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いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

いわゆる神の存在証明について再考

2008-07-02 15:25:41 | 神の存在証明
○いわゆる神の存在証明について再考
 神とは何かを、ヒトが勝手に考えて、この神について、ヒトが勝手に存在証明をして、神は実在するとか実在しないとかを決めるのではありません。
 では、どのように考えたら良いのでしょうか?

○神の存在証明をする話の順序
 話の出発点は、私達がこの世界の中に生まれる前から、既にこの世界は、それ自体で独自に、在るようにして既にあった、ということです。
 そして、この既に存在した世界を造った根源の原理、即ち、この世界の創造主である神の有無を問うことになります。
 私たち人間存在と、私たちが住むこの世界を創った神、即ち創造主である神は、話の順序として、当然に、この世界よりも、私たち人間存在よりも、先に存在していたことになります。
 このことを、最初にご確認ください。
 ということは、私たち被造物の立場で考えると、万物と万人に等しく、客観的かつ唯一絶対的かつ普遍的に、創造主である神とは如何なる属性を持つ存在であり、如何なる意図と目的で、如何なる方法に依って、この世界の成り立ちと仕組みと私たち人間存在を創ったのかも、このことに関して私たちがあれこれ言う前に、それ自体で独立して、独自に、全て一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的にかつ絶対的に決まっている、ということになります。
 つまり、私たち被造物の立場で考えると、創造主である神の存在は、発明するのではなくて、その存在を適切な手続きに従って(この意味は自然科学の方法に従ってになります)発見すべきものです。
 創造主である神の存在だけでなく、私たちが生きているこの世界も、私たちの最初の祖先も、全て、今、ここにいる私たちに先立って、それ自体で在るようにして在ったことを発明ではなくて、発見すべき対象になります。
 この結果、神の存在について、神自らに神とは何かについて語らせ、その存在証明を神自らにさせる方法でのみ、ヒトは神とは何かについて正しく知ることができることになります。
 神について知るこれ以外の方法はありません。
 同様に、この世界の成り立ちと仕組みについても、ヒトとは何かの解明についても、それ自身にみずから語らせる形でのみ、その何たるかを正しく正確に知ることができることになります。
 実際、この方法は、自然科学が天然自然の存在の世界を、天然自然に自らを語らせることによって、解明する方法と同じだ、と分かります。
 こうしてその存在を発見するのは、ヒトが作ったのではない、それ自体であるようにしてある、天然自然の存在の創造主である神です。
 これが一般法則論で存在証明をした、天然自然の存在の創造主である神です。
 天然自然の存在の創造主である神を研究対象にする学問は、自然科学です。
 天然自然の創造主である神にたいして、ヒトがこの世界の中に誕生してから宗教信仰の中ででっち上げたのが、人工の神です。
 人工の神を研究対象にするのは、宗教学、人類学、社会学等です。
 この区別を明確にしなければなりません。

○間違った方法による神の存在証明にこだわる人たち
 神自らに語らせて、神自らに自らの存在証明をさせる。
 しかし、神とは何かを知り、神の存在証明をするのは、この方法ではない、ヒトの手ですべてするのだという最初から間違っている方法でするのが、唯一可能なその方法だと勝手に断定しこう頑なに思い込んでいるおられる方々がいます。
 そして、自らが原理的に不可能な方法での神の存在証明の仕方を勝手に想定しておいて、「神の存在証明は誰にも未来永劫できない」とか「神の存在証明を試みるのは妄想的行為だ」と言ったりします。
 この間違った考え方をする人たちが、天然自然をして自ら語らせる自然科学の方法を知っている方々の中にもいる、という奇妙な現象があります。

 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。


ヒトに神のことが分かる根拠

2008-04-19 08:05:23 | 神の存在証明
○ヒトに(創造主である)神のことが分かる根拠
 人には、神とは何か分からないし、ましてや、人に神の存在証明ができるわけがない! と言う方々がいます。
 こう間違った考え方をされるのは、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで造られているこの世界の成り立ちと仕組みを知らず、また、私たちが生きているこの世界を、自らの存在も含めて、認識と理解することが出来る原理を知らず、この世界の成り立ちと仕組みを認識し理解することが出来るヒトの心の存在とその仕組みについても知らない、ということにある、と一般法則論の立場では断言することができます。

 神の存在証明も、創造主である神が自らを存在証明するためにあるヒトの悟りの体験の原理も、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギ一三位一体不可分の働きで造られているこの世界の成り立ちと仕組みに根拠があります。



 この文に関連のある文は、以下の通り。

○「英語は英語でしか分からない」という「理解の原理」の再確認
○神の存在証明の方法論の考察 神自らにさせる 二つの方法


 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。

一般法則論における創造主である神の存在証明の究極の意図

2008-02-28 05:18:09 | 神の存在証明
○はじめに
 2月27日(2008年)の読売新聞の朝刊の1~2頁に載った、宇宙人=地球外知的生命体とは如何なるもの、と科学者が考えているのかを手短によく纏めた、「届け宇宙人への手紙」という記事を未だ読まれて無い方は、是非、この記事を読んで下さい。
 この文では、この記事を既に読んで頂けたことを前提に話をします。
 それも、一気に飛んだ話になります。

○一般法則論における創造主である神の存在証明
 一般法則論では、天然自然の存在の創造主である神の存在証明を必須のものとしています。
 西洋哲学は、この世界の成り立ちと仕組みを零/根本から造った根源的な原理としての創造主である神は存在しているのか? という究極の問いを全人類に向けて発しています。
 一般法則論で言う「創造主である神」は、西洋哲学が発した究極の問いに真正面から直接答える天然自然の存在の創造主である神のことですし、この意味の創造主である神の存在証明をしています。

○地球上の全人類に成り代わってその代表として創造主である神の存否を問う
 西洋哲学に於けるこの世界の成り立ちと仕組みの全てを造った根源的原理としての創造主である神の存在証明と言いましたが、これは、私たち東洋人には一切全く関係ない話で、西洋人で勝手にやっていれば! という話ではもちろんありません。

 西洋哲学で、この世界の成り立ちと仕組みの全てを造った根源的原理としての創造主である神の存在の有無を問う試みは、実に有り難いことに、全地球人類に成り代わって、その代表として、西洋哲学---西洋人だけが行ってくれたのです。

 日本人/東洋人の私は、そんなことを西洋人に頼んだ覚えは無い! という方がいるかも知れません(そこで、ここに契約の観念を擬制する方がおられるかも知れませんが、この必要がないことを後で説明します)。

 しかし、真理は、この地球に生まれた全ての人が、私たちが生きているこの世界の成り立ちと仕組みを解明し、その成果を万人に公開して、万人で一つに共有する知識・技術にして、万人で/全地球人で仲良く楽しく生きましょう! という全人類を巻き込む一大キャンペーンを否応無しに生きているのです。

 こういうことを多少なりとも体系的に理論的にやっているのが学問と名付けられているものです。
 この中で、自然科学とこれに基礎をおく科学技術は、今や全人類にとって一つに共有して大いに使うべき有用な知識と技術を提供していることは、あなたもよく御存知の通りです。
 いや、あなたは、科学や科学技術に懐疑的な方かな・・・。

○文化・文明の意味
 なお、文化・文明とは、全人類が一つに共有して使う知識と技術を、この世に生まれる手間を掛けただけで無償で手に入れることができるシステムなのです。

○全人類と各個人との関係
 あなたは自分の個人的な言動が常に全人類に向けて自動的かつ必然的に発っせられている事実を御存知ですか?
 あなたの一挙手一投足は、あなた個人の物であると同時に、全人類に向けて、万人で一つに共有し得る知識・技術の提案でもあるのです。
 この自覚を常に持って行動していますか?
 常に私利私欲に走り、自民族中心主義や党利党略の為のみを図って行動していませんか?

