いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

科学とは何か

2008-09-18 03:41:37 | 一口解説/一口メモ
 この文は書き直して再投稿しました。
 2008年10月23日(木)。

○科学とは何かについて考える
 このブログでは、一般法則論について説明する基礎的な用語について、文の中で説明しても、単独の説明項目を立てて説明をしていないことが沢山あります。
 その内の一つが、科学とは何か です。
 そこで、手始めに、これをします。

○これまで科学と言われるものがしてきた科学とは?
 これまで、科学とか科学的何とか、という場合の「科学」、疑似科学に対する「本物の正しい科学」と言う場合の科学は、次のように説明できるでしょう。
 私達が生きている世界のこの世界の成り立ちと仕組みを、自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全て説明し尽くそうという学問が、科学です。特に、自然科学。
 この場合に、この世界の成り立ちと仕組みというのは、天然自然の物質的な世界の成り立ちと仕組みの意味です。
 科学的な技術とは、人類が獲得した科学的な知識に基づいて、何かヒトの役に立つことをする、というものです。
 例えば、ものづくり。最近のハイテク技術は、高度の科学的な知識を基にして可能になっています。
 西洋医学といえば、人類が既に獲得した自然科学的な知識のみに基づいた医療技術の意味ですね。

○なぜこの世界の成り立ちと仕組みを発見し説明する必要があるのか?
 なぜ、私達が生きているこの世界の成り立ちと仕組みを、ヒトとは何かも含めて科学的に発見して説明する必要があるのか?
 この答えは、私達の日々の実際の生活の全てが、この世界の成り立ちと仕組みに関する正確な知識如何に基づいて成り立っているからです。
 そして、この世界の成り立ちと仕組みに関する正確な知識は、今日では科学的な知識というのと殆んど同じ意味です。
 例えば、この文をパソコンで書いていますが、パソコンは、しばしば文字を持たない、いわゆる先住民の人たちが生活の拠り所にし誇りにしている自然観や世界観や人間観に基づいた知識からは生まれようがない、科学的な自然観や世界観によって初めて作り使うことが可能になったものです。
 しかし、科学的な知識は、これまで、この世界の成り立ちと仕組みの中で、物質を支配している自然の法則に関する知識に殆んど限られています。
 そこで、例えば、心(精神)と体(物質)から成り立っているヒトの病気を、物質の法則だけを扱う自然科学に基づいている西洋医学のみに頼って治療しようすると、すぐに治療法が無くなって、いわゆる「不治の病」を創り出します。
 また、薬=化学物質が、物質的な化学的作用のみで動いているはずの物質的な身体の機能にどのように作用するかを厳密に確かめたいのに、現実には、「プラシーボ効果」として知られているヒトの心の働きで薬の作用が左右される、という現象が常に発生して、かく乱させられます。
 言いたいのは、科学的な探求を、物質の世界だけから心とか精神と言われる世界まで拡大する必要がある、ということです。一般法則論は、この試みです。

○科学者は「自然法則とは何か」をそもそも知らない
 科学とは何かについて、科学哲学でも、今、ここで一行で説明したようには説明しません。
 この意味では、科学とは、この世界の成り立ちと仕組みを天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働き説明するものだというのは、ここで説明している一般法則論独自の説明の仕方になる、というのが正確でしょう。
 しかし、実際にこれまでの科学でやってきたことは、この世界の成り立ちと仕組みを、特に天然自然の世界の物質の運動・変化を、自然法則+エネルギー一体不可分の働きで説明する学問だ、という説明は、当たらずとも遠からずどころか、一番分かり易い説明である、と申し上げても良いでしょう。
 と申し上げても、そもそも自然法則とは何かについて、科学で使われる概念や方法論の真偽や適否等について自覚的に意図的に反省的に考察する学問である「科学哲学」/「科学基礎論」でさへもが一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的に説明をしていない、極めて曖昧な概念です。
 また実際、自称科学者やこの同調者たちも、自然法則とは何かについて一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的に説明で出来るほど知りません。
 具体的には、これは、物理学事典に、「自然法則」という単独の見出し項目が無いことに端的に現れています。
 一般法則論者の私は、こう断定しています。
 ですから、一般法則論者が理解している意味での自然法則を前提にして、「自然科学は、この世界の成り立ちと仕組みを自然法則+エネルギー一体不可分の働きで説明する学問です」と説明しても、これまでの科学が唯一絶対普遍の科学のやり方だと思い込んでいる科学者とこの同調者には、結局何のことか分からない、ということのようです、この判断はあちこちの科学教育や疑似科学を批判しているブログ等を読んでの結果・・・。

