以下の文中で、創造主である神というのは、ヒトがこの世に存在するようになる前から、それ自体で在るようにして存在し、私たち人間存在(宇宙大では宇宙人一般)と、その生活基盤になる大自然の世界を創造した、天然自然の存在の、創造主である神を意味しています。
間違っても、ヒトが発明したのでは無い、天然自然の存在の、創造主である神と、この後に始まった人類史の中で発明された宗教で説く神仏と混同しないでください。
これを混同すると、以下の話が、何がナンダカ分からなくなります。
「なぜ歴史が書けるのか?」
また、
「歴史家であるということがどういうことであるのか?」
このタイトルで、一般法則論では何が書けるのか、挑戦してみました。
一般法則論の理解ではーーー、
この世界は、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで、全て必然的に造られています。ここに、偶然はありません。
創造主である神の化身/分身の存在に造られている全てのヒトの心も、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られています。
創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きは、創造主である神、そして、天地創造後は、創造主である神の化身/分身の存在のヒト或は単に人(創造主である神の存在を未だ知らず、自らが創造主である神の化身/分身の存在であることも未だ悟らない人の意味)が、「原因の設定者」になり、自然法則+エネルギー一体不可分の働きが、創造主である神他の原因設定を引き受けて、これを形在るものにする、「因果必然の自然法則」という関係にあります。
また、自然法則+エネルギー一体不可分の働きには、働き方の原理があります。
これにより、「それをそれにする原理的な仕組み」(プラトンの言う「イデア」と同じ意味)があって、これを必ず基にして造られるシステムの単位に量子化された現象・存在・出来事として、物事は起こり、またこのようなものとして認識することができます。
これによって、原理的に、ヒトは、この世界の中で生きるために必要な、この世界の成り立ちと仕組みを発見し、認識し、理解し、全てのヒトの間でこれを共有し、この共通認識の下で共同作業をし、共生することができる仕組みがあることになります。
これに加えて、いわゆる時間の矢があって、過去、現在、未来の区別ができます。
しかも、例えばお湯の沸かし方一つ取り上げてみても、色々の沸かし方、即ち複数の多様なお湯の沸かし方の原理的な仕組みがあります。
この結果は、多様性に富んだこの世界が、歴史が生まれる、ということです。
この結果として、人類史を振り返ると、ヒトは、様々に歴史が書けるのだ、と思います。
更に、「歴史家であるということがどういうことであるのか」を問うのならば、誰のために、何のために、如何なる必然性を持って、如何なる歴史を書くのか、という歴史家としての見識と使命は何か、に答える必要があります。
言い換えると、人類史に、全人類が一つに共有する究極の存在理由や存在目標があるのか? ということです。
カール・ヤスパースの『歴史の起源と目標』 は、これがある、と言ってますが、具体的には説明して無いようです。
結論だけを言えば、一般法則論では、これがあります。
この世界は、絶対的に無意識の存在の創造主である神が、自らの化身/分身の存在に当たるヒト(宇宙大では宇宙人一般)を多種多様に造って、その一人一人になって、様々に生きることを試み、遊び、楽しむことを唯一の目的として、最初に、ヒトが住むためのインフラになる大自然=神の国を造り、この中に、進化という名で知られる方法で、この自然=地球に生え抜きの地球人類=創造主である神の化身/分身の存在のヒトを造ったのです。
この世界は、創造主である神が自らの身心を、天地創造の原理に則って、自己展開する形で造られています。
この世界は、人間が存在するのに都合の良いように全て造られている、という「人間原理」という考え方があります。
正に、この通りに、創造主である神の化身/分身の存在のヒトが、この世界の中で、各人の思い通りに容易に生きられるように、様々な仕組みが、創造主である神によってあらかじめ用意されています。
そこで、人類史は、創造主である神が造ったこの理を理解し、この地上世界を文字通りに神の国にし、より創造主である神の化身/分身らしく生きる過程の歴史になります。
この事実を、真理を明らかにして、そして、今、この時代は、このいかなる段階にあり、時代的な課題は何かを明らかにすることです。
この観点で、今の時代を見れば---
人類は、地球大で存在し、地球大で共生する歴史的な時代に入った、ということです。
超大国アメリカでさへ、人類が地球大で存在するようになった今、外の世界と孤立して生きることは出来ません。グローバル化は、アメリカにも押し寄せています。
しかし、これに気づかず、この意味が解からず、これに反対する人たちがいます。
課題は、反グローバリズムの哲学や政治思想の構築ではなくて、文字通りの意味で、全人類が、地球大で共生できる原理的な仕組みを発見し、これに基づいて、世界を再構築することです。
では、これは、如何なる形で可能になるのか?
