いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

神の存在を信じてはいません。信じる信じないに関係なく創造主である神は実在しています

2007-07-10 02:31:40 | 神の実在
 一般法則論を読んで下さった方から、私は、「神の存在を信じているのか」と訊ねられることがあります。

 この答えは、もちろん、私は、神の存在を信じてはいない、になります。
 詳しく言えばーーーーー

 神の存在を、私は信じてはいません。

 しかし、この世界を造っている自然法則+エネルギー一体不可分の働きの存在を認めているのと同じ意味で、自然法則+エネルギー一体不可分の働きと一体不可分で存在し、自然法則+エネルギー一体不可分の働きを道具に使って、天然自然の存在の世界の天地万物を創造した、天然自然の存在の神は実在している、と思っています。

 神の存在を、信じているでは無くて、
 信じる信じないに一切関係なく、万人のために等しく存在する、
 (創造主である神は)自然法則+エネルギー一体不可分の働きと一体不可分で存在し

 (一般法則論では、これ以外のモノを一切持ち出さないことにご注目ください)

 自然法則+エネルギー一体不可分の働きを道具に使って、

 (一般法則論では、これ以外のモノを一切持ち出さないことにご注目ください)

 天然自然の世界の天地万物を創造した、その創造主である、
 ヒトが作ったのではない、天然自然の存在の創造主である神が実在している、
と言うわけです。

 そしてーーー、
 この天然自然の存在の創造主である神は、
 自然科学の研究対象になるものです。

 一般法則論で言う創造主である神は、
 無神論者が否定する、
 文化人類学や社会学や宗教学の対象になる、
 宗教信仰上の神仏のことではない、
と言うわけです。

 ひとまず、投稿します。

 誤記等は気が付き次第訂正します。
 論旨が一義的に/一意的に明確に確定的にかつ客観的に明瞭でないものは、書き換えます。


 

一般法則論でいう創造主である神は自然科学の研究対象、社会学の対象ではなくて・・・

2007-07-09 22:26:19 | 創造主である神
一般法則論で言う「創造主である神」は、自然科学が研究対象として取り扱うもの

○天然自然の存在の創造主である神
 一般法則論で言う「創造主である神」は、自然法則+エネルギー一体不可分の働きと一体不可分で存在し、自然法則+エネルギー一体不可分の働きをいわば道具に使って、天然自然の世界の天地万物を創造した、唯一絶対普遍かつ不変かつ客観的に実在する神、即ち、創造主である神のことです。

 創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られた天然自然の世界は、ヒトが天然自然の世界の一員として誕生した後、人類の歴史を作る前に既に、存在していました。

 この意味の創造主である神と、この創造主である神が造った天然自然の存在の世界を取り扱う学問は、自然科学という学問の分野になります。

 自然科学は、天然自然の世界を、創造主である神が天地万物の創造の道具に使った自然法則とエネルギー一体不可分の働きの現われとして認識・理解し、これによって造られたこの世界の成り立ちと仕組みを解明することを研究課題にしています。

○無神論者の言う神仏は宗教信仰で言う意味の神仏
 ところで、神仏の存在など、一切認めないし、一切信じないし、一切要らないし、個人と人類文化に脅威を与えるだけのあってはならない存在だという無神論者が「存在しないし、存在してはならない!!!」という場合の神仏の存在は、人類の歴史が始まってから作られた宗教信仰の中でその存在を信者が「信じる」と言っているものに当たります。
 即ち、自然科学がその研究対象にする、天然自然の存在の創造主である神ではありません。
 無神論者が幾ら神仏の存在を目の敵にしようとも、無神論者を含めた全ての人が誕生する前から、それ自体であるようにして在る創造主である神(+自然法則+エネルギー一体不可分の働き)を否定するはできない相談です。
 創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きは、無神論者を含めた全てのヒトにとって、その存在の大前提になっているものですから。