 何を根拠にこのようなことが言えるのか、これを簡単に説明します。
 「霊的/スピリチュアルな原理という表現」について説明した文で次のように述べました。

 この世界の成り立ちと仕組みは、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全て造られています。
 この結果、私たちが生きている世界には、次のような関係の原理があります。

 この世界を造っている原理=この世界を認識し理解する原理=この世界の中で生きる原理・生きる拠り所になる原理。

 これを書き換えて、次のようにしました。
 この世界を造っている原理(霊的/スピリチュアルな存在論)=この世界を認識し理解する原理(霊的/スピリチュアルな認識論)=ヒトの心の中身とその働き方の原理(霊的/スピリチュアルな心の起源)=この世界の中で生きる原理・生きる拠り所になる原理(霊的/スピリチュアルな生き方)=天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているこの世界の成り立ちと仕組みに忠実な「現物・現場・現実尊重原理」に基づく物作り(=無意識・潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法)

 つまり、私たちは、各個人毎に独立した独自の心を持っているのでは無くて、天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きという宇宙大でただ一つの心を全人類/宇宙大で言えば全宇宙人一般と一つに共有して使っています。
 譬えて言えば、自分が呼吸するために吸い込む空気は、地球全体でただ一つの大気の一部を自分用に吸い込んでいるのと同じように、宇宙大で唯一絶対普遍かつ至高かつ客観的な存在の心(元は創造主である神の心そのもの)を使うのも同じだということです。
 そこで、「人を呪わは穴2つ」になりますし、「かくかくしかじかの条件を満たす相手と出会い結婚したい!」と思えば、それが全人類で一つに共有する普遍的な存在の心を介して、その条件を満たす相手の心(無意識)にこちらの思いが自動的かつ必然的に届いて応答が得られる(→意味のある偶然の一致と言われる形を採ります)というわけです。
 全ての人が否応なしにこの世界の成り立ちと仕組みの下で生きています。

 この説明で、納得して頂けたでしょうか・・・・。
 話の本筋に戻ります。

○何の為に天然自然の存在の創造主である神の存在証明をしたのか?
 一般法則論に於ける、天然自然の存在の創造主である神の存在証明は、私個人の自慢とか野心とか名誉とかの為では無くて、全人類の為に、全人類を代表して、どうしてもしなければならないことだからやっているのです。

 では、何故、全人類の為に、全人類を代表して、天然自然の存在の創造主である神の存在証明をどうしてもしなければならないのか?
 この答えは、次の話に要約できます。

①唯一絶対普遍かつ至高かつ客観的な存在の天然自然の存在の創造主である神の下に、地球上の全人類を一つに纏めるためです。
②地球外の、私たち人類と一つ同じ知的生命体=宇宙人一般に向かって、私たち地球人は、あなた方と同じ宇宙大で唯一絶対普遍かつ至高かつ客観的存在の天然自然の存在の創造主である神の化身かつ分身の存在であることを宣言し、「我々をなめるなよ!」と言うためです。
③②に関連しますが、人類が、地球外の知的生命体=宇宙人(一般)と遭遇したときに、一つ同じ宇宙大で唯一絶対普遍かつ至高かつ客観的な存在の天然自然の存在の創造主である神を戴く、その化身かつ分身の存在の者同士として対等に向き合い、対等にお付き合いができるように、人類が予め心積もりができるようにしておくことです。

○何時のことになるか分からないけれども備えだけは今からしておく
 我々地球人が、宇宙人に出会う日に備えて、今、天然自然の存在の創造主である神の存在証明をして、この創造主である神が造ったヒトが住むこの世界の成り立ちと仕組みについて説明しておく、という一般法則論は、何なんだ! と言われる方もおられるでしょう。
 しかし、イエスの教えの真理性を理解するのに、人類は二千年も掛かったように、一般法則論の形でここで説明していることが、人類の常識になるためにはそれなりの時間が掛かります。
 この時間がどの位掛かるのか分かりません。
 しかし、一般法則論者としては、いつ、宇宙人との接触があっても良いようにしておきたいのてす。

○創造主である神の存在証明をする究極の意図を説明する機会ができた
 ついに、と言うか、やっと、と言うか、宇宙大で唯一絶対普遍かつ客観的的な存在の天然自然の存在の創造主である神の存在証明をする究極の意図を、ここで唐突ながら説明することができました。
 一般法則論に於ける創造主である神の存在証明の意図について、宜しくご検討ください。

 まだ、読売新聞の記事の内容に関する話が残っていますし、この記事では取り上げていない話も残っています。
 しかし、この文はこれで一先ず締めます。28日の午前5時を回りました。

 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。

神の存在証明を敢えてすることの利益

2007-01-01 03:33:58 | 神の存在証明
神の存在証明を敢えてする目的と利益

○一般法則論式神の存在証明は神自らにその存在証明をさせる方法
 一般法則論では、創造主である神に自らの存在証明をさせる形で、神の存在証明をしています。
 言い換えると、一般法則論では、創造主である神自らに神とは何かの情報を自己開示して頂く形の存在証明が、唯一正当な神の存在証明の仕方だ、という主張をしています。

○神の存在証明に反対する信仰者達の無知
 一般法則論では、神の存在証明を、天然自然に自らの成り立ちと仕組みを語らせる自然科学と一つ同じ方法論に則ってしています。

 しかし、神の実在を既に信じていると言う、宗教信仰をしている人達から、今更神の存在証明をする必要が無いし、そもそも神の存在を人間が証明しようとするのは尊大な考え方で、認め受け入れることは出来ない! とお叱り受けます。
 一見すると、こう主張される信仰者の方々は、神の前にとても謙虚な方々とお見受けします。
 しかし、本当にそうでしょうか?

 また、神の存在は感じるもので、証明するしないの対象では無い、という御指摘もありました。
 しかし、神の存在は、人がただ感じる儘の物にしておいて良いのかは別の問題です。
 創造主である神は確かに実在しますし、単に感じる存在以上の役割を果たしてくれる存在だからです。

 中には、人には神の存在証明など原理的に絶対できないと言わんばかりの主張をする方がいます。

 これらの方々は、一般法則論でやっているような、神自らに自らの存在証明をさせる方法があることや、これは自然科学の方法論と一つ同じであることを、全く御存知ではないのです。
 いまどき、天然自然の世界の成り立ちと仕組みを科学的に明らかにすることに反対の人達は居ないでしょう。
 これの延長線上にある、自然科学的な方法による神の存在証明も、反対される理由は無い筈です。

 また、全ての人(宇宙大で言えば宇宙人一般)が創造主である神の化身/分身に、創造主である神自らによって直接造られている事について未だ無知で、創造主である神の化身/分身の人には、自分の創造主である神を知り、その存在を証明することが出来る生得的な能力があることを、宗教信仰者の殆ど全ての人達が、全く御存知ではないのです。

