○一般法則論の世界観の図解
以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。
世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境 (世界Ⅲ(世界Ⅳ (世界Ⅴ (世界Ⅵ (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
妄想
Ω神= 〔A→ ∥Z→ (B→ (C→ (D→ (H→E→F→G→(M)))))∥〕 Ω=神の国
∥ ↑ 理法 自然 物的 俗・人・子・文歴 記憶
(心的なD) M(記憶) Ω人 人・生・孫・化史 ↓
唯一絶対 Z→→→Z
○自然治癒力を実感する体験をする
自然治癒力を実感することで、これが確かに存在し働いていることを実感する体験をしました。
この体験を通して再確認したことを、以下に述べます。
文は長文になりましたので3つに分けます。これはその第一文。
○喉に刺さった魚の骨が取れるまで
2009年6月3日の夕食に食べたカレイの縁側の部分にある骨が喉に刺さって仕舞いました。
魚の骨が喉に刺さることは前にも何度か体験があります。そのときには、御飯の塊を飲み込むと簡単に取れたものです。
しかし、6月3日の時にはこれが巧く行きませんでした。
この時から、声を出しても、首を回しても、顎を上に向けても骨が刺さっている喉が痛いし、水を飲んでもそれが刺さっている魚の骨に当たるのか、喉が痛い状態が続きました。
そして、6月10日の夕食の後、喉に刺さった儘の魚の骨が、首の付け根/鎖骨の当たりまで下がってきて、その後更に食道当たりで引っ掛かっている感じがしていました。
この時には既に声を出しても首を回しても顎を上に向けても喉の痛みは有りませんでした。
更に、今日6月11日の昼食のときに、やっと喉に刺さっていた骨が取れた、という感じになりました。
多少喉に残っている違和感は、残留思念なのでしょう。
○自然治癒力に自覚的に意図的に頼る試み
6月3日の夕食の時に魚の骨を喉に刺し、これを御飯の塊を何度か飲み込んでも取れない、と分かった時に考えたのは、翌日医者に行くか、一般法則論で説明している「Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組み」を基にして働いている「自然治癒力」を頼りにして、自然に任せて喉に刺さった骨が自然に取れるのを待つか、何方にするのか? ということです。
結論は、自然治癒力に頼る方を迷わず選択しました。
医者に喉に刺さった骨を取って貰うのは、力任せの強引な方法だ、という感覚もありました。
また、医者の治療も、結局、私の中で働いている自然治癒力を頼りにしているのですから、それならば医者に行かなくてもこの場合は済そうだ、ということになりました。
○喉に刺さった魚の骨を取るための祈り
喉に刺さった魚の骨を取るのに自然治癒力を頼りにする。
これは、具体的には、一般法則論で説明している「Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組み」を大前提にして祈ることです。
で、思いました/祈りました/イメージしました。
私の喉に刺さった魚の骨は、私の間違った行動の因果必然の結果だ。これを認める。
しかし、同時に、私の喉に刺さった魚の骨は、Ω神の化身かつ分身の存在の私の身心の生得的な構成物の一部/ひとつでは断じて無い!