○無神論者のいう神仏は文化人類学や社会学などの研究対象
 宗教信仰の対象になっている神仏の存在を取り扱っている学問は、文化人類学や民俗学や社会学や宗教学、あるいは神学です。
 宗教信仰の対象になっている神仏の存在は、自然科学の学問の対象にはなりません。

○短い文のまとめ
 天然自然の世界に、自然法則+エネルギー一体不可分の働きと一体不可分で存在し、自然法則+エネルギー一体不可分の働きを道具に使って、天然自然の世界の創造主になっている神、即ち、一般法則論がその実在を自然科学的に証明した創造主である神。
 この神を研究対象にする学問は、自然法則やエネルギーと共に、自然科学です。

 宗教信仰の世界で言う神仏の存在を学問的な対象にしているのは、自然科学ではなくて、文化人類学や民俗学や社会学や宗教学や神学。

○以上のことをご指摘してくださった方に感謝します
 こうだ、とある方がまとめて教えて下さいました。
 ご指摘を受けて考えて見ると、正にこの通りなので、感謝しながら、これからは次のように言います。

 一般法則論で言う天然自然の存在の創造主である神は、無神論者や社会学や文化人類学などが知らないし、扱うことが出来ない、もっぱら自然科学が研究対象にする存在。

○天然自然の存在の創造主である神と宗教信仰上の神仏とは別物で区別すべし
 ヒトが認める認めない、信じる信じない等に一切関係なく、私たち全てのヒトに等しく絶対的に普遍的に客観的に実在するところの、天然自然の存在の創造主である神と、文化人類学的の対象になるような宗教信仰上で、「信じる」人にのみ存在することになる神仏の存在。
 この二つ神仏の存在は、区別して扱う必要があります。
 そんなのは存在しないし、要らない、と言えるのは、宗教信仰上の神仏のこと。
 これは、文化人類学や社会学や宗教学の研究対象。

 信じる信じない等に一切関係なく、天然自然の世界の中に、それ自体で在るようにして在る創造主である神は、一般法則論でその実在を証明した創造主である神。
 これは、もっぱら自然科学の研究対象。

 ひとまず、投稿します。

 誤記等は、気が付き次第、訂正します。
 論旨が曖昧の所があれば、訂正し、より分かり易いように、追加の説明をします。

(再掲)無神論者が知らない天然自然の存在の創造主である神の存在証明

2007-07-04 02:03:20 | 神の実在
○ヒトという表記の仕方についてのお約束
 以下の文の中で、人のことを、「ヒト」と書く場合は、次の意味、約束です。
 「ヒト」と書かれるのは、生物学的な意味の存在の人です。
 生物学的な意味のヒトは、自然史で最後に登場した創造主である神の化身/分身の存在のヒト(宇宙大では宇宙人一般)の意味です。
 人類史が始まって、生物的な存在のヒトが文化・文明人になる前の、いわば、生まれたばかりの人の意味。

 念のために繰り返して言いますが、生物としてのヒトは、未だその自覚が無くても、また、未だそれらしく生きてはいなくても、既に、創造主である神の完全完璧な化身/分身の存在(宇宙大では宇宙人一般)であることです。
 ここを外さないでください。

○一般法則論で言う「創造主である神」の意味を説明する必要性
 ここで説く「一般法則論」の文中で、「創造主である神」と呼んでいるのは、次のような意味です。

○ここで言う「創造主である神」は無神論者が言う神仏のことではない
 一般法則論でいう「創造主である神」の話に入る前に、一つ指摘しておかなければならないことがあります。
 創造主である神とか神様とか神仏と言うと、人類史の中で発明されたいわゆる宗教の中で、その存在が説かれる、いわゆる神仏のことだけを指して言う、と一人で勝手に決め込んで、「私は、宗教を信じないから、無神論者だ。何か文句があるか!!」と息巻く人たちがいます。

 しかし、これから説明するように、ここ一般法則論で「実在する」と言い、その「神の存在証明」をしているのは、文化人類学や社会学がその研究対象にする、何かの宗教宗派で説く神仏に関する神の存在証明ではありません。
 もちろん、神信心をしているかどうかには、一切関係がないものです。