 また、創造主である神が自らの心身を、天地創造の原理に則って自己展開する形で造ったこの世界の成り立ちと仕組みの中に、創造主である神自らが自らの存在証明をする仕組みを組み込んでいる事について、宗教信仰者の殆ど全ての人達が、全く無知なのです。

 もしも、その信仰通りに神が実在しているものならば、むしろこの存在の証明が、一義的/一意的に明確に確定的にかつ客観的に絶対的に宇宙大で普遍的にできた方が良い筈です。これによって失われる物は何もない筈です。

 神の存在証明に反対する方々は、そもそも自然科学の方法論が、科学者が天然自然の世界を観察して、天然自然の世界の成り立ちと仕組みはこうなっている、と勝手に決めているのではなくて、天然自然の世界を色々の方法で観察し観測して、天然自然自らがその秘密を明らかにして来るのを記録しているだけだ、ということを御存知ではないのです。
 こうであることの自覚もない儘に、神の存在証明などいらないし、出来ない、と言っていると理解できます。

○宗教という文化に無知な人々による敵意のある反対
 そもそも宗教という人類の文化に自らが全く無知蒙昧であることや、原因=結果の因果必然の自然法則の存在とその働きに無知であることを棚に上げて、神の存在証明など要らないし、これを自分の前では絶対にさせない! と息巻いている方々も多数おられます。

 この方々の主張によれば────
 科学的な知識を人類のもっと常識にすれば、宗教信仰などという迷信は地上から一掃されるし、この結果、人類を困らせている宗教絡みの多くの問題が自動的かつ必然的に解決される、という訳です。
 これを政治的な主張にして、憲法の政教分離の原則をもっと徹底させよとか、戦死者等を慰霊する靖国神社を無くせとか非宗教化せよとか、宗教には一切関係のない別の施設を作ってそこで慰霊せよ! などと言います。
 死後の世界の存在を自分の頭で真剣に考えても無いどころか、現にこの世に生きている人の存在構造についてさへまともに哲学的な考察をしたことの無い人達が、何をいうか! と言いたいですね。
 つまり、この方々は、その本音は宗教など弾圧してでも地上から一切無くせ! ということをお考えのようです。安易に「臭い物には蓋」で済ませようと言う訳です。

 しかし、一般法則論的な神の存在証明は、自然科学的な自然の成り立ちと仕組みの解明方法の延長線上にあります。
 即ち、自然科学は、この世界、特に物質的な世界の成り立ちと仕組みを、自然法則+エネルギーというたった2つの基本概念だけで解明し説明できることを発見しましたが、しかし、自然法則+エネルギーには「慣性の法則」という名でよく知られている、それ自体で勝手に働いて何かを独自に造り出す力が一切ない性質を自覚的に意図的に意識化すれば、自然法則+エネルギー一体の働きを利用して、この世界を造った存在、即ち創造主である神の存在が必須だと、機械的に、論理必然的に、自動的かつ必然的に言うことができる、と分かります。
 ここに、迷信的なことや、これを説明している筆者の信仰や知識体験や人間的な出来の善し悪し等や恣意的な意図が入り込む余地は少しもかつ何もありません。

 しかし、こんな理屈を知らなくても、以下に列挙したようなことは、全ての人にとって、宇宙大で一義的/一意的に明確に確定的にかつ客観的に、普遍的に、絶対的に、不変的に決められている、という事実/科学的な知識に溢れた現在では常識に属する筈の事実を確認するだけで、事は済む筈です。
 即ち、私たちが生きているこの世界は、この世にこの私の存在が誕生する遙か以前から存在していたし、この世界を造った、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きや、これによって因果必然的に造られたこの世界の成り立ちと仕組みとその秩序がある、という事実を、常識としてしっかりと持つべきです。

・私たちが住むこの宇宙は、自然科学の知識に基づくと、いわゆるビックバン(大爆発)によって137億年前に誕生したこと
・この宇宙が誕生した時にもこれ以前にも、人類は、もちろんあなたや私も未だ誕生していなかったこと
・この世界の成り立ちと仕組みは、ビックバンとこれに続く宇宙の進化に自動的かつ必然的に伴い、創造主である神の存在を含めてその全てが、人類/あなたや私には一切全く相談も了解も無く、それ自体で客観的に絶対的に普遍的に決められ造られたこと

 この通りだと、今、あなたは、本当に認識し、理解していますか?

 しかし、以上説明したことこそが、この世界を知り、人としての生き方の基本原理を知るための大前提になっていることです。
 このことを無視した、如何なる主義主張、宗教、哲学、学問も、その存在を認められるべきではありません。

 前置きが長くなりました。
 神の存在証明をする目的や、これによって得られる利益について、簡単に説明しておきます。
 自覚的に意図的にこうするのが必要であり、役に立つようです。

○神の存在を証明抜きで信じて信仰して方にとっての利益
 神の存在をその存在証明抜きで信じて、神の言葉が書かれている聖典類に基礎を置いた宗教的信仰している方にも、もし神の実在が証明されたら、これに越したことは無い筈です。

○神の存在証明を恐れることはない
 神の存在証明はいらない、と主張される方たちの中には、これによって、神の存在の有無や、神とは何かついて、一義的/一意的に明確に確定的に明らかになるのを恐れている方がおられるのかも知れません。
 実際、こう感じた体験があります。

・神など実在しないと証明される
・自分が信仰している宗教の神は、この世界に存在していないと証明される
・自分が信仰している宗教宗派は、実在している神の存在について間違った見解を持っていて、これに基づいている現在の信仰が、正しい神の存在証明によって否定される

 率直に申し上げると、既存の大部分の宗教とその宗派は、一般法則論の神の存在証明によって、その信仰の在り方を多かれ少なかれ修正し変える必要があります。
 もしこうならば、そして、あなたの信仰が本物指向ならば、正しい神の存在証明によって正しい神の理解に基付いた信仰をすることになるだけですから、何も恐れることは無い筈です。

○宗教信仰上の対立がある時には神の存在証明は必須
 「宗旨の争いは、どちらが負けても仏の恥」という、江戸時代に作られた川柳があると聞きます。
 これは、同じ仏教の中の教派の違いに基づく対立の事を言っています。
 この元を辿れば、仏(=神)とは何か、また、釈迦が説いた教えとは何かの問題に行き着きます。
 この解決には、「臭い物には蓋」式の反応をするのではなくて、創造主である神の存在証明をして、仏(=神)とは何かを徹底的に説明することが最初に必要です。
 こうだと、分かる筈です。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間にある対立・宗教紛争のように、一つ同じ唯一絶対普遍かつ至高の神を信仰の対象にしながら、その実際はお互いにその存在を認めようとはしていません。
 しかも、この宗教対立は、今、現在、世界人類の存続を脅かすようなものにさへなっています。
 これも、実は、その信仰の対象にしている創造主である神の存在を「信じている」だけで、一義的/一意的に明確に確定的にその創造主である神について存在証明をして、如何なる属性を持つ存在かについて正しくて正確な知識をもっていないための対立と争いだ、と思います。
 そこで、この対立を根本的に解くには、創造主である神の存在を一義的/一意的に明確に確定的に行って、その神の何であるかを明らかにし、この知識に基づいてその信仰の在り方を正しくすることが良いのではないのか、と思います。

