いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

一口解説の試み

2008-09-30 18:15:59 | 一口解説/一口メモ
○一般法則論で使っている用語や概念について簡単な解説をする
 一般法則論を説明しているこのブログのなかで使っている用語や概念について、一口解説的に説明をする文を作ります。
 その狙いは、一般法則論を更によく分かって頂きたいからです。

○「ヒト」という用語の意味
 以下の文中で、「ヒト」とは、創造主である神の化身かつ分身の存在のヒトの意味です。

○一般法則論が説明しているこの世界の成り立ちと仕組み
 一般法則論が説明しているのは、天然自然の存在の唯一絶対普遍の創造主である神が、自らの身心=自然科学で言う「エネルギー」を、この世界の成り立ちと仕組みを造る唯一絶対普遍かつ不変の素材にして、自らの唯一絶対普遍かつ不変の天地創造の原理=自然科学でいう「自然の法則」=原因を結果に自然法則的に絶対的かつ自動的かつ必然的に変換する、「原因→因果の法則→因果必然の現象・結果」の間の関係が「三位一体不可分の関係」で成り立つ、因果必然の法則に則って、創造主である神自らを自己展開する形で造っている、全体でただ一つの、汎神論が当て嵌まる世界です。
 但し、創造主である神は「汎神論」が当て嵌まる世界を造りながら、同時に、創造主である神自体は、この世界の成り立ちと仕組みから絶対的に超越して存在するという仕組みになっています。そして、創造主である神がこの世界の成り立ちと仕組みから絶対的に超越して存在している仕組みのことを、禅では「空」の存在=主体的に絶対的な自由さを持つ存在、と名付けています。

○なぜこの世界の成り立ちと仕組みを説明する必要があるのか?
 なぜ、この世界の成り立ちと仕組みを説明することが必要になるのか?
 この理由は、この世界の成り立ちと仕組みが私達の日々を生きるための生き方の原理の基になっているからです。
 このことを知らないと、ヒトとして日々を普通に生きることさえも難しくなります。
 現に人類は、未だこれを自覚的な知識にしていないために、生きることに難儀をしています。
 一般法則論は、これを、根本的に解決し解消したいわけです。
 一言で言えば、「ばら撒き福祉」を中心とする政治的な解決方法(注記1)や、ヒトとしてちゃんと生きることをしていないことの論理必然的な結果の生きづらさなのに、これを知らず、知ろうともせずに、これを棚に上げて、ばら撒き福祉の元祖総本家/福祉の親玉みたいな救世主の出現を間違って期待し望んでいる多くの宗教家や民衆の生き方を採らずに、です。
 また、全ての煩悩、特に我欲を全て捨てる生き方、何かを求めない生き方をするように奨めていると理解できる仏教的な生き方を採らずに、です。

○注記1 必要不可欠な福祉対策があるがこれが根本の問題解決方法ではない
 「生き方が間違っているから、生き辛くなっているのだ。」
 こう言い放って事が済むものではありません。
 ヒトの住む家が火事になっていたら、その家の持ち主の資産の多寡や有無如何に一切関係なく、また、出火原因の如何に一切関係なく、躊躇せず、直ちにその消火に当たらなくてはならないものです。ましてや、他の建物に延焼中だという場合には・・・。
 ヒトの生き方の原理を知らず、うまく生きられないヒトが、現実には、日本国内でも無視できないほど沢山います。そして、このようなヒト一人の周りには更に何人もの同じように生きることに失敗している家族や友人がいるものです。
 こういう場合は、「個人のあり方が社会問題化している」と言われることになります。
 この人たちを支援し救済するためのNPO法人の活動が、最近たびたび報道されています。
 しかし、「個人のあり方が社会問題化している」場合には、国家・社会のレベルで、公的に=政治的に=社会政策的に=福祉的に問題の解決がなされるべきものです。
 但し、「個人のあり方が社会問題化している」ときに、これを社会体制の所為にして、その社会体制を変えれば、俗に言う「世直し」をすれば、問題が解決され、解消することになるのではありません。
 一昔前ならば、ヒトとしての生き方の原理を知らないのが原因なのではなくて、資本主義的経済体制が人々に貧困をもたらす根本原因であり、資本主義的経済体制を暴力的に力ずくで廃止して、「マルクス主義」と称される社会主義・共産主義社会を作れば問題は根本的に解決するというデマ宣伝が社会に流行っていました。今でもこう主張し信じている人たちの政党は存続しています。
 しかし、資本主義的経済体制以前の社会にも貧困は存在していた事実を同じマルクス主義理論でどう説明するのか、私は寡聞にして知りません。
 つまり、「個人のあり方が社会問題化している」ときに、これを国家・社会のレベルで公的に=政治的に=社会政策的に=福祉的に扱うのは、常に一時しのぎに過ぎません。このことを忘れずにしっかりと踏まえた上での公的=政治的=社会政策的=福祉的な対策です。
 各人の生き方の問題、各人の人生の問題、各人の生死の問題を、政治や社会体制で根本的に取って代わってすることなどできるはずがありません。
 この根本的な解決は、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みに絶対的かつ普遍的かつ不変的な根拠がある「ヒトの生き方の原理」とこれをハウツー化した「潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法」を、全てのヒトが何らかの方法で自分のものにするしか、根本的な問題解決の方法はありません。
 一般法則論は、このためにお役に立つことを意図しています。
 注記1の終わり

○この世界の成り立ちと仕組みの特徴
 この世界とは、私達が常識的に知っている、私達が現に生まれ住んでいるこの世界のことです。
 この世界が全体でただ一つの世界であるとは、唯一絶対普遍の創造主である神が自らの身心を自ら自己展開して造ったことの自動的かつ必然的かつ論理必然的な結果です。
 言い換えると、科学的な学問が広く採用している方法である、この世界を何かの基準で部分々々/要素と要素に分離・分割して、その部分だけを説明する、という方法を採ることが出来ない、ということです。

○全体でただ一つの世界を認識し理解する方法
 この世界の成り立ちと仕組みは、常に全体でただ一つのものである。
 すなわち、この世界のどの部分を説明するのでも、例えば創造主である神とは何か、ヒトとは何かを説明するのでも、常に必ず全体でただ一つのこの世界全体の関係でしかよく認識しよく説明することができない、という意味です。
 この世界の成り立ちと仕組みは、認識するのも、説明するのも、理解するのも、最初に、この世界の成り立ちと仕組みの全体を、何らかの形で既に知っている必要があるのです。

○原理的=無意識的には既に誰でもこの世界の成り立ちと仕組みを正しく知っている
 原理的には、この世界の成り立ちと仕組みを認識し理解するための道具である、全てのヒトの心の成り立ちと仕組み/心の構造/心というシステムは、この世界の成り立ちと仕組みを造っているのとまったく一つ同じ創造主である神の心=天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の存在とその働きで出来ています。
 そして、意識のある心の部分と無意識の心/潜在意識とが一体不可分で成り立っているヒトの心の仕組みの中で、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られている心の大部分は、無意識の心/潜在意識と名付けられて呼ばれている部分にあります。
 この世界の成り立ちと仕組みを認識し理解することが出来るのは、意識のある心の働きです。
 意識のある心の働きは、「自らの生き方を自分で主体的に自由に選んで決めることが出来る機能を持つ心=意識のある心を持つ、(創造主である神自らの化身かつ分身の存在の)ヒト(宇宙大では宇宙人一般)を創り出す」という創造主である神の意図するところに従って、「進化」の名で知られる過程を経て、無意識の心=この元祖大本の創造主である神の絶対的な無意識の心から分化し分節して現れたものです。