○文化人類学や社会学が研究対象にする神ではなくて自然科学の研究対象の神
 一般法則論で言う創造主である神とは、文化人類学や社会学の研究対象ではなくて、自然科学の研究対象になるはずの、こうしなければならないはずの創造主である神です。
 なぜならば、自然科学がこの世界の成り立ちと仕組みを説明する原理にしている自然法則+エネルギー一体不可分の働きと一体不可分で存在し、自然法則+エネルギー一体不可分の働きをいわば道具に使って、この世界の天地万物を創造する役割を唯一担う存在だからです。

○無神論者が未だその存在を知らず存在理由・存在目的を知らない神が実在する
 ここで、神の存在証明しているのは、人類史に先立つ天然自然の歴史の中に実在した、天然自然の存在の創造主である神のことです。
 天然自然の存在の創造主である神は、人が作ったものではありません。
 天然自然の存在の創造主である神とは、自然科学でいう自然法則やエネルギーの存在と一体不可分のものとして、人類がこの世界の中に誕生する前から存在しているもののことです。

 この天然自然の存在の創造主である神は、無神論者が未だその存在を全く知らず、その存在理由・存在目的を全く知らない存在の神のことです。

○人類史に先立つ自然史の中で存在した天然自然の万物の創造主である神
 文化文明の発明で彩られる「人類史」が始まる前の、生物としてのヒトの存在を含めた天然自然の世界が造られる「自然史」において、ヒト(宇宙大では宇宙人一般)が造ったのではない天然自然の法則である自然法則+エネルギー一体不可分の働きと一体不可分で存在し、自然法則+エネルギー一体不可分の働きと一体不可分で働いて、天然自然の万物を造った、これ自体が天然自然の存在の、「この世界の創造主としての役割を果たした神」が実在している、という意味の「創造主である神」が、本当に実在します。

○天然自然の世界が造られた自然史の中で天地万物の創造主の役割を唯一担った存在
 繰り返して説明するとーーー、
 ヒト(宇宙大では宇宙人一般)が作ったのではない天然自然の存在の創造主である神は、私達ヒトがこの世界に誕生してから始まった人類史に時間的にも論理的にも先立って、ヒトの存在も含めた天然自然の世界が造られる「自然史」の中の、天然自然の存在の、天地万物の、それも私達が知っているこの世界の中で創造主という役割を担った、唯一絶対かつ普遍的な存在の神、の意味です。

○私たちの住むこの世界は天然自然の存在の創造主である神が造った
 私達が住んでいるこの世界。
 この世界は、天然自然の存在の創造主である神が、自然法則+エネルギー一体不可分の働きをいわば道具に使って、創造したものです。

○自然科学では自然法則+エネルギー一体不可分の働きがこの世界を創造した主役
 自然科学では、自然法則+エネルギー一体不可分の働きが、この世界を創造する時の主役です。
 しかし、この理解は、自然科学者が、創造主である神の存在証明を、例えば慣性の法則を手掛かりにして自然科学的に出来ることを知らないでいるための誤った考え方に過ぎません。

○天地創造の正しい唯一絶対普遍かつ不変の主役は天然自然の存在の創造主である神
 ここで説く一般法則論では、創造主である神の実在を証明します。
 これで自動的かつ必然的に明らかになるのは、天然自然の存在の創造主である神こそ、この世界を創造する時の唯一絶対普遍かつ不変の主役です。
 一般法則論では、自然法則+エネルギー一体不可分の働きは、創造主である神による天地創造の脇役であり、道具に過ぎませんーーーしかし、とても大事な道具ですが・・・。
○創造主である神が私たちヒトと、私たちヒトの住むこの世界を造った理由と目的
 創造主である神がヒトとヒトの住むこの世界を造った理由とその目的は何か?
 その根拠から説明すると長くなるので、ここでは結論だけを簡単に説明することにします。

