中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(十七) 第五章 元代の大都(5)

2023年06月12日 | 中国史

元代『冬日戯嬰図』(台北故宮博物院蔵)

第二節 大都の政治経済情況

 

 

経済概況と住民の生活(続き)

 市民生活 大都は元代の多民族国家の縮図で、城内では各民族が雑居していた。契丹、女真、渤海などの民族が長い間漢族と雑居していた外、統治民族として、大量のモンゴル人が北京に住み、漢人と隣り合って暮らしていた。元朝中期、漠北草原が大風雪に被災し、また叛乱を起こした王による攪乱(竄cuàn、簡体字は「窜」)もあり、モンゴルの遊牧民たちが次々南下し、通州一帯に留まり、いたるところに逃れてきた「押当赤」(モンゴル語で貧困者の意味)がおり、元朝政府は彼らのため食糧を支給し、救済した。また特に蒙古侍衛軍を置き、収容した。タングート唐兀人)、ウイグル(畏吾人)の元朝宮廷に出仕する者がたいへん多かった。大都城の西北の畏吾村(後に訛って魏公村となった)は、ウイグル(畏吾人)が集まって住んだことからこう名付けられた。モンゴル人はラマ教を崇拝していたので、チベット僧で北京とチベットの間を行き来する者がこれまでに無く増加した。各民族の間の密接な交流は、互いの文化交流と伝統的な友好を促進した。この他、モンゴル人の三回に亘る征西と、元朝皇帝が四大汗国の中の宗主の地位を得たことから、大都城内には、また大量の中央アジアの各民族の人々が集まった。彼らは当時、「色目人」と総称された。その中には、康里人(古代の高車人の末裔)、欽察人(キプチャク人)、ロシア人、阿速人(アスト部。15世紀から17世紀にかけてモンゴル高原で活動した遊牧部族で、本来は西方のカフカース地方に住まうアラン人の別称)、突厥蛮(トルクメニスタン人)、イラン人などが含まれ、習慣上、彼らはまたしばしば「回回人」と総称された。1263年(中統4年)の統計によれば、当時中都路には全部で 回回人戸が2953戸あった。そのうちの多くが豪商や大商人、権勢も兼ね備えた家であった。(王惲 『秋澗 先生大全文集』巻88『烏台筆補』)こうした人々は特権を傘に、「物の売り買いを行い、様々な方法で人々の利益を奪い取り、しかも賦役は少しも負担しな」かった。権勢家や豪商以外に、色目人の技術者、軍士、奴隷も、中都でたいへん大きな比率を占めていた。これに加え、遠路はるばるヨーロッパ、アジアより来た商人、ローマの宣教師、各国の使節が雲集輻輳し、大都を当時の重要な国際政治と貿易の中心にした。

 

 『元史・地理志』によれば、大都路総管府は右、左二つの警巡院と六県十州を管轄した。(六県は、大興、宛平、良郷、永清、宝坻、昌平。十州は、涿州、覇州、通州、薊州、漷州、順州、檀州、東安州、固安州、龍慶州。)州は十六県を管轄した。人戸は総計147590、人口は401350であった。右、左の二つの警巡院はそれぞれ城内の坊に住む市民の事を分担して管理する機関であった。新城には計50坊、旧城には計62坊あった。坊にはそれぞれ名前があり、いくつかの坊名は相変わらず昔の幽州の旧名を踏襲していた。都市の治安を司るのは大都兵馬司で、軍兵2千を従え、専門に泥棒を取り締まった。

元大都路行政管轄区示意図

 元王朝の京城として、大都の城内には貴族、官僚、富豪が集まり、大量の貧しい都市住民、地位の低い奴隷も生活し、階級対立が鮮明であった。重い賦役と高利貸しに搾取された貧しい人々は、しばしば破産し、奴隷に没落した。翰林学士の 王惲(おううん。号は秋澗先生) は上奏文の中で言った。「必ず都の貧しい庶民を見るべし、或いは事故により、しばしば有力な家で身を質に入れ奴隷となる。長春一宮の如きは約三十余人、元は約束を満たしていたが、主に返却できず。ある父子夫婦の到っては数年を限りとし、身を卑賎の仕事に置き、そこから脱することができない。また自ら生んだ男女を、名を偽って嫁がせたが、実は物として売り渡していた。」(『秋澗 先生大全文集』巻84『烏台筆補』)こうした現象は当時は非常に普遍的であった。京城(都の北京)の中では、またしばしば未成年の男女を誘拐し、脅して奴隷に充てることがあった。場合によっては彼らを北方に連れて行き、牛馬や羊、駱駝と交換し、暴利を得た。階級間の先鋭な対立は、大都の町中の社会秩序をずっと不安定なものにした。元初の1年、また3か月以内に、城内で発生した強盗、窃盗事件は60件以上に達した。中期的に大量の外地の流民が都城に流れ込み、市内の生活と社会秩序により多くの問題をもたらした。元朝政府は矛盾を緩和するため、米を値下げ販売することでの救済(賑粜zhèn tiàoしんちょう)を実行した。1277年(至元14年)大都の物価が暴騰し、国庫(官廪guān lǐnかんりん)の糧食数万石を放出し、米を売って平民を救済した。1285年(至元22年)京城と南城に各3ヶ所店を開き、役人をそれぞれ派遣し、米を値下げして販売し、年々同様に対応した。1295年(成宗の元貞元年)、京師(都、北京)の米が高騰し、元朝政府は迫られて店を30か所増設し、食糧7万石余りを放出し、米を値下げ販売して人々を救済した。それ以後、店の数は減少したが、毎年の米の放出は50万石余りにまで増加した。放出食糧の多くは権勢家が巧みに獲得し、貧民の所には回って来なかった。大徳年間、元朝政府はまた「紅貼糧」(こうちょうりょう)を実行した。これは、官庁が両京(大都燕京と上都開平)の貧困戸口の数を登録し、「米を準備し番号と名簿を貼り、それぞれ姓名と戸口の数を書き、月毎に名簿に依って支給した。成人(大口)は3斗、未成年(小口)はその半分とした。その価格は放出価格の3と見做し、常にそれだけ値引きし、「賑粜」と併せて実行した。(『元史』巻96『食貨志・賑恤』)こうした措置は、もちろん日増しに先鋭化する社会の矛盾を改めることができなかった。このため、大都城内で重大事件が一度ならず発生した。1291年(至元28年)文明街の西側で、「盗殺銀千戸」千戸の家から窃盗、殺人が行われた。1302年(大徳6年)八作司(役所名)で窃盗事件があった。1326年(泰定3年)太廟に泥棒が入り、武宗の金神主と貴重な祭器を盗んだ。こうした不穏な形勢は統治者の心配と警戒を引き起こした。1309年(至大2年)武宗が上都に避暑に出発する時、御史台が建議して言った。「京師の工夫の徴用がちょうど行われているが、それに加え今年は干ばつで食糧が不足し、民は愚かで惑い易く、関する所甚だ重し。一丞相を留め京師を鎮めんことを乞う。後もこれを例と為せ。」続いて、また二つの警巡院を四か所に増やし、また連続して巡邏(じゅんら)の兵丁の派遣を増やし、且つ刑部長官を派遣して直接大都の兵馬司の仕事を掌握し、鎮圧を強化した。こうしたことから、元朝後期になるにつれ、大都城内の階級矛盾が益々先鋭化していたことが分かる。