 ついでに言えば、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法において、無意識の心/潜在意識が何処にあるのかを探す必要は一切ありません。
 何を実現したいのかを決める意識のある心の働きと表裏一体不可分の関係で常に潜在意識/無意識の心は存在していて、意識のある心が思うことを即座に自動的かつ必然的に引き取ってそれを形あるものに実現する働きに自動的かつ必然的に入るという仕組みになっています。
 一般法則論では、無意識の心/潜在意識は、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きと等価、同じだ、と断言しています。

 そこで、無意識の心にあることは、意識のある心の中に意識化し自覚的に確認しないと、その存在が分からない、という仕組みになっています。
 ヒトの心の仕組みがこう出来ているからこそ、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みをヒトの心で認識し理解できるようになっているわけです。
 そこで、誰の説明を聞くまでもなく、この世界の成り立ちと仕組みの全てを既にだれもが無意識のレベルでは正しく知っています。
 ただし、この世界の部分、部分ではなくて、その全体を意識化して自らの自覚的な知識にする体験=悟りの体験をするのがとても難しいので、多くの人達は、一生涯、天然自然の存在の創造主である神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みの全体を自覚的な知識として知らないで終わってしまうのです。言い換えると、この世界の成り立ちと仕組みを基礎にして成り立つヒト本来の生き方を知らずに終わってしまうのです。

○一般法則論の役割
 全てのヒトの生きる基盤になっているこの世界の成り立ちと仕組みを理解することが、現実には多くの人達には一生涯かけても出来ないし、これをしようとしても難しい。
 しかし、否応なしに、この世界の成り立ちと仕組みにその根拠と基礎を置いている、全てのヒトに日々の生活があります。
 そこで、一般法則論で、この世界の成り立ちと仕組みについて、基礎的で一般的な知識を提供しようというわけです。
 この知識の出所は、筆者の私が、1963年の秋、二十三歳のときに体験したいわゆる悟りの体験にあります。
 しかし、既に説明したように、最初にこの世界の成り立ちと仕組みの全体を何らかの形で既に知っていないと、この世界の成り立ちと仕組みをよく理解することが実際には難しいのです。
 このブログの中での揚げ足取り的なコメントも、この世界の成り立ちと仕組みの全体に対する配慮と認識が未だ無いことに原因があります。

○すでに全部知っていると思って頂こうという「一口解説」という試み
 一般法則論の説明では、一度にこの世界の成り立ちと仕組みの全体を説明し尽くすことは出来ません。
 つまり、一般法則論では、どうしてもこの世界の成り立ちと仕組みの部分に関する説明になります。
 そこで、これを補うために、一つの文の中では説明し切れない残りの部分について、一口解説的な説明文を多数書こうと決めました。
 こうすると、皆さんが、既に全体を知っていると思って下さるかも知れない、というわけです。
 実際、ヒトは、すでによく知っていることしか気がつかないし、理解できないもののようです。

○話の重複は避けられません
 一口解説に当たっては、その内容の一部が、他で説明している一口解説と話が重複することが避けられません。
 なぜならば、この世界は、元々部分部分に分解して、それだけを単独で説明することが出来ない、全体でただ一つに編み上げられている世界だからです。

 よろしくお願いします。

 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

科学とは何か

2008-09-18 03:41:37 | 一口解説/一口メモ
 この文は書き直して再投稿しました。
 2008年10月23日(木)。

○科学とは何かについて考える
 このブログでは、一般法則論について説明する基礎的な用語について、文の中で説明しても、単独の説明項目を立てて説明をしていないことが沢山あります。
 その内の一つが、科学とは何か です。
 そこで、手始めに、これをします。

○これまで科学と言われるものがしてきた科学とは?
 これまで、科学とか科学的何とか、という場合の「科学」、疑似科学に対する「本物の正しい科学」と言う場合の科学は、次のように説明できるでしょう。
 私達が生きている世界のこの世界の成り立ちと仕組みを、自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全て説明し尽くそうという学問が、科学です。特に、自然科学。
 この場合に、この世界の成り立ちと仕組みというのは、天然自然の物質的な世界の成り立ちと仕組みの意味です。
 科学的な技術とは、人類が獲得した科学的な知識に基づいて、何かヒトの役に立つことをする、というものです。
 例えば、ものづくり。最近のハイテク技術は、高度の科学的な知識を基にして可能になっています。
 西洋医学といえば、人類が既に獲得した自然科学的な知識のみに基づいた医療技術の意味ですね。

○なぜこの世界の成り立ちと仕組みを発見し説明する必要があるのか?
 なぜ、私達が生きているこの世界の成り立ちと仕組みを、ヒトとは何かも含めて科学的に発見して説明する必要があるのか?
 この答えは、私達の日々の実際の生活の全てが、この世界の成り立ちと仕組みに関する正確な知識如何に基づいて成り立っているからです。
 そして、この世界の成り立ちと仕組みに関する正確な知識は、今日では科学的な知識というのと殆んど同じ意味です。
 例えば、この文をパソコンで書いていますが、パソコンは、しばしば文字を持たない、いわゆる先住民の人たちが生活の拠り所にし誇りにしている自然観や世界観や人間観に基づいた知識からは生まれようがない、科学的な自然観や世界観によって初めて作り使うことが可能になったものです。
 しかし、科学的な知識は、これまで、この世界の成り立ちと仕組みの中で、物質を支配している自然の法則に関する知識に殆んど限られています。
 そこで、例えば、心(精神)と体(物質)から成り立っているヒトの病気を、物質の法則だけを扱う自然科学に基づいている西洋医学のみに頼って治療しようすると、すぐに治療法が無くなって、いわゆる「不治の病」を創り出します。
 また、薬=化学物質が、物質的な化学的作用のみで動いているはずの物質的な身体の機能にどのように作用するかを厳密に確かめたいのに、現実には、「プラシーボ効果」として知られているヒトの心の働きで薬の作用が左右される、という現象が常に発生して、かく乱させられます。
 言いたいのは、科学的な探求を、物質の世界だけから心とか精神と言われる世界まで拡大する必要がある、ということです。一般法則論は、この試みです。

