ニュートンは林檎の実が落ちるのを見て何を発見したのか、と言う文を読んで下さった
“あるはずのない海Version2”さんにコメントを頂きました。
長文になりましたので、これで一つの文にしました。
全体は、このブログで一度に扱える一万文字の限界を超えるので、上下に分けました。
ご質問の主旨は、一言で言えば、「言っている事が分からない」ということでしょう。
一般法則論の説明をしている私から言えば、一般法則論の内容を誰にでも分かるように
説明することが目標ですし、これがうまくできないのは、一重に私の説明の仕方の下手さ
や未熟さにあることになります。
念のために言いますが、こう申し上げるのが恰好良いからではありませんし、うまく説
明出来ないことを見越して(注記1)責任逃れの予防線を張っておくことにあるのでもあ
りません。
何かを人に説明するとか教えるという場合には、分かるように説明する/教えるという
ことが、時には敢えて一切説明せず教えない場合も含めて、説明する者・教える者が当然
に負うべき義務と責任だからです。
注記1 何かをする場合、他にやることとの関連でそれをする優先順位を決めることと勝
とも劣らない大事なことは、それをするとどういうことになるのかというその結果や到達
点とこれとの関連で、「十日の菊」と言いますが、それをする事に固有の締切時間(ある
幅があるのが普通)をさば読みすることです。
但し、予想できる結果は、例えばサッカーの試合に譬えると、勝つ、負ける、引き分け
る、試合不成立、再試合の何れかになると決まっているのが普通で、しかも、どの結果が
自分にとって一番望ましいのかも一義的に明らかであるのが普通です。
なお、このことに関して、例えばハイジャック犯人と交渉することになった人の為の、
犯人の行動を先読みして望ましい解決に向けて先手先手の対応をする技術を説明した次の
本があります。
近藤次郎 意思決定の方法 PDPCのすすめ NHKブックス394 1981年
実際の技法/ノウハウでは、以上のことを頭の中の確認だけで済ませるのでは無くて、
必ず紙に書き出すなどして確かめることが決定的に大事だ、ということも含めて、こうい
うことを自覚的な知識にしていることです。
私の体験では、結果を予測する、先読み、さば読みを最初にしていないと、その後目先
の対応に忙殺されて、方針も定まらず、自分を見失い、長く迷走することになります。
正直に言って、一般法則論の話は、もう万人の常識にして欲しい知識の積もりです。
また、一般法則論の内容は、必ずしも一般受けしない話ではない、と思います。
ただ、神とは何か、人とは何か、この世界の成り立ちと仕組みはどうなっているのか、
また、心とか悟りの体験とは何かなどについての説明する一般法則論の最初の話は、何が書
いてあるのか分からない草書(もうこれまでに沢山の方々が巧みな話をされています)で
はなくて、隠れている話の大前提も明確にして確認し、理屈でトコトン説明する形の、忘
れられかけている元の本当の文字の形を確かめる式の楷書で書く必要がある筈で、またこ
の分面白味が無い話になっても仕方が無いことだ、と思っています。
で、今の段階では、私ができる今の程度の説明の仕方で分かる方のみを念頭に、一般法
則論の説明をしています。
前置きが長くなりました。
本論に入りましょう。
○これまでの話の纏め
私たち人間存在を含めて、私たちが生きているこの世界は、神が自らの身体(エネルギ
ー)をこの世界を造るための唯一絶対の建築素材にして、自らの天地創造の原理(自然法
則)に則って、自らの身体(エネルギー)を自己展開するような形で造ったものです。
言い換えると、神が、エネルギーと自然法則とを言わば道具に使ってこの世界を造った
ものです。
自然法則とエネルギー(この変形の物質)は、自然科学でお馴染みのものです。
そこで、神にとっては天地創造の為の道具である自然法則とエネルギーの持つ性質を自
覚的な知識にして、創造主である神の存在証明をしました。
このような一般法則論的なやり方で、(絶対的無意識の存在の)神の存在証明をして、
悟り方の原理を説明し、意識中心の生き方をしている普通の人が悟りの体験をすることが
難しい理由も説明しました(2004・12・20現在)。
また、全ての人が神の化身/分身という存在だということも、(詳しい説明抜きで)提
示しました。
○お互い間違いなく神(の化身/分身)
もう既にお分かり頂けていると思いますが、一般法則論の理解では、私は間違いなく創
造主である神(の化身/分身)ですが、あなたも間違いなく私とは別のしかも一つ同じ創
造主である神(の化身/分身)です。
○神と人とは常に一体不可分
一般法則論的神の概念では、人は神の化身/分身そのもので、全ての人の心の奥底に絶
対的無意識の形で常住している神と人とは常に一体不可分の関係にあって、神と人との間
が分離されることが原理的に決してありません。
○神なんか糞食らえだ! と言える関係
神と人とは常に一体不可分の関係にあります。
しかも、人に化身化し分身化している神と人との間は、「空」の関係にあります。
つまり、神側からも人側からも、お互いに相手から超越し自由な関係にあるのです。
これを平たく言えば、「神なんか糞食らえだ!」と言える関係になります。
人は神の化身の存在に造られていながら、その神からは絶対的に自由で独立した存在で
す。
反対に、神の側からもこう言えます。具体的に言えば、例えば、人間のある国で政治の
失敗と旱魃とが重なって一千万人の餓死者が出ても、神には痛くも痒くも無いし、また、
仮令大旱魃があっても一人の死者も出さない上手い政治が出来る完全な原理もその実際の
完全な方法も少しも揺るぎなく知っていて、人間に何時でも求められれば、その情報を自
然法則+エネルギーの形で提供できる準備が常に出来ている、ということです。
○神の理法=自然法則+エネルギーの働きは無視できない
神に対しては糞食らえ! と言っても大丈夫ですが、神の理法(聖霊)即ち自然法則+
エネルギー一体の働きに対してこう悪態をつくのは、しばしば文字通りに命取りになりま
すから、ご注意を!