だから、喉に刺さった骨は、当然に私の身心から観ると余計なもの、要らないものだ。
したがって、私の喉に刺さった魚の骨は必ず自然に取れて無くなる。
こう断言することができる。
こう声に出して言いながら(しかし、声を出すごとに喉が痛い!)、喉に刺さった魚の骨が自然に抜けて、食道の方に落ちて行くイメージを何度か繰り返し描きました。
そして、このイメージ通りに事を行うことが出来るのは、Ω神の天地創造の理法=潜在意識の法則/引き寄せの法則であり、これしか頼りにできる天然自然の法則は無いので、私を無にしてこれに任せ切ることにしました。
同時に、仮令声を出したり首を動かしたりする時や食べ物や水等を飲み込む時に喉に痛みや違和感があっても一切全く気にしないことにする、と自覚的に意図的に明確に確認して、安心することにしました。
こんな簡単な祈り方でも効果はあります。
この結果は、既にお話ししたように、喉に刺さった魚の骨は、一週間以上掛かって、思った通りに、自然に取れました。
○結果が出るまで----イエスはたった一度の祈りで充分だった
喉に刺さった骨を、自然治癒力に自覚的に意図的に頼って、取った。
しかし、祈って、その結果が出たのは、即座で無かった訳です、こう願ったのですが・・・。
イエスは、二度・三度と祈る必要が無く、常に一度の祈りで、即座に祈ったことの成果を得ていました。
イエスと同じでは無い・・・・・。
だからと言って、がっかりする必要はありません。
自分が祈るとき、イエスのように一度の祈りで即座に祈った効果を得られなくても、自分は正しい祈り方をしていると分かっているのならば、望む結果が得られるまで、何日でも何回でも祈りを続ければ良い訳です。こうだ、と割り切ることです。
こう考えて、後は、迷わず、嘆かず、焦らず、苛立たず、諦めず、自分を責めずと決めて、成功的な成果を得るまで忍耐強く祈り続けることにしました。
○祈りの結果は本来即座に出る
祈りの効果は、Ω神の観点では常に必ず即座に出ています。
祈りは、世界Ⅵに居るヒトの心では無くて、常に世界ⅠにいるΩ神の心になって祈るのです。
この時にのみ、ヒトが作り出した間違った現状をリセットできます。
そして、Ω神の存在している世界Ⅰは、零時間でゼロ次元の永遠の今のみの世界ですから、祈りの効果は常に必ず即座に出る訳です。
しかし、祈るヒトが、Ω神と同じ心に即座に成りきれないと、結果は即座には現れません。
私の体験は正にこの例でした。
○一回一回の祈り方
一度の祈りで、望んだ結果が出なかったとします。
この場合は、どうするのか?
これを弓矢で的を狙って射る場合を例に説明すると、次のようになるでしょう。
普通、誰でも、最初、一度で的を射る積もりで弓を引く筈です。
しかし、一度で的を射ることに失敗したら、的に矢が当たるまで弓を引き続けることになるでしょう。
この時、一回一回を、それが初めての機会であるかのように、弓矢で的を射る為の動作(弓矢で的を射る原理的仕組みに基づいた完全完璧なシステム)をそのたび毎にその全体を一切の省略や手抜きなどをしないで完全完璧に作り、その動作(システム)を完全完璧に行う必要があります。
祈り方でも話は全く同じです。
○まとめ 自然治癒力に自覚的に意図的に頼るその過程を実感する
喉に刺さった魚の骨が自然治癒力の力で取れる一週間余りの過程を、自覚的に体験できました。
この体験は、本当に自然治癒力なるものがあって、それが確かに働くのだ! という実感を私にもたらしてくれました。
普段、腰が痛いとか膝が痛いと思うことがあっても、「その内に(更に悪くなることなく!)自然に治るさ」とちょっと思って、それから暫くして気が付くといつの間にか治っていて、自然に治る過程を実感することがありません。
しかし、今回は、治る過程を意識化し実感することが出来ました。
この実感は、何かで次に祈るときに、単なる理屈=一般法則論的世界観と人間観に、血を通わせてくれます。
言い換えると、体験から学んだことを元にして、その分自信と信念を持って祈ることができる、ということです。
この結果は、イエスの治療技術に更に一歩近づける、ということです。
○魚の骨は私の喉に偶然に刺さり、またそれは偶然に取れたのか?
