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脱ネガティブを計るべく、浮きつ沈みつ漂う女の戯言日記

消えた雑草

2008-09-28 | 戯言あれこれ
10日ほど前出勤しようと玄関の鍵をしめていた際、ふと入り口脇の
植込みを見ると雑草が綺麗に無くなっていた。
前日の夜帰宅した時には暗くて気がつかなかったので、子供に
「雑草抜いてくれた?」と聞くと知らないとの返事。
時間がないのでそのまま出かけたものの、夜帰ってきたら子供が
「お母さん、庭の雑草も全部無くなってるよ。」と言うではないか。
慌てて窓を開けて覗いてみると、ほんとに綺麗さっぱりと片付けられて
いたのでビックリ。
抜いても抜いてもすぐに伸びる雑草くん。背丈が増すのを横目で
見ながら、残暑厳しくついつい涼しくなったら・・・と先延ばしにして
いたのだけれど、助かったとはいえ知らないうちに無くなってしまうと
やはり何だか気味が悪い。

最近お隣さんが引越したので、考えられるとしたら大家さんが隣を
片付ける際一緒にうちもやってくれた・・という事なのだろうけど、
それならそれで事前に電話くらいくれればいいものを。
昨日家賃を払いに行った時(うちは大家さんへ手渡し。)聞いてみようと
思っていたら、私の顔を見るなり大家さんの方から説明してくれた。
「声かけたけど留守だったから、ついでに一緒にやっちゃったのよ~。」
・・・と(笑)
予想通りの結果で面白くもなんともない話だけど、私としてははっきり
原因がわかってスッキリ。もし大家さんに知らないと言われたら、怖くて
家にいられなかったかも。
雑草との格闘は、またしばらく先で済みそうだ。

しかし今日も寒いな~。突然寒くなりすぎで、着るものとか寝具とか
生活面の切り替えがついていかない。
今夜は久々におでん。寒いのは苦手だけど、おでんとかお鍋とか
シチューとか、冬のメニューには心躍るものを感じる。
あぁ、おでんに辛子をたっぷりつけてヒーヒー言いながら熱燗を
飲みたい!(笑)


HEDWIG AND THE ANGRYINCH

2008-09-27 | 本・映画
「ヘドウィグ・アンド・ザ・アングリーインチ」が急に観たくなりDVDを
引っ張り出した。
好きな映画は?と聞かれてまず頭に浮かぶ一本。でも好きなものほど
感想なんてうまく出てこなくて、これまでずっと書けずにいた。
ストーリーは改めて書かないので、興味のある方はお調べを。

サントラのCDは散々聴いてるけど歌詞の意味はうろ覚えだったので、今回
改めて字幕を読みながら曲を聴いてその内容を噛み締めた。
どの曲も大好きなのだけれど、特に詩が好きなのは「ORIGIN OF LOVE」。

”人には3つ性があった
 男と男が背中あわせ
 その名は「太陽の子」
 それと似た形の「地球の子」は
 女と女が背中あわせ
 そして「月の子」はフォーク・スプーン
 太陽と地球 娘と息子の中間”

神によって2つに引き裂かれた2人は、堅く抱き合い元に戻ろうとした。
それがセックス。メイク・ラブ。
愛の起源。こうして愛は生まれたよ。
・・・この曲は映画に出てくるアニメーションと一緒に観ると、更に
魅力倍増。ヘドウィグが腿に入れてるタトゥーがいい。

「WICKED LITTLE TOWN」はヘドウィグとトミーバージョンで歌詞が
違うけれど、どちらも切なく胸に染みる。

”他に何もできないのなら
 私の声を追いかけてみて
 この薄汚れた街の
 暗い曲がり角と喧騒の中”

ヘドウィグが初めて彼女のライブを観たトミーに顔を拭ったタオルを
投げると、そこにはメイクがそのまま移され彼女のセクシーな表情が。
現実にはあり得ない事態なのだけど、とっても好きな印象に残るシーン。
トミーを見つめながら歌うヘドウィグの瞳が、とても優しくてチャーミング。

「UNGRY INCH 」はむしゃくしゃした時に大音量で聴くと最高。
「MIDNIGHT RADIO」の広がりと美しさに涙。
ああ、どの曲にもシーンにも思い入れがありすぎて、とても書ききれない!