 

 北京郊外の農村と農民の状況 北京郊外の土地は、大部分が元朝政府と貴族や富豪により管理されていた。政府は軍隊の駐屯の方式で、北京郊外の農地を、京師のぐるりを守備する五衛親軍等に分け与え、屯田を行わさせ、それにより得た収入で軍の装備を整え、家族を養う費用に当てさせた。統計によれば、大都の近県の諸衛軍と大司農、宣徽院等が管轄する屯田の総数は最高で15,700頃(1頃は6.667ヘクタール。100畝)余りに達した。こうした駐屯軍は各地で土地を占拠し、人々の生活を乱し、勝手に法律を破った。武清県北郷には中衛の万戸の阿海が率いる駐屯軍がいて、1265年(至元2年)彼らは権勢に頼み「上司が元々分け与えた屯田の土地4か所以外に、無理やり諸人の村や耕作して桑や棗の熟した土地を侵略し20頃余りの土地を奪い」、農民を失業させたが、彼らは恨みや苦しみを自ら申し立てることができなかった。将校たちは更に好き勝手に彼らをゆすったり侮ったりした。中衛所属の軍人は、至元5年(1268年)8月以前から武清北郷等に来て、「民家に住み、毎日飲食をくすね、馬の飼料をあの手この手で収奪し続け、ついには人々の不安を搔き立てた。対応を止められないので、味方の数を頼みに、誹謗が発せられればすぐに脅したり辱めたり、何でも行った。毎年、翌年春3月までこれを続けると、ようやく離れることができた。(『秋澗 先生大全文集』巻88『烏台筆補』)こうした現象は、当時はかなり一般的であった。

 

 貴族官僚は財産を賜ったり併呑することを通じても、それぞれ大量の土地を保有し、「怯薛qiè xuē(モンゴル語)とは、貴族官僚が内廷で伺候し、宮廷の禁衛と大小の事務を担当する近習(きんじゅ)のことで、しばしば同時に外廷で朝廷の要職を担当し、元朝の通常の行政の中で重要な役割を担っていた。政府は一度彼らに田地を分配すると、それにより「近習の臣は、田地が極めて多い」という現象が起こった。有名な大寺院も大地主で、朝廷は彼らに大量の田地財貨を賜った。こうした人々は、軍や站户(国の通信伝達の徭役を担う家)の上層を含め、個別の政治特権を持っていて、納税や徭役が免除された。1291年(至元28年)中書省のある上奏文の中でこう言っている。「桑哥(元朝の大臣)は大都の金持ちのそれぞれの子細を自ら隠ぺいし、売買、検査、記録の時に、どんな賦役を選んだか教えず、貧しい庶民を苦しい目に遭わせる。別の役人もそれぞれ隠ぺいしていることが多い。」貧しく弱い庶民の中には、賦役から逃れるため、彼らを頼り、彼らの家僕に身を落とした。奴隷を数多く抱える現象は、当時たいへん一般的だった。貴族、官僚、軍官の家では、奴隷がしばしば千や百に達した。奴隷は単に家の中で伺候するだけでなく、幅広く手工業や農業生産、商売や軍役の補充などに用いられた。

 

 元代、農戸の賦役負担は一般に、軍戸、站户、匠戸に比べて重く、北京郊外の農民は更に多くの特殊な負担があった。例えば、宮城の修繕、運河の浚渫、貴族や官僚の屋敷の営造、皇帝の巡幸、役所の雑役、官吏の非合法のゆすり、貴族大官の家の狡猾な下男、下女(黠奴)による強奪などである。馬の飼育も北京郊外の農民の重い負担であった。元朝政府は両都付近で大量の馬と駱駝を引き取り育てた。1308年(至大元年)の統計によると、大都で飼われた馬は94千匹、外路(外地)は119千匹。これらは皇室、貴族向けに乳を取り乗馬に供した。人々は馬に食べさせる牧草の準備を負担しなければならないだけでなく、放牧の便のため、秋の収穫後の土のすき起こしを禁止した。朝廷はまた馬が車を曳き、臼を曳き、田畑を耕すのを禁じた。これらは農業の発展に疑いなく重大な妨げであった。この他、西山の薪炭、玉泉山の木材、金水河の水流を人々が採取、利用するのを禁じた。皇帝が春秋に狩猟を行う需要を満足させるため、大都の四方5百里内では、「何人も、鷹などを飛ばし、キジやウサギを捕獲するを得ず」。飢餓に迫られた農民がたまたま捕殺してしまった場合、厳しい懲罰を受けた。重い賦役と天災被害に迫られた北京郊外の農民は、元の中葉以降、破産し流民となり、甚だしきは身を売ることに迫られる人々が日増しに増加していった。


北京史(十六) 第五章 元代の大都(4)

2023年06月09日 | 中国史

マルコ・ポーロの目に映った元・大都

第二節 大都の政治経済情況

 

 

経済概況と住民の生活

 商業 大都は元朝最大の商業の中心地で、天歴年間の統計によれば、大都の宣課提挙司に入る商業税は毎年113千錠(塊状のものを数える)余りで、全土の商業税総額の9分の1弱を占めた。元朝の規定では、商業税は3%であった。フビライの時、大都の商業の発展を促すため、旧城の商店が新城に引っ越すなら商業税を2.5%に減額すると命令した。そして、牛馬や果樹の諸市と酒、酢を除き、「魚やエビ、薬果の類の如き、及び書画、藁席、草鞋、篠箒(竹製の箒)、磚や瓦、木炭諸色、灯銅、鉄線、麻糸、苧(ちょま)、藁縄、曲貨は、皆課税すべきでない物(『日下旧聞考』巻63『官署』から『稼堂雑抄』を引用)であり、明代の崇文門税課条目に比べ、より少なくなっていた。

 

 大都城内に各種の専門の市場が30余りあった。最も賑やかな場所が町全体の中心の鐘楼鼓楼と、西城の羊角市一帯であった。鐘楼、鼓楼の西は海子(積水潭)に隣接していた。海子は中原を南北に貫く大運河の終点で、南から来た商船はここに集まって停泊した。沿岸中に歌の舞台、酒楼が配され、貴族や金持ちの商人が喜びを求め楽しみを追求する場所であった。鐘楼の付近には米市、麺市、緞子市、毛皮市、帽子市、ガチョウ、アヒル市、真珠市、鉄市、「沙刺」などの市があった。「沙刺」はサンゴの意味である。羊角市一帯には羊市、馬牛市、駱駝市があった。付近にはまた奴隷を販売する人市もあった。フビライの後期、人市は廃止を迫られたが、人市の坊楼は依然保存されていた。鐘楼の最も北の所と、南城の文明門、麗正門と順承門外に、またいわゆる「窮漢(生活困窮者)市」があった。1273年(至元10年)、中書省の報告によれば、「大都等の地域では人口、家畜、不動産の売買など、一切の貨物の交易は、その官と私の間の仲介者が僥倖にも利益をむさぼり、買主と売主が相まみえないようにし、先ず売主の所で価値を定めるが、買主の所では価格をつり上げ、多くが上前をはね、たいへん具合が悪い。」このため、「今後およそ人口、家畜、不動産や、一切の物品を売買する時、仲介人などは売主、買主と書面で本籍、住まいを明確にしなければならず、いつでも売主や仲介人、保証人などが保証し署名したことが分かれば、取引が成立したと見做す。」(『通制条挌』巻18『関市』)坊市(街市)の区分と売買双方は各々顔を合わさず、単に仲介人が間に立って活動するのに頼り、商業の発展を大いに拘束し、同時に当時の大都と北方地区の商業の遅れを反映していた。1286年(至元23年)になると、政府はこう決定した。「先ず「蓋里赤」(モンゴル語で仲介人)が一般民衆を混乱させる行動は、既に禁止されている。ましてや商人の売買は、決まり通り税金を納め、もし更に仲介の業者が入り、手数料を取り、市場の利益を削ぐのであれば、掠奪になり都合が悪い。大都の羊の仲介人、及び人口、家畜、不動産の売買で仲介人が従来から存在して、価格に基づいて手数料を取り、十両につき二銭に過ぎないものを除き、それ以外の様々な仲介人は、統合するかやめるべきだ。」(『通制条挌』巻18『関市』)一部の仲介人の廃止は、商業の発展を間違いなく促進した。