○これまでの科学の依って立つ哲学は唯物論
 科学が依って立つ哲学的な立場は、「唯物論」です。即ち、この世界の始まりは「物質」と私達が名付けて呼ぶものから始まった、という考え方です。
 唯物論を裏返して言うと、「唯心論」、即ち、この世界は、私達が心とか精神と名付けて呼ぶものを根源にして、ここから始まり、造られた、という考え方です。
 そして、唯心論で言う唯「心」論は、唯「唯一絶対普遍の存在の創造主である神」論であるのが、その実際です。

○一般法則論は唯心論の立場
 一般法則論は、一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的にかつ絶対的に、唯心論の立場です。
 なぜならば、私達が心とか精神と名付けて呼ぷ、その大本の心的な存在そのものである、この世界の成り立ちと仕組みをゼロから有に創造した、天然自然の存在の創造主である神が実在していることを、私自身のいわゆる悟りの体験で発見しているからです。
 そして、同時に、一般法則論では、意識のある心を持つヒトが、意識のある心が「意識の変性状態」と言われる状態になったときに、その意識のある心に、絶対的無意識の存在の創造主である神を、一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的にかつ絶対的に意識化して確認するのが悟りの体験である、と説明しています。これは、意識と無意識の心からなる心を持つ全てのヒトの誰もが悟りの体験をすることが出来る原理的な仕組みについても明らかにしたものです。
 なお、宗教的な意味の悟りの体験は、今、上に説明した原理でのみ可能なものです。
 このように説明しているのは、一般法則論以外には無いようです。もし、それがあったら、ぜひ教えてください。
 更に、天然自然の存在の創造主である神の実在を、一般法則論者の私がしたような悟りの体験によらないで、これまでの科学の知識で証明することも、一般法則論ではしています。
 このことを、以下で、簡単に再説明。

○創造主である神の存在を自然科学的に証明するための知識=慣性の法則の存在
 自然法則+エネルギー一体不可分の働きには、いわゆる「慣性の法則」性があります。
 具体的には、例えば本棚に置いた本が勝手に動き出して何処かに行ってしまうことはない、ということです。
 このことを知っているのは、慣性の法則性を発見したニュートンと、この発見を正しいと認めて受け入れている科学者だけでなくて、慣性の法則について習ったことが未だ無い幼児や生物一般でも、本能的に、生得的に知っています。なぜならば、慣性の法則に関する知識は、この世界の成り立ちと仕組みを大前提にして現実に成り立つ日々の生活を送るために必要不可欠な基礎的な知識だからです。
 これを言い換えると、自然法則+エネルギー一体不可分の働きは、自らの主体的な自由意志を基礎にして、ゼロから有を生み出す創初的な創造力を持っていないことを意味しています。
 つまり、自然法則+エネルギー一体不可分の勝手な或いは偶然の働きにより、この世界の中に次から次に何かが造られ続けられている、ということは絶対的に起こらないように、この世界の成り立ちと仕組みが出来ている、ということです。
 具体的には、例えば本棚に置いた本が勝手に動き出して何処かへ行ってしまう、ということは絶対的に無いように、この世界の成り立ちと仕組みが出来ている、という意味です。