失われた自分の「カケラ」を探し求めたヘドウィグ。
私もずっと自分はどこか欠けていて、そのカケラが見つかれば満たされると
いう思いを持っていた。どこかに必ずカケラはあるのだと。
でもいつまでたってもカケラには出逢えず、そうしてやっと気づくのだ。
何かによって満たされるのではなく、欠けているありのままの自分自身が
不足していてもまた完全であるのだと。

ヘドウィグはトミーに叫んだ。「私の股間も愛して!」と。
私はGIDではないけれど、このシーンはとても胸に突き刺さった。
以前お付き合いした人は私の部分しか見てはくれなかった。
全てを愛してくれなんて言わない。全部じゃなくていい。
でも私の全体を見て!そこにあるものを無いものとしないで。

「ヘドウィグ・アンド・ザ・アングリーインチ」は自分探しの映画だと言う。
ラスト全てを削ぎ落とした己のままの姿で歩くヘドウィグは、神々しくて
また新しくそこに生まれたかのようにも思える。
愛を求めて彷徨ったヘドウィグ自身が、何よりも優しさに満ち愛そのもの。

この記事を書こうと思って再びDVDを観てたらまた泣けてきた。
何度観ても泣けてしまう、大好きな映画だ。




道探し

2008-09-24 | 子供と家族
ここ数ヶ月の間、子供の進路を決めるべくあれこれと動いている。
資料を取り寄せ、見学に行き、個別の相談を申し込み・・・。
それぞれの学校にいろんな特色があり、内容は様々。
行きたいところに入れるかと言えばそう簡単にはいかず、右に行ったら
左へと言われ、左へ行けば右へと言われる日々。
どこへ行ってもお子さんにはもっと違うところの方が相応しいのでは
ないですか・・と。
健常と障害のどちらにも完全には当てはまらない、狭間の我が子。
でもここにこうして確かに存在するというのに。

今日は一番期待していた所から否定的なお返事をされ、意気消沈。
どうするのが良いのか自分も段々わからなくなってくる。
しかしまだ可能性が無い訳ではないので、凹んでいる場合じゃない。
私が不安定になるとそれは子供に伝わるから、すぐに沈みそうになる
この気持ちを奮い立たせて前へ進まなければ。

道はきっとあるはずだから。


褒めて育とう

2008-09-23 | 戯言あれこれ
ここしばらく低迷していた間、人と関わるのも苦痛でどんどん殻に
籠もって行っていた。
行き場のない方向へ自分を追い詰めるのは、他でもない自分自身
なのであろう。
そして更に煮詰まってはまた逃げ場を失くす。

随分前に約束をしていた友人と会う日が近づき、私は外へ出なければ
と思う気持ちとそのまま約束を無しにして逃げ出したい気持ちとで揺れていた。
でも丁度その頃いろんな歯車がまた動き出す予兆があり、どうにか
自分を引っ張り出し待ち合わせの場所へ出かける事が出来た。

そしてその夜は心配が嘘のようにとても楽しくいろんな話をし、時間は
あっという間に過ぎて行った。
久しぶりに会った友人からの言葉は私に元気と自信をくれ、同時にああ
人は一人では生きていけないって言葉はやっぱり本当だなぁ・・なんて
事を痛感した。
一人で頑張っているつもりでもその実いろんなものに支えられながら
私は生きていて、そんな当たり前の事さえすぐに見失う。

