このブログの目的は、ブログ主である私が世の中の洗脳に嵌り、時間もお金も浪費してきた経験を世に広く知らしめ、多くの人が悪人が作ってきた洗脳工作にハマることなく幸せな人生を生きて欲しいという自戒の念も込めて記事を書いています。
まだまだ私自身、人を見た目や学歴や職業などで判断してしまっているため、本当に未熟な人間であり、表面的な生き方しかしてこれなかったと反省ばかりです。
今回も株式日記の記事より転載します。
以下転載
まだ社会に出たくないので大学に行くという「モラトリアム」的な進学は、数十年前から
あった。しかし学ぶスキルは備わっていないし、大学で学びたいという意欲がない。
2017年11月9日 木曜日
◆「教育困難大学」で大暴れする不良学生の実態 学ぶスキルも意欲もないのに入学できる現実 11月8日 朝比奈なを
「教育困難校」の教員にとっては既視感のある場面
10月上旬、高校生が授業中に若い男性教員に暴力を振るう画像がインターネットに流れ、その後に高校生が逮捕されたというニュースがあった。事件の発端は、教師が生徒に対してその授業では使ってはいけないIT機器を使うのを注意したことだそうだ。
今回の映像は一般的には確かに衝撃的だっただろう。しかし、生徒が荒れた中学校に勤務する教員や、「教育困難校」の教員にとっては既視感のある場面だったと思う。似たような場面に日常的に遭遇し、専守防衛に努めている中学・高校教員は全国に大勢存在する。
だが、教員に対してあのような態度を取ってきた生徒たちが大学、特に「教育困難大学」に入学していることを、当事者である大学関係者もあまり気にしていない。彼らは「自身の学びを助けてくれる人」として教員に一目置く、ということはない。逆に力関係として下に見てさえいる。そうした生徒たちが、高等教育の場に入ってくるのである。
いわゆる進学校でない高校からの大学進学者は、推薦入試やAO入試を利用して進学する者が多いことは、これまでにも何度も述べてきた。大学を志望する生徒たちの多くは、少なくとも3年生の1学期頃からは、教師の指導に従って準備を行う。一般的には10月上旬あたりからAO入試が、11月上旬からは推薦入試が始まり、パラパラと合格が決まっていく。
すると、その頃まで自分の進路をまったく気にしていないように見えた生徒たちが、突然、担任や進路指導教員に「せんせー、俺、大学に行こっかな。親も行けっていうし」などと口にするようになる。このような生徒はおおむねこれまで教員をバカにした態度を取り続け、勉強や部活動にも熱心でなく、努力や我慢が苦手なタイプの生徒たちである。
すでに推薦入試などの本番が始まっているので教員は非常に困惑するが、本人と保護者が「大学に進学したい」と思っているのであれば、止めることはできない。もちろん、一般入試に通る学力はないので、推薦入試の日程が残っている大学を探すことになる。
やりたいことがまったく決まっていないので、学部・学科選びも大変だ。結局、いわゆる「潰しが利く」といわれている社会科学系や文系の学部を選ぶことになる。大学側がいろいろと工夫して決めた学部の特色などもこのタイプの生徒たちはまったく意に介さない。ただただ「楽な大学」を選びたいと考えるのみなのだ。
学ぶスキルや意欲がない学生も、不合格にならない
この期に及んでもまじめに取り組もうとせず、「せんせー、俺の代わりに志望動機書っていうの書いてよ。どうせ、ばれやしないし」などと言い出す。教師はこうした生徒を指導しながら、心のどこかで「このいい加減な態度を面接では隠しきれないだろう。書類の内容も中身がないので、さすがに大学側も落とすかもしれない」という思いが頭をよぎる。しかし、意外にも、彼らが不合格になることは皆無といってよいのだ。
まだ社会に出たくないので大学に行くという「モラトリアム」的な進学は、数十年前からあった。しかし、ペーパーテストによる入試の存在が、そうした人も受験勉強へと必然的に向かわせ、その過程で学ぶスキルが結果的に身に付いたことが多かったと思う。