○慣性の法則性を根拠にした天然自然の存在の創造主である神の存在証明
 誰がヒトが発明したのではない、それ自体であるようにしてある、天然自然の存在の慣性の法則がある。
 このことを根拠にして、この世界の成り立ちと仕組みを造っているのは、自然法則+エネルギー一体不可分の働きだけではない、自然法則+エネルギー一体不可分の働きをいわば道具に使って(道具なので、この道具を使う者の意思に反してこれ自体で勝手な意志を持って働くことがあってはならないわけです=慣性の法則性)、この世界の成り立ちと仕組みの全てをゼロから造った創造主である神の存在が必要不可欠だ、という形の創造主である神の存在証明をしています。
 私達がこの世界に誕生する遥か前からそれ自体で在るようにして在る形で既に実在しているこの世界の成り立ちと仕組みは、自然法則とエネルギーの他に、これを道具に使ってこの世界を造ることを意図してそれを実行した創造主である神を、どうしても必要とする、というわけです。

○一般法則論的な科学の定義
 もうお分かりのように、一般法則論では、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きでこの世界の成り立ちと仕組みの全てを説明するのが、本物の正しい科学だ、と言っています。
 また、これは、天然自然の存在の創造主である神、自然法則、エネルギ一の3語で、この世界の成り立ちと仕組みは全て説明できる、ということです。

○人類の生き方の革命ないしはパラダイム変換の必要性
 この世界の成り立ちと仕組みは、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られている。
 これは、これまでの科学の考え方、すなわち、自然法則+エネルギー一体不可分の働きで、この世界の成り立ちと仕組みの全てが造られているという考え方に、一つ、天然自然の存在の創造主である神の存在が付け加わっただけのようです。
 しかし、これまでの科学、広く言えば学問は、また私達の日常生活においても、政治や行政や司法などでも、天然自然の存在の創造主である神を知らないし、科学的な知識があればその存在を信じる必要が無い宗教信仰上の存在=迷信的な存在と勝手に間違って決め込んだ対象である創造主である神の存在について、これを嫌い、嫌悪し、敵視し、或いは創造主である神の存在を認めたら科学の理論が壊れてしまうという、この世界の本当の成り立ちと仕組みに関する無知から来る妄想を抱いて、天然自然の存在の創造主である神を、積極的に、意図的に、徹底的に排除する形で成り立ってきた、といえます。→政教分離の原則
 誰かヒトが妄想して作ったのではない、私達の存在全てに先立って存在し、それ自体で在るようにしてある、私達ヒトとヒトの住むこの世界をゼロから有に創造した、天然自然の存在の創造主である神の存在は、万人にとって、絶対的に、一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的に、客観的かつ唯一絶対普遍の存在のはずです。
 しかし、現実には、創造主である神を認めるかどうかは、各個人の主観的な判断に任せられた宗教信仰上の問題で、全てのヒトに必然的にかかわりのある、客観的かつ唯一絶対的かつ普遍的な問題では無い、と理解されて来たわけです。
 しかし、私達全てに先立って、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きでこの世界の成り立ちと仕組みが造られていて、この中に、私達ヒト(宇宙大では宇宙人一般)は、創造主である神の化身かつ分身の存在のとして造られ、生まれ、創造主である神の化身かつ分身の存在らしく生きるように運命付けられている、というのが、もし本当であるとすれば、また、実際こうなのですが、天然自然の存在の創造主である神を絶対的に無視して成り立って来たこれまでの全人類のあり方や生き方は、根本から間違っていた、ということになります。
 しかし、天然自然の存在の創造主である神が実在しているのですから、私達全ての存在とそのあり方、生き方は、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きに則ったものにならざるを得ないことになります。
 言い換えると、この世界の成り立ちと仕組みの全てを、そして、この世界の中での全てのヒトの生き方と、このために必要となる正しい科学知識を獲得する方法を、正しく正確に精密に説明するには、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みに忠実な理解に則るしかないことになります。これ以外の全ての方法は間違っている! と断言できる、ということです。

 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。