いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

本日未明の一連のコメントについて

2008-02-17 13:25:16 | 自分探し 無意識の意識化 自己観察
 今日二月十七日の未明に、最新の文に寄せられた一連のコメントについて

 これに対する私の書き込みを、ここにも載せます。
 以下は、コメント欄からの引用。

 「私を語って嘘の書き込みです (本当のこのブログの筆者) 2008-02-17 11:40:26

 「また筆者はハウツーものが好きで、よく読むのですが、考えてみれば、そこには、手っ取り早く要領をつかみたいという怠惰な心がありました。しばらく時間をもらい、考え直します。 ブログの筆者」

 驚きました!!!

 このブログの本当の筆者の名を騙って書き込みをする人がいるとは!

 「ハウツーものが好きで、よく読むのですが、考えてみれば、そこには、手っ取り早く要領をつかみたいという怠惰な心」で、私は、ハウツーものが好きなのではありません。
 何をするのでも、それをする正しいやり方があります。
 筆者を騙って書き込みをした人は、それをする正しいやり方を人に先駆けて発見し、それを公開してくださる方に対する感謝も尊敬の念も知らない方の意見です。
 日本には、「守・破・離」という、自分にとって何か新しいことを始める時の基本的なやり方を簡潔に纏めた格言があります。
 この最初の「守」は、文字通りに物真似から始まります。
 偽りの書き込みをここにされた方は、こういう知識も無いようです。
  このブログの本当の筆者である一般法則論者

 応答願います (一般人C)2008-02-17 12:39:54

「cosmo」さん、「いつかきっと」さん。
 あなた方のコメントを読む限り、その内容から、お二人は他者の名を語った筆者だと思えます。もし現存されており、このコメントを読まれているようでしたら、何らかの応答をお願いいただけないでしょうか?
変な疑いをかけて、失礼だとは重々承知です。

 何ゆえ疑うのですか? (いつかきっと) 2008-02-17 13:31:03

 インターネットの不思議さは、匿名が当たり前ということです。

http://8809.teacup.com/itsukakitto/bbs
最近私の掲示板が出来ました。
ご訪問ください。

是非、書き込みもお願いします。私も書いたのですから(笑)。ブログ主さんもいらしてください。閉塞ぎみに見えますよ。

応答します このブログの本当の筆者 (一般法則論者)2008-02-17 13:46:04

 一般人Cさん、いつかきっとさん
 このブログを書いている筆者から応答します。

 このブログの主ですから、ここでの内容を全面的に肯定しています。
 また、書き込んだことに責任を自ら負っています。
 また、その内容の内、例えば悟りの体験について、私にしか説明できないことがあります。
 この先の本文の書き込みで、本当の筆者しか知らない話をします。
 もし、本文の方でも筆者を騙る人がいれば、まずはパスワードを変えます。
 それでも効果が無いときには、また対策を考えます。

 なお、コメント欄への私本人の書き込みを、本文のほうにも一部載せましょう。

 お分かり頂けたでしょうか・・・。
  一般法則論者ことこのブログの筆者拝」

 私の名を騙った書き込みの筆者は、全て同一人物と推測します。

 このブログをその方が知ることになったのは、二月十五日、次の文を私が書き込みをした十幾つかのブログの中の一つにあるのだ、と推測します。

 「ドーキンスも、実在する天然自然の存在の創造主である神のことは知らない。
 実在する本物の神自身に自らの存在証明をさせる形の神の存在証明の方法(があること)についても知らない。
 そもそも、自然科学とは何かの定義も、ドーキンスは、知らない。
 http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
 いわゆる神の存在証明がもたらす意味について
 天然自然の存在の創造主である神の存在証明をして、神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについて説明し、人類史の
リセットと再構築を試みる。
  一般法則論者」

 書き込みをされた方は、一般法則論で言っていることは、本当だ! と既にお分かりになっているものと推測します。
 だからこそ・・・。

 一分、一秒でも速く、正しく理解された通りに、自ら進んで、他の誰でも自らのために行動にでられることを、期待し、願い、祈っています。

 イエスが、恐らく人類史上初めてそのハウツーとそのノウハウをまとめて説いた、「神を知り、神と共に生きる技術」である、潜在意識の法則の活用法や引き寄せの法則の活用法で知られている「人の生き方の原理」を、一般法則論者であるこの私ごとき一人につまずいて、自ら使えなくしてしまうのは、自他にとって大いに損失ですから・・・。

 例により、誤記・誤字・脱字頭があれば、気付き次第訂正します。


コメントにお答えします 上

2004-12-21 23:55:48 | 自分探し 無意識の意識化 自己観察
 ニュートンは林檎の実が落ちるのを見て何を発見したのか、と言う文を読んで下さった
“あるはずのない海Version2”さんにコメントを頂きました。
 長文になりましたので、これで一つの文にしました。
 全体は、このブログで一度に扱える一万文字の限界を超えるので、上下に分けました。

 ご質問の主旨は、一言で言えば、「言っている事が分からない」ということでしょう。
 一般法則論の説明をしている私から言えば、一般法則論の内容を誰にでも分かるように
説明することが目標ですし、これがうまくできないのは、一重に私の説明の仕方の下手さ
や未熟さにあることになります。

 念のために言いますが、こう申し上げるのが恰好良いからではありませんし、うまく説
明出来ないことを見越して(注記1)責任逃れの予防線を張っておくことにあるのでもあ
りません。
 何かを人に説明するとか教えるという場合には、分かるように説明する/教えるという
ことが、時には敢えて一切説明せず教えない場合も含めて、説明する者・教える者が当然
に負うべき義務と責任だからです。

注記1 何かをする場合、他にやることとの関連でそれをする優先順位を決めることと勝
とも劣らない大事なことは、それをするとどういうことになるのかというその結果や到達
点とこれとの関連で、「十日の菊」と言いますが、それをする事に固有の締切時間(ある
幅があるのが普通)をさば読みすることです。
 但し、予想できる結果は、例えばサッカーの試合に譬えると、勝つ、負ける、引き分け
る、試合不成立、再試合の何れかになると決まっているのが普通で、しかも、どの結果が
自分にとって一番望ましいのかも一義的に明らかであるのが普通です。
 なお、このことに関して、例えばハイジャック犯人と交渉することになった人の為の、
犯人の行動を先読みして望ましい解決に向けて先手先手の対応をする技術を説明した次の
本があります。
近藤次郎 意思決定の方法 PDPCのすすめ NHKブックス394 1981年

 実際の技法/ノウハウでは、以上のことを頭の中の確認だけで済ませるのでは無くて、
必ず紙に書き出すなどして確かめることが決定的に大事だ、ということも含めて、こうい
うことを自覚的な知識にしていることです。
 私の体験では、結果を予測する、先読み、さば読みを最初にしていないと、その後目先
の対応に忙殺されて、方針も定まらず、自分を見失い、長く迷走することになります。

 正直に言って、一般法則論の話は、もう万人の常識にして欲しい知識の積もりです。
 また、一般法則論の内容は、必ずしも一般受けしない話ではない、と思います。
 ただ、神とは何か、人とは何か、この世界の成り立ちと仕組みはどうなっているのか、
また、心とか悟りの体験とは何かなどについての説明する一般法則論の最初の話は、何が書
いてあるのか分からない草書(もうこれまでに沢山の方々が巧みな話をされています)で
はなくて、隠れている話の大前提も明確にして確認し、理屈でトコトン説明する形の、忘
れられかけている元の本当の文字の形を確かめる式の楷書で書く必要がある筈で、またこ
の分面白味が無い話になっても仕方が無いことだ、と思っています。
 で、今の段階では、私ができる今の程度の説明の仕方で分かる方のみを念頭に、一般法
則論の説明をしています。

