一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「現代音楽」を聴く難しさ

2005-09-27 01:09:56 | Criticism
吉田秀和氏は、エッセイ「新音楽への視野」(『吉田秀和全集3』所収)で、
「現代音楽はむずかしいといわれている。旋律らしい旋律がない。古典やロマン派の音楽のように気持のよい、きれいな響きがしなくて、何かわけのわからない、きたない音がするなど、要するに『音楽らしい』ところが少ない」
ことが、とっつきにくいと思わせる原因であると書いている。

それは「慣れ」の問題でもある、と吉田氏は説く。
「昔からある作品(一風斎註・ゲーテの詩、シェイクスピアの演劇、ドストエフスキーの小説、レンブラントの絵、ゴチックの彫刻)はみんななんとなく慣れてしまっている。だからわかるような気がしているだけなのだ」。
けれども、それを本当に「慣れ」の問題に還元できるのか。

現代音楽とは何か、ということはさて置こう。そうしないと、議論が脇道に逸れるばかりで、前に進まない。
ここでは、第2次世界大戦後に作曲された音楽、とザックリした共通認識に留めておきたい。

このような現代音楽に共通する特徴は何か?

吉田氏の前述の文章に基づき、整理すれば、

(1) 旋律らしい旋律がない。
*無調・12音技法・セリエリズムなどなど
(2) 古典やロマン派のように気持のよい、きれいな響きがしない。
*上記の音楽語法による機能和声の否定
(3) わけのわからない、きたない音がする。
*(2)に付け加えるに、新楽器(ミュージック・コンクレートや電子音楽も含む)・新奏法・民族音楽の取入れや組込み
ということになる。

その原因としては、常に作曲家は新しい表現を求めているからだと言えるだろう。
考えるに、背景にあるものは、1つは、芸術の価値がオリジナリティにあると、より強く意識されるようになったということ。もう1つは、聴衆に新しい価値観なり美意識なりを突きつけたいから、ということであろう。
要するに「尖った音楽」がベストという価値観ですな。

従来の音楽観を壊したくない、という態度が、クラシカル音楽の聴衆に根強くあるのは否定できない。
―ー文藝批評の語をもじれば「聴衆反応批評」(lisener-response criticism) における「修辞的な示し方」(rhetorical presentation) を享受する層ということになりますか。
これに対して「尖った音楽」=「弁証法的な示し方」(dialectical presentation) を良しとする層もある、というわけ。

この前者に対して、「慣れれば難解でも何でもなくなりますよ」、という形での啓蒙活動は、ある種の不毛ではないかと思える。

吉田氏が、
「難解だといわれる現代音楽の中にもバッハやモーツァルトよりは、はるかにやさしいものがたくさんある。ただ、その音が新しいので、聴き手の理解がききにくい音のその先にある精神的な内容の問題を考えるところまでとどかないのだ」。
と、いくら「修辞的な示し方」を享受している層に向け発言しても、彼らは言うだろう、おそらくは物理的に音楽が聴けなくなるまで。
「おっしゃりたいことは良く分りました。けれども、私は、自分がこうであってほしいという世界を疑似体験し満足するタイプですから」
と。

啓蒙活動が不毛であるとすれば、どうすれば良いのか?

小生、その根が、学校教育を含めた音楽教育にあると思っているので、まず短期的な戦術は無効であろうかと思う。

では、長期的な戦略は、どの辺にあるのか?

それは、次の機会に。