社会学者の「自然科学は西洋キリスト教に起源のある特殊な考え方で、人類的な普遍性
は無い」(構成説)という学説をまともに受け止めて、自分は非キリスト教徒で東洋人だ
から、ニュートンの万有引力の法則から自由だ、と言って、二階の窓から地面に飛び下り
るようなことを決してしてはいけません。
○人は一生物として完全・完璧な存在
人は神の化身の存在に造られていながら、その神からは絶対的に自由で独立した存在。
これは、何を意味するのか・・・。
一生物の形に造られている人は、神の化身としてそれなりに自己完結した完全・完璧な
存在で、仮令神の存在を知らなくても、神の化身/分身の自覚がなくても、一生物として
自助自立して生きることが出来る存在に、神によって造られている、ということです。
言い換えると、人は生まれながらにして、神の化身らしく自らの体の中に自助自立して
生きる力を持って生まれている、ということです。
生物の体としては、創造力を無限に発揮できる発達した大脳、完全な言語能力、直立歩
行できるようになって手を足として使わなくても済むようになり、自由に器用に使えて物
を作れるようになった手などが、地上に降りた神の化身/分身らしさを表します。
即ち、生きる為に他人を頼りにする必要が原理的に無いし、環境に頼って生きてい
る人間以外の生物のように食べ物の確保を巡って他人と競争し争う必要も原理的に無い、
と言うことです。
人の世界でも、神々の争いとか神々の戦争は、原理的には有り得ないのです。
生物進化の歴史は、人類をして、生きる力の源を自分の存在の外にある環境に頼る存在
から、大脳の発達に伴い体の中に取り込み、環境の如何に関係なく生きることができる存
在にしています。
○大脳発達の意味
唯物論者は、人は大脳の発達によって生物一般が持つ生きる本能を失い、一部の最高学
府を出たエリートを除いて自助自立して生きる力が無いから、心の優しい我々エリートが
指導者になって社会主義・共産主義社会を作って非エリートの人達でも生きられるように
世話をしてやるしか無い! と主張し、我々に感謝しろ! と非エリートの人達に強要し
ています。
また、国の存在理由は、国家が社会政策や福祉政策で、自助自立して生きる力を生物的
に持たない国民の生存権を基本的人権として保障することだ、と言ったりします。
これを実際にやった(パンとサーカスの)古代ローマは、結局、滅びました。
しかし、古代ローマの市民のように、自ら自助自立して生きる積もりなど更々なくて、
国家が社会政策や福祉政策で国民の生存権を基本的人権として保障するのは、憲法で保障
されるべき国民の権利として、21世紀には正にその通りに実現されるべき地球大の常識
だと言う地球市民の方々もいるようです。
自ら自助自立して生きる積もりの無い人達ばかりで、国家・社会の手で“おんぶにダッ
コ”して貰わなくては生きられない人達が普通に住む世界では、何が起こることになるの
か、想像してみても、空恐ろしいことです。
しかし、大脳の発達は、その時々のTPOに合わせて、より適切に効果的に生きること
を人に可能にすることにあり、これによって生物として生きる本能を無くした訳ではあり
ません。
ゴリラと、もしかしたらオランウータンを除いて、後背位の交尾姿勢しか取れない動物
一般とは異なり、その時々のTPOに合わせて俗に言う四十八手の体位を自由に選べるの
は、正に人の発達した大脳のお陰です。
社会主義・共産主義は、唯物論哲学に基礎を置くからだめであるだけでなく、生物進化
の歴史を無視した、正当性の無い考え方です。
○神(の化身/分身)にはなりたく無い事情を持つ人も・・・
もしかして、あなたは、自分が創造主である神(の化身/分身)とは間違っても思いた
くない方ですか・・・。
人それぞれに個人的な事情があって、中には、自分が創造主である神(の化身/分身)
という事実/真理は荷が重過ぎて担い切れない、とお考えになる方が、実際にいます。
しかし、それは、例えば、神と自分とを別の体と間違って思っていたり、神とは自分を
裁く存在のように間違ってお考えになっていることの結果であったりします(別の所で説