○この世界を造っている原理の解明をしている哲学では神の証明は必須
 哲学は、私たちが生きているこの世界の成り立ちと仕組みを決めて造っている根源的かつ根本的な原理や法則の存在を明からにしようとするものです。
 そこで、この世界の創造主である神の存在の証明は、哲学的には必須のものである筈です。

 しかし、これまでの哲学的な常識では、哲学は未だ神の存在証明に成功していない、と言って良いでしょう。
 一般法則論的に言えば、これまでの理性に基づく、言い換えると人の無意識の存在とその役割について知らない意識中心の哲学のやり方では、絶対にと言っても良い位、神の存在証明はできません。

 また、この世界が自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られていることを発見した自然科学とこの成果に基づいた科学技術が人類に多大の恩恵をもたらしている事実を一切無視して、「全てを疑って掛かるのが哲学のやり方」と言い張り、自然科学が明らかにした自然法則の存在や、そもそも人類の誕生前にこの世界の仕組みが唯一絶対普遍かつ不変的に造られている事実を一切無視して、哲学者が勝手にでっ上げた法則を持ち出したり、人を強制する法則など無いしあってはならないとまで言い切る方までいるようで、哲学者の尊大さは止まるべき所を知らないことも、正しくは神自らにさせるべき神の存在証明を出来なくしているのでしょう。

 しかし、その真相は、簡単に言えば、神の存在証明の正しい方法を、これまでの哲学は全く知らなかった、ということです。
 正しいやり方の神の存在証明は、人が理性の力や屁理屈を捏ね回してするのではなくて、創造主である神自らにその存在証明をさせることです。
 こうだと分かれば、話はとても簡単になります。
 これは、人類がこれまで到達した最高の世界認識の方法である自然科学の方法と同じであるからです。

 自然科学が天然自然の世界の秘密を明らかにする方法も、言わば天然自然の世界に自らの存在の成り立ちと仕組みを語らせる形で行っているのです。

○自然科学的には自動的かつ必然的に神の存在が証明されてしまう
 一般法則論では、自然法則+エネルギー一体不可分の働きが持つ「慣性の法則」という性質を元にして、この慣性の法則の意味をよく考えることによって、これを道具に使ってこの世界を創造した存在、即ち、宗教などで一般に言う「創造主である神」の存在を証明しています。

○神の存在を証明する一番の利益は創造主である神の智慧を利用できるようになること
 創造主である神の存在証明をしっかりする一番の利益は、創造主である神の全知全能の智慧を利用できるようになることです。

 例えば、西洋医学的医療の現場では、この世界を造り支配している創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きの内の、人、即ち医者自らの知識と体験に基づいて、自然法則+エネルギー一体不可分の働きのみに偏った治療法を採用している、と言えます。
 この結果は、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで元々造られ、これが支配している人の心身を、創造主である神の存在を一切ぬきで治療することになります。
 しかし、創造主である神の存在こそ、実は、いわゆる自然治癒力の一番の根拠であり、これが、唯一、神の存在から出てくるものです。
 しかし、神の存在を迷信でありオカルト的存在として、これを否定するのが、西洋医学的医療です。
 この結果は、いわゆる「不治の病」を自動的かつ必然的に作り出すことです。

 しかし、自然法則+エネルギーの働きに加えて、創造主である神の存在が持つ無限の智慧を認めて、これを利用する、いわゆる代替医療や、神の力を積極的に利用する「神に祈る技術」では、不治の病は原理的に存在し得ません。

 もちろん、神の存在を認めて、これを治療に使う方法は、西洋医学が頼りにしている自然法則+エネルギー一体不可分の働きを利用する方法を否定し拒否するものではありえません。
 この世界の全てのことは、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで出来ていることを認めるからです。

 神の存在を認めて、常に神と二人三脚で生きて、神の無限の智慧を利用することができるようにすることは、日常生活の中でも、とても役立ちます。

 詳しい話しは、人の生き方の基本原理を説明する所でします。

○補足説明 自然の仕組みの解明を実際に妨げる人達がいる
 いまどき、天然自然の世界の成り立ちと仕組みを科学的に明らかにすることに反対の人達は居ないでしょう。
 ───と書いて、こういう方々が実在していることを思い出しました。
 その人達は、一部の政治家と国家の活動予算の配分を事実上決めている官僚達のことです。
 この人達によって、ニュートリノを発見した「スーパーカミオカンデ」が危うく廃止されるところでした。

○理科教育/科学教育に科学基礎論的な知識の積極的な導入を
 今、現在、必ずしも科学哲学/科学基礎論的な知識にしっかりと根拠を置いた理科教育/科学教育が行われている訳ではありません。
 そもそも、これまでの科学哲学/科学基礎論は、一般法則論で説明しているような、自然法則やエネルギーの性質や機能や両者の関係などに関する基本的なことを、自覚的に意図的に説明していません(必ずしも知らない訳ではないのに!)。

 特に、社会人を対象にした科学教育に関しては、こう言うことができます。
 この現状では、市井の人が科学の本質を学び、理解すの機会は殆ど無いと言えます。
 この結果は、科学について無知で、その重要性が分からない人達が、国家の運営や会社の運営に直接関わることがある、と言えます。

 このことについては、今、別の形で正すことを試みようとしています。

 以上。


神の存在証明の方法論の考察 神自らにさせる 二つの方法

2007-01-01 03:08:08 | 神の存在証明
☆○神の存在証明再考 神自らに自らの存在証明をさせる方法
 神の存在を証明する方法について、自覚的に意図的に、その方法論も含めて、考察しておきます。

 インターネット上のフリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の「神の存在証明」を読むと、これまで行われて来た神の存在証明の仕方が分かります。
 そこで、ここでは「一般法則論」で行っている「神の存在証明」の方法のみを説明します。

○間違った神の存在証明の仕方───人がそれをやる
 神の存在証明は、人が、神とはこれこれの属性や条件を満たす存在である筈だ、と最初に勝手に決めて、これを証明する形で行うのではありません。

○正しい神の存在証明の仕方───神自らにさせる
 神の存在証明は、神自らにそれをさせるものです。
 そして、これが、私たちがこの世界に誕生する前からそれ自体で絶対的に普遍的に客観的に実在しているこの世界の成り立ちと仕組みを大前提として受け入れた人が認める、正しい本当の神の存在証明の仕方です。

○神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みの中に神自らによる存在証明がある
 創造主である神が自ら直接造った、人の存在を含むこの世界の成り立ちと仕組みが、神自らに自らの存在証明をして頂くことを可能にしています。
 即ち、神がこの世界を自らの心身を天地創造の原理に則って自己展開して造った時に、自らの存在を証明する仕組みを、自らが造ったこの世界の成り立ちと仕組みの中の一部に既に組み込んであるのです。
 これによって、私たちは、神の存在を苦労して捜し回らなくても、神の実在を容易に知ることができるようになります。

○神による自らの存在証明の仕方は2つ知られている
 神に自らの存在を証明させる実際の方法は、人類史上、既に2つ知られています。
 その何方も、一般法則論が、一義的/一意的に明確に確定的に既に説明しているものです。
 そこで、この2つを簡単に再説明します。

○神自らにその存在を証明させる方法その1 悟りの体験
 神自らに自らの存在を証明させる方法の最初は、人、即ち、この世界の唯一絶対普遍かつ至高の存在の創造主である神が、自らの化身/分身の存在に造ってある人にいわゆる「悟りの体験」をさせる方法です。