○科学者は「自然法則とは何か」をそもそも知らない
 科学とは何かについて、科学哲学でも、今、ここで一行で説明したようには説明しません。
 この意味では、科学とは、この世界の成り立ちと仕組みを天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働き説明するものだというのは、ここで説明している一般法則論独自の説明の仕方になる、というのが正確でしょう。
 しかし、実際にこれまでの科学でやってきたことは、この世界の成り立ちと仕組みを、特に天然自然の世界の物質の運動・変化を、自然法則+エネルギー一体不可分の働きで説明する学問だ、という説明は、当たらずとも遠からずどころか、一番分かり易い説明である、と申し上げても良いでしょう。
 と申し上げても、そもそも自然法則とは何かについて、科学で使われる概念や方法論の真偽や適否等について自覚的に意図的に反省的に考察する学問である「科学哲学」/「科学基礎論」でさへもが一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的に説明をしていない、極めて曖昧な概念です。
 また実際、自称科学者やこの同調者たちも、自然法則とは何かについて一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的に説明で出来るほど知りません。
 具体的には、これは、物理学事典に、「自然法則」という単独の見出し項目が無いことに端的に現れています。
 一般法則論者の私は、こう断定しています。
 ですから、一般法則論者が理解している意味での自然法則を前提にして、「自然科学は、この世界の成り立ちと仕組みを自然法則+エネルギー一体不可分の働きで説明する学問です」と説明しても、これまでの科学が唯一絶対普遍の科学のやり方だと思い込んでいる科学者とこの同調者には、結局何のことか分からない、ということのようです、この判断はあちこちの科学教育や疑似科学を批判しているブログ等を読んでの結果・・・。

○これまでの科学の依って立つ哲学は唯物論
 科学が依って立つ哲学的な立場は、「唯物論」です。即ち、この世界の始まりは「物質」と私達が名付けて呼ぶものから始まった、という考え方です。
 唯物論を裏返して言うと、「唯心論」、即ち、この世界は、私達が心とか精神と名付けて呼ぶものを根源にして、ここから始まり、造られた、という考え方です。
 そして、唯心論で言う唯「心」論は、唯「唯一絶対普遍の存在の創造主である神」論であるのが、その実際です。

○一般法則論は唯心論の立場
 一般法則論は、一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的にかつ絶対的に、唯心論の立場です。
 なぜならば、私達が心とか精神と名付けて呼ぷ、その大本の心的な存在そのものである、この世界の成り立ちと仕組みをゼロから有に創造した、天然自然の存在の創造主である神が実在していることを、私自身のいわゆる悟りの体験で発見しているからです。
 そして、同時に、一般法則論では、意識のある心を持つヒトが、意識のある心が「意識の変性状態」と言われる状態になったときに、その意識のある心に、絶対的無意識の存在の創造主である神を、一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的にかつ絶対的に意識化して確認するのが悟りの体験である、と説明しています。これは、意識と無意識の心からなる心を持つ全てのヒトの誰もが悟りの体験をすることが出来る原理的な仕組みについても明らかにしたものです。
 なお、宗教的な意味の悟りの体験は、今、上に説明した原理でのみ可能なものです。
 このように説明しているのは、一般法則論以外には無いようです。もし、それがあったら、ぜひ教えてください。
 更に、天然自然の存在の創造主である神の実在を、一般法則論者の私がしたような悟りの体験によらないで、これまでの科学の知識で証明することも、一般法則論ではしています。
 このことを、以下で、簡単に再説明。

○創造主である神の存在を自然科学的に証明するための知識=慣性の法則の存在
 自然法則+エネルギー一体不可分の働きには、いわゆる「慣性の法則」性があります。
 具体的には、例えば本棚に置いた本が勝手に動き出して何処かに行ってしまうことはない、ということです。
 このことを知っているのは、慣性の法則性を発見したニュートンと、この発見を正しいと認めて受け入れている科学者だけでなくて、慣性の法則について習ったことが未だ無い幼児や生物一般でも、本能的に、生得的に知っています。なぜならば、慣性の法則に関する知識は、この世界の成り立ちと仕組みを大前提にして現実に成り立つ日々の生活を送るために必要不可欠な基礎的な知識だからです。
 これを言い換えると、自然法則+エネルギー一体不可分の働きは、自らの主体的な自由意志を基礎にして、ゼロから有を生み出す創初的な創造力を持っていないことを意味しています。
 つまり、自然法則+エネルギー一体不可分の勝手な或いは偶然の働きにより、この世界の中に次から次に何かが造られ続けられている、ということは絶対的に起こらないように、この世界の成り立ちと仕組みが出来ている、ということです。
 具体的には、例えば本棚に置いた本が勝手に動き出して何処かへ行ってしまう、ということは絶対的に無いように、この世界の成り立ちと仕組みが出来ている、という意味です。

○慣性の法則性を根拠にした天然自然の存在の創造主である神の存在証明
 誰がヒトが発明したのではない、それ自体であるようにしてある、天然自然の存在の慣性の法則がある。
 このことを根拠にして、この世界の成り立ちと仕組みを造っているのは、自然法則+エネルギー一体不可分の働きだけではない、自然法則+エネルギー一体不可分の働きをいわば道具に使って(道具なので、この道具を使う者の意思に反してこれ自体で勝手な意志を持って働くことがあってはならないわけです=慣性の法則性)、この世界の成り立ちと仕組みの全てをゼロから造った創造主である神の存在が必要不可欠だ、という形の創造主である神の存在証明をしています。
 私達がこの世界に誕生する遥か前からそれ自体で在るようにして在る形で既に実在しているこの世界の成り立ちと仕組みは、自然法則とエネルギーの他に、これを道具に使ってこの世界を造ることを意図してそれを実行した創造主である神を、どうしても必要とする、というわけです。

○一般法則論的な科学の定義
 もうお分かりのように、一般法則論では、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きでこの世界の成り立ちと仕組みの全てを説明するのが、本物の正しい科学だ、と言っています。
 また、これは、天然自然の存在の創造主である神、自然法則、エネルギ一の3語で、この世界の成り立ちと仕組みは全て説明できる、ということです。

○人類の生き方の革命ないしはパラダイム変換の必要性
 この世界の成り立ちと仕組みは、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られている。
 これは、これまでの科学の考え方、すなわち、自然法則+エネルギー一体不可分の働きで、この世界の成り立ちと仕組みの全てが造られているという考え方に、一つ、天然自然の存在の創造主である神の存在が付け加わっただけのようです。
 しかし、これまでの科学、広く言えば学問は、また私達の日常生活においても、政治や行政や司法などでも、天然自然の存在の創造主である神を知らないし、科学的な知識があればその存在を信じる必要が無い宗教信仰上の存在=迷信的な存在と勝手に間違って決め込んだ対象である創造主である神の存在について、これを嫌い、嫌悪し、敵視し、或いは創造主である神の存在を認めたら科学の理論が壊れてしまうという、この世界の本当の成り立ちと仕組みに関する無知から来る妄想を抱いて、天然自然の存在の創造主である神を、積極的に、意図的に、徹底的に排除する形で成り立ってきた、といえます。→政教分離の原則
 誰かヒトが妄想して作ったのではない、私達の存在全てに先立って存在し、それ自体で在るようにしてある、私達ヒトとヒトの住むこの世界をゼロから有に創造した、天然自然の存在の創造主である神の存在は、万人にとって、絶対的に、一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的に、客観的かつ唯一絶対普遍の存在のはずです。
 しかし、現実には、創造主である神を認めるかどうかは、各個人の主観的な判断に任せられた宗教信仰上の問題で、全てのヒトに必然的にかかわりのある、客観的かつ唯一絶対的かつ普遍的な問題では無い、と理解されて来たわけです。
 しかし、私達全てに先立って、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きでこの世界の成り立ちと仕組みが造られていて、この中に、私達ヒト(宇宙大では宇宙人一般)は、創造主である神の化身かつ分身の存在のとして造られ、生まれ、創造主である神の化身かつ分身の存在らしく生きるように運命付けられている、というのが、もし本当であるとすれば、また、実際こうなのですが、天然自然の存在の創造主である神を絶対的に無視して成り立って来たこれまでの全人類のあり方や生き方は、根本から間違っていた、ということになります。
 しかし、天然自然の存在の創造主である神が実在しているのですから、私達全ての存在とそのあり方、生き方は、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きに則ったものにならざるを得ないことになります。
 言い換えると、この世界の成り立ちと仕組みの全てを、そして、この世界の中での全てのヒトの生き方と、このために必要となる正しい科学知識を獲得する方法を、正しく正確に精密に説明するには、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みに忠実な理解に則るしかないことになります。これ以外の全ての方法は間違っている! と断言できる、ということです。