明するように、一般法則論でその存在を証明した神は絶対に人を裁きませんし、裁くこと
を一切しない絶対肯定の愛の神そのものです)。
○私の為だけに存在する神
神、いや一般的な神ではなくて、この私に化身化/分身化している“私一人のために存
在する神”は、私に代わって人生の様々の重荷を背負ってくれる、とてもとても有り難い
存在の神様(いわゆる「潜在意識の活用法」で言う潜在意識)です。
一般法則論で、科学的な知識によれば宇宙大で働いている自然法則とエネルギーの持つ
性質を元にその存在を証明した神は、万物と万人の為に存在する宇宙大で普遍的な存在の
神です。
しかし、同時にこの神は、仮令人に求められなくても、全ての人一人ひとりの心の奥底
に定住し常在して一日24時間一生涯どころか死後も守ってくれる、とても有り難い神で
す。自然治癒力はこの働きの一つの例。
この神は、私たちの皮膚の外側の世界に存在していて、遙か遠い聖地や教団の礼拝所に
出向かわなれば出合えないような神ではありません。
また、一般法則論的な意味の神の場合には、特定の宗教宗派の信者になって、神と自覚
的に意図的に「契約」を結び、その宗教宗派の宗教的なシンボル/印を絶えず身に付けて
いなければ、神様から諸々の福祉サービスを受けられないのでもありません。
この世に人間として生まれただけで、神が愛する神の化身/神の分身として生まれ、自
動的かつ必然的に愛され守られる存在になる、というのが、一般法則論の理解する神と人
との関係です。自然科学的にも証明済の通り、神の活動の原理である自然法則+エネルギ
ー一体の働きが正にこのことをやってくれます。
あなたには実感が仮令無くても、今この瞬間にも、あなたと神とは一体不可分で、神は
あなたを通して、完全・完璧な身心と、良き事、楽しい事、嬉しい事を体験したいと思っ
ています。
こんな手間要らずの有り難い神様を認めて受け入れることを拒否するのは勿体ない。
○この世界の成り立ちと仕組みから言えばあなたも神であるのが当然
一般法則論で理解するこの世界の成り立ちと仕組みは、神が自らの化身/分身となる存
在を造って、その一人一人になって様々に生きて、遊んで、楽しんで見たいと意図してこ
の世界を造り、この後、この世界の中で様々な一人一人の人になって現に生きている形に
なっています。
そこで、人が自らの本当の正体を知ることになれば、自分が神だと知るのが唯一正しい
筈です。これが自然である筈です。
○本物の悟りの体験をした人達は皆その瞬間「私は神だ!」と知った
実際、自分の正体を知る悟りの体験をした人達は皆、その瞬間自分は神だと思います。
禅仏教で言う「見性成仏」/「真面目躍如」も、同じ意味です。
○自分の皮膚の外の世界に神を見るのは本物の悟りの体験ではない
いわゆる悟りの体験の時に、自分の皮膚の外側に存在する神の姿を見たり(例えばキリ
ストに会うなど)、その声を聞いたりするのは、見る自分と見られる自分とが未だ分裂し
ている状態で、未だ本物の悟りの体験をしていないことになります。
○井戸の譬え
井戸の譬えで言えば、悟りの体験とは井戸の底に降り切る体験ですから、自分の皮膚の
外側に存在する神の姿を見たりするのは、まだ井戸を降りる途中の段階の体験です。
○悟りは自分の意思の力でそう思い込むのではない
悟りの体験の時には、自分の意思で、勝手に「私は悟りを開いた」とか「私は神だ」と
思うのではありません。
道元禅師が正しく言ったおられるように、その瞬間は常に必ず「仏の側から行われて仏
になる」のです。本物の悟りの体験とは、常に必ずこうです。
古代インドの哲学書で言う通り、その瞬間、「神が人=私の中で目覚める」のです。
この意味では、悟りの体験の時に、「神の存在を発見する」という言い方は正確ではあ
りません。これは、悟りとは何かの説明を省略して話をする場合の言い方。
○何が正しい悟りなのかは悟りの体験をすると分かる
悟りの体験をした人が、事前に正しい悟りの体験とは何かを知っている必要は一切全く
ありません。常に、正しい悟りの体験をして初めて正しい悟りの体験とは何かを知るので
す。事前には、何が正しい悟りの体験の仕方かを、知らないのが普通です。