だが、上述のような流れで大学に進学する学生たちに、学ぶスキルは備わっていないし、大学で学びたいという意欲がない。そのうえ、これまでの学校生活の中で、教員の指導は無視してよいもの、自分の気持ちは教師の指導よりも優先するべきもので、それを教員が抑制しようとする場合にはキレてよい、という価値観を持っている。
しかし、彼らは大学生活では授業の場面でキレることはさほど多くはない。高校までのように服装や態度を直接注意されることがほとんどないからだ。大学と高校では、教職員と生徒との関係とは距離感が違う。授業を休んでもそのつど電話や家庭訪問があるわけでもないので、このようなタイプの学生にとっては、大学生活は天国のように思えるに違いない。しかし、そのままではやがて単位が取れず、中退という道が待っていることに彼らは気づかない。
以下のエピソードは、「教育困難大学」に勤務する教員から最近聞いたものである。彼は、日頃から「大学生は社会に出る直前の段階なので、社会常識を身に付けさせるべき」と考え、実践している教員だ。ほかの多くの教員とは異なり、授業中に寝ることや、人の話を聞く態度なども、気になった際にはそのつど学生を注意している。(後略)
(私のコメント)
11月5日にも大学の荒廃した問題を書きましたが、社会問題として大きく扱われないのは何故なのだろうか。18歳から22歳という一番の伸び盛りであり、その人の一生に関わる問題なのに、誰も真剣に考えようとはしていない。大学に進学して勉強したいといった学生なら進学する意味もあるのでしょうが、就職用の学歴だけを求めて大学に行くのは本末転倒だ。
会社側もこのような大学によって選別するのではなくて、高校の学歴で選別するようになった。有名な進学高校を出ていれば学力は本物だろうし、同じ大学を出ていても進学高校でない学歴の場合はランクを下げるといった方法だ。今の大学は希望すれば誰もが大学に進学できて、トコロテン式に卒業できてしまう。
今の大学は、レジャーランドであり4年間を遊んで過ごしてしまう。18歳から22歳の頃は体力もあり、まだ子供の意識もあるから会社に就職して叱られてもすぐに慣れるが、22歳で会社に就職して上司にしごかれると精神的にまいってしまうのではないだろうか。それくらい本人の意識も違ってくる。
昔のような大卒者が1割か2割程度なら、大学を卒業すればホワイトカラーの仕事に就けたが、5割をこすような現在の場合では大卒者にふさわしい職場は難しくなった。そして学歴は高学歴なのに仕事ができない若者が増えてしまっている。18歳なら会社で仕込みようもあるが、22歳では遅すぎるということもあるだろう。
社会が進歩すれば高学歴化は時代の流れという見方もできますが、大卒にふさわしい学力を持った人は一定の割合しかいないようだ。私自身も30歳過ぎてから電気工学科に入学して勉強しましたが、錆び付いた頭ではなかなか工学的なことは頭に入らなかった。やはり職業教育も高校時代から始めるべきであり、大学の4年間を無駄に過ごしてしまうと取り返しのつかないことになるのではないだろうか。
最近ではコンピュータプログラマーの需要が高まってきていますが、同じ理系の大学を出ても物理や電子工学では全く分野が異なる。電気工学科でコンピュータープログラムの教育も受けたが、初歩的なプログラミングの事すらなかなか理解できず、戸惑った記憶があります。だから同じエンジニアでも分野が異なれば転換が効かない。
中学生のプロ棋士の藤井聡太四段は、早くから将棋を学んで強くなりましたが、大学を卒業してから将棋を学んでも強くはなれなかっただろう。物事には適齢期が有り、早くそれに気がついて学ぶべきであり、漫然と高校や大学に進学するのは時間の無駄使いだ。さらにAIの登場によってプロ棋士もAIの将棋には敵わなくなった。
超一流大学を出ても能力でAIに敵わなくなれば、医者も弁護士も会計士もみんな失業するようになる。記憶力容量や計算能力においてAIは無限大であり、人間の能力には限界がある。このような時代では中卒とか大卒とか言った学歴は無用の長物であり、AIを使いこなした人間に誰も敵わなくなる。