 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。


潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を身につけなければならない理由

2008-09-05 04:10:56 | 潜在意識の活用法
○目標の実現は最後まで諦めないことに関する実例
 この文では、成功哲学では決まり文句になっている「最後まで諦めない!」という言葉の意味を身に付けることに役立つ事例を、先日終わったばかりの北京オリンピックでの日本選手の活躍から取り上げます。
 これは、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を何が何でも自分のモノにする必要性を知ることに繋がります。

○室伏選手銅メダルへ繰り上げの可能性
 今日、2008年9月4日(木)の読売新聞の朝刊の第一面に、北京オリンピックのハンマー投げで5位になった室伏広治選手が、2位と3位の共にベラルーシの選手が薬物検査で陽性と判定されて、繰上げで3位の銅メダルになる可能性が高い、というニュースが載っています。
 もし、こうなれば、室伏選手が、試合中に、このままではメダルには届かない、と諦めて、適当に競技をしていたら手に入らなかったはずの銅メダルを手にすることになります。
 これは、この先に何があるのか、ヒトが勝手に推測し予測しシナリオを作って行動することは、特に俗に言う「取り越し苦労」をすることは、自ら勝利/成功の可能性を自ら狭め、しばしばそれと知らない内に放棄することになる、という教訓になります。
 このことに関して、もっと劇的な例は、男子体操の個人総合で銀メダルを獲得した内村航平選手の例でしょう。

○内村航平選手は23位に落ちてから銀メダルへ 奇蹟が起こった!
 ゆか、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒の6種目の合計点で争われる男子体操の個人総合で、内村航平選手(19)は銀メダルを獲得しました。
 しかし、試合の途中では、内村選手の銀メダルはまったく見えませんでした。
 内村選手は、苦手としているあん馬で二度も落下し、また、平行棒でも最後は落下して演技を終えたように見えました。
 このために、メダルを期待されていたのに、一気に競技に参加した選手25人中の23位にまで落ちてしまいました。
 内村選手のメダルの獲得は、もう絶望的に見えました。
 しかし、メダル獲得が有力視されていた外国の選手が何人もまさかの演技の失敗で順位を下げ、終わってみれば、内村選手は2位になっていました。
 これは、内村選手が、あん馬や平行棒での失敗でめげず、もう23位ではメダルは取れないと勝手に判断して勝手に諦めることをせず、試技に手抜きをせずに、残りの演技に全力を尽くした結果です。
 即ち、内村航平選手に、奇蹟としか言い様の無いことが起こったことになります。

○事を成す実際の知恵と力のあるところに関する自覚的な知識
 「もう23位ではメダルは取れないと勝手に判断して勝手に諦めることをせず、手抜きをせずに」という意味は、目標を実現するのは、ヒトの意志の力や奮闘努力や「このままでは結果はそうなる」という推測や予言や予測によるのではない、という意味です。
 ことを実際に成す力はヒトにあるのではなくて、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法で「今、ここに、活きているシステムがある原理」に則って、その丸ごとを使用する、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きが持つ全知全能の知恵と力です。
 こうだと自覚的な知識として知っていることが、目標の実現が絶望的になりそうなときに、心の支えになってくれます。

○惜しくも銅メダルを逃した女子クレー射撃・トラップの中山由起枝選手の場合 奇蹟は起こらず!
 女子クレー射撃・トラップの決勝の結果は、1 マケラヌメラ フィンランド(予選+決勝の総得点=)91、2 ステフェツェコバ スロバキア89、3 コグデル 米国86、4 中山由起枝 日本86、5 グジネビチウテ リトアニア86、6 ストルチャエワ カザフスタン 86でした。
 この結果になる過程は、ハラハラ、ドキドキの連続でした。

 決勝戦の全射撃が終わった時点で、金と銀の選手は確定していました。
 しかし、三位には、グジネビチウテ、ストルチャエワ、中山由起枝、コグデルの四人が並んでいました。この内、コグデルは、最後に3位に追いついたのでした。
 中山選手は、決勝戦の中で、一時は単独3位になりました。
 しかし、結果としては、四人で3位決定戦が行われることになりました。
 そして、最終結果は、コグデル選手が銅メダルで、中山選手は、惜しくも4位でした。
 スタンドで応援していた、中山選手の6才の長女、芽生ちゃんの願いは叶わず、奇蹟は起こりませんでした。
 
○コグデル選手に起こった奇蹟
 銅メダルを賭けたプレイ・オフ。
 グジネビチウテ、ストルチャエワ、中山の順に一発ずつ撃ったのですが、皆外しました。
 そして、最後に撃ったコグデルの散弾が、クレーを、直撃したのではなくて、かすったのでしたが、クレーの粉が舞って命中と判定されて、逆転で3位になりました。

 これを見ていて、アメリカのコグデル選手は、イメージ・トレーニング/メンタル・トレーニングをしっかりやっているな、と思ったものでした。
 中山選手は、予選段階ではこれらの選手の中では一番得点が少なかったのに、決勝戦の得点では、コグデル、グジネビチウテ、ストルチャエワを上回りました。だから、山中選手は、後1点余計に取っていれば、文句無く銅メダルを取れたのでした。
 コグデル選手のメンタル・トレーニング+メダルへの執念が、中山選手を上回っていたのだ、と結論づけました。これが、最後に運を呼び込んだのだ、奇蹟を起こしたのだ、と思いました。

○奇蹟を起こす方法
 「勝利を/成功を最後まで諦めない」という言い方をもっと肯定的に言い換えればーーー 
 内村航平選手の例のように、最終決着がついていない段階でもう絶望的と思われる失敗をしても、全てが終わってみれば銀メダルだった、という奇跡的なことが起こることがある、と北京オリンピックで知りました。
 これを、成功哲学的に言い換えると、次の本に出てくる話になります。

 ジョン・キーオ(1997) 片山陽子+平本かおり訳(1998) マインド・パワー 春秋社

 ヒマラヤを探検したW・H・マレーの言葉 67頁。第7章 潜在意識
 「必ず成し遂げようと思ったときには、神も味方してくれるものだ。そうでなければ決して起きないようなあらゆることが起きて、私たちを助けてくれる。いろいろと好都合な事態が生じ、人に出会い、物質的な援助を受けるというように、誰ひとり予想していなかった一連の出来事が、その決意をきっかけに起こりはじめるのだ」(注記2)。