私の喉に刺さった魚の骨が取れたのは「偶然にすぎない」とお考えになる方もおられると思います。
この点については、次の文で説明します。
例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。
○追記 対カタール戦のこと
W杯、6月10日に行われた対カタール戦は、日本チームは、選手の行動がバラバラで、注意散漫なプレイが目立ち、全く酷い内容でしたね。
それでもよく引き分けで済みました。
祈るのみ。
以上
以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。
世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境 (世界Ⅲ(世界Ⅳ (世界Ⅴ (世界Ⅵ (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
妄想
Ω神= 〔A→ ∥Z→ (B→ (C→ (D→ (H→E→F→G→(M)))))∥〕 Ω=神の国
∥ ↑ 理法 自然 物的 俗・人・子・文歴 記憶
(心的なD) M(記憶) Ω人 人・生・孫・化史 ↓
唯一絶対 Z→→→Z
○自然治癒力を実感する体験をする
自然治癒力を実感することで、これが確かに存在し働いていることを実感する体験をしました。
この体験を通して再確認したことを、以下に述べます。
文は長文になりましたので3つに分けます。これはその第一文。
○喉に刺さった魚の骨が取れるまで
2009年6月3日の夕食に食べたカレイの縁側の部分にある骨が喉に刺さって仕舞いました。
魚の骨が喉に刺さることは前にも何度か体験があります。そのときには、御飯の塊を飲み込むと簡単に取れたものです。
しかし、6月3日の時にはこれが巧く行きませんでした。
この時から、声を出しても、首を回しても、顎を上に向けても骨が刺さっている喉が痛いし、水を飲んでもそれが刺さっている魚の骨に当たるのか、喉が痛い状態が続きました。
そして、6月10日の夕食の後、喉に刺さった儘の魚の骨が、首の付け根/鎖骨の当たりまで下がってきて、その後更に食道当たりで引っ掛かっている感じがしていました。
この時には既に声を出しても首を回しても顎を上に向けても喉の痛みは有りませんでした。
更に、今日6月11日の昼食のときに、やっと喉に刺さっていた骨が取れた、という感じになりました。
多少喉に残っている違和感は、残留思念なのでしょう。
○自然治癒力に自覚的に意図的に頼る試み
6月3日の夕食の時に魚の骨を喉に刺し、これを御飯の塊を何度か飲み込んでも取れない、と分かった時に考えたのは、翌日医者に行くか、一般法則論で説明している「Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組み」を基にして働いている「自然治癒力」を頼りにして、自然に任せて喉に刺さった骨が自然に取れるのを待つか、何方にするのか? ということです。
結論は、自然治癒力に頼る方を迷わず選択しました。
医者に喉に刺さった骨を取って貰うのは、力任せの強引な方法だ、という感覚もありました。
また、医者の治療も、結局、私の中で働いている自然治癒力を頼りにしているのですから、それならば医者に行かなくてもこの場合は済そうだ、ということになりました。
○喉に刺さった魚の骨を取るための祈り
喉に刺さった魚の骨を取るのに自然治癒力を頼りにする。
これは、具体的には、一般法則論で説明している「Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組み」を大前提にして祈ることです。
で、思いました/祈りました/イメージしました。
私の喉に刺さった魚の骨は、私の間違った行動の因果必然の結果だ。これを認める。
しかし、同時に、私の喉に刺さった魚の骨は、Ω神の化身かつ分身の存在の私の身心の生得的な構成物の一部/ひとつでは断じて無い!