 前置きが長くなりました。
 本論に入りましょう。

○これまでの話の纏め
 私たち人間存在を含めて、私たちが生きているこの世界は、神が自らの身体(エネルギ
ー)をこの世界を造るための唯一絶対の建築素材にして、自らの天地創造の原理(自然法
則)に則って、自らの身体(エネルギー)を自己展開するような形で造ったものです。
 言い換えると、神が、エネルギーと自然法則とを言わば道具に使ってこの世界を造った
ものです。
 自然法則とエネルギー(この変形の物質)は、自然科学でお馴染みのものです。
 そこで、神にとっては天地創造の為の道具である自然法則とエネルギーの持つ性質を自
覚的な知識にして、創造主である神の存在証明をしました。

 このような一般法則論的なやり方で、(絶対的無意識の存在の)神の存在証明をして、
悟り方の原理を説明し、意識中心の生き方をしている普通の人が悟りの体験をすることが
難しい理由も説明しました(2004・12・20現在)。
 また、全ての人が神の化身/分身という存在だということも、(詳しい説明抜きで)提
示しました。

○お互い間違いなく神(の化身/分身)
 もう既にお分かり頂けていると思いますが、一般法則論の理解では、私は間違いなく創
造主である神(の化身/分身)ですが、あなたも間違いなく私とは別のしかも一つ同じ創
造主である神(の化身/分身)です。

○神と人とは常に一体不可分
 一般法則論的神の概念では、人は神の化身/分身そのもので、全ての人の心の奥底に絶
対的無意識の形で常住している神と人とは常に一体不可分の関係にあって、神と人との間
が分離されることが原理的に決してありません。

○神なんか糞食らえだ! と言える関係
 神と人とは常に一体不可分の関係にあります。
 しかも、人に化身化し分身化している神と人との間は、「空」の関係にあります。
 つまり、神側からも人側からも、お互いに相手から超越し自由な関係にあるのです。
 これを平たく言えば、「神なんか糞食らえだ!」と言える関係になります。
 人は神の化身の存在に造られていながら、その神からは絶対的に自由で独立した存在で
す。
 反対に、神の側からもこう言えます。具体的に言えば、例えば、人間のある国で政治の
失敗と旱魃とが重なって一千万人の餓死者が出ても、神には痛くも痒くも無いし、また、
仮令大旱魃があっても一人の死者も出さない上手い政治が出来る完全な原理もその実際の
完全な方法も少しも揺るぎなく知っていて、人間に何時でも求められれば、その情報を自
然法則+エネルギーの形で提供できる準備が常に出来ている、ということです。

○神の理法=自然法則+エネルギーの働きは無視できない
 神に対しては糞食らえ! と言っても大丈夫ですが、神の理法(聖霊)即ち自然法則+
エネルギー一体の働きに対してこう悪態をつくのは、しばしば文字通りに命取りになりま
すから、ご注意を!
 社会学者の「自然科学は西洋キリスト教に起源のある特殊な考え方で、人類的な普遍性
は無い」(構成説)という学説をまともに受け止めて、自分は非キリスト教徒で東洋人だ
から、ニュートンの万有引力の法則から自由だ、と言って、二階の窓から地面に飛び下り
るようなことを決してしてはいけません。

○人は一生物として完全・完璧な存在
 人は神の化身の存在に造られていながら、その神からは絶対的に自由で独立した存在。
 これは、何を意味するのか・・・。
 一生物の形に造られている人は、神の化身としてそれなりに自己完結した完全・完璧な
存在で、仮令神の存在を知らなくても、神の化身/分身の自覚がなくても、一生物として
自助自立して生きることが出来る存在に、神によって造られている、ということです。
 言い換えると、人は生まれながらにして、神の化身らしく自らの体の中に自助自立して
生きる力を持って生まれている、ということです。
 生物の体としては、創造力を無限に発揮できる発達した大脳、完全な言語能力、直立歩
行できるようになって手を足として使わなくても済むようになり、自由に器用に使えて物
を作れるようになった手などが、地上に降りた神の化身/分身らしさを表します。
 即ち、生きる為に他人を頼りにする必要が原理的に無いし、環境に頼って生きてい
る人間以外の生物のように食べ物の確保を巡って他人と競争し争う必要も原理的に無い、
と言うことです。
 人の世界でも、神々の争いとか神々の戦争は、原理的には有り得ないのです。
 生物進化の歴史は、人類をして、生きる力の源を自分の存在の外にある環境に頼る存在
から、大脳の発達に伴い体の中に取り込み、環境の如何に関係なく生きることができる存
在にしています。

○大脳発達の意味
 唯物論者は、人は大脳の発達によって生物一般が持つ生きる本能を失い、一部の最高学
府を出たエリートを除いて自助自立して生きる力が無いから、心の優しい我々エリートが
指導者になって社会主義・共産主義社会を作って非エリートの人達でも生きられるように
世話をしてやるしか無い! と主張し、我々に感謝しろ! と非エリートの人達に強要し
ています。
 また、国の存在理由は、国家が社会政策や福祉政策で、自助自立して生きる力を生物的
に持たない国民の生存権を基本的人権として保障することだ、と言ったりします。
 これを実際にやった(パンとサーカスの)古代ローマは、結局、滅びました。
 しかし、古代ローマの市民のように、自ら自助自立して生きる積もりなど更々なくて、
国家が社会政策や福祉政策で国民の生存権を基本的人権として保障するのは、憲法で保障
されるべき国民の権利として、21世紀には正にその通りに実現されるべき地球大の常識
だと言う地球市民の方々もいるようです。
 自ら自助自立して生きる積もりの無い人達ばかりで、国家・社会の手で“おんぶにダッ
コ”して貰わなくては生きられない人達が普通に住む世界では、何が起こることになるの
か、想像してみても、空恐ろしいことです。
 しかし、大脳の発達は、その時々のTPOに合わせて、より適切に効果的に生きること
を人に可能にすることにあり、これによって生物として生きる本能を無くした訳ではあり
ません。
 ゴリラと、もしかしたらオランウータンを除いて、後背位の交尾姿勢しか取れない動物
一般とは異なり、その時々のTPOに合わせて俗に言う四十八手の体位を自由に選べるの
は、正に人の発達した大脳のお陰です。
 社会主義・共産主義は、唯物論哲学に基礎を置くからだめであるだけでなく、生物進化
の歴史を無視した、正当性の無い考え方です。

○神(の化身/分身)にはなりたく無い事情を持つ人も・・・
 もしかして、あなたは、自分が創造主である神(の化身/分身)とは間違っても思いた
くない方ですか・・・。
 人それぞれに個人的な事情があって、中には、自分が創造主である神(の化身/分身)
という事実/真理は荷が重過ぎて担い切れない、とお考えになる方が、実際にいます。
 しかし、それは、例えば、神と自分とを別の体と間違って思っていたり、神とは自分を
裁く存在のように間違ってお考えになっていることの結果であったりします(別の所で説
明するように、一般法則論でその存在を証明した神は絶対に人を裁きませんし、裁くこと
を一切しない絶対肯定の愛の神そのものです)。

○私の為だけに存在する神
 神、いや一般的な神ではなくて、この私に化身化/分身化している“私一人のために存
在する神”は、私に代わって人生の様々の重荷を背負ってくれる、とてもとても有り難い
存在の神様(いわゆる「潜在意識の活用法」で言う潜在意識)です。
 一般法則論で、科学的な知識によれば宇宙大で働いている自然法則とエネルギーの持つ
性質を元にその存在を証明した神は、万物と万人の為に存在する宇宙大で普遍的な存在の
神です。
 しかし、同時にこの神は、仮令人に求められなくても、全ての人一人ひとりの心の奥底
に定住し常在して一日24時間一生涯どころか死後も守ってくれる、とても有り難い神で
す。自然治癒力はこの働きの一つの例。
 この神は、私たちの皮膚の外側の世界に存在していて、遙か遠い聖地や教団の礼拝所に
出向かわなれば出合えないような神ではありません。
 また、一般法則論的な意味の神の場合には、特定の宗教宗派の信者になって、神と自覚
的に意図的に「契約」を結び、その宗教宗派の宗教的なシンボル/印を絶えず身に付けて
いなければ、神様から諸々の福祉サービスを受けられないのでもありません。
 この世に人間として生まれただけで、神が愛する神の化身/神の分身として生まれ、自
動的かつ必然的に愛され守られる存在になる、というのが、一般法則論の理解する神と人
との関係です。自然科学的にも証明済の通り、神の活動の原理である自然法則+エネルギ
ー一体の働きが正にこのことをやってくれます。
 あなたには実感が仮令無くても、今この瞬間にも、あなたと神とは一体不可分で、神は
あなたを通して、完全・完璧な身心と、良き事、楽しい事、嬉しい事を体験したいと思っ
ています。
 こんな手間要らずの有り難い神様を認めて受け入れることを拒否するのは勿体ない。