 

 後世に伝えられた黄仲文の『大都賦』は、大都の賑やかな情景の文学的描写であった。その中でこう書かれていた。「その街(都市)の商店(市廛 )について言えば、四方八方に通じた大通りが交錯し、何列も路地があってごちゃごちゃしていた。大きな店は馬を百頭も収容でき、小さな店でも四方が車百輌分の大きさがあった。街の東にいる者が街の西を望めば、あたかも外地の者が見聞しているかのようだった。城南の者が城北に行くと、早朝に出ても、帰りは黄昏時になった。繁華街のきらびやかな市場では、万国の珍しい物が集められていた。歌舞を演じる小屋や高殿には、世界中の艶やかな香りが集められた。寺院は帝王の住居のようで、商店は役人の家のようであった。酒を売る店は何と堂々としていることか、ひしゃげた升の形の大きな金の文字。金持ちは何と贅沢なことか、衣服のとぐろを巻いた龍の刺繍の模様。奴隷は雑居して見分けがつかず、王侯が同時に入って来ても区別しない。千頭分の肉料理を一日で作り、酒一万石を十日で醸した。」「もし城門の外であれば、文明は多くの船が連なる港(渡し場)であり、麗正(門)は衣冠の海で、順則(門)は南洋商人の藪であり、平則(門)は西域商人の集団である。天が生み地に産し、神の愛する珍奇な宝物、人間が作り出した物、山海の珍しい物が、求めずとも自ずと到来し、集めずとも自ずと集まる。我が都の人を以て、家には無駄な男子はおらず、横丁には好き勝手をする輩はいない。毫毛(わずかばかり)の儲けを得ようと、今までの五倍いろいろ考える。一日の間、一つの横丁の中で、たくさんの車が重なり合い、街路を行きかい、初めは人の肩やロバの背に触れようと気にしなかった。川の流れが合流する時、太鼓を鳴らして知らせなくても、勝手に合流し勝手に分かれ、杳(よう)としてその所在を知らない。商売人の家では、王家であろうが孔家であろうが、宴席を設け、親戚や友人を招待し、都の住人であることをひけらかし、数千万貫というお金を浪費するこうした金持ちの様子を見るに、本当に卑賎の者にも及ばない。歌舞の小屋の演奏は、侯園でも相苑でも、長い袖に軽いスカートを身に着け、管弦の音が急展開してクライマックスを迎える。春の柳の枝を折って丸く結び、以て憂いを引き起こし、秋の月を凝視したら視線を変え、翠の池に臨んで暑さを解消し、裾をからげた帳(とばり)で雪も暖かい。一笑千金、一食万銭。相手は巨大商人、遠土の濁官であり、憂いを取り除くのを楽しみ、憂いを洗い流して帰るのを忘れる。我々都人はしばしば顔ではおもねっても、背後ではこれをあざけり笑うのである。(『宛署雑記・民風一』)長期間大都に滞在した旅行家のマルコ・ポーロは、汗八里(元代、モンゴル人の北京の呼び方)城の交易が発達し、人口が盛んに増加した情況を見て言った。「汗八里城(大都城)の内外の人戸が非常に多いのには、若干の城門、すなわち若干の附郭(外城)があることを知らねばならない。この12の大きな城郭の中に、人戸はこれと比べると、城内が更に多い。城郭の中に居住しているのは、各地を行き来する外国人か、地方の特産品の貢ぎ物を朝廷に捧げに来たか、或いは宮中に物を売りに来た者で、それゆえ城の内外には豪華な屋敷や巨大な建物があり、しかも数多くの高官や身分の高い人々の邸宅は、この数の中に入っていない。」「なお知るべきは、およそ歌舞で生計を立てている婦女子は、城内には居住せず、皆附郭(外城)に居住している。附郭の中は外国人が甚だ多く、それゆえこうした輩や娼妓は人数も夥しく、合計で2万人以上もおり、皆客から贈られた財物で暮らしており、居住民の多さが想像できる。外国のたいへん高価な珍しい物や様々な商品をこの都に輸入する者の数は、世界のどの都市もここに及ばない。蓋し皆それぞれ各地から品物を携えてこの都に至り、或いは君主に献上し、或いは宮廷に献上し、或いは以てこの広大な都市に供給し、或いは以て数多くの男爵騎尉に献上し、或いは以て付近に駐屯する大軍に供給する。様々な商品を輸入する人々は、川の流れが休まないように、次々入って来る。ただ絹糸だけ見ても、毎日入城する者は合わせて千車にもなる。この絹糸を用いて、多くの金の錦や絹織物、その他いくつもの物が作られる。この付近には亜麻の絹糸より良質なものが無い。もとよりいくらかの地域では綿や麻を産するが、量が足りず、その価格も絹糸が豊富で価格も安いのに及ばない。しかも亜麻や綿の質も絹に及ばないのだ。」「この汗八里大城の周囲には、およそ都市が二百あり、その位置は遠近様々である。どの町にも商人がここまで来て商品を売買し、蓋しこの都市は商業が盛んな町である。」(『マルコポーロ行紀』中冊P379‐380

 

 当時、この町の商業は主に官府、貴族、富商の手の中で操作された。例えば酒であれば、大都の酒課提挙司に所属する糟房(醸造所)は百か所余りに達した他、富豪の家では多くが酒を醸造して販売し、価格は高いが味は薄く、しかも税金をしばしば徴収された。順帝の時の丞相脱脱の父馬扎兒台は、通州に倉庫を置き、酒館、糟房を開設し、一日の取引が万石に達した。塩は国の専売品で、商人は購入できた塩を輸送し、決められた地域で販売した。大徳年間、大都の商人が塩の相場を一手に握り、民は高い塩を買わされたので、政府はこのため役所を設けて官で塩を売るようにしたが、役所が侵犯、掠奪をし、上前をはねたので、同様に人々の恨みを買った。政府はそれで役所を廃止し、商人の意見を聞いて販売したが、塩一斤の価格が一貫に達し、更に人々を苦しめた。宝石や香辛料は、大部分が回族の豪商の手中で商われた。こうした回族の豪商と朝廷の高官との間で「斡脱」wò tuō(モンゴル語「ortoq」の音訳で、「仲間」のこと)、資力のある貴族と商人の共同経営の商業組織を結成し、特権を利用し、至る所で横行した。彼らは皇帝に宝物を献上するとの名目で、しばしば実際の価値の十倍もの返礼を獲得した。泰定帝の時、丞相で色目人の倒刺沙は皇帝に上奏して歴代で未曾有の宝物の価格が支払われ、一回で銀40万錠余りに達した。