だから、喉に刺さった骨は、当然に私の身心から観ると余計なもの、要らないものだ。
したがって、私の喉に刺さった魚の骨は必ず自然に取れて無くなる。
こう断言することができる。
こう声に出して言いながら(しかし、声を出すごとに喉が痛い!)、喉に刺さった魚の骨が自然に抜けて、食道の方に落ちて行くイメージを何度か繰り返し描きました。
そして、このイメージ通りに事を行うことが出来るのは、Ω神の天地創造の理法=潜在意識の法則/引き寄せの法則であり、これしか頼りにできる天然自然の法則は無いので、私を無にしてこれに任せ切ることにしました。
同時に、仮令声を出したり首を動かしたりする時や食べ物や水等を飲み込む時に喉に痛みや違和感があっても一切全く気にしないことにする、と自覚的に意図的に明確に確認して、安心することにしました。
こんな簡単な祈り方でも効果はあります。
この結果は、既にお話ししたように、喉に刺さった魚の骨は、一週間以上掛かって、思った通りに、自然に取れました。
○結果が出るまで----イエスはたった一度の祈りで充分だった
喉に刺さった骨を、自然治癒力に自覚的に意図的に頼って、取った。
しかし、祈って、その結果が出たのは、即座で無かった訳です、こう願ったのですが・・・。
イエスは、二度・三度と祈る必要が無く、常に一度の祈りで、即座に祈ったことの成果を得ていました。
イエスと同じでは無い・・・・・。
だからと言って、がっかりする必要はありません。
自分が祈るとき、イエスのように一度の祈りで即座に祈った効果を得られなくても、自分は正しい祈り方をしていると分かっているのならば、望む結果が得られるまで、何日でも何回でも祈りを続ければ良い訳です。こうだ、と割り切ることです。
こう考えて、後は、迷わず、嘆かず、焦らず、苛立たず、諦めず、自分を責めずと決めて、成功的な成果を得るまで忍耐強く祈り続けることにしました。
○祈りの結果は本来即座に出る
祈りの効果は、Ω神の観点では常に必ず即座に出ています。
祈りは、世界Ⅵに居るヒトの心では無くて、常に世界ⅠにいるΩ神の心になって祈るのです。
この時にのみ、ヒトが作り出した間違った現状をリセットできます。
そして、Ω神の存在している世界Ⅰは、零時間でゼロ次元の永遠の今のみの世界ですから、祈りの効果は常に必ず即座に出る訳です。
しかし、祈るヒトが、Ω神と同じ心に即座に成りきれないと、結果は即座には現れません。
私の体験は正にこの例でした。
○一回一回の祈り方
一度の祈りで、望んだ結果が出なかったとします。
この場合は、どうするのか?
これを弓矢で的を狙って射る場合を例に説明すると、次のようになるでしょう。
普通、誰でも、最初、一度で的を射る積もりで弓を引く筈です。
しかし、一度で的を射ることに失敗したら、的に矢が当たるまで弓を引き続けることになるでしょう。
この時、一回一回を、それが初めての機会であるかのように、弓矢で的を射る為の動作(弓矢で的を射る原理的仕組みに基づいた完全完璧なシステム)をそのたび毎にその全体を一切の省略や手抜きなどをしないで完全完璧に作り、その動作(システム)を完全完璧に行う必要があります。
祈り方でも話は全く同じです。
○まとめ 自然治癒力に自覚的に意図的に頼るその過程を実感する
喉に刺さった魚の骨が自然治癒力の力で取れる一週間余りの過程を、自覚的に体験できました。
この体験は、本当に自然治癒力なるものがあって、それが確かに働くのだ! という実感を私にもたらしてくれました。
普段、腰が痛いとか膝が痛いと思うことがあっても、「その内に(更に悪くなることなく!)自然に治るさ」とちょっと思って、それから暫くして気が付くといつの間にか治っていて、自然に治る過程を実感することがありません。
しかし、今回は、治る過程を意識化し実感することが出来ました。
この実感は、何かで次に祈るときに、単なる理屈=一般法則論的世界観と人間観に、血を通わせてくれます。
言い換えると、体験から学んだことを元にして、その分自信と信念を持って祈ることができる、ということです。
この結果は、イエスの治療技術に更に一歩近づける、ということです。
○魚の骨は私の喉に偶然に刺さり、またそれは偶然に取れたのか?
私の喉に刺さった魚の骨が取れたのは「偶然にすぎない」とお考えになる方もおられると思います。
この点については、次の文で説明します。
例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。
○追記 対カタール戦のこと
W杯、6月10日に行われた対カタール戦は、日本チームは、選手の行動がバラバラで、注意散漫なプレイが目立ち、全く酷い内容でしたね。
それでもよく引き分けで済みました。
祈るのみ。
以上