 「これをする!」と強く堅く決意すると自動的かつ必然的に生じる、何もかも自然に回ってうまく行く、ある種の神懸り状態になる体験。
 マレーの言葉の中で特に大事なところは、「誰ひとり予想していなかった一連の出来事が、その決意をきっかけに起こりはじめるのだ」という部分。これは、「これをする!」と決意すると、これに自動的かつ必然的に伴って「意味のある偶然の一致」の体験が起こる、ということです。
 これは、マレー自身が実際に体験したことなのでしょう。
 マレーの言葉を、あなたご自身の体験で、この通りだ、と分かる方は、幸せです。
 マレーの言葉を短く言い換えると、「決意が奇蹟を起こす」ということです。
 誰でも、「これをやり遂げよう!」と強く堅く決意することで、奇蹟を起こすことができる、というのが、マレーが言いたいことです。

 これには、いわゆる「意味のある偶然の一致」が、とても大事な働きをします。
 いや、「意味のある偶然の一致」の体験こそが、奇蹟そのものであるのです。
 それも偶然にでたらめにこれが起こるのではなくて、決意して実現したい目標の実現に実際に役立つように制御されている「意味のある偶然の一致」の体験が、奇蹟を起こすのです。
 「これを成し遂げよう!」と強く堅く決意して行動に出るときには、自動的かつ必然的に、奇蹟を起こす「意味のある偶然の一致」の体験が生まれるのです。
 ここが、とても大事な点ですが、しかし、これを、ヒトの最初から全知全能にはほど遠い限られた知識を基にして意志の力で制御して奇蹟を引き起すことは出来ません。

○注記2 これに続く言葉
 「この真実がわかれば、あなたは(あなたの決意に基づく指示・命令により無尽蔵の富と幸せをもたらす)宇宙の宝石箱(という潜在意識/無意識/天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きを発動させる)の(万能の)鍵を手にしたようなもの。潜在意識のパワーは、あなたの指示を待っている。」67頁

 キーオの本の第5章は、「言い聞かせ」。41頁以下
 ここでは、短い言葉を機械的に繰り返し唱える効用を説いています。
 そこで、これに倣ってーーー。
 「決意で奇蹟・憑いてる運が良い(いい)。決意で奇蹟・憑いてる運が良い。決意で奇蹟・憑いてる運が良い。・・・」というのは、如何ですか?!
 この短い文句を、歩くときにリズム良く繰り返し唱えていたら、得したことがありました。
 注記2の終わり

○「意味のある偶然の一致」の体験が発生する確率は奇跡的
 このブログの中で挙げた例では、テレビで久しぶりに見掛けた女優さんに、翌日、渋谷の八公前広場で、偶然に、奇跡的に出会った例=「意味のある偶然の一致」の体験が、この例になります。
 これが、如何に奇跡的であるのかは、例えば、当たらない宝くじでも、システム的には一等に大当たりする確率を一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的に計算することができますが、「前日テレビで見た女優さんに今日街の中で偶然に出会う」という確立したシステム(注記1)が無く、このシステムを潜在意識の法則/引き寄せの法則の働きに全面的にまかせきってゼロから創造したこの例では、確率の計算がとても難しい、ということで分かります。

○注記1 確立したシステムと非確立のシステム(注記3)
 例えば、健康さ。
 健康雑誌をよむと、五体満足で健康であるためには、大変な努力が必要のような印象を受けます。
 しかし、創造主である神が自らの化身かつ分身の存在に造ったヒト(宇宙大では宇宙人一般)は、原理的には、常に五体満足で完全に健康な心身を持つ存在として確立したシステムです。つまり、創造主である神の視点では、ヒトは病気になることが絶対無いことになっています(注記4)。だから、ヒトが間違って病気になったときには、自動的かつ必然的に自然治癒力が発動する仕組みがヒトの心身の仕組みの一部に生得的に組み込まれているわけです。
 同様に、恋愛=結婚システムについても、原理的にはこう言うことができます。
 また、伝統芸能の修行システムや弁護士や会計士などの資格システム。
 これらも確立しているシステムということができます。
 特に、伝統芸能の修行システムでは、これに則って真面目に真摯に修行に励めば、何年か後にはプロとしてデビューし活動できます。この点では、資格システムは資格を取っただけでは世の中に通用しないのに比べて、伝統芸能の方がよりよく確立したシステムだといえます。もちろん、その先、名人上手と言われるようになるには、通り一遍の修行以上のものが必要ですが・・・。
 モノで言えば、テレビ受信機や携帯電話機。
 テレビを見るのに、そのたびごとにいちいちテレビ受信機を組み立ててからテレビをみるという必要がありません。テレビ受信機は確立したシステムを売っていて、これを手に入れて受信アンテナを繋ぎ、電源を入れれば即テレビ番組を見ることができます。
 電話を掛けるための電話機も、既に確立してあるシステムです。
 しかし、会いたいヒトに電話をかけて、会う約束を取り付ける話になると、その一回一回を、確率ゼロから確率百%可能にするシステムを創造しなければなりません。
 だれも、私が会いたいと決めた相手は、自動的かつ必然的に必ず私に会うようにする確立したシステムなど持っていません。これを持っていると言い、これを押し通すヒトは、ヒト迷惑な存在です。
 このような場合こそ、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法が出番になります。
 注記1の終わり

○注記3 確率したシステムと天然自然の存在のシステムや人工のシステムとの区別
 この世界の姿・形を造っている仕組み=システムには、創造主である神が直接天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで造った天然自然の存在のシステムと、創造主である神の化身かつ分身の存在のヒト(宇宙大では宇宙人一般)が、創造主である神のやり方に倣って作った人工のシステム、言い換えると、文化・文明的な諸文物とがあります。
 天然自然の存在のシステムは、原理的に確立したシステムです。そしてこれには、常に必ず、必要があるときには自動的かつ必然的に働き出す自己修復機能、例えば自然治癒力が備わっています。
 ヒトが作ったシステムは、確立したシステムと、そのたびごとに新しく創らなければならないシステムとがあります。このいずれのシステムの場合にも、自己修復機能を持ちません。
 なお、ヒトの作るシステムも、でたらめに何でも作ることが出来るのではありません。
 人工のシステムも、常に必ず、自然法則的に予め決まっているそれをそれにする原理的な仕組みを発見したり、発明したりして、その原理的な仕組みを元にそのシステムを作る必要があります。この条件を満たさないと、システムとして働きませんので、役に立たない、使えない、ということになります。
 これに、例外はありません。なぜならば、この世界の成り立ちと仕組みの全ては、結局、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きを根源にして、文化・文明的な諸文物は全てここから派生して出てくるものだからです。
 注記3のおわり