これは、一個人が勝手にでっち上げた思想とか哲学とかではどうにもなりません。
また、既存の哲学や宗教や思想を持ち出しても、現にそれらが何の役にも立ってないことをみても、使えないのは明らかです。
唯一可能なのは、創造主である神がこの世界を造った通りにこの世界を理解して、この中にそれを見つけることです。
幸い、自然法則+エネルギー一体不可分の働きのたった二つの基本概念だけでこの世界の成り立ちと仕組みを解明している自然科学の成功が示しているように、人種や言語や宗教や哲学や思想や民族や地域等の違いを超えて、これ等の存在以前から存在し、万人に等しく働く創造主である神の理法と、これにより造られたこの世界の成り立ちと仕組みがあります。
これに則れば、様々な違いや対立を超越して、全人類が一つになって共生する道が見つかります。
今、地球大で人類が生きる時代を意味づけ、これを可能にする哲学・思想の発見が、時代のこの課題を自覚する人たちの間で、様々に試みられています。
一般法則論者の私の試みも、その一つです。
一般法則論は、創造主である神の存在証明をして、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについて説明し、人類史のリセットと再構築を試みようというわけです。
これは、「早いもの勝ち」で決まる、いわゆる世界標準を造る試みではありません。
あくまでも、創造主である神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みに忠実である必要があります。
と言っても、「神よ、神よ・・・、」と言って、毎日何度も神様の前で頭を下げて祈る生活をせよ、という意味ではありません。
ホンダの創業者の本田宗一郎氏のように、無神論者であることを公言していても、その実際の生き方は、創造主である神が造った神の国=現場・現物・現実をとても尊重し、これにとても忠実な心正しい生き方をされた、創造主である神の化身/分身のヒトに正に相応しい生き方をされたご一生でした。
神道に則った生き方も、基本的に、何か特定の教義等に縛られない、現物・現場・現実尊重主義ということができます。
ただし、これを、世界に向けて、理屈で、自覚的に意図的に一義的に/一意的に明確に確定的にかつ客観的に説明することも、この文化を生きている日本人の一人として、必要なことでしょう。
「なぜ、歴史がかけるのか」
「歴史家であるということがどういうことであるのか」を問う答えになっていたでしようか・・・。
誤記があれば、発見次第、訂正します。
追加するものがあれば、後から書き加えます。
間違っても、ヒトが発明したのでは無い、天然自然の存在の、創造主である神と、この後に始まった人類史の中で発明された宗教で説く神仏と混同しないでください。
これを混同すると、以下の話が、何がナンダカ分からなくなります。
「なぜ歴史が書けるのか?」
また、
「歴史家であるということがどういうことであるのか?」
このタイトルで、一般法則論では何が書けるのか、挑戦してみました。
一般法則論の理解ではーーー、
この世界は、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで、全て必然的に造られています。ここに、偶然はありません。
創造主である神の化身/分身の存在に造られている全てのヒトの心も、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られています。
創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きは、創造主である神、そして、天地創造後は、創造主である神の化身/分身の存在のヒト或は単に人(創造主である神の存在を未だ知らず、自らが創造主である神の化身/分身の存在であることも未だ悟らない人の意味)が、「原因の設定者」になり、自然法則+エネルギー一体不可分の働きが、創造主である神他の原因設定を引き受けて、これを形在るものにする、「因果必然の自然法則」という関係にあります。
また、自然法則+エネルギー一体不可分の働きには、働き方の原理があります。
これにより、「それをそれにする原理的な仕組み」(プラトンの言う「イデア」と同じ意味)があって、これを必ず基にして造られるシステムの単位に量子化された現象・存在・出来事として、物事は起こり、またこのようなものとして認識することができます。
これによって、原理的に、ヒトは、この世界の中で生きるために必要な、この世界の成り立ちと仕組みを発見し、認識し、理解し、全てのヒトの間でこれを共有し、この共通認識の下で共同作業をし、共生することができる仕組みがあることになります。
これに加えて、いわゆる時間の矢があって、過去、現在、未来の区別ができます。
しかも、例えばお湯の沸かし方一つ取り上げてみても、色々の沸かし方、即ち複数の多様なお湯の沸かし方の原理的な仕組みがあります。
この結果は、多様性に富んだこの世界が、歴史が生まれる、ということです。
この結果として、人類史を振り返ると、ヒトは、様々に歴史が書けるのだ、と思います。