 絶対的な無意識の存在の天然自然の存在の創造主である神は、自分の生き方を自分で自由に創り自由に選べる機能を持つ「意識のある心」を持つ存在、即ち、創造主である神の化身/分身の存在であるヒト(宇宙大では宇宙人一般)を沢山造って、その一人一人になって、様々な人生を試し、生きて、遊んで、楽しみたいと意図して、正にこれ一つの目的を実現するために、先ずは、ヒトの住むことが出来、その生活基盤になる天然自然の世界を創り、この中に、天然自然の世界の生え抜きの存在、地球で言えば、地球に生え抜きの一宇宙人であるヒト(宇宙大では宇宙人一般)を造ったのです。
 そして、この目論見の実現のための様々な仕掛けが用意されています。
 これを知ると、その余りの見事さに、私などは鳥肌が実際に立つくらい、感動してしまいます。

○一般法則論で「神の存在証明」をしたのは自然史の中の創造主である神
 一般法則論の中で、いわゆる「神の存在証明」をしているのは、この天然自然の存在の創造主である神であり、ヒト(宇宙大では宇宙人一般)に化身/分身している創造主である神のことです。
 言い換えると、何か特定の宗教宗派で、その存在を指摘する神仏の存在証明をしているのではありません。

○天然自然の存在の創造主である神は人類史の中で発明された神仏とは区別されるべし
 以上の説明で、すでにお分かり頂けていると思いますが、更に念を入れて、誤解の余地が無いように、以下のことを明言しておきます。

 ヒトが作ったのではない、「天然自然の存在の創造主である神」は、人類史が始まってから発明されたいわゆる「宗教」の中で、「存在する(と信じるべし)」と宗教信仰する人たちに教えるようになったいわゆる「神仏」とは、別のものです。
 自然史上の、ヒトが発明したのでは無い天然自然の存在の創造主である神と、人類史上で発明された神とは、別のものです。
 天然自然の存在の創造主である神は、自然科学で言う、自然法則やエネルギーと同じように、ヒトが、あなたや私が、その存在を、信じる信じない、認める認めない、承認する承認しない、拒否する拒否しない等に一切関係なく、年齢、性別、人種、民族、言語、地域、国家、文化文明、哲学、思想信条、宗教宗派、時代等の違いの全て超えて、それ自体で全てのヒトにとって、客観的に、絶対的に、普遍的に実在し、ヒトを絶対的に支配しているものです。

 宗教上の神仏は、信じることで初めて、信じるヒトにのみ実在するようになる神仏の存在。
 一般法則論がその実在を説き、「神の存在証明」をしている創造主である神は、人が信じる信じない等に一切関係なく、それ自体で在る様にして在る、天然自然の存在の絶対的な創造主である神。

 天然自然の存在の創造主である神と、ヒトが発明した神仏とは、区別して認識し理解してください。
 この区別をしないで、全ての神仏は、ヒトが勝手にでっ上げたものであり、実在しないと、あなたが勝手に決めないでください。
 ここ、一般法則論で説いている天然自然の存在の創造主である神まで、存在しない、と勝手に決め付けないでください。

 一般法則論でその存在を主張している創造主である神は、その最初から、特定の宗教宗派の神のことを言っているのではないことを、しっかりと読んで理解してください。

○人類史の中で発見・発明された神仏と天然自然の存在の創造主である神との関係
 但し、一部の宗教宗派で言う神仏とは、天然自然の存在の創造主である神を意味しています。
 しかし、それが天然自然の存在の創造主である神であることを完全完璧な自覚的な知識にし得ていないために、誤った神概念をしばしば説明しています。
 このために、神は、自分たちが信じる世界一正しい宗教の最初からの信者であった式の説明さへ罷り通っています。
 しかし、文化文明の中で誕生した特定の宗教が作られる遥か前に、それどころかヒトの存在さえまだこの世界に登場する前に存在して、ヒトとヒトの住むこの世界を創造した天然自然の存在の創造主である神は、いかなる意味においても、特定の宗教宗派に専属することは有りませんし、特定の宗教宗派や特定の民族の独占物である神である筈があり得ません。
 自然法則とエネルギーについても、話は同じです。