○悟りの体験の瞬間に起こっていること───神が人になり、人が神になる
 悟りの体験のその瞬間は、道元禅師も言うように、「仏(神)の側から行われて」、悟りの体験をする人は自らが「神である/仏である」という自覚を自動的かつ必然的に持ちます。
 この体験によって、悟りを得た人は、一義的/一意的に明確に確定的に神/仏とは何かを知り、以後、他の人にも自分の言葉で神/仏とは何かを説明できるようになります。
 筆者の悟りの体験も、正にこの通りでした。
 これは、神が人になり、人が神になって行う、神の存在証明だ、といえます。
 そして、これが、神の存在証明の究極の形であり、その原型だ、と思います。

○神自らによる自己の存在に関する情報の全面的開示を受け取る悟りの体験
 人の悟りの体験とは、神がその中で自らの存在に関する一切の情報を、悟りの体験をする人に自己開示する手段・方法として存在するもの、ということができます。
 悟りの体験をする人は、このときに神自らによるその存在情報の自己開示を受け取る体験をする、ということです。

○悟りの体験=絶対的な無意識の存在の神を意識化し確認し意味付けする体験
 念の為に、以下の事を再確認しておきます。
 悟りの体験の「原理的仕組み」は、意識と無意識という二つの機能の異なる要素で出来ている人の心の構造が大前提になっていて、全ての人の無意識の根底に存在している絶対的な無意識の存在、即ち、創造主である神の存在を、意識化することです。
 これは、日常生活の中で、直観的に「あっ分かった!」というよくある体験の延長線上にあるものです。
 悟りの原理的仕組みとこの実際については、もっと詳しいことを、既にこのブログの中で説明してあります。

○神自らにその存在を証明させる方法その2 自然自らに語らせる
 神の存在証明の2つ目のやり方は、自然科学の方法論に則ったものです。
 この方法は、悟りの体験が無い人でも、この世界そのものが本来的に持っている論理/理屈/理/自然の法則/自然の摂理/自然の道理に則って、創造主である神の存在を知る方法です。
                                     
○自然の世界を解明する自然科学の方法論──自然自らに語らせる
 自然科学は、自然の世界の成り立ちと仕組みを、自然の世界その物を直接観察し観測することによって、いわば「自然自身に自ら語らせる」という方法を採用して解明します。


○自然の仕組みは自然法則+エネルギー一体不可分の働きで出来ているという発見
 「自然自身に自ら語らせる」という方法を採用して自然科学が得た成果は────
 自然の世界の成り立ちと仕組みは、自然法則とエネルギーと言うたった2つの基本概念のみで説明できることを発見したことです。
 即ち、自然の世界は、自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られている、という発見です。

○自然法則+エネルギー一体不可分の働きだけではこの世界を造れないという発見
 この自然科学的な成果を、しかし、科学哲学的に/科学基礎論的によく検討すると、自然法則+エネルギー一体不可分の働きだけでは、この世界の存在が今のような形に創造された原因を説明出来ないことが分かります。

○慣性の法則の存在
 ニュートンが発見した以来、自然科学上よく知られている、慣性の法則を、あなたも御存知でしょう。
 この法則は、止まっている物は、これに外から何かの力が加えられない限りいつまでもその儘の状態を保ち、それ自体で勝手に動き出すことは絶対に無い、という現象を支配している法則です。
 反対に、動いている物は、この動きを止める力が外から働かないと、いつまでも動いている状態を続けて、それ自体で勝手にその動きを止めることは絶対に無い、という現象も支配している、一つ同じ「慣性の法則」です。

○何かの仕事をする力=エネルギーの働き
 止まっている物や動いている物に外から加えられる「何かの力」とは、何かの「仕事する力」と物理学上定義されている「エネルギー」のことです。

○エネルギーの本質───創造主である神の心身
 自然科学で、「エネルギー」と呼ばれている物の本質は、一般法則論の理解では、唯一絶対普遍かつ至高の創造主である神の心身その物を意味します。

○エネルギーの働きは自然法則による制御と秩序付けの下で働く
 実際のエネルギーの働きは、この働き方を、これが働く目的に合わせて制御し、本質的には創造主である神が造ったこの世界の存在物とこれがもたらす諸現象の秩序に調和するように秩序づける、自然法則の働きと一体不可分の関係でのみ働きます。

○自然法則の本質/存在目的は創造主である神の天地創造の原理
 自然法則の本質に関する一般法則論での理解は、創造主である神の唯一絶対普遍かつ至高の天地創造の原理のことです。

○天地創造の原理の自然法則はこの世界に多様な存在とその秩序を造り出す原理
 創造主である神の天地創造の原理である自然法則は、部分部分に分離分割する事が絶対にできない、創造主である神の唯一絶対普遍の身体=ただ一つの存在のエネルギーを素材に使って、多種多様な存在物や現象を造り出し、その多様な秩序を制御している唯一絶対普遍の原理だ、ということです。

 このことを、アインシュタインのいわゆる物質とエネルギーとは一つ同じものであることを明らかにした、次の公式を使って、説明すると、次のようになります。

①E=MC2
エネルギーは、M=物質の質量(存在物一般/現象一般)×毎秒約30万キロメートルの不変の速度で進む光のエネルギー×毎秒約30万キロメートルの不変の速度で進む光のエネルギーの積に等しい。
②M=E÷Cの二乗
 ②が意味することを比喩的にイメージしてみるとーーーー、
 毎秒約30万キロメートルの不変の速度で進む光のエネルギー×毎秒約30万キロメートルの不変の速度で進む光のエネルギーで出来た正方形のエネルギーの布の一部を、全体のエネルギーの中からMの分だけ、絞り染め式に摘み上げて、Mを造っているのに等しい。

○慣性の法則が意味していること───自然法則とエネルギーは勝手に働けない性質
 慣性の法則の本質は、次のように説明する事ができます。
 自然法則+エネルギー一体不可分の働きには、自らの主体的な自由意思が最初から一切無い、という性質/属性を持っている。
 言い換えると、自然法則+エネルギー一体不可分の働きには、自ら主体的に働いて、何かを造り出す/この世界を造り出す能力が最初から一切無い、ということを意味しています。
 こうだとすると、次のように結論付けることができます。

○自然法則+エネルギーを一体不可分の働きを道具にしてこの世界を造った存在が必要
 慣性の法則の存在が示すように、自然法則+エネルギー一体不可分の働きだけでは、原理的に、この世界を造り出すことはできないと分かります。
 即ち、自然法則+エネルギーを一体不可分の働きを、言わば道具に使って、この世界を造った存在が必要だ、ということです。
 この推理は、慣性の法則が持つ意味を意図的に意識化して自覚化して理解すると、論理必然的に/機械的に得られるものです。

○創造主である神の実在証明
 慣性の法則の存在から論理必然的に推理すると得られる、自然法則+エネルギーを一体不可分の働きを道具にして、この世界を造った存在。
 この推理の結果得られた存在のことを、昔から、この世界の「創造主である神」と名付ける訳です。