○この世界の成り立ちと仕組みから言えばあなたも神であるのが当然
 一般法則論で理解するこの世界の成り立ちと仕組みは、神が自らの化身/分身となる存
在を造って、その一人一人になって様々に生きて、遊んで、楽しんで見たいと意図してこ
の世界を造り、この後、この世界の中で様々な一人一人の人になって現に生きている形に
なっています。
 そこで、人が自らの本当の正体を知ることになれば、自分が神だと知るのが唯一正しい
筈です。これが自然である筈です。

○本物の悟りの体験をした人達は皆その瞬間「私は神だ!」と知った
 実際、自分の正体を知る悟りの体験をした人達は皆、その瞬間自分は神だと思います。
 禅仏教で言う「見性成仏」/「真面目躍如」も、同じ意味です。

○自分の皮膚の外の世界に神を見るのは本物の悟りの体験ではない
 いわゆる悟りの体験の時に、自分の皮膚の外側に存在する神の姿を見たり(例えばキリ
ストに会うなど)、その声を聞いたりするのは、見る自分と見られる自分とが未だ分裂し
ている状態で、未だ本物の悟りの体験をしていないことになります。

○井戸の譬え
 井戸の譬えで言えば、悟りの体験とは井戸の底に降り切る体験ですから、自分の皮膚の
外側に存在する神の姿を見たりするのは、まだ井戸を降りる途中の段階の体験です。

○悟りは自分の意思の力でそう思い込むのではない
 悟りの体験の時には、自分の意思で、勝手に「私は悟りを開いた」とか「私は神だ」と
思うのではありません。
 道元禅師が正しく言ったおられるように、その瞬間は常に必ず「仏の側から行われて仏
になる」のです。本物の悟りの体験とは、常に必ずこうです。
 古代インドの哲学書で言う通り、その瞬間、「神が人=私の中で目覚める」のです。
 この意味では、悟りの体験の時に、「神の存在を発見する」という言い方は正確ではあ
りません。これは、悟りとは何かの説明を省略して話をする場合の言い方。

○何が正しい悟りなのかは悟りの体験をすると分かる
 悟りの体験をした人が、事前に正しい悟りの体験とは何かを知っている必要は一切全く
ありません。常に、正しい悟りの体験をして初めて正しい悟りの体験とは何かを知るので
す。事前には、何が正しい悟りの体験の仕方かを、知らないのが普通です。

○禅仏教での悟り方と「認可状」
 禅仏教では、悟りの有無について念には念を入れて、先に悟りの体験をした人が、後か
ら悟りの体験をした人のその体験の中身を聞いて、それが本物の悟りの体験だったかを確
認し、本物だと分かると「認可状」を発行する習わしになっています。

○悟りの体験は個人の体験を超える客観性と普遍性がある
 認可状が示す別の側面は、悟りの体験は一個人の心の中の体験でありながら、同時に悟
りの体験とは一個人を超えて万人の間に普遍的に客観的に存在する体験だ、ということで
す。
 これは、全ての人の心の起源が、私たち全ての存在に先立って、それ自体で在るようにし
て在る唯一絶対普遍かつ絶対的無意識の存在の神にあることを考えると、当然の話し
ですが・・・。

○道元禅師の悟りの体験
 道元禅師の場合には、留学先の宋の国で修行をして、ある日悟りの体験をした訳です。
 直ちに師の前に現れた道元を見ただけでもう悟りの体験をしたと分かった師が、敢えて
「何をしに来た?」と訊ねると、「悟りの体験をしました。しかし、あなたに悟りの体験
したと認めてもらって、あなたの支配下に入るなど真平御免です。何故ならば、私は間違
いなく今さっき悟りの体験をして一人の人間として自助自立し自己完結した存在の仏にな
りましたから」という意味のやり取りをして、師に再度本物の悟りの体験をしたと太鼓判
を押されたとか。
 道元は、この後、仏の国に入りそこで生活する為の観光案内書/ガイドブックである経
典の類を宋の国から日本に持ち帰る代わりに、自分が実際に仏の国に入りそこで生活した体
験を持ち帰った訳です。道元は日本が世界に誇り得る優れた宗教家です。

○本当は未だ何も知らないことについても既に知っている積もり
 本当は未だ何も知らないことについても、人はそれぞれにもっともらしい観念やイメー
ジを既に持っているものです。
 しかも、その観念やイメージの殆どは全く間違っていることの方が多いのも、経験的な
事実でしょう。

○ワンタンを知らなかった人の話
 昔、私の叔母さんの体験談だと母から聞いた話ですが、職場の皆で近くの食堂に行った
おりに、その内の一人の方がワンタンを注文して、それが来ると、「これはワンタンでは
無い!」と言って、食堂の人と喧嘩をしたことがあったそうです。つまり、その人が思い
描いていたワンタンは、実際のワンタンとは全く異なる物だった訳です。
 私自身にも高校生の時に似たような体験がありましたから(店の人と喧嘩はしませんで
したが)、しかし、この話は笑えませんでした。
 それが何か全く何も知らないことについてさえ、勝手に間違ったイメージを作っている
私自身の例を、自己観察でよく知っています。
 例えば「座薬」という言葉を聞いたときからもう10年近い間ずっと、私は、それを、
「座蒲団に正座して飲む薬」(それにしても変な薬だなぁ)と思い込んでいたものです。

 小学生の時に、遊び時間の教室で、政党のことが話題になって、その当時の幾つかの政
党の名前が出て、どの党が好きかと言う話になりましたが、この話に加わっていた私は、
どの政党についても実際の知識は何も無くて、出鱈目にある政党が好きだ、と言ったら、
クラスで、もしかしたら学年で一番の天才のK君(父親は戦前から超一流の大企業の重役
と知っていました)に、飛んでも無いことを言う奴だという顔で睨まれたので、私は何か
間違ったことを言ったのだ、と思ったものです。

○何も知らない筈の神や悟りの体験を知っている積もり
 神とか悟りの体験についても、未だ知識が無く、考えたことが無い人でも、それについ
てそれなりの観念やイメージが、しかも、しばしば見当外れのそれがあるものでしょう。

○普通の人達の反応の典型
 神とは何かについて、また、悟りの体験について一般的な知識も無い人が、どこの馬の
骨とも分からない男が「私は悟りの体験をして、『私は神だ』と知った」などと言うのを
聞くと、「その男は悟りの体験をしたのだ」と思う代わりに、「なに馬鹿なことを言って
いるのだ! お前が神である筈など120%有り得ない!」と言うのが、ごく普通の反応
の仕方です。別にこれに悪気はなくてもです。

○イスラム神秘主義者の悲劇
 続きの文は、別掲載文。


自分で自分を知るための自己観察の方法 中

2004-12-01 18:14:25 | 自分探し 無意識の意識化 自己観察
 (上)の文は、自動的かつ必然的に働く記憶の仕組みが最後の文。
 ここから(中)の文。

○発見は必ず言葉で口に出して言うことの大切さと必要性
 リアルタイムの自己観察で、その場、その瞬間に気が付いたことは、同時に、それは自
分の何に気が付き、何を発見したのかを、(小声でも良いですから)必ず口に出して、言
葉で表現することを試みてください。

○言語化は内語のままでは不十分
 内語(内的言語)という頭の中だけで言語化してみるのでは、不十分です。
 必ず、自覚的に、意図的に、必ず口に出して、「あ」とか「う」では無くて、もし他の
人が聞いても分かるような表現の仕方で、例えば「今、必要な言葉が出ずに困っている」
というような完全な形で表現してみてください。
 内語を文章の形にしてみると、それとはまったく別のことを記録することになったり、
話しの筋が通って居た筈なのに論理の飛躍がある、と分かることがありますね。
 この違いは、文字の形で書き留めなくても、口に出してみるだけでも分かります。