○注記4 病気や罪や失敗は全て人間発かつ各個人発で、社会発でもましてや創造主である神発ではない!
 「神様がヒトを病気にしたり、罰を与えたり、生きることを失敗させて苦しめる。この目的は、ヒトに試練を与えてその人間性を鍛えるためだ」という主張があります。
 しかし、創造主である神は、ヒトの存在を含めて、この世界の成り立ちと仕組みの全てに関する創造主である神なので、創造主である神として自他共に絶対的に肯定の立場しか採ることが出来ず、また、ヒトを創造主である神自らの化身かつ分身の存在に造って、その一人ひとりになって様々な人生を生きて楽しみたいと意図している創造主である神としては、一言に要約して言えば、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を身に付けて生きてもらえば良いようにしているので(このためには例えば恨んでいる相手が誰かがいればその人を心の中で許し和解するなどの、ヒトとしての生き方を自ら主体的に正すことをしなければ潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を自動的かつ必然的に効果的に使えない仕組みが組み込まれています)、ヒトに試練を与え、苦しめる必要など何も無いし、また、自らが創造したこの世界の全てを完全完璧に造ってこそ初めて創造主である神の役割を果せるので、病気等は、創造主である神発、神様発では絶対に有り得ません。
 言い換えると、ヒトを造ったときに、いわゆる「原罪」をヒトの存在の一部として創造主である神が定めた、ということは無い、ということです。キリスト教の教義でも、神様発ではなくて、原罪はアダムとイブ発、即ち人間発ですね。なお、この関連で、俗に言う「遺伝病」は神様発ではないことを確認する話については、ここで説明するのではなくて、別の文にします。
 病気、生きることに失敗する、貧困、犯罪や罪等はすべて、創造主である神が自らの化身かつ分身の存在のヒトのために定めている、ヒトとしての生き方が分からず、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を知らず、学ばなかったことの因果必然の結果です。
 貧困や経済格差、更には文化・文明的な格差を、社会の制度や政治の所為にする話が、現在、マスコミではやっています。→NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長/「反貧困ネットワーク」事務局長の湯浅 誠氏の話 読売新聞2008年9月10日(水)朝刊
 古くは、貧困の根本原因は資本主義制度にあり、これを廃止すれば良いというマルクス主義=共産主義があります。この主義は、この世界の成り立ちと仕組みを創造した原理である唯心論に根拠をおく、人の生き方の原理を全く知らない、唯物論に根拠を置くもので、原理的には何の根拠を持たない妄想的な理論です。
 福田総理大臣の突然の辞任表明で、近く衆議院選挙が行われる可能性が高まっていますが、貧困や経済格差を自らの政治責任にして、私に政権を担当させてくれれば、政治的に貧困や経済格差を解消できます式の嘘を言う人たちが、早速現れています。
 しかし、それでも、各人が個人的にモノにして活用できるようにするしかない、人としての生き方の原理を、政治や共産主義社会制度で代用することは出来ないのです。
 政治は、もちろん、色々の形で、例えば学校教育で、ヒト本来の生き方を国民一般の常識にするように働くことができます。
 注記4の終わり

○オリンピックで金メダルを取る確率を高める方法
 オリンピックで金メダルを取る、ということも、どの選手にとっても確立したシステムとして存在しているのではありませんね。
 オリンピックで金メダルを取りたかったら、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を使って、これを可能にするシステムを創造する必要があります。
 言い換えると、スポーツ選手の「心技体」の内、体と技を幾ら鍛えても、心を鍛えること抜き=潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法抜きでは、多くの選手の場合、金メダルを取ることが出来る確率は、とても低い、ということが出来ます。

○私達の日常生活は奇蹟で成り立っている
 「意味のある偶然の一致」の体験。
 私達の日常生活の中で、何かの事が成る、という場合では、ゼロからそれを可能にするシステムを創造する、という場合の方が、寧ろ一般的で、常態です。
 この事実を、私がテレビでお顔とお名前だけを知っている女優さんを久しぶりにテレビの画面で見掛けたその翌日に、この女優さんと、JR渋谷駅前の通称ハチ公広場でもう絶妙のタイミングでお見掛けすることになった体験の例で説明をします。

○奇蹟をもたらす「意味のある偶然の一致」の体験の創られ方
 私が前日テレビで見掛けた女優さんに、今日とてもタイミングよく街中で出会うことが出来る確立したシステムなどは存在していません。
 そこで、前日テレビで私の方が勝手に一方的に見掛けただけの女優さんに、今日私が偶然にでも会いたかったら、これを可能にするシステムを私は自ら作らなければ成らないことになります。
 もちろん、その女優さんが進んで私に会って下さるようなシステムを造ってくださることなど、有り得ません。いや、魚心あれば水心で、お互いにあなた好みの私=私好みのあなたになって数年後に出会う奇蹟も有り得ます。
 しかし一般的には、その女優さんに私が会いたかったら、私が、私だけが、これが可能になるシステムを創ることができます。
 しかし、これができるようにするシステムを、前日のテレビで見た、テレビでお名前とお顔を知っているだけの女優さんと私が今日会えるシステムを、私が持つ情報と意志の力で一日以内に努力して作ることなど、最初から不可能だ、と断言しても、言い過ぎにはならないでしょう。
 しかし、私のことはもちろん、その女優さんのことも全て知っている、全知全能で不可能を知らない、無意識/潜在意識/天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きにとっては、私達が出会うように取り計らうことは、いとも簡単だったわけです。
 これは、嘘みたいな本当の実例です。

○これは奇蹟だ!!! ということが決意一つで日常的に頻繁に起こっている
 前日テレビで見掛けただけの女優さんに、今日、絶妙なタイミングで出会う。
 それにしても、これは、常識的には、奇蹟が起こった!!! としか言い様が無い出来事です。
 しかし、奇跡的なことを創り出す「意味のある偶然の一致」の体験では、このようなことが、極当たり前のように、頻繁に発生しているのです。
 しかも、この最初の切っ掛けは、意識的で自覚的で意図的な決意か或いはこの過程が習慣化し無意識化し自動化していて、一瞬思うだけでこう思った本人もこう思った瞬間に気が付かない、ということにあるのです。これに例外はありません。
 そして、この決意の結果として、「意味のある偶然の一致」の体験が、潜在意識の法則/引き寄せの法則=天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きにより、自動的かつ必然的に生まれる、ということです。

○奇跡的なことでもいとも簡単に起こせる自然の法則がある
 何をするのでも、それを常にいとも簡単にしてしまう。
 これが、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きの凄いところです。
 このことを理解することが必要ですし、役立ちます。

○潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を何が何でもモノにする決意を、今、ここで、直ちに!
 私達の日常生活の多くが、「意味のある偶然の一致」の体験で成り立っている。
 こうだと分かれば、「意味のある偶然の一致」の体験をさせてくれるこの世界の成り立ちと仕組みを身につけるのが良いことになります。
 これは何かといえば、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法ですでに知られています。
 潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法は、この世界の成り立ちと仕組みを創り、私達の日々の生活、私達の人生を作ることが出来る、全知全能の知恵と力を持つ天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きを丸ごと利用する心の技術です。
 そこで、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を何が何でも身に付けて自由に使えるように、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を説明している本を繰り返し読んで勉強をすことを、何をすることよりも優先させて行うのが得策、ということになる筈です。