これからの高学歴者に要求される能力は、記憶力や計算力ではなく、想像力であり企画力であり決断力だろう。AIは今までの教育体制を根本から変える必要に迫られているにもかかわらず、必要とされる想像力などの教育がなされていない。記憶力だけが優れた秀才など何の役にも立たない時代になった。
「株式日記」をこのように毎日書く仕事も、想像力や創造力を要求する仕事でありAIにはできないことだ。何を主題にすべきかはAIには決められないことであり、クリエイティブな仕事はAIには絶対にできない。グーグルの検索も一種のAIですが、検索項目を打ち込むのは人間にしかできない。しかしAIをどのように活用するかなどの未知の事は誰にもわからない。「株式日記」はその最先端の問題に取り組んでいることになる。
【転載ここまで】
はっきり言いますが、これは親の問題です。
無知な子供を育てるのは親の責任です。
親が無知であるため、子供達も見栄や世間体だけで生きることしかできない。
大学が資格ビジネスであるのは学生や大卒者の能力や頭の中身を見れば、周知の事実です。
肩書きで食っていける時代は終わったといいながら、それでも無知な我が子を大学まで卒業させたい、、、
教育とは、人任せでなく、社会の仕事でもなく、親の仕事です。
全て人任せにしては、生きて行く知恵は身につきません。
まだまだ私自身、人を見た目や学歴や職業などで判断してしまっているため、本当に未熟な人間であり、表面的な生き方しかしてこれなかったと反省ばかりです。
今回も株式日記の記事より転載します。
以下転載
まだ社会に出たくないので大学に行くという「モラトリアム」的な進学は、数十年前から
あった。しかし学ぶスキルは備わっていないし、大学で学びたいという意欲がない。
2017年11月9日 木曜日
◆「教育困難大学」で大暴れする不良学生の実態 学ぶスキルも意欲もないのに入学できる現実 11月8日 朝比奈なを
「教育困難校」の教員にとっては既視感のある場面
10月上旬、高校生が授業中に若い男性教員に暴力を振るう画像がインターネットに流れ、その後に高校生が逮捕されたというニュースがあった。事件の発端は、教師が生徒に対してその授業では使ってはいけないIT機器を使うのを注意したことだそうだ。
今回の映像は一般的には確かに衝撃的だっただろう。しかし、生徒が荒れた中学校に勤務する教員や、「教育困難校」の教員にとっては既視感のある場面だったと思う。似たような場面に日常的に遭遇し、専守防衛に努めている中学・高校教員は全国に大勢存在する。
だが、教員に対してあのような態度を取ってきた生徒たちが大学、特に「教育困難大学」に入学していることを、当事者である大学関係者もあまり気にしていない。彼らは「自身の学びを助けてくれる人」として教員に一目置く、ということはない。逆に力関係として下に見てさえいる。そうした生徒たちが、高等教育の場に入ってくるのである。
いわゆる進学校でない高校からの大学進学者は、推薦入試やAO入試を利用して進学する者が多いことは、これまでにも何度も述べてきた。大学を志望する生徒たちの多くは、少なくとも3年生の1学期頃からは、教師の指導に従って準備を行う。一般的には10月上旬あたりからAO入試が、11月上旬からは推薦入試が始まり、パラパラと合格が決まっていく。
すると、その頃まで自分の進路をまったく気にしていないように見えた生徒たちが、突然、担任や進路指導教員に「せんせー、俺、大学に行こっかな。親も行けっていうし」などと口にするようになる。このような生徒はおおむねこれまで教員をバカにした態度を取り続け、勉強や部活動にも熱心でなく、努力や我慢が苦手なタイプの生徒たちである。
すでに推薦入試などの本番が始まっているので教員は非常に困惑するが、本人と保護者が「大学に進学したい」と思っているのであれば、止めることはできない。もちろん、一般入試に通る学力はないので、推薦入試の日程が残っている大学を探すことになる。
やりたいことがまったく決まっていないので、学部・学科選びも大変だ。結局、いわゆる「潰しが利く」といわれている社会科学系や文系の学部を選ぶことになる。大学側がいろいろと工夫して決めた学部の特色などもこのタイプの生徒たちはまったく意に介さない。ただただ「楽な大学」を選びたいと考えるのみなのだ。