 

 運河と海運 『元史・食貨志』によれば、「元都は燕に在り、江南を去ること極めて遠く、百司庶府の繁、衛士編民(戸籍に編入された平民)の衆、江南の供給に仰がざるは無い。」運河と海運は江南の豊富な物資を輸送し、大都の繁栄と多くの人口、豊富な物資を育んだ二つの大動脈であった。1289年(至元26年)会通河の掘削が完成し、南北を貫く大運河が完成したが、その終点は通州で、大都からは依然として一定の距離があり、物流はたいへん不便であった。この時、金代の漕渠(運河)は久しく塞がれていた。元初にも多少の修復、浚渫を行ったが、水量が限られ、最後にはまた廃棄された。有名な水利学者、郭守敬が再び大都から通州に到る運河の計画を策定した。彼は新たに北の昌平白浮村の神山泉の水を引き、一畝泉、玉泉の諸水を合流させ、運河の水量を増加させ、また大都から通州までの間に二十ヶ所の水門を増設し、時間を決めて排水し、それによって地形の起伏による水位の落差の問題を解決した。全ての工事は1293年(至元30年)完成し、通恵河の名を賜った。城南の麗正門と文明門の間の南水門から城内に入り、宮城の東壁に沿って再び西に折れ海子に入った。

通恵河

こうして「四川、陝西の豪商、呉、楚の大商人は、軽船の帆を飛ばし、一路皇帝のおひざ元に到った。」(『日下旧聞考』巻6李洧孫『大都賦』)この年の秋、フビライが上都より戻り、積水潭を経て、海子でたくさんの船が川を埋め尽くしているのを見て、たいへん喜んだ。郭守敬はさらに澄清牐(「閘」と同じ。水門)のやや東で、水を引いて北壩河とつなげ、また麗正門の西に水門を作り、船が大都城の城壁をめぐって行き来できるようにする計画を立てたが、この計画は遂に実現しなかった。

 

 これと同時に、元朝政府は長江口の劉家港から海を越えて直接直沽(北運河)と(南運河)が合流する所で、今の天津市内狮子林橋西端旧三汊口一帯)に航行する海運を強力に発展させ、都漕運万戸府二を設け、「歳運」、南米)の毎年の北京への輸送を監督した。南北の大運河が開通して後、運河の川幅が狭く水深が浅いため、輸送量が限られ、海運はずっと南方の 「糧」輸送の重要な方法で、最高で1年で350万石余りに達した。推定では、運河での輸送は陸上輸送に比べ34割労力が省け、海運は運河輸送より78割労力を省くことができた。海運船は毎年二回、季節風に乗って長江口から海を渡り、順調であれば半月で直沽に到達することができ、倉庫に納め備蓄した。

劉家港から直沽への輸送ルート(海運、及び運河)

 

海運の実行は、「民に輸送の労無く、国に備蓄の富有り」。風や波は予測できないが、糧船が沈没するのはよくあることで、運河の輸送量では京師の糧食需要の半分しか解決できない情況の下、海運は大都の膨大な官俸(朝廷の官僚の給与)や軍需を保証する上で、意義はたいへん大きかった。元末の農民の大蜂起の中で、海運が停止に追い込まれて後、大都が直ちに飢餓の脅威に追い込まれたのも無理はなかった。

 

 手工業、鉱業と職人の生活 大都の手工業はたいへん発達していた。モンゴル統治の初期、至る所で職人を捕虜にし、それに続いて各民族の手工業職人を大量に拘留した。フビライは大都建都の後、漠北等の地に職人を移住させた。工部、将作院、徽政院、武備寺、儲政院と大都留守司などの役所の下に、各色匠局と提挙司をそれぞれ設置し、職人が生産活動を行うのを監督、統率し、宮廷の生活と軍事需要のためにサービスを行った。例えば大都留守司に所属する修内司は、その下に大木局、小木局、泥厦局、車局、粧釘局、銅局、竹作局、縄局をそれぞれ率い、全部で職人1272戸を管轄した。また、器物局の下には鉄局、減鉄局、盒鉢局、成鞍局、羊山鞍局、網局、刀子局、旋局、銀局、轎子局、採石局、山場等が設けられ、「内府宮殿、京城(北京)の門戸、寺(仏教寺院)観(道教寺院)公廨(官庁)の営繕 (修繕)を管轄、及び鞍轡くつわ、手綱、フビライの嫡子の駕籠、帳場の車輛、金宝器物の御用、およそ精巧な技術、各種の技巧を持つ技術者の家で、従属しないものはなかった。それぞれの部局には指図をする役職の者がおり、その下には工長が置かれ、階層を分けて監督をした。例えば 小木局であれば、小型の木製器具を作る職人が数百人おり、十人か五人毎に一組に分け、組毎に工長が置かれた。 採石局の職人は2千戸余りに達し、犀象牙局にも150戸余りいて、大都の四つの窯場(瑠璃瓦を専門に焼いた)は3百戸余りを率いていた。そこから、当時の大都の官営の手工業団体はたいへん数が多く、細かく分業がなされており、職人の数も膨大であった。

 

 モンゴルが中原に侵入した初期に捕虜になった職人は、奴隷にされた。モンゴルの封建化に従い、これらの職人は人と人との依存関係の強い封建制下の匠戸(職人の家系)に変化した。職人には「匠籍」があり、職は世襲であった。彼らの子女は、「男は家業の仕事を学び、女は針仕事(黹)や刺繍を学び」、籍を抜けることは許されなかった。当時の人の記載によれば、京城(都、北京)の匠戸(職人の一家)は、地方で徴用された匠戸に比べると、条件は多少良かった。職人の家庭では、彼らの専門の仕事での工役を除いて、絹や銀の徴収や徭役を免除し、畑が4頃(1頃は6.667ヘクタール)以内の者は食糧の納税を免除された。各戸4人まで、1人毎月米3斗、塩半斤を与えられた。これは家族と奴隷にも与えられた。この他、彼らはさらに自分で店を開いて売買することができた。工役、徭役の合間に、家で作業することもできた。これらは外地で働いている者は比較することができなかった。しかし、一般の下層の職人の家について言えば、監官が食糧の上前を撥ねたり、無理やり私利私欲のため権勢をかさにゆすりたかりをするのは、ありふれたことだった。このため、職人達の中の階層分化が著しく、彼らのうち貧しい下層の家は、しばしば迫られて妻を質入れし、子供を売らざるを得なくなった。政府の規定では、「部局に属する職人は、妄りに真相を隠して、官吏を脅し、他の職人を扇動し、口実を設けて部局に所属するのを拒み、仕事を遅らせることはできない。また公法を畏れず無関係の人間が勝手に局院に入り、不安を煽る者は、厳しく処罰する。各部署の職人を管理する官吏、頭目、堂長などは、「毎日早朝に部局に入り、職人の行動を監督し、暮れになってようやく帰宅し」、職人に対し厳格な管理と弾圧を行った。(『通制条挌』巻30『営繕』)重い封建制の束縛と搾取は手工業の発展を大きく阻害し、役所の中ではいつも浪費が極めて大きく、コストは高くなり、製品の品質は低く、商品経済の発展に大きな打撃をもたらした。

 