 ましてや、特定の宗教宗派が誕生する遥か前から存在している天然自然の存在の創造主である神が、自らが創造したヒトが発明した、特定の宗教宗派の信者であろう筈がありません。

○ヒトがこの世界に誕生する前から実在し、ヒトを造った神ということが意味すること
 私たちもその一員であるヒト(宇宙大では宇宙人一般)の創造主である神、即ち、私たちヒトの存在に先立って存在していた、天然自然の存在の創造主である神の存在。
 このことが、自動的かつ必然的に意味していることがあります。

 自然科学で言う、自然法則とエネルギーについても、同じ考えが当て嵌まります。

 神(自然法則とエネルギー)とは何か
 天地創造の原理
 創造主である神の持つ、全知全能かつ無限かつ無尽蔵の知恵と力とは何か
 この世界の成り立ちと仕組み
 心とは何か
 この世界の起源は物質的なもの(唯物論)か心と言われるもの(唯心論)か
 ヒトとは何か
 なぜ、♂と♀の性があり、性差が、ヒトにもあるのか
 ヒトとして生きるための生き方の原理
 ヒトが自らの存在と、創造主である神が造ったこの世界を認識し理解するための原理
 ヒトが、天然自然の存在の創造主である神を発見するための原理とこの実際
 真理とは何か
 健康さとは何か
 完全完璧さとは何か
 この他、沢山のこと

 これ等のことは全て、ヒトがこの世界に誕生する前に、天然自然の存在の創造主である神によって、一義的に/一意的に明確に確定的にかつ客観的に、既に決定されて、全てのヒトに等しく与えられている、ということです。

 言い換えると、これ等のことは、一言で言えば、ヒトが議論して決めることではない、ということです。
 ヒトが、この世界に誕生した時には、既に全て一義的に/一意的に明確に確定的にかつ客観的に決まっているものが、ヒトに与えられたのです。

 このことに関しては、ヒトである自分の存在の尊厳を賭け、思想信条の自由や内心の自由等を根拠にした自分独自の見解など、最初から在り得ません。

 自分独自の主張を展開するヒトの心は、この世界を造っているのと一つ同じ、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで出来ています。
 そして、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているこの世界(この中には自分自身以外の他者の存在、他のヒトが含まれて居ます)を、一つ同じ、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているヒトの心で認識し、解釈し、理解する、という認識の仕組みになっています。
 ここに、本来、自分独自の見解など、原則的には入りようがありません。

 なお、私たちヒトが、この世界に誕生する前から、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているこの世界は、いわゆる「無意識」という心の世界に属するものです。
 で、この世界を知ると言うことは、天然自然の存在の創造主である神の存在を含めて、「無意識の意識化」という一つの鍵言葉で説明することができます。

 ヒトがこの世界に誕生したという事さへ、ウパニシャッド哲学の言葉と聞く次の表現にあるように、無意識の意識化ということに当て嵌まります。

 神は、岩石の中では眠り、植物の中では目覚め、動物の中では活動し、ヒトの中では自らに目覚める。

○一般法則論の中での、「創造主である神」の一般的な表記方法
 この天然自然の存在の「創造主である神」については、一般法則論では、次のように表記します。

  創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働き

 ひとまず、この話しを終わりにします。
 誤記等は、気付き次第、訂正します。


携帯電話機で空を飛べないのは人に教わらなくても自分で気付くべこと

2007-07-01 05:43:58 | 自然法則の性質・働き方の原理
○この世界にある全てのモノの造られ方
 携帯電話機で空を飛べないのは、人に教えられなくても自分で気付くべきことです。

 「犬が西向きゃ、尾は東」と言います。
 これは、犬の原理的な仕組みで造られている犬というシステムの持つ構造により、自動的かつ必然的にこうなります。
 犬が、亀になっても、馬になっても、鹿になっても、ブタになっても話は同じです。