○何事も知ったかぶりをするヒトの難題
 何事も知ったかぶりをするヒトは、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法など、これをよく知っているヒトから真剣に学ばなくても、既に知っている振りをして、その実、何をするのでも自分の知識と体験の範囲内で判断できるだけのことに基づいて、「自分は科学的に合理的に理性的に判断して常に行動している」つもりで、これを頼りに判断し行動したり、誰かを「先生」呼ばわりをして、この先生を頼りにして生きる、という、まったく間違ったことをします。
 この結果、ヒトの裏の顔が見えずに失敗する、ということを繰り返したりします。
 しかし、最初から自分がこの世界について知っていることなど、全知全能の無意識/潜在意識の持つ知識と比べたら、何も知らないも同然という「信念」を持ち、見かけでは見えないヒトの心の中まで100%知っている無意識/潜在意識の判断に任せれば、自分を騙そうとするような相手とは最初から出会わないように、無意識/潜在意識が、それと知らない内に導いてくれるものです。たびたび詐欺的な被害に遭うような人たちは、全知全能の知恵と力を持つ潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を知らない人たちです。

 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。


福田総理は自らを損切した 突然の辞任、というニュースに接して

2008-09-02 00:43:14 | 一般法則論 適用編
○福田康夫総理大臣の突然の辞任
 2008年9月1日(月)午後10時56分です。
 一時間余り前、テレビ朝日の「たけしのТVタックル 官僚の暴走を許すな 政治家&丸秘脱藩官僚が暴露 改革潰しの手口・・・」を久しぶりに見ている画面に、福田総理辞任のスーパーインポーズが出ました。
 そこで、直ちにNHKテレビに画面を切り替えて、21時半すぎからの福田総理の辞任に関する記者会見を見ました。
 一言で言えば、現在の政局の中で、九月十二日に臨時国会の開会が予定されている今、総理である自分が国政運営の妨げの原因になっている、と判断したので、自分は迷うことなく、ここで、直ちに身を引いて、後任の総理大臣に後を委ねる、という話、と聞きました。
 誰にでも出来そうでいて、中々できない、良い決断を、福田総理はされた、と思いました。

○福田総理は自らを損切した
 比喩的に言えば、株式投資における、「損切り」を、福田総理は自らについて行った、ということです。
 株式投資において、この株は値上がりする、これで行けると思って買ったら、その後、すぐに思惑とは異なって株価は値下がりに転じて、ダメだ、と分かった時に、出てしまった損を取り戻すまでその株を持ち続ける(塩漬けにすると言いますね)のではなくて、自分の判断ミスや損が出ていることは潔く認めて、直ちにその株を成り行きで売って、新しい投資先を改めてゼロから考える、という処理をするのが、損切、と言われるものです。
 損切は、株式投資を職業にしているヒトにとって、必須の投資技術です。

○損切が必要になる原因
 ヒトの判断には見込み違いや思惑違いが常に付きまといます。
 そこで、見込みや思惑と異なったときに、それにどう対処するのかを、誰でも、人生の色々の場面で、問われることになります。
 損切は、この場合の有力な方法です。
 なお、「損切」を一般的に言えば、ゼロからのやり直し、リセット、といった言葉に当たります。

○損切はその必要があるときには何度でもするもの
 しかも、損切は一度で済むのではなくて、見込み違いや思惑違いがあって損切の必要が生じたときには、そのたびごとに何度でも出来なくてはなりません。

○損切するときには冷静に事務的に機械的にきっぱりとするもの
 損切をすると決めたときには、迷わず、ためらわず、直ちに、冷静に、冷酷に、事務的に、機械的に、まるで「他人事」のように、損切の手続きをするものです。

○損切せず、損切が出来ないことを恐れる
 損切は、その必要があるときには、そのたびごとに、何度でもする。
 損切は、普通、早め、早めの損切が良し、とされます。
 損切を躊躇しタイミングを間違えると、更に損が拡大し、ますます売りたくても売れなくなり、投資資金が寝てしまうという泥沼に嵌まり込むことになります(注記1)ので、投資で生計を立てている人達は、損切が出来ないことを、恐れます。
 この意味で、内閣支持率も下がっている福田総理としては、臨時国会の開催を控えた多分とても良いタイミングで、自らの損切=辞任を決められたのだ、と受け止めました。
 損切の判断は、当事者であるご本人がよく判断しよくできることが望ましい、といえます。
 今の場合は、福田総理の判断が第一です。

○損切すること、損切ができることはほめられても非難される対象にはならない
 およそ投資の世界で、損切をしたり、適切にタイミングよく損切が出来るヒトは、賞賛されることはあっても、非難されたり、馬鹿呼ばわりされることはありません。
 このことは、投資の世界以外でも、立派に通用するのではないのか? と思います。

○注記1 損切の対象外
 損切は、損得勘定の判断が先立ちます。
 しかし、人生、損得勘定が全てではありません。
 自分にとって、自分の命よりも大切、というものがあります。
 一般的に言えば、「大義名分」というものがあるものです。
 例えば、人間関係。
 負け戦だと分かっても、友情のために、滅びつつある友の側を最後まで離れない、という選択と決断は常に有り得ます。
 注記1の終わり
 
○相変わらずの紋切り型の批判
 福田総理の辞任の報道に対して、例により、一言で言えば、「無責任だ」とか「行き詰って投げ出したのだ」という非難が、野党から出ました。
 しかし、「損切」という観点からいえば、見当外れの非難でしょう。
 福田総理の辞任表明を受けて、この後をどうするかだけが問題です。

○民主党にとっての難題
 民主党について言えば、国民のためを口実に、内政に閉じこもり、党利党略を最優先にして、政治を停滞させている小沢党首に、この自覚がまったく無いことの方が問題です。
 「昔、陸軍、今、総評」という言葉(この言葉に関して後に追加説明文を予定)がありましたが、今は、「昔、陸軍、今、(今夜のたけしのТVタックルでも取り上げられていたその暴走が問題の)官僚&民主党の小沢代表」とでも言うべきでしょうか・・・。
 しかし、民主党は、党としても、小沢代表個人としても、損切を知らず、これが出来ないようです。

○政治哲学の貧困
 結局、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みを前提にして、創造主である神の化身かつ分身の存在に造られているヒトの存在構造を踏まえた政治哲学が無い、ということでしょうか・・・。
 これに加えて、日本文化を担う私達の立場について、一般法則論的な意味の哲学的な反省が必要なのでしょう。
 この理論武装をするのに、一般法則論・・・。

 福田総理の突然の辞任表明に接して、取り急ぎ・・・。

 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

非西洋医学の民間療法で末期ガンでも治りますが―――附 理想的な恋愛の仕方の原理

2008-09-01 03:33:17 | 祈り方
○民間療法についてkokoroさんよりの問いに簡単にお答えできること
 南アに住むアフリカの伝統的な呪医のクレイド・ムトワ氏について紹介した文に書き込みがあった質問に、簡単にお答えすることが出来ることがあります。

 Kokoroさんの書き込み全文は、以下の通り。
 「私の妹は末期がんで亡くなりました。彼女の夫が、某カルト信者で、早期発見だったのですが、民間療法、霊感療法だけで、現代医学の治療を受けることなく、亡くなりました。
 サマンゴで末期がんが民間療法で治った治療例がありますか。ただ治ったと言うのではなく、末期がんであったことの医師の診断書と完全に癌が治ったと言う医師の証明書付きで出す事ができますか。」