○禅仏教での悟り方と「認可状」
禅仏教では、悟りの有無について念には念を入れて、先に悟りの体験をした人が、後か
ら悟りの体験をした人のその体験の中身を聞いて、それが本物の悟りの体験だったかを確
認し、本物だと分かると「認可状」を発行する習わしになっています。
○悟りの体験は個人の体験を超える客観性と普遍性がある
認可状が示す別の側面は、悟りの体験は一個人の心の中の体験でありながら、同時に悟
りの体験とは一個人を超えて万人の間に普遍的に客観的に存在する体験だ、ということで
す。
これは、全ての人の心の起源が、私たち全ての存在に先立って、それ自体で在るようにし
て在る唯一絶対普遍かつ絶対的無意識の存在の神にあることを考えると、当然の話し
ですが・・・。
○道元禅師の悟りの体験
道元禅師の場合には、留学先の宋の国で修行をして、ある日悟りの体験をした訳です。
直ちに師の前に現れた道元を見ただけでもう悟りの体験をしたと分かった師が、敢えて
「何をしに来た?」と訊ねると、「悟りの体験をしました。しかし、あなたに悟りの体験
したと認めてもらって、あなたの支配下に入るなど真平御免です。何故ならば、私は間違
いなく今さっき悟りの体験をして一人の人間として自助自立し自己完結した存在の仏にな
りましたから」という意味のやり取りをして、師に再度本物の悟りの体験をしたと太鼓判
を押されたとか。
道元は、この後、仏の国に入りそこで生活する為の観光案内書/ガイドブックである経
典の類を宋の国から日本に持ち帰る代わりに、自分が実際に仏の国に入りそこで生活した体
験を持ち帰った訳です。道元は日本が世界に誇り得る優れた宗教家です。
○本当は未だ何も知らないことについても既に知っている積もり
本当は未だ何も知らないことについても、人はそれぞれにもっともらしい観念やイメー
ジを既に持っているものです。
しかも、その観念やイメージの殆どは全く間違っていることの方が多いのも、経験的な
事実でしょう。
○ワンタンを知らなかった人の話
昔、私の叔母さんの体験談だと母から聞いた話ですが、職場の皆で近くの食堂に行った
おりに、その内の一人の方がワンタンを注文して、それが来ると、「これはワンタンでは
無い!」と言って、食堂の人と喧嘩をしたことがあったそうです。つまり、その人が思い
描いていたワンタンは、実際のワンタンとは全く異なる物だった訳です。
私自身にも高校生の時に似たような体験がありましたから(店の人と喧嘩はしませんで
したが)、しかし、この話は笑えませんでした。
それが何か全く何も知らないことについてさえ、勝手に間違ったイメージを作っている
私自身の例を、自己観察でよく知っています。
例えば「座薬」という言葉を聞いたときからもう10年近い間ずっと、私は、それを、
「座蒲団に正座して飲む薬」(それにしても変な薬だなぁ)と思い込んでいたものです。
小学生の時に、遊び時間の教室で、政党のことが話題になって、その当時の幾つかの政
党の名前が出て、どの党が好きかと言う話になりましたが、この話に加わっていた私は、
どの政党についても実際の知識は何も無くて、出鱈目にある政党が好きだ、と言ったら、
クラスで、もしかしたら学年で一番の天才のK君(父親は戦前から超一流の大企業の重役
と知っていました)に、飛んでも無いことを言う奴だという顔で睨まれたので、私は何か
間違ったことを言ったのだ、と思ったものです。
○何も知らない筈の神や悟りの体験を知っている積もり
神とか悟りの体験についても、未だ知識が無く、考えたことが無い人でも、それについ
てそれなりの観念やイメージが、しかも、しばしば見当外れのそれがあるものでしょう。
○普通の人達の反応の典型
神とは何かについて、また、悟りの体験について一般的な知識も無い人が、どこの馬の
骨とも分からない男が「私は悟りの体験をして、『私は神だ』と知った」などと言うのを
聞くと、「その男は悟りの体験をしたのだ」と思う代わりに、「なに馬鹿なことを言って
いるのだ! お前が神である筈など120%有り得ない!」と言うのが、ごく普通の反応
の仕方です。別にこれに悪気はなくてもです。
○イスラム神秘主義者の悲劇
続きの文は、別掲載文。