 京畿(都北京とその周辺地域)の鉱業冶金業はたいへん盛んであった。檀州奉先などの洞窟、薊州豊山、宛平の顔老山などでは銀の冶金を行い、清水村には鉄鉱山があった。檀、景地方には双峰、暗峪、銀崖、大峪、五峪、利貞、錐山など鉄の冶金場が7か所あった。元初には燕南、燕北一帯に鉄の冶金場17か所を設け、毎年鉄16百万斤余りに課税し、鉄の冶金を行う職人は3万戸余りに達した。彼らのうち、ある者は政府が選抜した民戸で、ある者は罪人や孛蘭奚(意味は遺失。逃亡した流民)の人戸であった。西山の石炭採掘も盛んであった。宛平西部の大谷山には石炭鉱山が30坑道余り、西南の桃花溝には無煙炭鉱山が10坑道余りあり、大都の燃料の主要な来源であった。鉱山労働者達は「ハンマーや鑿を操り、坑道にはかがり火を焚き、裸で中に入り、蛇行鼠伏し、深さ数十里まで入ってようやく鉱石を得ることができ」、その後、鉱石を背負って出て来た。それゆえ、「身体が汚れ憔悴し、もはや人としての形無し。(残本『順天府志』巻11『宛平』。北京大学出版社)加えて炭鉱はしょっちゅう落盤事故があり、炭鉱夫は常に死の脅威にさらされていた。

 


北京史(十五) 第五章 元代の大都(3)

2023年06月06日 | 中国史

色目人 阿合馬

第二節 大都の政治経済情況

 

民族矛盾と政治闘争

 阿合馬刺殺の暴動 フビライは漢人の儒士と軍将に頼ってハーンの位を取得し、新王朝を建設したが、間もなく李璮(りたん)の反乱(1262年)の後、漢人の脅威を感じたので、それゆえ民族差別と民族圧迫政策を積極的に推進し、且つ色目人を使って自分の手下にし、漢人を牽制し、警備した。色目人の阿合馬(アフマッド。アハマ)は皇后の媵臣(ようしん。嫁付きの下僕)として次第に親任を得て、政府の財政を主管し、更に権力を専横した。阿合馬はまた苛斂誅求し、人々の広範な憤怒を引き起こした。朝廷の中で漢人官僚と色目人官僚の間の陰に陽に繰り広げられた闘争がずっとたいへん激烈であった。

 

 東平人王著、字は子明は、小役人をしていたが、人柄が沈着で胆力があり、道義を重んじ金銭財物を軽んじ、細かい事に拘らなかった。彼は銅製の槌を私鋳し、民間の宗教団体の首領、高和尚と親交を結び、阿合馬を殺すことを自ら誓った。1280年(至元十七年)、枢密副使に任じられた張易が高和尚を、彼には秘術があり、鬼を兵にし、敵を遠くから抑えることができると、朝廷に自薦した。フビライは、和孔雀孫に兵を率い、高和尚と同行して北に行くよう命じ、王著も千戸を同行させた。高和尚は秘術の効果が無かったので戻り、偽って死んだと称し、以て欺き、急いで秘密の画策を進めた。

 

 1282年(至元十九年)二月、フビライは毎年一度恒例の通り上都に避暑に行き、阿合馬は大都に残り都を守った。王著らはこの機に乗じ発動をかけ、三月十七日、彼らは一方では兵を派遣し居庸関を抑え、一方では兵を集め儀仗を擁して大都に向け前進させ、且つ先行して吐蕃(チベット)の僧二人を中書省に派遣し、当日の夜、皇太子の真金(チンキム)と国師が京師に戻り、仏事を行うと通知した。王著本人も当日は阿合馬に会いに行き、太子がまもなく着くと通知し、すべての中書省の官吏に、東宮の前で出迎えさせた。省の中では、二人の僧が言葉を濁し、東宮の下役も彼らを知らなかったので、騙されているのではないかと疑った。宮中当直の高觿(こうせん) と尚書の忙兀兒(ぼうこつじ)、張九思が兵を集めて防衛した。この時、枢密副使の張易も王著が偽って伝えた皇帝の命令を受け取り、兵を率いて宮殿の外に駐屯した。高觿は彼に何事が起こったのか尋ねた。張易は言った。「夜になれば分かります。」高觿が何度も尋ねたので、張易はようやく耳打ちして言った。「皇太子が阿合馬を殺しに来るでしょう。」阿合馬は平素はたいへん真金を恐れていて、通知を聞くや、直ちに郎中の脱歓察儿を派遣し、城を出て出迎えた。脱歓察儿らは北に十里余り行くと、ちょうど取り囲んで入城した偽太子の一行の人馬と出会い、悉く殺害された。この隊伍は夜に乗じて健徳門を入り、東宮の西門に来て門を閉めさせた。高觿は皇太子が平素は往来にこの門を使わないので、門を開けるのを拒絶した。彼らはそれで南門に回った。東宮の前に着くと、蝋燭の光が朦朧とした儀仗の中で、偽太子が騎乗して指揮を執り、中書省の官吏を呼んで訓示を聞かせた。本当に阿合馬がおとなしく前に出てくると信じて、偽太子は厳しい声で叱責したので、王著は阿合馬を引っ張って行き、袖の中に隠した銅の金槌で彼を叩き殺した。続いてまた阿合馬の仲間の左丞の禎を殺し、右丞の張恵を拘禁した。全ての出迎えに来た官吏は口をつぐんで遠くに立ち、どうしたらよいか分からなかった。張九思はこれはペテンであると見破り、宮中で大声で警報を発した。宿衛軍の弓矢が大いに放たれ、偽太子一行の隊伍は敗走し、大多数はその場で捕らえられた。王著は立ち上がって捕らえられた。高和尚は騒ぎに乗じて逃亡したが、二日後高梁河で捕らえられた。大都の市民は阿合馬が殺害されたことで、この上なく喜んだ。聞くところによれば、「貧人も亦た衣を質入れし。歌い飲み相慶び、燕市の酒三日倶く空なり。」(鄭所南『心史・大義略叙』)

 

 事変の発生後、フビライは急いで枢密副使の孛羅(ボロト)、司徒の和礼霍孫らを大都に戻らせ乱を平定させた。王著、高和尚らは殺された。 王著は処刑前に大いに呼びかけた。「王著は天下の為に害を除き、今死なんとす!日を改め必ず私がその事を記さん。」享年二十九歳であった。張易も「変に応じて審査せず、賊に授けるに兵を以てす」により連座し誅せられた。この時の事件の計画が周密であったことにより、事件の規模と前後で関係した人物から分析すると、その背景は深刻なものであった。当時、大都に滞在していたマルコポーロは、こう記載している。 王著が阿合馬殺害の計画を決めてから、「遂にその謀が国中の契丹人の要人に通知され、諸人は皆その謀に賛成し、他の多くの都市の友人に伝え、期日を定め事を行うは、狼煙を合図とし、狼煙を見れば、およそ髭のある者は悉くこれを屠殺する。蓋し契丹人(漢人を指す)は当然髭が無く、ただ韃靼人、回教徒、キリスト教徒は髭がある。契丹人の大汗(ハーン)政府を嫌悪する者は、蓋しその任じられる所の長官が韃靼人で、多くが回教徒で、契丹人への待遇が奴隷と同じようであった。また、ハーンは契丹の地を得て、世襲権益を許さず、また兵力により、先住者を猜疑し、そして本朝に忠実な韃靼人、回教徒、キリスト教徒を任命して統治させ、契丹国以外の者であっても、こだわらなかった。」(『マルコポーロ行紀』中巻P342)これらの記載はおおよそ真実を反映しているに違いなかった。