○必ず口に出して言う
 必ず口に出して、言葉で表現してください。
 また、これをしている自分に、自覚的で、意図的になってください。
 これをしないと、リアルタイムの自己観察をする意味が殆どなくなってしまいます。

○口に出しての言語化がうまく出来るまでやる
 口に出しての言語化が最初はうまく出来なくても、その内によく出来るようになります
から、途中で諦めずに根気よく続けてください。
 また、これがうまく出来るようになること自体が、とても必要で大切なのです。
 この理由は、「無意識の意識化」が、「表現して見て、確認してみて、自分は、今、こ
こで、何を考え、何を感じ、何を言いたいのかが、自分自身にも初めてよく分かる」とい
う形で初めて具体化し、現実化するからです。
 これは、「表現して見て自分自身にも初めてよく分かった」分だけ自分が何者かが、自
分自身にもはっきりと分かった、ということを意味しています。
 この点が、言語化の持つ非常に大事な成果です。

○言語/ことばという道具を使いこなすための一般意味論的知識
 ここで、余談になりますが、自己観察の道具としての言語/言葉についての自覚的な知
識を持つ必要性を述べたいと思います。具体的には、次の本をお読み下さることを期待す
ることです。一般意味論に関する基本書と言えるものです。
 S・I・ハヤカワ著 思想と行動における言語 岩波書店

○全ての道具にはそれ独自の機能と限界がある
 例えば自転車では空を飛べないように、全ての道具やシステムには、それ独自の機能と
性質と性能があり、同時にそれ独自の使用制限や使用限界があるものです。
 あなたのパソコンは、お風呂に入っている時に、その浴室内でも使えすか?
 この世界の全てを造っている自然法則とエネルギーにさへこの事は当て嵌まります。

 そこで、何かの道具/システムを使う場合には、常にその道具/システムについてよく
知り、よく使いこなせるようにする必要がありますし、この為に、大研究をしたり、特に
教育を受けたり、自分で色々と工夫をしなければならないものです。
 あなたが、今お使いのパソコンについても、正にこうであった筈です。
 私は、いま、このブログの使い方を試行錯誤をしながら学んでいる所です。

○言葉の機能や仕組みに振り回されない
 このような話は、言語/ことばに関しても例外ではありません。
 言語/ことばの持つその役割/機能、性質、仕組み、働き方の原理、その有効性の限界
等によって、言語という道具を使う人が、振り回され騙され、妄想の世界へ自動的かつ必
然的に導かれることさへあることを予め知っていて使うことが必要不可欠です。
 このことを詳しく分析して、その成果を教えてくれるのが、「一般意味論」と言われる
学問で、上記の本が、その知識を纏めて得るには最適の本です。
 私は、この本を悟りの体験に先立つ1年位前から読んで、この本で得た知識が、悟りの
体験に直接結びつきました。

○言葉の機能に自覚的知識がある宗教と無い宗教
 禅仏教には、言葉という道具の持つ限界についての自覚的な知識があります。
 しかし、世界的に知られた宗教でも、聖典/教典を書いている言葉に関する一般意味論
的な自覚的な知識が根本的に欠如している例があって、それがその儘その宗教宗派の信仰
の形・在り方になっていたりします。

 なお、道具一般の役割についての説明は、(下)文の終わりに纏めました。

○自分が何者かをよく知っていて初めて自分らしく生きられる
 自分がよく知っている物や仕事は、自分でよく制御して扱うことができます。
 あなたが今お使いの、パソコンやインターネットやブログに関しては如何ですか?
 これは、自分自身を人生を生きる道具として、自分を動かし、自分自身を自分で生きる
場合にもその儘当て嵌まります。
 自分で自分を知らなくて、どうして自分らしく生きることなどできましょうか!

 そして、この第一歩が、ここで紹介しているような、自分を自分で正確に知るための実
際の方法を知って、それを実際に使ってみることです。

○同じことを繰り返して言いますが
 まずは、リアルタイムの自己観察。
 次に、自己観察で発見した自分の姿を、自分で自分の言葉で、他の人にもそれが何を言
っているのか分かるような表現の仕方で表現してみる。

 自分で自分を言葉でよく表現できて初めて、自分自身が何者か、自分自身にも正確にか
つ的確にリアルタイムで分かるようになるのです。

 この場合、頭の中の言葉=内語ではだめなのです。
 口に出して、或いは書き言葉で、頭の外に客観化して表現することが必要不可欠です。
 これがよく出来ない人は、自分をよく制御することも出来ません。

○人類の言語能力は人が神の化身/分身の存在として完成した証拠
 人類は、進化の過程を経て、自由自在に自己表現ができる言語能力を持って初めて、神
が天地創造に先立って意図した通りに、創造主である神自らの完全な化身/完全な分身に
相応しい存在になって、地球上の生物進化が完成したのです。
 言い換えると、人間は、自由自在に自己表現ができる言語能力を持って、「無意識の意
識化」が確実に出来るようになり、絶対的無意識の存在の創造主である神を意識化して発
見し、自分がこの世界の創造主である神の化身/分身という発見もできる存在になったの
です。
 実際に、人類の一人ひとりが創造主である神が意図した通りの神自らの完全な化身/完
全な分身に相応しい存在になるには、一人ひとりの人が、自ら無意識の意識化=悟りの体
験をして或いはこの体験をした人の話を聞いて、この真理を知る事が必要です。

○ネアンデルタール人の言語能力
 現世人類と一時は共存したネアンデルタール人は、その外見では私たちと殆ど同じなの
に、その頭蓋骨の化石から判断して、私たちが持っているような自由自在に言葉を操る能
力を持って居なかった、と分かったそうです。
 その言語能力は、その頭蓋骨化石から判断すると、チンパンジー程度の言語能力しか無
かったらしい(NHK特集番組「地球大進化」の話)。

○書き言葉化
 言語化をもっと完全に行うには、文字で書いてみることです。
 文字化すると、この過程で、的確な表現を探す中で更に精密に、無意識の意識化が促さ
れ、自分が何を考え、何を感じたのかがよく分かります。
 実際には、日記を書く、自分宛の手紙にして郵便ポストに投函する(自分の手元に記録
が残ります)、友人宛の手紙にするとかすることです。
 今の時代では、これは自己宛のインターネット・メールになるでしょうね。
 しかし、この方法は、自己観察のリアルタイム化から外れることがありますので、リア
ルタイムの自己観察の現場で口に出して表現したことをメモしたり記憶しておいて、後で
改めてそれを文字化する、書き言葉にすることをお勧めします。
 この他の自己観察の方法については、最後に纏めてあります。

○自己観察して発見した自分をそこで直ちに非難したりはしない
 自分が今やっていることが分かったときに、是非善悪や適否の判断を、そこで続いて即
座に断定的に行い、自分で自分を批判し、非難することは絶対にしないこと。
 単に、「そんなことやってらぁ。私にも意外な側面があったなぁ」と思う位で留めてお
くこと。これは、既にお話ししたとても大事な忠告。
 例えば、今、自分はとても自己防衛的な振る舞い方を向きになり意地になってしている
と分かっても、それはやがて例えば「自分に正しさの根拠を置く間違いをしている」と気
が付くなどして自然に克服されることになるけれども、今、この時には、自分の存在を保
ち、尊厳を守るために必要不可欠な振る舞い方であることもあるのです。
 ですから、今、自分はとても自己防衛的な振る舞い方を向きになり意地になってしてい
ると分かっても、これを理由に、これを根拠に、自分には相応しく無い振る舞い方だと言
って自分をせっかちに責めてはいけません。