学ぶスキルや意欲がない学生も、不合格にならない
この期に及んでもまじめに取り組もうとせず、「せんせー、俺の代わりに志望動機書っていうの書いてよ。どうせ、ばれやしないし」などと言い出す。教師はこうした生徒を指導しながら、心のどこかで「このいい加減な態度を面接では隠しきれないだろう。書類の内容も中身がないので、さすがに大学側も落とすかもしれない」という思いが頭をよぎる。しかし、意外にも、彼らが不合格になることは皆無といってよいのだ。
まだ社会に出たくないので大学に行くという「モラトリアム」的な進学は、数十年前からあった。しかし、ペーパーテストによる入試の存在が、そうした人も受験勉強へと必然的に向かわせ、その過程で学ぶスキルが結果的に身に付いたことが多かったと思う。
だが、上述のような流れで大学に進学する学生たちに、学ぶスキルは備わっていないし、大学で学びたいという意欲がない。そのうえ、これまでの学校生活の中で、教員の指導は無視してよいもの、自分の気持ちは教師の指導よりも優先するべきもので、それを教員が抑制しようとする場合にはキレてよい、という価値観を持っている。
しかし、彼らは大学生活では授業の場面でキレることはさほど多くはない。高校までのように服装や態度を直接注意されることがほとんどないからだ。大学と高校では、教職員と生徒との関係とは距離感が違う。授業を休んでもそのつど電話や家庭訪問があるわけでもないので、このようなタイプの学生にとっては、大学生活は天国のように思えるに違いない。しかし、そのままではやがて単位が取れず、中退という道が待っていることに彼らは気づかない。
以下のエピソードは、「教育困難大学」に勤務する教員から最近聞いたものである。彼は、日頃から「大学生は社会に出る直前の段階なので、社会常識を身に付けさせるべき」と考え、実践している教員だ。ほかの多くの教員とは異なり、授業中に寝ることや、人の話を聞く態度なども、気になった際にはそのつど学生を注意している。(後略)
(私のコメント)
11月5日にも大学の荒廃した問題を書きましたが、社会問題として大きく扱われないのは何故なのだろうか。18歳から22歳という一番の伸び盛りであり、その人の一生に関わる問題なのに、誰も真剣に考えようとはしていない。大学に進学して勉強したいといった学生なら進学する意味もあるのでしょうが、就職用の学歴だけを求めて大学に行くのは本末転倒だ。
会社側もこのような大学によって選別するのではなくて、高校の学歴で選別するようになった。有名な進学高校を出ていれば学力は本物だろうし、同じ大学を出ていても進学高校でない学歴の場合はランクを下げるといった方法だ。今の大学は希望すれば誰もが大学に進学できて、トコロテン式に卒業できてしまう。
今の大学は、レジャーランドであり4年間を遊んで過ごしてしまう。18歳から22歳の頃は体力もあり、まだ子供の意識もあるから会社に就職して叱られてもすぐに慣れるが、22歳で会社に就職して上司にしごかれると精神的にまいってしまうのではないだろうか。それくらい本人の意識も違ってくる。
昔のような大卒者が1割か2割程度なら、大学を卒業すればホワイトカラーの仕事に就けたが、5割をこすような現在の場合では大卒者にふさわしい職場は難しくなった。そして学歴は高学歴なのに仕事ができない若者が増えてしまっている。18歳なら会社で仕込みようもあるが、22歳では遅すぎるということもあるだろう。
社会が進歩すれば高学歴化は時代の流れという見方もできますが、大卒にふさわしい学力を持った人は一定の割合しかいないようだ。私自身も30歳過ぎてから電気工学科に入学して勉強しましたが、錆び付いた頭ではなかなか工学的なことは頭に入らなかった。やはり職業教育も高校時代から始めるべきであり、大学の4年間を無駄に過ごしてしまうと取り返しのつかないことになるのではないだろうか。