 阿合馬の死後、彼が生前の悪だくみが暴露された。聞くところによると、ある日、フビライは一個の巨大なダイヤモンドを求め、それで皇冠を飾ろうと思った。二人の商人の報告で、彼らは以前一つの巨大なダイヤを皇帝に献上し、とっくに阿合馬に渡して取り次いでもらっていた。フビライはそのことを聞くと、直ちに人を派遣し、阿合馬の妻を調べたところ、果たして彼の家からダイヤが出てきた。フビライはかんかんに怒り、阿合馬に対して疑いを持ち始めた。真金が煽り立てる中で、阿合馬の大量の悪事が暴かれ出した。漢人の官僚を落ち着かせ、人々の怒りを鎮めるため、フビライは代わりに阿合馬を有罪にし、言った。「王著が之を殺すは、誠にもっとも也。」そして墓を暴き棺桶を開き、死体を通玄門外に晒した。その子の忽辛、抹速忽、散、都らも、各地で死刑に処せられた。(『元史・世祖紀』阿合馬、張九思、高觿諸伝及び『史集』(ロシア語訳本)第二巻、P187‐190

 文天祥、正義のために死す 阿合馬を刺殺した事件は、明らかに当時の民族の矛盾の緊張した状況を反映しており、このため蒙古統治者の猜疑心は更に深くなった。同年(1282年)十二月、また一人、名を薛保住という人が、匿名の手紙を上げて異変を告げた。それによると、宋王を称する者が、群衆千人余りを集め、二手に分かれ大都城を攻め、獄中に拘禁された南宋の丞相文天祥の奪還をたくらんでいるとのことであった。元の朝廷はこの知らせを聞いてたいへん驚き恐れ、直ちに元南宋の小皇帝、瀛国公趙㬎(ちょうけん)及び宋宗室を大都から上都に移し、並びに文天祥処刑を決めた。

 

 文天祥1278年(至元十五年)潮陽で破れて捕虜となり、翌年十月、大都に連行された。途中、絶食すること八日に及ぶも死ななかった。大都到着後、元の宮廷は厚くもてなし、上客として遇したが、文天祥は断固拒絶し、寝るのを拒み、座して徹夜した。五日後、文天祥は兵馬司に移され、手かせ足かせを嵌められ空き部屋に監禁された。十二月になって、病気のため刑具を外されたが、尚首かせは付けられ、このようにして四年の囚人生活を過ごした。丞相の孛羅(ボロト)は彼を尋問したが、彼は孛羅の前ではひざまずくのを拒み、落ち着き払って弁論した。孛羅が、彼が徳祐嗣君(すなわち趙㬎)を捨て、後継ぎに福、広の二王を立てたのは不忠ではないかと指摘すると、文天祥は激高して申し述べた。「社稷は重く、君は軽い。私が別に君を立てたのは、宗廟社稷を考えてのことである。」そして「死あるのみ。何ぞ必ずしも多く言わん」と意志を示した。フビライはしばしば人を遣って投降を勧めたが、文天祥は終始節操を固く守り、屈服しなかった。彼は獄中で宋滅亡以来の自分の詩を編集し、題を『指南録』とし、磁石の針が南を指し示すように、誓って宋を忘れないことを表した。彼が獄中で書いた『正気歌』は、「富貴は淫(惑)わす能わず、威武は屈する能わず」という高尚な品格と固い節操を述べ表した。至元十九年十二月九日(西暦128319日)文天祥は落ち着き払い、柴市口(現在の北京菜市口)にて処刑された。享年47歳であった。

文丞相祠

 元朝が全国を統一し、辺境を開拓し、祖国の多民族の大家庭を発展させる面で、積極的な役割を果たしたが、彼らの立ち遅れた統治と民族圧迫政策は、各民族の反抗の激化を避けることはできなかった。中国の各民族は、平等な連合には賛成したが、外来勢力からの圧迫には反対した。あらゆる歴史上の各民族の圧迫反対に貢献した民族英雄と同様、文天祥の、節操を固く守り、喜んで我が身を犠牲にした奮闘精神は、永遠に人々の記憶に留める価値があるものだ。

 

 両部の激戦 元朝はフビライ以降、皇位の継承はずっと朝廷の政局が動揺する重要な原因であった。蒙古の旧俗によれば、大汗は生前、後継者指定の権利を持っていたが、新たな汗が即位する前には必ず同族の親族、皇帝の姓を同じくする親族、大臣の参加する「忽里台」(クリルタイ。モンゴル語。「聚会」(集まり)の意味)での推戴が必要であった。元になって以後、漢制に倣い、立太子の制度を確立したが、クリルタイの制度は依然保持された。このことは、権臣や野心家が操縦、利用するのに都合が良かった。それに加え、元朝の皇帝は多くが短命であった。このため、皇位争奪のどたばた劇が頻発し、ひいては臣下に殺されてから公開の内戦に発展する場合もあった。

元朝皇室系図

 1323年(英宗の至治三年)、御史大夫の鉄失らが英宗を上都の南で殺した。この時、也孫鉄木耳(イェスン・テムル)は晋王の大軍を率いて漠北にいたが、皇帝に擁立された。これが泰定帝である。1328年(泰定五年)7月、泰定帝は上都での避暑の期間中に病死した。丞相の倒刺沙と梁王の王禅らは九歳の皇太子、阿刺吉八(アリギバ)を立て、位を継がせた。しかし大都に留まっていた籤枢密院事、欽察人燕帖木(エル・テムル)はこの機に乗じて政変を起こした。彼は彼の家が長年掌握していた北京の宿営軍の精鋭の欽察軍団を主力に、府庫を封鎖し、百官の印信を拘禁し、兵を派遣し居庸関など要害の地を守り、使者を派遣し速やかに江陵に居た武宗の次子、図帖睦尔(トク・テムル)を迎えて北京に来させようとした。図帖睦尔は途中、汴梁を経由し、河南行省平章の伯顔が大いに兵を徴発し、府庫を開き、従軍して北に進んだ。9月、図帖睦尔は大都で帝位に就いた。これが文宗である。この時、彼の兄の和世㻋(コシラ)はまだ遠くアルタイ山以西の地にいた。文宗は、自分が皇帝の位に就くのは、暫定的な臨時の措置であり、「謹んで大兄の至るを待ち、以て遂に朕は固より譲るの心なり」と公に意志を示した。従軍して上都に入った軍将の家族は皆大都に留まり、事変発生後、彼らは相次いで脱出して南に逃れた。阿速(アス)衛(アスト部の軍隊組織)の指揮使脱脱木、貴赤衛の指揮使脱迭も軍を率いて戻って来た。こうして大都の軍勢は大いに増強された。

 

