○いわゆる神の存在証明について再考
神とは何かを、ヒトが勝手に考えて、この神について、ヒトが勝手に存在証明をして、神は実在するとか実在しないとかを決めるのではありません。
では、どのように考えたら良いのでしょうか?
○神の存在証明をする話の順序
話の出発点は、私達がこの世界の中に生まれる前から、既にこの世界は、それ自体で独自に、在るようにして既にあった、ということです。
そして、この既に存在した世界を造った根源の原理、即ち、この世界の創造主である神の有無を問うことになります。
私たち人間存在と、私たちが住むこの世界を創った神、即ち創造主である神は、話の順序として、当然に、この世界よりも、私たち人間存在よりも、先に存在していたことになります。
このことを、最初にご確認ください。
ということは、私たち被造物の立場で考えると、万物と万人に等しく、客観的かつ唯一絶対的かつ普遍的に、創造主である神とは如何なる属性を持つ存在であり、如何なる意図と目的で、如何なる方法に依って、この世界の成り立ちと仕組みと私たち人間存在を創ったのかも、このことに関して私たちがあれこれ言う前に、それ自体で独立して、独自に、全て一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的にかつ絶対的に決まっている、ということになります。
つまり、私たち被造物の立場で考えると、創造主である神の存在は、発明するのではなくて、その存在を適切な手続きに従って(この意味は自然科学の方法に従ってになります)発見すべきものです。
創造主である神の存在だけでなく、私たちが生きているこの世界も、私たちの最初の祖先も、全て、今、ここにいる私たちに先立って、それ自体で在るようにして在ったことを発明ではなくて、発見すべき対象になります。
この結果、神の存在について、神自らに神とは何かについて語らせ、その存在証明を神自らにさせる方法でのみ、ヒトは神とは何かについて正しく知ることができることになります。
神について知るこれ以外の方法はありません。
同様に、この世界の成り立ちと仕組みについても、ヒトとは何かの解明についても、それ自身にみずから語らせる形でのみ、その何たるかを正しく正確に知ることができることになります。
実際、この方法は、自然科学が天然自然の存在の世界を、天然自然に自らを語らせることによって、解明する方法と同じだ、と分かります。
こうしてその存在を発見するのは、ヒトが作ったのではない、それ自体であるようにしてある、天然自然の存在の創造主である神です。
これが一般法則論で存在証明をした、天然自然の存在の創造主である神です。
天然自然の存在の創造主である神を研究対象にする学問は、自然科学です。
天然自然の創造主である神にたいして、ヒトがこの世界の中に誕生してから宗教信仰の中ででっち上げたのが、人工の神です。
人工の神を研究対象にするのは、宗教学、人類学、社会学等です。
この区別を明確にしなければなりません。
○間違った方法による神の存在証明にこだわる人たち
神自らに語らせて、神自らに自らの存在証明をさせる。
しかし、神とは何かを知り、神の存在証明をするのは、この方法ではない、ヒトの手ですべてするのだという最初から間違っている方法でするのが、唯一可能なその方法だと勝手に断定しこう頑なに思い込んでいるおられる方々がいます。
そして、自らが原理的に不可能な方法での神の存在証明の仕方を勝手に想定しておいて、「神の存在証明は誰にも未来永劫できない」とか「神の存在証明を試みるのは妄想的行為だ」と言ったりします。
この間違った考え方をする人たちが、天然自然をして自ら語らせる自然科学の方法を知っている方々の中にもいる、という奇妙な現象があります。
例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
神とは何かを、ヒトが勝手に考えて、この神について、ヒトが勝手に存在証明をして、神は実在するとか実在しないとかを決めるのではありません。
では、どのように考えたら良いのでしょうか?
○神の存在証明をする話の順序
話の出発点は、私達がこの世界の中に生まれる前から、既にこの世界は、それ自体で独自に、在るようにして既にあった、ということです。
そして、この既に存在した世界を造った根源の原理、即ち、この世界の創造主である神の有無を問うことになります。
私たち人間存在と、私たちが住むこの世界を創った神、即ち創造主である神は、話の順序として、当然に、この世界よりも、私たち人間存在よりも、先に存在していたことになります。
このことを、最初にご確認ください。
ということは、私たち被造物の立場で考えると、万物と万人に等しく、客観的かつ唯一絶対的かつ普遍的に、創造主である神とは如何なる属性を持つ存在であり、如何なる意図と目的で、如何なる方法に依って、この世界の成り立ちと仕組みと私たち人間存在を創ったのかも、このことに関して私たちがあれこれ言う前に、それ自体で独立して、独自に、全て一意的に/一義的にかつ客観的にかつ明確にかつ確定的にかつ絶対的に決まっている、ということになります。
つまり、私たち被造物の立場で考えると、創造主である神の存在は、発明するのではなくて、その存在を適切な手続きに従って(この意味は自然科学の方法に従ってになります)発見すべきものです。
創造主である神の存在だけでなく、私たちが生きているこの世界も、私たちの最初の祖先も、全て、今、ここにいる私たちに先立って、それ自体で在るようにして在ったことを発明ではなくて、発見すべき対象になります。
この結果、神の存在について、神自らに神とは何かについて語らせ、その存在証明を神自らにさせる方法でのみ、ヒトは神とは何かについて正しく知ることができることになります。
神について知るこれ以外の方法はありません。
同様に、この世界の成り立ちと仕組みについても、ヒトとは何かの解明についても、それ自身にみずから語らせる形でのみ、その何たるかを正しく正確に知ることができることになります。
実際、この方法は、自然科学が天然自然の存在の世界を、天然自然に自らを語らせることによって、解明する方法と同じだ、と分かります。
こうしてその存在を発見するのは、ヒトが作ったのではない、それ自体であるようにしてある、天然自然の存在の創造主である神です。
これが一般法則論で存在証明をした、天然自然の存在の創造主である神です。
天然自然の存在の創造主である神を研究対象にする学問は、自然科学です。
天然自然の創造主である神にたいして、ヒトがこの世界の中に誕生してから宗教信仰の中ででっち上げたのが、人工の神です。
人工の神を研究対象にするのは、宗教学、人類学、社会学等です。
この区別を明確にしなければなりません。
○間違った方法による神の存在証明にこだわる人たち
神自らに語らせて、神自らに自らの存在証明をさせる。
しかし、神とは何かを知り、神の存在証明をするのは、この方法ではない、ヒトの手ですべてするのだという最初から間違っている方法でするのが、唯一可能なその方法だと勝手に断定しこう頑なに思い込んでいるおられる方々がいます。
そして、自らが原理的に不可能な方法での神の存在証明の仕方を勝手に想定しておいて、「神の存在証明は誰にも未来永劫できない」とか「神の存在証明を試みるのは妄想的行為だ」と言ったりします。
この間違った考え方をする人たちが、天然自然をして自ら語らせる自然科学の方法を知っている方々の中にもいる、という奇妙な現象があります。
例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。