最近ではコンピュータプログラマーの需要が高まってきていますが、同じ理系の大学を出ても物理や電子工学では全く分野が異なる。電気工学科でコンピュータープログラムの教育も受けたが、初歩的なプログラミングの事すらなかなか理解できず、戸惑った記憶があります。だから同じエンジニアでも分野が異なれば転換が効かない。
中学生のプロ棋士の藤井聡太四段は、早くから将棋を学んで強くなりましたが、大学を卒業してから将棋を学んでも強くはなれなかっただろう。物事には適齢期が有り、早くそれに気がついて学ぶべきであり、漫然と高校や大学に進学するのは時間の無駄使いだ。さらにAIの登場によってプロ棋士もAIの将棋には敵わなくなった。
超一流大学を出ても能力でAIに敵わなくなれば、医者も弁護士も会計士もみんな失業するようになる。記憶力容量や計算能力においてAIは無限大であり、人間の能力には限界がある。このような時代では中卒とか大卒とか言った学歴は無用の長物であり、AIを使いこなした人間に誰も敵わなくなる。
これからの高学歴者に要求される能力は、記憶力や計算力ではなく、想像力であり企画力であり決断力だろう。AIは今までの教育体制を根本から変える必要に迫られているにもかかわらず、必要とされる想像力などの教育がなされていない。記憶力だけが優れた秀才など何の役にも立たない時代になった。
「株式日記」をこのように毎日書く仕事も、想像力や創造力を要求する仕事でありAIにはできないことだ。何を主題にすべきかはAIには決められないことであり、クリエイティブな仕事はAIには絶対にできない。グーグルの検索も一種のAIですが、検索項目を打ち込むのは人間にしかできない。しかしAIをどのように活用するかなどの未知の事は誰にもわからない。「株式日記」はその最先端の問題に取り組んでいることになる。
【転載ここまで】
はっきり言いますが、これは親の問題です。
無知な子供を育てるのは親の責任です。
親が無知であるため、子供達も見栄や世間体だけで生きることしかできない。
大学が資格ビジネスであるのは学生や大卒者の能力や頭の中身を見れば、周知の事実です。
肩書きで食っていける時代は終わったといいながら、それでも無知な我が子を大学まで卒業させたい、、、
教育とは、人任せでなく、社会の仕事でもなく、親の仕事です。
全て人任せにしては、生きて行く知恵は身につきません。
甘やかすだけでなく、本当に子供のためを思うなら自力で何でもやり通す事を身に着けさせるのが良いのでしょうね。
僕は幼いころから病弱で入院ばかりだったので母親からは相当甘やかされました。
父親は無関心で、これと言って何かを教えてくれるわけでもなく、漠然と友達と遊んだりゲームをし青春時代を送っていました。
しかしどんな環境や親元で育ったとしても、20になれば必然的に社会に出なければならないので、そこで嫌と言うほど思い知らされました。
僕の場合は15ですぐに飲食店でアルバイトを始めたのでそこで少しは社会的な事を学べました。
ある意味親よりも、社会に出て出逢った人たちから学んだ事のほうが多いと思います。
そういった意味では学校で生ぬるい時間を過ごすより、早い段階で社会の空気を体験し、自分なりに道を築く方に専念したほうが良いのではないかと思います。
現に中卒の同級生は自分らのやりたいことで道を切り開き人生を謳歌しています。
この世の中では、お金をかける事が良い教育だと勘違いしています。
そして、かわいそうなことに、子供は親の背中を見て育ってしまっています。
ですから、小手先の教育論は全く当てになりまさんし、親が完全にならないと子供はもっと歪んで行きますね。
就職して、結婚して子供作って家買ったら立派な親だ、一人前の大人だと誰がいい始めたのでしょうかね?
こんなもん、メーカーがCMで言ってるだけですからね。
進学して本当に得するのは、学習塾と大学だけ。
マイホームローン組んで本当に得するのは?
ハウスメーカーと銀行だけ。
こんな単純な事もわからないのに、親になれてしまいますからね。
無駄なお勉強をするくらいなら、社会に出た方がよっぽど良いかもしれません。
学校の先生が教師を辞めて生きていく力がない人ばかりなのに、そんな先生が何を教えてくれるのでしょう?
学校では、生きていく力は身につきませんからね。