○自然法則+エネルギー一体不可分の働きが慣性の法則である理由
 自然法則+エネルギー一体不可分の働きが、これ自体で独自に主体的に自由に考え、判断して、この世界に自ら何かを造り出す創造的な機能/作用/力等がないこと、これを物理学では「慣性の法則」と名付けて呼ぶのでしたが、これは何処から来たのでしようか?
 この答えは、次のようになります。

 創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きでこの世界の全てが造られるとき、自然法則+エネルギー一体不可分の働きは、創造主である神による天地創造の為のいわば道具に過ぎません。
 創造主である神にとって、また、創造主である神の化身/分身の存在の全ての人にとって、自然法則+エネルギー一体不可分の働きは道具以上の物であっては困るのです。
 即ち、全ての道具類が本質的にそうであるように、これ自体が何か独立した独自の意思を持っていて、道具を使う人に逆らって勝手に働くことが無いように出来ているのです。
 これが、自然法則+エネルギー一体不可分の働きが慣性の法則に従う理由です。

 発生論的には/起源的には、自然法則は、創造主である神の天地創造の原理です。
 エネルギーは、創造主である神の身心そのものを、発生の起源にしています。
 即ち、自然法則とエネルギーは、元々創造主である神の一部分なのです。

○循環論法的説明とそれ故の理屈の自己完結性
 自然法則+エネルギー一体不可分の働きが持つ慣性の法則性で、創造主である神の存在を証明し、存在が証明された創造主である神で、自然法則+エネルギー一体不可分の働きが持つ慣性の法則性の根拠を説明する。
 話が都合よく循環しています。
 同義語反復。トートロジー。
 しかし、これによって、この方法による神の存在証明は、これ以外に何も持ち出す必要が無いし、他の何にも根拠を求めずに、これ自体で話が、論理が、自己完結しています。

○自然科学の方法論の延長線上にある神の存在証明
 慣性の法則の存在に基づいた神の存在証明は、慣性の法則を発見した自然科学の方法論の延長線上にある、と分かります。
 慣性の法則を発見した自然科学の方法論とは、繰り返して言うと、自然そのものを直接観察し観測して、その秘密を自然自らに語らせる式の方法です。

○科学的な方法論に基づいた神の存在証明のまとめ
 以上が、「自然自らに語らせる」形で行われる自然科学の方法論と、この結果発見した、この世界の仕組みを造っている自然法則+エネルギー一体不可分の働き、そして、自然法則+エネルギー一体不可分の働きが持つ「慣性の法則」の本質的な意味を自覚的な知識にすることによって、論理必然的に、創造主である神の存在を推理し発見したものです。

○悟りの体験も自然自らに語らせる方法の一部
 もうお気づきのように、悟りの体験の形で創造主である神の存在を発見する方法も、自然自らに語らせる自然科学的な方法の一部だ、ということが出来ます。

○この文の全体のまとめ
 いわゆる「神の存在証明」は、人がやるのではなくて、神自らにさせる。
 この実際の2つの方法について、簡単に再説明しました。
 また、この方法は、私たちがこの世界に誕生する前からそれ自体で絶対的に普遍的に客観的に実在しているこの世界の成り立ちと仕組みを、しっかりと自覚的な知識にした上での、正しい本当の神の存在証明の仕方であることも、指摘しました。

○神の実在が意味していることの意味の理解がもっと必要で大切
 ここで、改めて、神が実在していることを、その方法論についても自覚的な知識にして、神自らに存在証明をさせる形で行いました。

 しかし、本当に大切なことは、このブログの題にしているように、創造主である神の存在証明ではなくて、創造主である神が実在しているこの意味を理解することです。

○創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きだけで造られている世界
 私たちの住むこの世界は、私たち人間存在(宇宙大では宇宙人一般)を含めて、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られています。
 これは、この世界が創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きのみ/これだけで造られている、と言う意味です。
 この世界を造っている原理は、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働き以外の物は、一切存在しない、という意味です。

 一般法則論に基づくこの知識は、自然科学的な知識が、全人類にとって、客観的で唯一絶対普遍的な知識であるのと同等の意味です。

 しかし、自然科学者を含めて、人類全体が以上の意味を未だよく理解していないと断言して良いようです。

○神が実在が意味すること その1 神の造ったこの世界の仕組みを生きる
 神が実在していることが意味することは、2つあります。
 一つは、個人の生き方でも、人同士の在り方でも、国家・社会の在り方でも、国際関係の在り方でも、文化文明の在り方でも、自然科学を含めた学問一般の在り方でも、政治や経済の在り方でも、全て、創造主である神の存在を含めた、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているこの世界の成り立ちと仕組みに忠実に則った正しくかつ適切な在り方があるということです。
                                     
○神の国を地上に造ることが人類史の究極の目的
 創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きに則って生きる。
 一言で言えば、創造主である神と常に二人三脚をしている生き方。
 これは、創造主である神の化身/分身の生まれの自覚をもって、この地球上に、いわゆる「神の国」を造ることです。この実現が、人類史の究極の目的です。

 世界の平和は、この当然の結果として実現できます。
 創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているこの世界の成り立ちと仕組みについて全く何も知らない現在の日本国憲法をどんなに忠実に実行しても、世界に平和は絶対に来ませんよ。

○神が実在が意味すること その2 神の存在を知らない生き方をリセットする
 今一つは、神と二人三脚で生きることを知らない生き方をしていることを改めさせることです。
 これまでの人類の営みの大部分は、創造主である神の存在を全く知らず、これ抜きの、人が勝手放題をする、もう目茶苦茶な生き方でした。
 これを、リセットし、正すことが必要です。

○神の実在を知って、一緒に神の国を造りましょう
 もし、あなたが、一般法則論でいうことはもっともだ、とお考えになって下さったのならば、一緒に、この世界に、神の国を造りましょう。

 この項の終わり


神の存在証明再考

2006-01-07 00:26:34 | 神の存在証明
神の存在証明再考

 追記 2010年2月22日
 この文では、一般法則論で言う創造主である神が、天然自然の存在の創造主である神であり、その存在証明も、天然自然の存在の創造主である神の存在証明をすることになる点に関する説明が足りません。 
 このことに関しては、2008年以降の文をお読みください。
 

○先の神の存在証明は事の単純化が不足
 一般法則論としては、神の存在証明を、既に済ませてあります。
 しかし、それは、いわゆる悟りの体験をした筆者の知識を十二分に活用したものでは無
かった、と今になって分かりました。
 簡単に言えば、一般法則論に相応しい事の単純化が不足していました。
 この反省に基づいて、改めて神の存在証明を、ここでします。

○神の実在を学問的にも公共的にも認知させる事に成功したか
 話を単純化すると、話が分かり易くなり、説得力も強くなります。
 神の存在のように、未だその存在が学問的にも公共的にも認知されてはいないモノの実
在に関する主張は、複雑怪奇な話の儘では全く通用しません。
 そこで、一言で内容が言えるほど、話を単純化し簡略化することが必要不可欠です。
 一般法則論的な神の存在証明が、神の実在を学問的にも公共的にも認知させる切っ掛け
になる程の説得力のある話の単純化/簡略化にどこまで成功したか、今、その成果が問わ
れている所です。