褒められたり認められたりすると嬉しいものだ。
よく子供は褒めて育てろ・・と言うけれど、それは大人も同じなんだと
しみじみ思う。
逝ってしまったあの子を、もっと褒めてあげれば良かった。
よくやってるね。ちゃんとわかってるよって。
何気ない言葉の数々に助けられ、私はまた前へ進む事が出来ている。
豚もおだてりゃ木に登る・・・だ(笑)でもそれは大事。

ブログを止めようと思った時、待っていると言って下さった方がいた事も
本当に嬉しかった。ありがとう。ありがとう。
またボチボチと呟いて参ります。


この記事を先に書きかけてあったのだけれど、途中で福岡の事件を知り
一つ前の記事から書いてアップした。
私が感じていたいろんな想いと今回の事件に、とてもシンクロする部分を
感じたから。
あのお母さんはきっと頑張りすぎたのだろう。誰もそれを褒めてはくれ
なかったのだろう。
子供をもっと褒めてあげたい。周りにいる頑張っている人達を認めて
あげたい。私がそうして生かされているように。
褒めて育とう。育てよう。




母性神話

2008-09-23 | 子供と家族
福岡の小学一年生の男の子の殺害事件。
犯人が母親だと知りショックだった。しかもそのお子さんには軽度の
発達障害があり、小学校の特別支援学級に通っていたとの事。
同じ状態の子どもを持ち日々奔走している自分には、他人事とは思えず
やるせなさが胸中に広がっている。

そこに至るまで何があったのか、本当のところは当事者のみにしか
わからない。でも人々は口にする。「母親がそんな事をするなんて。」
「わが子を手にかけれるなんて。」
こうなる前に周りに助けを求められなかったのか、他に方法があった
んじゃないか・・と。
すぐそこにあるはずの支援の手は、見えなかったり届かなかったり。
助けを求める術さえ見失った人の気持ちは、経験した事のないものには
わかるまい。
私は幸いな事に行き場の無さに自分の死を考えた事はあっても、まだ
子供を手にかけようと思った事だけは無い。
子供の人生は私のものでは無く子供自身のものだから。でも私が今
いなくなったらあの子はどうやって生きて行く?これまでより更に辛い
人生になる事は間違い無い。
そう思うと、死ぬ気になればもっと出来る事はあるさ・・と考えを改めては
乗り切ってこれた。
理解の声が同情や憐れみに聞こえる時もあれば、励ましの言葉が努力が
足りないと責められているように聞こえる時もある。
その時の自分の状態で、事態はどんな風にも変化するのだ。このお母さん
には、その瞬間何もかもが絶望にしか見えなかったのではないか。

それでも彼女のした事は大きな間違いで、絶対にやってはいけない事だと
思う。でも私と彼女のどこが違うかと言えば、その差は紙一重でしかない。
彼女は進むべき道を誤り、かけがえのないものを失った。
今彼女の胸をよぎるのは、途方も無い喪失感とこれまでの苦しみからの
開放感か。そして更にまた新しい、これまで以上の苦しみがもう訪れている
のだろうけれど。

母親ならば無条件で子供を愛せるとか、常に子供が一番だなんて母性神話
は嘘っぱちだ。
母親だからって完璧ではないし、何もかも嫌になったり全てを投げ出したく
なったりする事もある。
だからこそ私は自分自身の弱さからも子供を守りぬき、愛して行きたいと
そう思う。

亡くなったお子さんのご冥福をお祈りします。
そしてお母さんの心にいつの日か安らぎが訪れますように。




クライミング

2008-09-23 | 戯言あれこれ
沈んで行く時はどこまでも底無しで、どれ程もがいてもただただ
どんどん落ちて行くばかり。
浮上しようと手を伸ばしても、掴むものが見当たらない。
でも一番下まで行ったならそこには足に当たるものがあって、
それを蹴った反動で上に行ける気がした。

蹴り上げるのさ、思いっきり。
そして手に触れる出っ張りは何でも掴んで、足を掛けては
また上の出っ張りを探そう。
途中で転がり落ちたらまた上がればいい。
さぁ。行こうじゃないか。