更に、「歴史家であるということがどういうことであるのか」を問うのならば、誰のために、何のために、如何なる必然性を持って、如何なる歴史を書くのか、という歴史家としての見識と使命は何か、に答える必要があります。
言い換えると、人類史に、全人類が一つに共有する究極の存在理由や存在目標があるのか? ということです。
カール・ヤスパースの『歴史の起源と目標』 は、これがある、と言ってますが、具体的には説明して無いようです。
結論だけを言えば、一般法則論では、これがあります。
この世界は、絶対的に無意識の存在の創造主である神が、自らの化身/分身の存在に当たるヒト(宇宙大では宇宙人一般)を多種多様に造って、その一人一人になって、様々に生きることを試み、遊び、楽しむことを唯一の目的として、最初に、ヒトが住むためのインフラになる大自然=神の国を造り、この中に、進化という名で知られる方法で、この自然=地球に生え抜きの地球人類=創造主である神の化身/分身の存在のヒトを造ったのです。
この世界は、創造主である神が自らの身心を、天地創造の原理に則って、自己展開する形で造られています。
この世界は、人間が存在するのに都合の良いように全て造られている、という「人間原理」という考え方があります。
正に、この通りに、創造主である神の化身/分身の存在のヒトが、この世界の中で、各人の思い通りに容易に生きられるように、様々な仕組みが、創造主である神によってあらかじめ用意されています。
そこで、人類史は、創造主である神が造ったこの理を理解し、この地上世界を文字通りに神の国にし、より創造主である神の化身/分身らしく生きる過程の歴史になります。
この事実を、真理を明らかにして、そして、今、この時代は、このいかなる段階にあり、時代的な課題は何かを明らかにすることです。
この観点で、今の時代を見れば---
人類は、地球大で存在し、地球大で共生する歴史的な時代に入った、ということです。
超大国アメリカでさへ、人類が地球大で存在するようになった今、外の世界と孤立して生きることは出来ません。グローバル化は、アメリカにも押し寄せています。
しかし、これに気づかず、この意味が解からず、これに反対する人たちがいます。
課題は、反グローバリズムの哲学や政治思想の構築ではなくて、文字通りの意味で、全人類が、地球大で共生できる原理的な仕組みを発見し、これに基づいて、世界を再構築することです。
では、これは、如何なる形で可能になるのか?
これは、一個人が勝手にでっち上げた思想とか哲学とかではどうにもなりません。
また、既存の哲学や宗教や思想を持ち出しても、現にそれらが何の役にも立ってないことをみても、使えないのは明らかです。
唯一可能なのは、創造主である神がこの世界を造った通りにこの世界を理解して、この中にそれを見つけることです。
幸い、自然法則+エネルギー一体不可分の働きのたった二つの基本概念だけでこの世界の成り立ちと仕組みを解明している自然科学の成功が示しているように、人種や言語や宗教や哲学や思想や民族や地域等の違いを超えて、これ等の存在以前から存在し、万人に等しく働く創造主である神の理法と、これにより造られたこの世界の成り立ちと仕組みがあります。
これに則れば、様々な違いや対立を超越して、全人類が一つになって共生する道が見つかります。
今、地球大で人類が生きる時代を意味づけ、これを可能にする哲学・思想の発見が、時代のこの課題を自覚する人たちの間で、様々に試みられています。
一般法則論者の私の試みも、その一つです。
一般法則論は、創造主である神の存在証明をして、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについて説明し、人類史のリセットと再構築を試みようというわけです。
これは、「早いもの勝ち」で決まる、いわゆる世界標準を造る試みではありません。
あくまでも、創造主である神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みに忠実である必要があります。
と言っても、「神よ、神よ・・・、」と言って、毎日何度も神様の前で頭を下げて祈る生活をせよ、という意味ではありません。
ホンダの創業者の本田宗一郎氏のように、無神論者であることを公言していても、その実際の生き方は、創造主である神が造った神の国=現場・現物・現実をとても尊重し、これにとても忠実な心正しい生き方をされた、創造主である神の化身/分身のヒトに正に相応しい生き方をされたご一生でした。
神道に則った生き方も、基本的に、何か特定の教義等に縛られない、現物・現場・現実尊重主義ということができます。
ただし、これを、世界に向けて、理屈で、自覚的に意図的に一義的に/一意的に明確に確定的にかつ客観的に説明することも、この文化を生きている日本人の一人として、必要なことでしょう。
「なぜ、歴史がかけるのか」
「歴史家であるということがどういうことであるのか」を問う答えになっていたでしようか・・・。
誤記があれば、発見次第、訂正します。
追加するものがあれば、後から書き加えます。