 上都の兵はそれぞれ別のルートから大都に侵攻した。王禅らは軍を率いて南の楡林に迫り、燕帖木(エル・テムル)はその布陣が間に合わないのに乗じて、直ちに攻撃命令を出し、北軍は敗走した。この時、別の上都軍が諸王の也先帖木と遼東平章禿満帖に率いられ、既に遼東から進軍し、遷民鎮に到達していた。文宗は急いで燕帖木に命じて東に薊州に出て防ぎ止めさせた。燕帖木が正に軍を指揮して東に向かっている時、王禅の兵がまた新たに反撃してきて、居庸関を襲って破った。前軍は既に楡河以北に到達していた。燕帖木は兵を分け、脱脱木に命じて遼東兵を薊州檀子山で防御させ、自分は北軍と紅橋で大いに戦い、さらに白浮で戦い、双方の勝負は決着がつかず、互いに三日間持ちこたえた。夜に入り、燕帖木は奇兵を敵の後ろに回り込ませ、軍隊の中に入り混じって銅角(角笛)を吹かせておとりの兵とした。北軍は驚き恐れて大いに攪乱され、同士討ちを始め、軍営を捨てて我先に逃げた。燕帖木は勢いに乗じて昌平以北まで追撃し、王禅は単騎で逃走した。燕帖木は更に居庸関を回復し、兵三万を分け、防備を強化した。この時、また古北口が防御できないとの知らせが入った。また別の上都軍知枢密院事竹温台が既に石漕を侵略したのだった。燕帖木は急いで二倍の速度でそちらに直行し、その戦いの準備が整っていない隙に乗じ、40里余り転戦し、牛頭山に至り、大いに竹温台軍を破り、古北口を回復した。燕帖木が全力を傾け古北口方面の敵軍に対応している時に、遼東軍は既に通州を陥落させ、北京を攻撃しようとしていた。燕帖木は急いで軍の先陣を動かし、101日の夕刻、通州に迫り、敵軍がここが初めてで不慣れなのに乗じ、足場が不安定なところを急襲し、遼東軍は狼狽して潞河(北運河)を渡り敗走した。5日、両軍はまた檀子山の棗林で大いに戦い、遼東軍は大敗した。上都軍の三方からの北京攻略は、何れも撃退された。

 

 北からの圧力がようやく軽減されたが、諸王の忽刺台が率いる四番目の上都兵が紫金関を出て、良郷を侵犯し、騎兵が北京都城の南郊に迫った。7日、燕帖木はまた旋風のような速度で諸軍を率いて北山に沿って西に行き、馬の轡(くつわ)をはずし、口の下に袋を結び草や豆を盛って馬に食べさせ、昼夜兼行で馬を走らせ、突然盧溝橋に現われた。忽刺台は一目見ると大いに驚き、気勢に押されて西に走った。翌日、燕帖木は凱旋して帰還し、粛清門から入城した。同じ日、禿満迭(帖)がまた古北口を入ったが、燕帖木が再度出征し、檀州の南で大いに敵軍を破り、禿満帖は遼東に逃げ帰った。

 

 北京郊外で激戦が正にたけなわであった時、同時に湘寧王八刺失里、趙王馬扎儿罕が上都軍の冀寧侵略に呼応し、陝西行台御史大夫也先帖木も軍を分け三つのルートから東を侵し、河南からは既に虎牢に到達していた。四川行省囊家台、雲南行省也吉尼も、兵は遠いと称して呼応した。全体の形勢は文宗と燕帖木側に不利であった。ちょうどこの時、東北に駐軍していた燕帖木の叔父、東路蒙古元帥不花帖木と斉王月魯不花は偽って上都を包囲し、倒刺沙らは絶えられず投降した。上都集団の支持者たちは敗戦を聞くと相次いで解体し、文宗燕帖木は意外にも間もなく勝利することができた。双方の混戦の中で、北京郊外はひどく破壊され、北京東方の地は、「野に居民無し」という状況だった。加えてこの年、天災が危害を与え、中国全土で飢えた民が何百万何十万に達し、流民が相次ぎ、折り重なって死亡した。


北京史(十四) 第五章 元代の大都(2)

2023年06月02日 | 中国史

大都の水問題解決、白浮堰の水源、白浮泉

第一節 大都の建設

 

 

大都の規模(続き)

 皇城は城の南部の中央で西に偏っていた。これは皇城が設計上、太液池(今の北海中海)の景観を十分に利用して造成したいと思ったからである。皇城の北は海子である。海子は一名を積水潭と言い、西北の諸泉の水を集め、都城に流れ込んで、ここにひとつに集まったものである。海子付近は繁華な商業区域であった。太廟は宮城の真東、斉化門の内側にあった。社稷台は宮城以西にあった。これらは皆、古の制度の王都は「左に祖廟、右に社稷。朝廷に面して市場は後ろ」の原則に則り、配置された。海子の東岸には中心閣があり、この高閣のやや西に石が置かれ、その上に「中心之台」と刻まれていて、これは全城の幾何学的中心であった。城南の正門の麗正門から中心閣まで、南北に走る直線は城全体の中軸線で、宮城の主体建築はこの中軸線によって均衡を取って展開した。専門家の研究によれば、中心閣の場所の選定は、中心閣から麗正門に到る距離により確定し、城全体の四方の境界の基準となった。これにより客観的な地形を合理的に利用し、また建築効果を十分に突出させる目的を達成した。こうした独創的な設計規格は、たいへん高い創造性を表していた。

元大都和義門遺跡

 都市の水供給の問題は、フビライ金の中都の旧跡を放棄し、太液池海子湖沼地区を新たな都市区画として選択した重要な要素であった。金の中都は蓮花池の諸河川を利用したが、流量に限りがあり、拡張された大都市の需要を満たすには不十分であった。海子には高粱河が流れ込み、金代は玉泉甕山泊(今の昆明湖)の諸河川が東南に流れ、高粱河の水量を拡大した。特にフビライの晩年に郭守敬通恵河を開鑿した時、白浮堰を修築し、昌平の東南で神山、一畝の諸河川を引いて注入したので、流量は更に増加した。

白浮堰

郭守敬はまた海子の水を東に引き、皇城の東壁に沿って南流させて城を出て、金朝が開鑿した金口河下流の河道と出会って東流し、大都と通州の間の運河である通恵河を構成した。宮廷の庭園の用水を保証するため、元朝はまた特に金水河を開鑿し、玉泉水を引いて和義門の南を経て城に入れ、方向を変えて南流させ、西南角から太液池に注ぎ込んだ。流れる水をきれいにするため、金水河の中で手を洗うことは厳禁であると公表された。水源の開発、利用で、大都の園林の景観がはぐくまれ、商業や交通も繁栄した。

郭守敬の通恵河開鑿

 城中の街道は、『周礼』の原則に基づき、南北と東西に走る幹線道路はきれいな方形に区画された碁盤形となった。南から北に到る道をと言い、東から西に到る道をと言った。大街(大通り)は二十四歩の幅、小街は十二歩の幅とし、三百八十四の火巷(火事の延焼を防ぐために設けられた横丁の小道、胡同の原型)、二十九の衖通巷通胡同の原型)があった。「道の端からもう一方の端を見渡すことができた。蓋しその配置は、こちらの門から街路を通じて遠くあちらの門を見渡すことができた。」官僚や貴族の邸宅も、八畝(1畝(ムー)は6.667アール。1アールは100平米)を一区画としていた。このため、坊巷(小路。町内)もたいへん規則正しく整っていた。当時、巷道を衖通、或いは故同と呼んだ。これは蒙古語の「水井」(井戸)の意味である。考古上の発掘調査で分かったことは、当時富豪の屋敷はゆったりした敷地になっていて、ある家屋(例えば后英房遺跡)の外壁の下部には「磨きレンガの継ぎ目が合う」ように積まれていて、室内は四角の磚が地面に敷かれ、彫刻で飾られた華麗な格子門が取り付けられていた。貧しい人々の家はたいへん簡単で粗末であった。城市の北部は土地が広いが住む人は少なく、貧民の居住区であった可能性がある。