 これは、自分が人を理解する場合にも当て嵌まります。
 後になって、その方があのときそんな振る舞い方した本当の理由、本当に私が同じ立場
でも止むを得ない事情があったと分かって、そのときに自分の勝手な想像や推測で余計な
ことや非難めいたことを言わないでおいたのは、本当に良かったと分かることがあるもの
です。
 また、相手に未だ理解されないのは、未だ話の途中で説明不足だからとかこちらの説明
の仕方が適切では無かったからだとか思って、或いは、その人の成長を待って、一言言い
たいのを我慢したり、それ以上の議論を止めることも必要なことがあります(これが、相
手からは、議論に自分が勝ったとか、こらちには何か後ろめたいことがあるのだと思い違
いをさせたりして、裏目に出ることもありますが・・・)。

○気が付くだけで自然に良くなることはその儘に
 例えば、何かの仕事をしている時の自分を自己観察して、その仕事をするのには直接関
係ない体の筋肉に力を入れていることに気が付くことがあります。
 こういう場合に、これに気が付くだけで自然に体の筋肉の緊張を解くことができます。
 或いは、自覚的に、意図的に、不必要に緊張させている筋肉の緊張を解いて、体をリラ
ックスさせ、柔らかくすることです。

○毎日の体重を知るだけうまく行った体重減らし
 NHKの番組「試してガッテン」で、「計るだけダイエット」という体重減量の方法を
紹介していたのを、ご存じの方。
 これは、毎日、朝夕、同じ条件で体重を計って、この記録を指定のグラフ用紙に書き込
み、このグラフを毎日見る、というだけのものです。
 私は、50グラムまで計れる体重計を新しく買って来て、計った体重を手帳に記録する
だけの方法でやりましたが、1年足らずの間に、目標にした体重に自然に減量することが
出来ました。しかも、体重を減らして体調を崩すということが一切無い形で。

○身体に関する基本的な情報はしかるべき測定器具を使って把握するのが良い
 普段の体重、普段の平熱、普段の血圧、普段の体調などについて、体重計、体温計、血
圧計などで計って知っておくことが、役立ちます。
 普段耳がどう聞こえているか、どう目が見えているかも知っていると、何かの異常が起
こったときに役立ちます。
 普段の普通の状態の体の感じを感覚的に掴んでおくのです。
 この平常感覚があると、今日は/今、何となく変だと感じが、よく分かります。

○正常性バイアスへの対応
 正常性バイアス、と言う、今この瞬間に、自分自身や自分の身の回りで異常なことが発
生していることに気が付いているのに、それを無視して、「今、何も変なことは起こって
無い!」と意識的或いは無意識的に自分に言い聞かせて、直ちにその異常事態に適切に対
応する、例えばすぐに医者に掛かるとか避難するとかの行動ができない、という人の不思
議な行動の仕方が知られています。

 しかし、普段の自分自身の行動や周りの状態に反応する自身の観察を通して、どういう
状態が普段通りか分かっていると、普段とは異なる些細な違いも明確に察知できるように
なり、これに対する適切な行動を直ちにし易くなります。

 私の体験例。「ガス漏れ事件」。
 いつもの通りに風呂に入って、湯船に身を沈めたときに、風呂場内で、何時もは無い、
微かに「ジー」という音がしているのに気が付いて、直ちにその音の源を探すと、それは
ガス風呂の鉄製の配管に穴が開いていて、都市ガスが吹き出し、そこに水が掛かって音が
出ているらしいと分かりました。で、直ちに風呂を出て、ガス会社に電話して、即座に来
て頂きました。配管の穴は、縫い針の先位の小さな穴だ、ということで、修理に見えたガ
ス会社の人に「よく分かりましたね」と感心されました。
 これは、知っている普段の状態とは異なることに直ちに気付いて即座に対応した例。
 なお、正常性に関しては、自然法則の働き方の原理の説明の所でも詳しく考えます。

○一瞬の感情や思いを見逃さない
 例えば人に向かって腹をたてるなんて自分らしくはない、と常日頃口癖のように言って
いるのに、ある時に誰かにとても腹をたてるようなことが起こってしまった場合に、その
怒りの感情は一瞬間意識に登ったあと、すぐにこれを打ち消すように抑圧して、怒ったこ
となど無かったことにしてしまう、というようなことを、人はしばしばします。
 しかし、人に向かって決して腹をたてることはしないと決めていても、時には本当に怒
り心頭に発することがあるものです。こういう自分もある、と素直に認めて受け入れるこ
とが、自分の新発見に繋がります。

 余談ですが、自分の我が儘が原因で怒るのも、正当な理由で怒るのも、また、私憤では
無くて世のため人のための怒り=公憤で怒るのであっても、怒った人に生じる生理的な変
化に区別はありません。
 このことを、しかし、知らない人達がいて、あるテレビ番組の中で、ある時間帯になる
と怒って見せる役の人が、脳梗塞で倒れたと聞いて、やはりと思ったものです。

 以上の説明で、自己観察の仕方のハウツーの話を一先ず終わります。

 次に、「意識の及ぶ範囲の自覚的な拡大化の練習」について、説明します。
 文は(下)です。



自分で自分を知るための自己観察の方法 上

2004-12-01 18:13:19 | 自分探し 無意識の意識化 自己観察
 以下の文は、上・中・下の3つに分けた上に当たる文です。

自分探しの冒険で命を落とさないために

○自分探しは自分を自分でよく知ることから
 自分探しは、自分自身を、自分でよく知ることの結果として達成できます。
 しかし、現実には、多くの方々が、ご自分のことをよくご存じではありません。
 そこで、まだ自分自身でもよく知らない自分を、自分でよく知る実際の方法について、
これから説明します。

○自分が何者かを他人任せにして知ろうとする人達
 世の中には、自分で自分のことを直接知ろうとはしないで、他人が自分についてどう言
っているのかによって自分とは何かを知ろうとする人達が少なからずいます。
 しかも、他人が自分について言っていることが自分の思い通りでは無いと、怒って、抗
議をし、人を馬鹿にした、名誉棄損だ、人権侵害だ、と騒ぐ人達さえいます。
 自分がどういう人間でどう行動するのかは、世間の人が自分のことをどう思っているの
かという事一つに懸かって決まる、という訳です。
 しかし、これは、「自分のことは自分で始末を付ける」という人間常識に反するもので
す。
 しかも、人間の創造主である神は、一般法則論的理解によれば、神自らの化身であり分
身である全ての人間に相応しいように、自助自立して生きる能力を生得的に与えているの
です。

○自分のことは自分自身で知ろう!
 本当は、まず自分自身で、自分を直接よく知ることです。
 自分が今やろうとしていること、自分が現に今やっていることを、自らが自覚すること
が、自分の行為を他人の所為にせずに、「自分のことは自分で始末を付ける」という人間
常識に則った、自分で自分の行動の仕方を正しくまた適切に制御した行動にします。

 しかし、人と話しをしていて、次のように思う事が、度々あります。
 「ご自分のことを、ご自身で未だまるっきりご存じでないなぁ」
 「自己観察が足らないなぁ」

 これが意味することは、ご自分がやっていることが、ご自分でも分からず、当然、他人
に自分がやったことを筋道を立てて説明することが出来ない、ということになります。
 これを他人が見れば、理解出来ないことは納得し受け入れることが出来ないという訳で
すから、まったくその行動もその動機も不可解で、強く不安を覚える不気味な行動、とい
うことになります。
 この元はと言えば、繰り返して言えば、当の御本人の自己観察がまるっきり足らず、こ
の結果は、ご自分の事を知らず、知らないからご自分の行動をご自分で制御することも知
らず、それが出来ないことになります。

 自分が今何をやっているのかを全く意識せずに無我夢中で行動するというのは、スポー
ツ選手の神業のような行動例に顕著に見られるように、場合によっては望ましい理想的な
行動の仕方です。
 しかし、終始、無我夢中だけで行動するというのは、人間行動の正しい在り方ではなく
て、人間以外の生物一般の、理性の働きを必要としない本能的な行動の仕方です。
 終始、無我夢中だけで行動する人は、社会にとってそれだけで大迷惑な存在です。
 事実、ご自分でご自分の行動を自覚的に制御できず、その動機も説明できない人の行為
は、しばしばそれが社会に衝撃を与えるような犯罪行為です。
 なお、上の話は、それをする正しい方法を探してする試行錯誤の行動を許さない、とい
う意味ではありません。試行錯誤とは何か、これを支えるこの世界の仕組みについては、
別の所で説明。