 簡単に答えることが出来るのは、下記の通りです。

○サマンゴで末期がんが治った治療例がありますか?
 アフリカの伝統的な呪医=「サンゴマ」のクレイド・ムトワ氏(86)が、末期がんを治療されたかどうかは、新聞からの情報では不明です。

○末期がんが民間療法で治った治療例がありますか?
 あります。
 もう、無数にある、と申し上げても良いくらいです。
 手元に次の本があります。

 医学博士 帯津良一 編著(1997)  ガンを治す大事典 増補改訂新版 治療法がすべて分かる本 二見書房

 この本の中には、ガンが非西洋医学によって自然治癒した例が幾つも紹介されています。
 この他に、創価学会、天理教、生長の家などの信者の例にも沢山あります。部屋に積んである本の中にこれがあるのですが、それを見つけ出すのが大変なので、しません。
 「あなたの信仰があなたを救ったのです」という例です。
 般若心経を熱心に唱えるだけで病気を治す会を主唱しているヒトもおられます。

 英国心霊主義者のハリー・エドワーズ(1893-1976)氏の「霊的治療の解明」という本には、エドワーズ氏がロンドンのアルバートホールの客席を埋めた人々の前で、複数の医者を立会人にして、既に医学的に病んでいるという診断が下されているヒトを、例えばクル病で背骨が極端に曲がっている少年を、瞬時に治した治療例についての医学的な記録があって、見て確かめたい人たちにその情報が公開されているそうです。この本も持っていますが、ある筈の所にそれが見当たりません。

 しかし、民間療法でガンが治ったと分かると、ガンと最初に診断した医者が、「実は私の誤診だった。患者は最初からガンではなかったのだ」と言い出す例があると聞きますし、祈りでヒトの病気が治ることが理解できず、そんなことを認めたら自然科学の理論が崩壊してしまうという誤った懸念と信念から、「その話は、最初から医者の誤診で、元々ガンではなかったのだ」、と言い出す、自称科学者でオカルト嫌いの人もいます。

○自然治癒力に頼りながら自然治癒力の原理的な仕組みを知らない
 確かに、帯津先生が編著のこの事典には、いわゆる民間療法でガンが癒やされた例が沢山載っています。
 しかし、この本に紹介されている全ての方法が、ガンを何が何でも治さなくては! という「とんがった心」で読むと、今一つ、ガンを確実に治す原理的な仕組み=自然治癒力の原理的な仕組みについての根本的な理解に欠けていて、頼りない感じがします。
 これは民間療法一般にいえることですし、病気の治療が売りの各種新興宗教の場合でも話は同じです。

○それをするための原理的な仕組みを知らなくて愕然とした体験―――理想的な恋愛の仕方
 「自然治癒力の原理的な仕組みについての根本的な理解に欠けていて、頼りない感じ」とはーーー、
 パソコンを操作して、インターネットでブログを書いているけれども、パソコンの原理的な仕組みも、インターネットの原理的な仕組みも、ブログの仕組みもよく知らないままで、とにかく一応のことはできているのでそれで良いことにしているような状態の心境とでも言ったら良いでしょうか。
 原理的な仕組みに関して、私自身にとって強烈な体験は、大学の三年生のときでしたが、恋する女性が出来たときに、自分が理想とするような人同士の関係を自分の全存在を懸けて自覚的に意図的に創り育てる原理的な仕組みについて何も自覚的な知識が無い、と気がついて、愕然とした時です(注記1)。
 更に、一年以上後に、その女性に恋文を書くことにして、それを書き出したのですが、「あなたを幸せにします」と書いてから、何を根拠にして幸せにするといえるのか、と気がついて、ヒトを幸せにする原理的な仕組みについて何も自覚的な知識が無い! と知って、また、愕然としたものです。このときには、二週間あまり、ああでもない、こうでもない、と考えあぐねた末に、ヒトを幸せにする原理的な仕組みが分からず、結局、「好きです」と一行書いて渡すしかなかったものでした。
 これは、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法で、この世界の成り立ちと仕組みの全てを創り、ヒトの人生の全てを造っている唯一絶対普遍の知恵と力である、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きを丸ごと利用する心の技術に出会うまで、解決の方法が分かりませんでした。

○注記1 人同士の仲を創り育てる原理的な仕組み
 人同士の仲を創り育てる原理的な仕組みは、一言でいえば、一緒に何かをすると、この中で自動的かつ必然的に何らかの人間関係が生まれ育つ、という天然自然の存在の原理的な仕組みがあるので、この原理を自覚的に意図的に利用して、人間関係を自動的かつ必然的に創る役割がある「一緒に何かをすること」を自覚的に意図的に選んで、この中で、説明すると長くなるので一言でいえば、自分の人間的な出来具合で勝負する、ということです(注記2)。
 この結果は、俗に言う相性があって、良縁だけでなく悪縁も育ってしまい、全てが自動的かつ必然的にハッピー・エンドになる、とは限らない、と知らなければなりません。
 更に、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を知らないと、よく行き詰ります。
 なお、私が一行の恋文を書いて渡した女性とは、ちょっと前に、久しぶりに会う機会がありました。東京の下町育ちの香りが残っていて、若いときよりも美人振りが一段と上がった! と思いました。「先日は孫の教育を巡って主人と大喧嘩をした」と言っていましたが、これも、いわゆる熟年離婚など関係のない、御主人との結婚生活が幸せで来た証拠と理解して、とても嬉しかったものです。
 注記1の終わり

○注記2 友人たちには不評でした
 恋愛関係を、自覚的に意図的に制御して創り育てる。
 しかし、恋愛関係は、成り行き任せで自然に育つのに任せるべきものだ、という友人たちには、私の考え方は極めて不評だったようです。
 その当時は、創造主である神の化身かつ分身の存在のヒトの生き方の原理は、「インサイド・アウト型人間」として生きるのが本来の在り方、即ち、自分の人生を如何に生きるのか、自覚的に意図的に自ら選んで決めることで始めて自分の人生になるという原理的な仕組みがあることについて、自覚的な知識は未だありませんでした。
 しかし、恋愛と結婚に関して、「私には夢がある!」状態でしたから、自然に「インサイド・アウト型人間」式に振舞っていたことになりました。
 注記2の終わり

○ガンでも確実に治せる自然治癒力の発動をさせるには創造主である神の存在が必要不可欠
 ガンでも確実に癒やす自然治癒力の原理的な仕組みの中核に存在しているのは、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きでこの世界の成り立ちと仕組みを造り、ヒトを自らの化身かつ分身の存在に造った天然自然の存在の創造主である神の存在と働き/役割りです。
 したがって、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みの大本に存在している、天然自然の存在の創造主である神の存在抜きでは、自然治癒力の仕組みを、説明することも理解することも実際に活用することもうまくできません。
 民間療法ではもちろん、ときには、宗教でさえもが、自然治癒力の大本の知恵と力になる、天然自然の存在の創造主である神の存在を認めたがらず、拒否して、自然治癒力の十全の発揮を妨げることを、それと知らずにしています。

 一般法則論は、自然治癒力の解明とその説明に関して、諸説に無い主張をしています。

 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。