人を殺傷しない。そのことを呼びかける法であった。」
つまり、武士と農民という身分区別のため、帯刀の習俗は制限するが、村落自衛のためや、害獣を追い払うための百姓の武器保有は認める(「武器の剥奪」ではない)。
しかし、その武器は紛争解決や人身殺傷の目的では使わせない(武器使用目的の制限)。
というのが、〈刀狩り〉と〈喧嘩停止令〉とをワンセットにした、秀吉の政策だったのである。
以下、続く。
*方広寺大仏殿の復元図(右は大坂城天主)。〈刀狩り〉によって集められた刀剣は、この大仏殿建設のための釘・かすがいに使われると称せられた。