 人間は、男女の性行為の結果機械的に生まれてくるのが原則のようなので、こうして、
「初めて人間に生まれて、未だ(生まれ変わり死に変わりしてする)人間修行が足らず、
人間の生き方をご存じでは無いようだなぁ」という感想を抱くこともあります。
 しかし、これは見掛け上の話。本当の所は、人間として初めて生まれても、常に完全完
璧な人間存在として生きることを可能にする全ての能力を持っているのです。

○こんな方法では如何でしょう
 自分でも未だ無意識の状態にある自分自身について、自覚的な知識を持つ。
 まずは、自分の手で、自分自身について直接よく知ることです。
 そこで、私が悟りの体験をする前の準備体操にもなった、「自分を自分でよく知る」た
めの実際の方法を説明します。

○自己観察をする対象となる自分
 自己観察の対象にする自分は、5つあります。
 一 意識のある心で何かをその時にその場で思っている(自分の)ことの自覚化
 二、自分の無意識の心で思っていることを意識化すること

 ここでの話の自己完結性を確保するために、意識と無意識について再確認。

・人の心は、意識(目が覚めている状態の心/自意識/個体意識/自我等複数の言い方が
ある)と無意識(潜在意識/意識下/意識外/サブリミナル・マインドなど、複数の言い
方がある。時には「神」そのものと言われることもある)の心とで出来ています。
 なお、意識のある心は大脳の左脳側、無意識の心は右脳側ではないようです。
・普通、物を考えるのは、意識のある自分の心だ、と理解されています。
 しかし、意識のある心で自分自身とこの世界の事を観察したり考えたりしていることが
その全てでは無いことを、もう百年近く前に、G・フロイトが発見したことを、あなたも
ご存じでしょう。
・フロイトは、意識する心が全くその存在を知らない無意識の心があって、無意識の心で
も、この世界と自分自身を色々と独自に観察し、考え、判断していることを発見していま
す。この事実は、催眠術を使っても確認できますね。
 また、意識で知ったことは、結局その全てがやがて無意識の心の内容の一部になること
も、明らかになりました。
・無意識の存在をフロイトが発見した後、ユング心理学のユングが、個人がこの世に生ま
れてからその人が個人的に知ったことが無意識に情報化されて蓄積されている以外に、全
ての人に共通する生得的な無意識的情報、即ち、自分の家族の記憶、民族的な記憶、人類
的な共通意識、宇宙意識などがあることを発見したことも、あなたはご存じでしょう。
・無意識にある情報とは、よく考えてみると、結局、この世界と人間に関する全ての情報
です。
・一般法則論的に言えば、無意識にある情報は、創造主である神(の心とその存在及びそ
の働きに関する情報)+神の化身/分身の人が生きた情報+自然法則+エネルギーに関す
る情報です。尚、エネルギー=神の身心。自然法則=神の天地創造の原理。
・注意すべきことは、(神の化身/分身である筈の)人が生きた情報の中には、創造主で
ある神+自然法則+エネルギーには一切含まれてはいない妄想観念も多数含まれているこ
とです。例えば、この世を生きることは苦痛だとか死後の世界に天国があるなど。
 このことは、座禅の修行中に、「魔境」の名で知られている、様々な妄想観念で悩まさ
れることでも知られていますし、向精神性薬物を使った時の幻想体験も同じです。

 三、自分の皮膚の外側の世界に対する自分の反応の仕方(習慣的で無意識化されている
   部分もある)の意識化
 四、自分を観察している自分の発見
 これは、行動する自分を見ている自分の話。
 見る自分と見られている自分とは、しばしば分裂しています。
 五、これら四つの自分の姿は全て一人同じ自分だ! と気付く発見をすること
 この五つの自分を意識しながら自己観察をしてください。

○親・成人・子供の三つの側面
 何とか言う精神分析の方法を簡略化して普通の人向けにしたという交流分析学では、人
の心は、親・成人・子供の三つの心の働きからなっていて、この三つの心のどれかを主に
使って或いはこの三つの心を一つに統合して使って、自分と他者や生きている世界と相互
交流的に反応している、と分析します。
 私が自己観察を最初にしていた当時(1963年)は、これを知りませんでしたので、
この考え方を自己観察には使いませんでした。
 知った後の今でも、私はこれを組織的に体系的に使っているとは言えません。
 それでも、時々役に立ちます。

○自己観察の目───チェックリスト
 人を見る目があるとか無いとかいう話があります。
 これは、自己観察においても当て嵌まります。
 自分に人を見る目がなければ、自分を不当に過大評価したり過少評価してしまうことに
なるでしょう。
 自己観察で自分を発見することの結果として、自分を見る目も養われるし、一緒に他人
を見る目も養われることになります。
 で、自己観察の過程では、自分がどういう人間かについて、即断を下さないことが必要
で大事です。
 ここでは人を見る目があるとか無いとかいう観点では無くて、観察対象をまずは主観を
交えずに客観的に見る文化人類学者が野外調査でやっているように、自分の行動を一つの
システムとして、突き放して見ることをお勧めします。
 もちろん、自己観察という行為自体も、一つのシステムとして構造的に/システム的に
/体系的に/組織的に行われて初めて意味のある結果が得られます。
 ここの話しは、その自己観察システムの一つの実例になる物を作る話。

・システムとは何か、という未だ解けて無いと一般に言われている問題がありますので、
いきなり、「自分の行動を一つのシステムとして見る」と言われると困ってしまう方がお
られるかも知れません。

・ここで一般法則論的なシステム論を1から10まで説明すると長くなりますので、ここ
での話に限って、結論的なことだけを簡単に説明しておくと(元々簡単な話)────
 この世界に在る全ての存在物は、常に必ず、それをそれにする原理的仕組みを基にして
造られた/作られたシステムや構造物の形になります。神の天地創造の理法=自然法則が
こう決めている訳です。なお、自然法則は、同時に原因=結果の因果必然の法則でした。
 同様に、人(生物)の全ての行為/行動(見る、聞く、考える、理解する、記憶する、
判断する、選択する、決断する、また、掃除をする、更には芸術のような何かを創発的に
創造する行為さへ)も、常に必ず、「それをそれにする原理的仕組み」に基づいて造られ
た(例は、目や耳、大脳システム)/作られるシステムを道具にして行われます。これを
無視して或いは使わずに行動しても、例えば掃除はうまく出来ません。
 これは、言い換えると、原因=結果の因果必然の法則に則った行為です。
 当然に、ここでする自己観察においてもこのことが当て嵌まります。
 閑話休題。

 自分の行動をシステム的に見るというここでの話は、もっと簡単なことです。
 新聞記者が、社会現象や事件を観察し、記録して、文章にしようとするときには、常に
5W1Hの視点で、これをチェックリストにして、その全体を見落としが無いように観て
記録し文にする訓練を受けると聞きます。
 5W1Hとは、次のようなことでしたね。
・何時(When)
・何処で(Where)
・誰がまたは誰に(Who/Whom)
・何故/どういう思惑、動機、目的で/何を切っ掛けに/何に反応して(Why)
・何を(What)
・どのように/如何なる手段・方法で(How)

 文化人類学者は、5W1Hに、次のものを付け加えます。
・行為全体に付けられている固有の名前(例えば結婚式。豊作祈願の○○祭り)の確認
・行為の動機/行為の切っ掛け(表向きと裏の真の動機がある)
・行為の目的や意図(表向きと裏の真の目的や意図とがある)
 以上の2つは、Whyをジャーナリストでは無い文化人類学者的に言い変えたもの。
・(行為した)その結果は、結局どうなったのか(目的/意図/動機は満たされたのか)