 ところで、私達が持っているこの世界に関する知識の大部分は、気が付くまでは、「知らない」ということです。
 「知らない」ということは、言い換えると、いわゆる「無意識」に属している、ということです。
 そこで、「犬が西向きゃ、尾は東」と言うことも、人に「言われてみればそうだ」ということも在り得ます。

 しかし、原理的には、建前的には、むしろ、人に指摘されて初めて気が付く、と言うようなことはあってはならない、ということが出来ます。

 例えば「犬が西向きゃ、尾は東」と言うようなことは、仮令人に教えられなくても、自分で自ら気が付いて、すなわち、無意識でいることを意識化し、自覚的な知識にして、自分の発見にするべき筈のものです。
 この世界に生まれて、自助自立して生きる人間になるには、何から何まで人に指摘され、人に教えられなくても、自分が人らしく生きるために必要な気付きや発見は自らできることをしっかりと自覚的な知識にしているべきです。
 幸いに、全ての人に、生得的にこの能力が与えられています。

 何度も繰り返して言いますがーーー、
創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているこの世界を、同じく創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られ働いている人の心の働きで認識し理解するという仕組みがあるからです。

 しかし、何かというと、「そんなことは教わってない!」とか、「それは未だ科学的に証明されてない!」という人がおります。
 「人を殺してはいけない」と教わっていなかった、と言った子供もいました。

 しかし、一般的に言えば、この世に存在している全てのモノ、存在、現象は、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きにより、因果必然的に造られています。
 この意味では、この世にある全ての存在、全ての出来事、全ての現象は、既に、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きによってその根拠が証明済みだ、ということができます。
 この例の中には、いわゆる超能力現象も含まれて居ます。
 この理屈がお分かりいただけるでしょうか・・・。

○自然法則が構造的に働くのは科学的に証明されない!?
 もう十数年位前の話です。
 ある方に、『自然法則は構造的に働きますから云々・・・』と申し上げたら、即座に、「自然法則が構造的に働くなんて、未だ科学的に証明されていません!」と言い返されました。

 この方は女性で、私と同じ母校の、建築科を卒業されていると聞いていたのですが、私には全く想定外のその反論に頭の中が真っ白になってしまって、もう二の句が継げませんでした。

○自然法則は構造的に働いている証拠
 昨年(2006年)、建築の構造計算を出鱈目にやった建築士の設計図を元に建てられた建築物の構造的な強度不足が、社会問題にまでなりました。

 建築物は、構造の塊で出来ています。
 そして、その構造の根拠になるのは、物理・化学の自然法則です。

 自然法則とは、人が勝手に作った規則のようなものではなくて、私達が知っている天然自然の世界を造った、天然自然の法則の意味です。

 物理・化学の自然法則以外の何かの法則、例えば建築主の思いや魔法の力で、建物は作られ、立っているのではありません。
 建物の構造は、物理・化学的な自然法則の働きがそのまま形になったものです。

 物理の自然法則は、よく数学的な方程式の形で表現されます。
 それは、その自然法則が持つ構造を、数学的な方程式の持つ構造に置き換えて表現しているものです。

○枚挙式の帰納法ではその法則性を証明できない!?
 自然法則が構造的に働くことを証明するのに、今、例に挙げた二例では、論理的にも経験的にも、不完全だ! と反論される方がいるかも知れません。
 しかし、この反論は、自然法則は、この世界の全てを造っている創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きの中で、元々構造的に働く機能があり、この必然性もあることについて、無知のための誤解です。
 このことに関する詳しい話は、別のところでします。

○自然法則は自動的かつ必然的に働く性質を持つ
 言い替えると、自然法則は、偶然に働くことは絶対にない、ということです。
 これも、自然法則は、エネルギーと一体不可分で働いて、創造主である神の天地創造の道具としての役割を果たすための存在なので、一言で言えば慣性の法則性や原因と結果の間を自動的かつ必然的に繋ぐ因果関係の法則性により、働くときには、一義的に/一意的に明確に確定的にかつ客観的に即座に自動的かつ必然的に働くようになっていることに関係があります。