○一般法則論/筆者の決意
 一般法則論的な意味の神は実在します。
 「それでも地球は回っている」の話と同じように、「それでも神は実在し仕事をしてい
る」訳です。
 この世界を造り支配している創造主である神+自然法則+エネルギー三位一体不可分の
働きの内の、「創造主である神」の実在を、学問的にも公共的にも認めないのは、大間違
いです。
 この点に関して、本質的には、学問的に公共的に認知するしないは、ましてやあなたや
私個人がそれを認める認めない等ということは、根源的な真理の実在の存否に一切無関係
です。
 なぜならば、回っている地球も、神の実在も、過去・現在・未来の全ての人の存在に客
観的かつ絶対的かつ普遍的に先立つ、それ自体で客観的かつ絶対的かつ普遍的な真理その
ものだからです。もちろん、こういう事に関する主義・主張は、その真偽が真理そのもの
に照らして常に必ず客観的かつ絶対的かつ普遍的に検証されて合格した時にのみ初めて学
問的にも公共的にも認められ受けいられるべき性質のものであることは、言うまでもあり
ません。
 一般法則論的な意味の神の実在を、学問的に、公共的に、更に地球人類全体のレベルで
認知させ常識にすることに関して、筆者の決意は、真剣で、大真面目で、一途です。
 で、変なヤツだとからかわれたり、危ない人間と思われて攻撃されたりすることがあり
ます。しかし、これは、殺されないのである限り、無視して前へ進むしかありません。

○神とは何か知らずに神の存在証明はできない
 神の存在証明をするには、もちろんその前に、神とは何かが一義的/一意的に明確に確
定的に分かっている必要があります。

○理性の力では神の存在を知ることはできない
 神とは何かを知らなくても、理屈を捏ね回せばその内に神とは何かが自然に分かる式の
発想/考え方で、神の存在証明が昔から行われて来ました。
 しかし、この考え方では、神の存在証明は、結局できません。
 なぜならば、神に関する知識を得ることが、理屈を展開する理性が働く意識の状態では
原理的に不可能だからです。
 知識の真の源は、人の理性にではなくて、この世界の創造主である神の所にしかないか
らです。
 神とは何かを知るには、いわゆる悟りの体験をすることが必要不可欠です。
 悟りの体験は、変成意識と言われる非理性的な特別の意識状態になり、絶対的無意識の
存在の神を意識化することです。これによって、一瞬にして神とは何かが、一義的/一意
的に明確に確定的に分かります。

○神について一義的/一意的に明確で確定的な知識が必要
 筆者が、ここでしている一般法則論の話の中で神の存在証明をしたときに、23歳(1
963年)の時の悟りの体験に基づいて、既に神とは何か(この世界の天地万物の唯一絶
対普遍かつ至高の創造主である神)について、一義的/一意的に明確に確定的に知ってい
ました。
 それどころか、創造主である神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについても、一義
的/一意的に明確に確定的に知っていました。

○創造主である神の天地創造の実際に関する知識も必要
 それは、神自らの身心をこの世界を造るための唯一絶対普遍の素材として提供し、天地
創造の原理に則って、言わば神自らの身心を自己展開する形で、神自らの化身/分身とな
るべき人間存在(宇宙大では人と同じ様な知的生命体としての宇宙人一般)と、この生活
基盤/インフラになる大自然世界を造ったのでした。

○この世界を創造主である神+自然法則+エネルギーで説明すべきことも知っている
 更に、自然科学は、人と人が住むこの世界の成り立ちと仕組みを、エネルギー+自然法
則というたった2つの基礎概念で説明し尽くそうとするものだ、という理解の下で、創造
主である神の身心とはエネルギーのことであり、創造主である神の天地創造の原理は自然
法則であるので、この世界は、創造主である神の存在を加えて、創造主である神+自然法
則+エネルギーの3つの基本概念で説明するのが正しい、ということも、一義的/一意的
に明確に確定的に知っていました。

○自然科学はこの世界を自然法則+エネルギー+数学で説明するものというのは誤解
 なお、自然科学は、この世界を自然法則+エネルギー+数学で説明するもの、という誤
解が広く世間に行き渡っています。
 この誤解に基づいて、数学に強くなければ自然科学はできないし、それを理解すること
さへできない、と言う更なる誤解が広く世間に行き渡っています。
 しかし、数学を一切使わなくても、(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体の
働きという考え方だけでこの世界の成り立ちと仕組みは説明できますし、この知識に基づ
いて、十二分に(自然)科学的に考え、(自然)科学的に振る舞うことができます。
 科学的とは、単純化すると、自然法則+エネルギーの働きに則って考え行動するという
意味です。
 これは、簡単に言うと、何をするのでもそれをする正しいやり方や更にこれに加えて上
手なやり方/うまいやり方があると知ることですし、これを基本的に決めているのは自然
法則の働き方の原理である、「それをそれにする原理的仕組み」にその科学的な根拠があ
ることを知っていることです。
 このことを知らずに、科学的にはまったく根拠の無い、自分が勝手に決めたやり方を、
しばしば権力や暴力を使って強引に押し進めようとする人達がいます。例えば現在の北朝
鮮政府や中国政府。
 このようなことをする人達を諌めることはむずかしくても、少なくともそれに加担し、
それを助けることを避けることはできるものです。
 特に、数学に弱いから科学が分からないと思い込まされている文系の人達には、この話
は朗報の筈です。

○神と神の世界に関する根本的知識を獲得した「悟りの原理」も説明できる
 悟りの体験を、筆者だけでなく広く万人に可能にする原理的仕組みの存在(日常の意識
とは異なる特殊ないわゆる変成意識+絶対的無意識の存在の意識化)についても、神の存
在証明をするときには既に一義的/一意的に明確に確定的に知っていました。

○神による天地創造のやり方を具体的に説明できる知識も必要
 そして、実際にこの世界と人の存在が造られる仕組みは次のようになっていることも、
一義的/一意的に明確に確定的に知っていました。

・創造主である神と天地創造の意図/目的+自然法則+エネルギー一体不可分の働き→創
 造主である神の化身/分身としての人の存在とその住む大自然世界の誕生
・創造主である神の化身/分身の存在の人とその存在意図/目的+自然法則+エネルギー
 (物質)一体不可分の働き→各人の人生・文化文明的諸文物・人類史の誕生
 以上の図式を、別の形に書き換えると、次のようになります。

○世界を説明するための8つの要素に関する知識
1 創造主である神とこの神の天地創造の意図/目的
2 創造主である神の身心でありこの世界を造っている素材であるエネルギー
3 創造主である神の天地創造の原理としての自然法則
4 創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られた大自然世界(神
 の国)と神の化身/分身の存在の人(神の国の住人)の誕生
5 神の化身/分身の存在の人とその存在意図/目的
6=2 エネルギー(物質←物質はエネルギーが変形した物というE=Mc2 の式)
7=3 自然法則
8 神の化身/分身の存在の人+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで作られた各人
  の人生・文化文明的諸文物・人類史の形成/誕生(人工の世界/第二の自然)

○8つ(実質4つ)の要素の間にある相互関係に関する知識もある
 この8つ(実質は4つ)の要素の間にある相互関係について、筆者は、一義的/一意的
に明確に確定的に知っています。

○部分に分離分割ができない常に全体でただ一つの世界
 創造主である神が、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造った
この世界は、部分部分に分離し分割することが決してできない、常に全体でただ一つの世
界として存在し、常に全体でただ一つの世界として働くものであることも、一義的/一意
的に明確に確定的に知っていました。これは、物理学的には光速度一定不変の原理とエネ
ルギー不滅の法則とも関係があります。
 なお、このような世界を説明するには、悟りの体験の時に一瞬にしてその全体を理解し
た時のように、一度に全部を一気に説明する方法しかないと考えて、この方法を探すのに
もう何年も試行錯誤の時間が掛かったものです。