 これに、一般法則論的な観点を2つ加えます。
・その行為がもたらした、良いまたは悪い、肯定的または否定的、誇りになり自信になっ
たまたは後ろめたくて自信をなくしたなどの影響
・この行為の結果が、そうと意図して或いはそうとは全く自覚せずに、次の行為の動機付
け(もう懲りた、同じ失敗はしたくないし、早く忘れてしまいたい/もっとやってみよう
とか)や原因設定になったかどうかを後で確認

 その行為に付けられている固有の名前の確認のことですが、自分の行動では、それは、
通勤/通学、愛する、怒る、嫉妬、意趣返し、眠る、遊び、楽しむなどや、交流分析が教
えてくれる親/成人/子供の目というレッテル/ラべル/見出し/分類名を付けることで
す。
 「ああ、今、私は、5W1H+文化人類学者の視点+一般法則論の視点+交流分析の視
点で観て、嫉妬しているのだ」という訳です。
 それが自分にとって、例えば後々の教訓となることだと思うことについては、私はよく
「私の○○事件」という特別の名前をつけます。

 これが自己観察をしているその瞬間に完全に出来なくても、後から思い出したときにや
ると思わぬ発見をします。

○自分を知るための方法の鍵言葉
 「自分を知る」ための方法に関する「鍵言葉」は、次のようなものです。
・ 無意識の意識化。そして悟りの世界へ。
・ 自分との対話で、自分自身を発見する(自己発見は自分で)
・ 自分で、自分自身の言動を、リアルタイムで、一日中、よく観察すること(リアルタ
  イムの自己観察)
・ 何を観察し意識化し発見し確認したのかを必ず口に出して言葉で表現する(口に出し
  ての言語化)
・ 自分大から宇宙大にまで自分の意識を自覚的に拡大しまた反対に縮小する練習(意識
  の及ぶ範囲の自由自在化と宇宙大化)

 以下にこれらのことを説明。

○無意識の意識化を通して悟りの世界へ
 自分を知る行為は、この世界を知るための大原理である、「無意識の意識化の原理」に
則って行われます(この世界の成り立ちそのものが、「絶対的無意識の意識化の原理」に
則っていることは別の所で説明)。
 また、無意識の意識化に当たっては、言語/言葉が持つ、気付かずにいるもの/無意識
のもの/未知のものを、名前を付け、言葉で表現することで、気付かたれたもの、意識化
されたもの、自覚化されたもの、既知のものにする機能/作用を、自覚的に、意図的に活
用します。

 言語の機能を自覚的に意図的に活用した、自分自身に関する無意識の意識化。
 これは、単にこれまで自分でも知らなかった自分を発見するこに止まらずに、私自身の
体験でもある、禅などでいういわゆる悟りの体験にさへ導いてくれます。
 このことについてこれ以上の詳しい話は別の所ですることにして、自分で自分を知るた
めの実際的な方法と技術・ノウハウについての説明をしましょう。

 実際のことは、あなたご自身で試してみて、そのコツを発見し体得してください。

○いつやるのか
 自己観察は、自分が居るところで、1日24時間、少なくとも数カ月、毎日、寝ていて
夢を見ている中でもすることです。
 自己観察は、習慣になるまで、少なくとも最初は、自覚的に、意図的に行うこと。
 できたら、自己観察は、一生涯続けることです。

○どこでやるのか───臨機応変に
 これを自分が存在し活動している様々の場面の現場で、臨機応変にすることです。
 ここで勧める自己観察の方法は、定型化された場面でのみ行うのではないことです。
 人は、振る舞う環境や条件が異なると、これに伴って、また別の振る舞い方をするもの
です。これは、新しい自分の発見の機会になります。これを逃さないように!

 ついでに言えば、知り合いになった者同士で理解を深める方法も、出来るだけ異なる様
々の場面で、お互いの振る舞い方を見せ合うことです。
 ここでも、その目的に合わせたシステムを自覚的に作って構造的に/システム的に振る
舞っています。

○リアルタイムの自己観察
 自己観察は、リアルタイム/即時でやるのが、大事な原則です。
 後になって思い出す式のやり方では、その瞬間にしか観察できない自分の行動を見落と
す恐れがあるからです。
 これは、一度に沢山の買物をすると、後になると何と何を買ったのか、その全部を思い
出せなくなる体験のある方ならすぐにお分かり頂けると思います。

 自分が、今、この瞬間、意識や無意識で考えたり、感じたり、行動(習慣化され自動化
された無意識的な行動もある)したり、自分の体を覆う皮膚の外側にある世界に反応した
りしている様子を、その場で、自分でその瞬間に即時に/リアルタイムに意識化し、自覚
化して、「今、この瞬間、自分は何をどうしているのか」をちょっと確認すること。
 そして、これをその場で即座に口に出して言語化し、自分の何に気が付いたのかを記憶
しておくと決めること。

 これを行うことが、自己発見、自分発見を確実に行うための中心の技術です。
 これ抜きでは、自分のありの儘の現状の姿が見えて来ません。
 成りたい自分、かくありたい自分は、この先に初めてハッキリと見えて来ます。
 成りたい自分、かくありたい自分を発見したいと思わなくても、自分のありの儘の現状
の姿が見えて来ると、それが自然に分かることが少なくありません。

 ところで、あなたは、今、何をされていますか?
 その自分はどんな感じ?
 何を思って(感じて)いますか?

○自動的かつ必然的に働く記憶の仕組み
 記憶しておきたいことは、その瞬間に、「これを記憶する」と決めるだけで充分です。
 こう決めると、後は、人に生得的に備わっている「記憶の仕組み」が自動的かつ必然的
に働いて、脳/身体が記憶してくれます。この生得的な記憶能力を信頼しましょう。

 以上で、(上)終わり。
 次は、「発見は必ず言葉で口に出して言うことの大切さと必要性で始まる」(中)


閑話 自分探しをするところはどこに

2004-10-30 01:20:07 | 自分探し 無意識の意識化 自己観察
○このブログの目的
 ここでは、神の存在証明とこれが意味することについて、書くつもりです。
 これに関連する、その時々に話題になっている事件や出来事について、余談の形で話し
をすることにします。
 余談の第一回目。

○自分探しの旅で、イラクに入った青年
 日本の自衛隊が駐留しているイラクのサマワに旅行すると言って、2004年10月2
1日ヨルダンからイラクに一人で入った邦人青年が、ザルカウィ派の武装テロリストに捕
まって、自衛隊を48時間以内に撤退させないと、殺される、と訴えているニュースが、
10月26日に報道されました。

 この青年は、外国を旅行すればそれが見つかると言って、自分探しの旅の途中だった、
と27日の新聞には報道されています。

○自分探しの目的
 自分探しの目的は、自分は何者かが分かれば/自分の存在理由・存在目的が何か分かれ
ば、それによって自分らしく生きる方法が分かって、幸せに生きることができる、という
ことなのでしょう。

○自分探しは自分の心の世界の中に探すもの
 自分探しは、本来、どこの場所でするのでしょうか?
 結論を言えば、自分探しは、自分の体を覆う皮膚の外側の世界の中にするのではなくて
、自分の体を覆う皮膚の内側の世界の、「自分の心の中(とこの心の働きの結果露になる
自分の思いや喜怒哀楽の感情表現や言葉や思考や行動等々)」に探すものです。

 なお、自分探しのために自分を知るには、具体的には何をどうしたら良いのかについて
は、別の文にまとめて解説します。

○自分の体を覆う皮膚の外側の世界には自分は最初からいない
 自分の体を覆う皮膚の外の世界は自分自身では無いし、その中に自分が居ない自分の体
を覆う皮膚の外の世界に自分探しをしても、そこに自分が見つかる筈が最初から原理的に
ありません。
 そこで、自分の心以外の所に自分探しをするのは、全くの間違い、全くの見当違いのこ
とになります。
 しかし、多くの人が勘違いをして、それもそれまで自分が行ったことが一度も無い外国
に自分の存在を探しに出掛けることをします。
 読者の中には、「精神世界の原点」という宣伝文句に乗って、インドやチベットに自分
探しの旅をした経験のある方もいるかも知れません。