 これゆえに、たった一つの成功例でも、それと同じやり方をすれば、同じことを百万回繰り返しても必ずうまく行く、と断定できるのです。
この考えは、大量生産の工業製品で実用化されていますね。

○経験的な事実
 経験的にも、何かをするその正しいやり方を、試行錯誤で発見するとき、これがうまく行った時に、それは偶然で、その成功を支える確かな自然法則は何も無い! という理解の仕方は、しないものでしょう。

 例えば、地震で家具が転倒するのを防ぐために、壁に金具でしっかりと固定された箪笥の裏側に物を落としてしまったときに、箪笥を壁に固定したままの状態でその物を取るのにあれこれ工夫をしてやっと取り出すことに成功したとき、これは、偶然にうまく行ったのであって、これを可能にした自然法則など何もない、と言うでしょうか・・・。
 少なくとも、こういう間違った理解の仕方をする人は、発明家にはいません。

○試行錯誤で見つけたうまく行く方法をシステムとして確立する原理
 あることを正しくする方法を求めて、何千、何万の試行錯誤の中から、一つでも成功する事例が見つかれば、自然法則の持つ因果の法則性から自動的かつ必然的に導かれる、同一原因=同一結果の原理、そして、自然法則は構造的に働きますから、同一原因=同一結果の原理は同一構造=同一結果の原理に置き換えることが出来ますから、これに基づいて、試行錯誤の中で成功した場合の構造を再現して、純粋化し、成功の再現性の確率を高める工夫をすることになります。

 なお、再現性が百%ではないのは、同一構造を再現するのは、元々この世界の成り立ちと仕組みにより多様性豊かに造られ、一つ一つがそれ自体で独自の存在であるものを使って、同一構造を作り出すのですから、原理的に難しいからです。
 これは、例えばネジの長さが三センチ±2/100mmの誤差の範囲内に収まるように作るネジの工場の品質管理では、これを実現する同一原因=同一結果の原理に基づいたネジの作り方を維持するに、試行錯誤を伴う作り方の工夫をしているものです。

○自然法則が構造的に働くのは科学的な証明が不要な一般常識
 最近は、何か商品を買うと、色々の注意書きがその商品の取り扱い説明書に書かれています。
 これは、文字通りに注意書きの意味もありますが、これを書いておかないと、それで何かあったときに、そういうことがないように予め忠告し警告してなかったのは消費者保護の観点から法律的に許されない、ということに対する訴訟対策の面もあるようです。

 しかし、例えば、「携帯電話機では空を飛べません」と書いてなかったから、携帯電話機を持って高い建物の屋上から空を飛ぼうとして墜落して大怪我をした人からの損害賠償を求める訴えに、その携帯電話機を作った会社やその販売店は、法律的に自動的かつ必然的に負けてしまうのでしょうか!?

 電話機という機能に絞って作られているモノは、最初からこれ以外の目的には使えないように、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働き的に決まっています。
 電話機の原理的な仕組みを基にして作られている電話機というシステムは、飛行機の原理的な仕組みで作られている飛行機というシステムの役割を果たすことができません。
 電話機は電話機以外の目的には使えないし、これを無視して電話機を使ってはならないことになっています。
 これを、常識と言います。
 また、例えば、携帯電話機で頭を殴られた人が決して怪我をしないような電話機の構造や作りになっていなければならない、ということもありません。

 この理屈は、全てのことに当て嵌まります。

 しかし、全ての商品は、その機能や目的以外の使用に対しても、それなりに対応していなければならない式の発想を、裁判官や弁護士がするのだから、困ります。



 ひとまず、話を締めます。
 誤記は、発見次第訂正します。
 追加まは削除を必要とするときには、これを後から行ないます。