 

 宮殿 城南の麗正門から入城し、北に七百歩進むと、まっすぐ皇城の霊星門の千歩廊に通じていた。皇城は元代には蕭墻と呼ばれ、俗には紅門欄馬墻と呼ばれ、周囲約二十里10キロ)であった。霊星門の内側は数十歩歩くと川が東に流れ、川の上には白石橋が三本架けられ、周橋と呼ばれた。石の欄干の上には龍鳳瑞雲の図案が彫り刻まれ、玉のようにきらめいていた。橋の下には四匹の白石の龍が置かれていた。河岸は悉く柳の木が植えられ、青々と茂っていた。西側は遥かに西宮と海子が望まれた。橋を渡って約二百歩で、宮城崇天門であった。宮城の周囲は九里三十歩で、城壁の高さは三丈(1丈は3.3メートル)五尺であった。城は長方形を呈し、崇天門の両側は、右が星拱門、左が雲従門であった。東西両側には東華門、西華門があった。北は厚載門である。星拱門の南には御膳亭があり、亭の東には拱宸堂があり、百官が会合する場所であった。宮城内の建物は、主に二組に分かれ、前方が大明殿、後方が延春閣で、全城の中軸線上に均衡を保って配置された。大明殿は、皇帝が即位し、正月、長寿祝いの時の朝臣との謁見、聴政の場所であった。青石に模様の刻まれた礎石、白玉の石園の置き石(磶。セキ)、紋の入った石とレンガを敷いた地面、上に敷いた重い敷物(裀。イン)、朱を塗った柱に金の飾り、龍がその上にからみついていた。四面に朱の鎖模様の透かし彫りの付いた格子窓、飾り天井の間には金の絵が描かれ、燕石(燕山産の玉に似た石)で飾られていた。二重の階(きざはし)に朱の欄干、金色に塗った銅製の鵃(トウ。ハトの一種)が飛び立とうとしていた。中に七宝の雲龍を設けた皇帝の御座、白い蓋の金縷の褥(しとね。敷物)。また后位も設けられた。諸王百寮(百官)、怯薛(禁衛軍)は宴席では左右に並んで侍っていた。前面には貯めた水を動力とする自動灯漏(時計)が設置され、小さな木の人形が時間になると木の札を取り出して時を告げた。御殿の中には木製の大樽が置かれ、内側は銀で包まれ、外側は金で包まれ、上面は雲龍が取り巻き、高さは一丈七寸、酒を五十石(1石は100升)余り蓄えることができた。彫像と酒卓が一脚あり、長さ八尺、幅は七尺余りであった。この他、たくさんの楽器が陳列され、その中には興隆笙があり、この楽器はパイプが九十並び、六列に分かれて柔らかい革袋につながり、ユウガオの実を使って圧縮した空気を送り、パイプによってリードの音が鳴った。笙の首は二羽のクジャクになっていて、笙が鳴って動くと、音に合わせてクジャクが舞った。およそ皇帝が宴席を催す時に、この笙が鳴らされると、他の楽器も合奏し、笙が止まると、他の楽器も演奏を止めた。皇帝、皇后、諸王、 禁衛軍の人々が席に就き、酒甕、酒卓と興隆笙を準備した。これはモンゴル初期の和林での宮殿内の配列と同じで、明らかにモンゴルの古い習慣を踏襲したものだった。伝えられるところでは、フビライは漠北からジンギスカン居地の莎草(ハマスゲ)を一株、内裏の赤い階(墀。チ)の下に移植し、これを「誓倹草」と名付けた。その意味は、子孫にモンゴルの元の純朴な風習を保つよう戒めたのだ。大明殿の東側には文思殿、西には紫檀殿があり、後ろは回廊があり寝殿に通じ、その周りを回廊で囲まれ、前門に通じ、前面には金紅(黄色っぽい赤)の欄干が取り巻き、一面に花が描かれていた。ここは妃や後宮の女たちの居所であった。

 

 寝殿の後ろは宝雲殿で、更に北へ行くと延春門、つまり延春閣で、階段があり、東側から三回折れ曲がって上に上がった。二重の軒、模様の付いた石畳の階、色とりどりの柔らかい毛の敷物が敷かれ、庇と帳が共に具わっていた。白玉の二重の階。朱の欄干。楼閣の上には皇帝の玉座があり、回廊の中に小山のような衝立とベッドが置かれ、これらは皆、楠で作られ、金の飾りが施されていた。後方の寝殿の中には楠でできた寝台が設えてあった。皇帝は通常ここで大臣と謁見し、仏事を修めた。楼閣の東には慈福殿があり、西には明仁殿があった。楼閣の後ろは清寧宮で、長い回廊で遠く延春宮と繋がり、何れも妃や側室たちの居所であった。その後ろが宮城の北門、厚載門で、御苑はここにあり、用水は玄武池から引かれ、吸水して植えられた花や木、五穀や瓜、野菜に灌漑された。

 苑囿 1162年(中統三年)、フビライは金代の瓊華島に手を加え、駐蹕(ちゅうひつ。帝王が行幸中に一時乗り物をとどめること)の場所とした。宮城の建物が完成後、ここを万歳山と改名し、宮苑の中心とした。

 

 万歳山は大内裏の西北、太液池の南にあり、南側に長さ二百尺(約67メートル)余りの白玉石橋があり、池の中心の園坻(池の中の小島。今の団城)と通じていた。小島の上には儀天殿があった。その東側には木の橋があり、大内裏の挟垣に通じていた。万歳山の上は山の峰や尾根が微かに映し出され、奇石、奇岩が巧みに配され、松やヒノキが生い茂り、その景観はあたかも自然にできたもののようであった。マルコポーロは挿絵を描いてこう記述した。万歳山は「人力で築いたもので、高さは百歩、周囲約1マイル(1.6キロ)である。山頂は平らで、一面樹木が植わっており、木の葉は落ちず、四季を通じ常緑である。」「世界で最も美しい木は皆ここに集まっている。君主はまた人に命じて瑠璃鉱石でこの山を覆わせた。その色は甚だ青く、これにより木の緑だけでなく、その山もまた緑で、全部が緑一色になった。ゆえに人々はこの山を緑山と呼んだ。」白玉石橋を巡って山の南に到ると、ここは奇妙な形の石が林立し、左右両方に山に登る道があり、「万石の中をめぐり、洞窟を出入りするうち、道に迷ったかのようになる。」山の中腹には仁智、荷葉、介福、延和の諸殿があった。山頂には広寒殿があった。至元二年(1265年)磨いて作られた瀆山大玉海(とくさんだいぎょくかい)はここに置かれ、「玉には白い模様があり、その形に合わせて魚や獣の形を刻み、波濤のような形状が表れた。その大きさは酒三十石あまりが貯蔵可能であった。」

瀆山大玉海

ある種の巧みな機械動力を通じ、また金水河の水を山の後ろで汲んで山頂に上げ、ひとつの石龍の口から流して方池に入れ、その後伏流して仁智殿の後ろに到り、石で刻まれた首を上げたとぐろを巻いた龍の口から噴出させ、東西に分流して太液池に入った。山の東は霊囿で、様々な奇禽異獣を飼育していた。