○自分の存在の本質/実体/実相がある所=自分の心の中に自分探しをする
 人という存在の本質/実体/実相/自分が本当に自分であるところの本体は、私という
心を持つ精神的な存在であり、精神そのものの存在であるこの私/この自分にあります。
 そこで、自分を探す場所も、精神的な存在の自分の中にあることになります。
 そして、「私はこういう人間です」と分かるのは、自分の心の働きによってのみです。

○心とは何かの説明はあとでする
 心とは何か、この起源は何処にあるのか等を含めてこの立証が必要ですが、これは神の
存在証明とこれが意味することの中でします。
 ここではひとまずこの通りだと仮に理解しておいてください。

○本当の自分がそこに居そうでいない場所
 肉体や持ち物、過去の業績や社会的地位や世間的な評判・評価、また貰った勲章や持っ
ている権力の大きさ、或いはお金・財産の量等に、自分という存在の本体があるのではあ
りません。
 これらの所には、自分が居そうでいません。この一つの証拠は、大金持ちでも、自分が
何者か分からず、少しも心が休まらず幸せではない人達が沢山いる事実にあります。

○人は唯脳的存在
 養老孟司先生流に言えば、人にとっては現実の世界そのものが実在しているのではなく
て、脳が思うことが人の現実の世界そのものになる、という唯脳的存在です。

○この世に生きた証───物より思い出
 最近のテレビの広告の文句で、「物より思い出」というのがあります。
 この広告の文句は、唯脳的存在である人には、心に届く、納得できる話でしょう。
 死ぬときには、「自分がこの世に生きた思い出」こそが殆ど唯一の自分がこの世に生き
た確かな証拠だと確認して満足して死ねるものだ、とさえ言われることがある位です。

○この世に生きた証───子供に残した自分の遺伝子
 自分の子供の体の中にある遺伝子に、自分の存在を残したことが、自分がこの世に生き
た本当の証だ、という人もおられるでしょう。

○この世に生きた証───他人の記憶の中に残す
 他人の記憶の中に、自分が生きた証を求める人達もいます。
 もう30年位前の話しですが、町中で出会った見ず知らずの男に体を任せることで、自
分がその人の記憶の中で存在し続けることを願った女性の話を聞きました。
 最近聞いた話でも、同じ考えで行き擦りの男に体を任せていた女性が、よく考えると只
でやらせる必要は無い! と気が付いて、いわゆる風俗店に勤めることにした、というの
がありました。

○外国映画・「舞踏会の手帳」
 もう50年以上も前の外国映画で、「舞踏会の手帳」というのがあったのを御存知の方
もおられるでしょう。
 この映画の荒筋は、娘時代に舞踏会で出会った男性を、当時の手帳のメモを頼りに捜し
出して会う老婦人の話でした。
 その最後に、一番恋こがれて親しかった男性に会いに行くと、もう白髪の老人になって
いたその相手は、彼女のことを全く記憶して居なかった、という話。
 残酷なことですが、こんなものです。

○この世に生きた証───歴史の証人/目撃者になる
 もうしばらく前から、自分が「歴史の証人/目撃者になる」ことで、歴史に自分の名を
残そう、という人達、特に、中年の女性がおられるようです。
 命知らずの勇敢な方々・・・。

○死後も生き続ける人の本質は心そのものにある
 死後にも生き続ける人の人としての本質は、心そのものにあります(人は死んだらどの
ような存在になるのか?! は、このブロクで解説すべき一つのテーマ)。

○自分の本質を自分の心の中に探していくと神の発見に繋がる
 その人がその人である本質/実体は、その人の心という存在の中にある。
 このことは、昔から多くの人によって繰り返し指摘されています。
 そして、この発見の最初まで辿っていくと、それは神の存在を発見し、神が造ったこの
世界の成り立ちと仕組みを知り、神の化身の人間/神の分身の一人である自分を発見する
いわゆる悟りの体験に行き着きます。

○大事な話は文字の形で伝えられる
 悟りの体験の話、この受け売りの話、また、「自分探しは自分の心の中にするものだ」
と解説している物など人類の智慧の遺産は、主に文字の形で、言い換えると本の形になっ
て伝えられています。

○普段から本を読む習慣を
 自分で悟りの体験が出来ず、また、本を読まない人は、人類の智慧の遺産を知り、これ
を自分に受け継ぐ機会がなかなか無いことになります。

 その無謀な行動から大胆に推測すると、高校を中退したのち、NHKの放送学園を卒業
したというこの青年も、多分普段本などあまり読まないし、多分新聞も読まないし、テレ
ビのニュース番組、特に国際ニュースを普段見る習慣も無かったに違い有りません。

○経験から学ぶ方法を反省すべし
 「『体験/経験から学ぶ』とよく言われるけれども、経験は不完全な教師で、その経験
から何を学ぶべきかを、何も教えてはくれない」と言った人がいました。
 これは、体験的な真理です。
 体験/経験の中で何が見え、何を学ぶことができるのかは、結局そのことについて、既
にどれだけ自分の頭で考えたことがあり、既にどれだけ自分が知っているのかに懸かって
います。
 或いは、その体験から何を学ぶべきか、予め推測し仮説を立て、目標を決めて、構えて
いることが必要です。
 しかも、事前の構えが思い込み/偏見/マインド・セット/バイアスになって、それが
ノーベル賞級の発見に繋がるかも知れない予期せぬ出来事を見逃すことになったりもしま
す。ここが、難しい所。

 私の体験を言えば、そのときに一緒に居た探鳥のベテランの友人に教えられるまで、そ
れまで持っていた私の体験的知識の枠組みの中ではずっとキリギリス科の虫の声だと思い
込んでいた声の本当の主は、ヤブサメという(確か)ウグイス科の鳥でした。
 また、夜間、山の山腹にいて、麓から聞こえて来る犬の声だ、と何年も思っていたのは
、フクロウの一種アオバズクの鳴き声でした。
 独学では、この種の飛んでもない思い違いをして、それに全く気が付かないでいる、と
いことがあります。

○見れども見えず、聞けども聞かずになる
 無知で不勉強の人には、言い換えると教養の無い人には、どんな体験/経験をしても、
結局、「見れども見えず、聞けども聞かず、何も学ぶことがない。」を地で行くことにな
ります。
 このことは、私にとっては他人事ではなくて、常に私自身の問題です。

○青年は何も知らずにイラクに入った・・・
 以上の話のようなことを、その青年は、多分何も知らないでいたのでしょう。
 このことをしっかりと知っていたら、或いははっきりとした知識は無くても直観的に理
解していたら、或いは、自分をもう少し知っていたら、間違っても今とても危険なイラク
に、何人もの人が止めるのも聞かず、自ら好んで入り込もうとはしなかったでしょう。

○自分とか何かを知らない内に死んでしまうなんて、哀れで・・・
 人に生まれて、自分の創造主である神の存在を知る悟りの体験をするどころか、人間と
して学ぶべきことを学ばず、何も知らず、分からない内に、見当外れの所に求めた自分探
しの旅の途中で死んでしまうかも知れない(彼には全く理解出来ないだろうものによって
殺されてしまうかも知れない)というのは、何とも哀れ・・・。

 ご家族も、とてもご心配の事でしょう。
 今は、ただ、彼の為に、無事の帰国を祈るしかありません。

○神に彼の無事の帰国を祈る方法
 彼の為に、無事の帰国を、どう祈るのかって?!
 例えば、いわゆる「成功哲学」やJ・マーフィー理論で説く潜在意識の活用法を御存知
の方は、この祈り方をご存知の筈。
 今では競技をするスポーツ選手の常識的な訓練の一つになったイメージ・トレーニング
をご存知の方も、どのように祈るのか、ご存知の筈です。

 潜在意識の活用法もイメージ・トレーニングも、現代版の神に祈る技術/神頼みの技術
です。
 知る人ぞ、よく知る。

○殺されてしまいました───ご冥福を祈るのみ
 この文章をブログに載せた翌日、イラクに入って武装グループに拉致されていた青年は
、結局、殺されて発見されました。
 ご冥福を祈るのみです。

 亡くなられた青年の死後の世界は、どうなっているのか?
 この点については、別の文で私見を述べます。