○話の単純化
 以上の図式をもっと単純に書き換えると、次のようになります。
1 創造主である神
2 エネルギー
3 自然法則
4 生物としての人の存在を含む天然自然の世界
5 人の存在
6=2 エネルギー
7=3 自然法則
8 人工の世界

○現代の科学的常識では創造主である神の存在以外は既知
 さて、上に掲げたこの世界を構成している8つの要素(実質的には4つ)の内、現代の
科学的な常識では、1の創造主である神以外の残り7つ(実質4つ)の存在は、その存在
が既に知られています。

○現代の科学的常識を土台にした科学的な神の存在証明の仕方とその実際
 こういうことならば、科学的な神の存在証明は、科学的には未知の要素である創造主で
ある神の存在を、科学的には既知の残りの7つ(実質は4つ)の要素を使って行うのか良
いことになります。
 実際には、これを、自然法則(+エネルギー)には自らの主体的かつ自発的かつ自由な
意思が無いこと(物理では慣性の法則と言います)を自覚的な知識にして、これを手掛か
りにして、創造主である神の存在証明をすることになります。
 即ち、人が言わば人工の世界の創造主である神のように振る舞うという形で関与しない
と、自然法則+エネルギーだけの働きでは人工の世界/第二の自然は作れないように、創
造主である神と言う天然自然の存在抜きで、自然法則+エネルギーだけの働きでは、人の
存在を含めた天然自然の世界(大自然世界)を造ることが出来ないから、天然自然の存在
の創造主である神の存在は、自然法則+エネルギーの他にこの世界にとって、論理必然的
に或いは自動的かつ機械的に必要になる、という結論になります。

 以上で、再度の神の存在証明を済ませました。
 先の神の存在証明の仕方よりも今度の方が分かり易いですか?

○その存在証明をしたのは単なる神ではなくて創造主である神
 ここで確認しておきたいのは、その存在を証明したのは、単なる神の存在ではなくて、
私たちの存在を含めたこの世界の天地万物の唯一絶対普遍の創造主である神です。
 神の存在証明は、創造主である神の存在証明である必要があるのです。
 なぜならば、私たちの創造主である神であって初めて、私たちにとって意味のある存在
になるからです。
 また、神とは何かを考える鍵言葉も、この世界の「創造主」という点にあります。

○あなたは、神の実在を認めて受け入れましたか?
 科学的な思考のできるあなたは、この世界を作り支配している自然法則とエネルギーの
存在とその働きを既によくご存じでしょう。
 ならば、今再びその存在証明をした通り、自然法則及びエネルギーと一体不可分の存在
の創造主である神についても、ついでに認めてくださるでしょうか・・・。

 それとも、やっぱり神の存在など認めたくないですか・・・。
 しかし、仮令あなたが、ここでその存在証明をした意味の神の存在を認めなくても、そ
れでもあなたに化身し分身化している神の実在は、誰も否定することができません。
 あなたに化身し分身化している神は絶対にあなたを見捨てないし、一生涯更に死後も常
にあなたと共にあって、あなたを守り、あなたを助けてくれます。
 ある時には、あなたの努力を、原因=結果の因果必然の法則がしっかりと働いて、実り
あるものにしてくれます。
 また、ある時には、自然治癒力として働いて、あなた本来の身心の完全完璧さを維持し
或いは痛んだ所を修復してくれます。
 もし、あなたが神の存在を認め受け入れ、「神に祈る」という用語で知られている方法
を自覚的に意図的に使えると、普段は自動的かつ機械的に紋切り型に限定的にしか働かな
い自然治癒力を、俗に言う不治の病でも治すほどの本来の強い治癒力して使えます。
 神とは、人が元々有りもしないものを勝手に創り出したもので、あってもなくてもどっ
ちでも同じの抽象的で観念的な存在に過ぎないものではありません。
 神は、確かに実在し、全ての人の日常的な生き方の究極の拠りどころになる原理として実用的な有り難い存在です。

○単純化を妨げた理由
 今回の神の存在証明では、科学的にも常識的にも、神の存在だけが未知で、自然法則や
エネルギーや私たち人間存在や私たちが生きているこの世界の存在は既知だ、と単純化し
て考えました。そして、既に知られている物で、未知の神の存在を証明しました。

 しかし、最初の神の存在証明では、厳密な意味では、神の存在だけでなく、その他の自
然法則やエネルギーや私たち人間存在や私たちが生きているこの世界の存在さへも、人類
にとっては未だ全て未知の存在である、と考えていました。
 例えば、自然法則やエネルギーの本質やこの間の関係や働き方の原理等について、科学
の基礎理論でも、未だ説明していないものです。
 そこで、神の存在証明をする為には、全てを最初からかつ零から説明する必要がある、
と決め込んでいました。
 それに、悟りの体験を可能にし、この世界を知ることができる「心」とか「精神」と名
付けて私たちが呼ぶ存在の実在証明をする必要もある、と考えていました。
 最初の神の存在証明のときには、この通りに私の頭の中は複雑な儘でした。
 そこで、先の神の存在証明では、何か不完全感が拭い切れませんでした。

○存在証明した神は悟りの体験で知った神そのもの
 一般法則論で言う神の存在証明は、「絶対的無意識の存在である神の意識化」という原
理に則って行われた俗に「悟りの体験」という方法で一義的/一意的に明確に確定的に知
ることができた神の存在を証明したものです。実際、これが、筆者の長年の課題だった訳
です。
 繰り返して言いますが、一般法則論における神の存在証明は、悟りの体験で知った神の
存在と、この神が自然法則+エネルギーを道具に使って造ったこの世界の成り立ちと仕組
みに関する知識+幼児の時から自覚的に知識を積み重ねて来た自然法則(+エネルギー)
の性質や働き方の原理等に関する知識に基づいて、その存在を証明したものです。
 言い換えると、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られてい
るこの世界の成り立ちと仕組みに関する悟りの知識に基づき、子供でも体験的に知ること
ができる自然法則(+エネルギー)の持つ性質等を直接の手掛かりにして、その存在を証
明したものです。
 この点で、一般法則論での神の存在証明は、循環論法/同義語反復/トートロジーを、
自覚的に意図的に採用しています。
 循環論法/同義語反復/トートロジーと言う意味は、これ以外の知識や権威等に一切頼
る必要がない、これ自体で自己完結し自立している理論だ、ということです。

○従来の宗教宗派でいう神仏の存在証明ではない
 一般法則論でその存在を証明した神は、既に存在している宗教宗派で言う神の存在を指
すものではありません。
 既に存在している宗教宗派で言う神の存在の多くは、その存在証明がなされておらず、
「分からないから信じる」のだし、そもそも存在証明を試みること自体が神に対して不敬であり不遜
な考え方だ、というものです。
 また、その神の存在は、一般法則論で説明する、神の存在について唯一直接知ることが
できる悟りの原理に則って得られるような知識に必ずしも基づいていないものです。
 その神についても、一義的/一意的に明確に確定的に説明されているものではありませ
ん。

 以上で、神の存在証明の再考は、終わります。