いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

「動きが生命をつくる」 副題「生命と意識への構成論的アプローチ」という本の書評を読んで

2007-09-26 02:49:53 | 一般法則論

 今月の23日日曜日の読売新聞の読書欄に、次の本が紹介されていました。
 池上高志著 「動きが生命をつくる」 青土社
 副題は、「生命と意識への構成論的アプローチ」とか。
 評者は、NHKの「プロフェッショナル」という番組の司会者でもある茂木健一郎氏。

 一般法則的に言えば、この世界の成り立ちと仕組みを自然法則+エネルギー一体不可分の働きで解明する自然科学であるのならば、自然科学の立場は、構成説ではなくて、「素朴実在論」が正しいことになる筈です。

 実際、例えば、万有引力の法則の働きに関して私たちが体験的に知っているように、天然自然の世界とこれを支配している万有引力の法則は、これ自体で、私たちがどう考え、どう思うかには一切関係なく、私たち全ての存在に先立って、それ自体で独自に実在し、それ自体で独自に働いており、この結果、何かの現象・結果を自動的かつ必然的にもたらしている、と考えるのが正当だ、と言って良いでしょう。

 あなたは、日常生活の中で、万有引力の実在を一切認めず、そんなものは西洋のキリスト教文化で育てられた文化的な偏見の一つだから、仏教徒の自分は、万有引力の法則など最初から一切認めないし、また、自分は仏教徒だからこそ、キリスト教的な自然科学の考え方から自由に発想できるし、その支配下にも無い!!! と断定して、実際に何の支障も無く日常生活の中で、無事安全に行動することができますか?!

 自分はキリスト教徒ではないのはもちろん、仏教徒でも、その他の如何なる宗教信仰もしていない無神論者だ、と言われる方々の中にはーーー、
 「自分のことは如何なる権威や権力の干渉も排除して、自分で決めることができる自己決定権という絶対的な権利を、平和憲法の人権規定で保障されている」と(間違って)教えられ、(間違って)信じている(その根拠は何だ? と問われても自ら答えることが出来ずに妄信している殆ど宗教信仰と同じ)人たちが、少なからずいます。

 なお、自分のことは自分で決めるというとき、この決定の中身は、多少とも他人との関係を含んでいます。そこで、この世界の中で自由に主体的に思考できるのは自分独りだけの世界に住んでいるとか、絶対的な独裁者でだれも逆らえることが出来ない立場にいる人にしか、「絶対的な自己決定権」などを主張することはできません。
 ある人が、「自己決定権」を主張するのならば、その人によって「決定されてしまう」人たちにも等しく「自己決定権」があると認めないのは不公平です。
 自分の自己決定権の絶対性を主張する人がいるのならば、この人を生かすも殺すも同じく自由に決定できる全ての他の人がいることになります。
 実際、「自分の性に関して自己決定権を持つ」と不良のおじさん(最近は、「ちょい悪親父」というそうですが)に吹き込まれて、携帯電話で繋がる出会い系サイトで実害に遇っている子供達がいるようです。

 このようにならないための「自己決定権」を理論構成できるのか?
 出来ます。
 それは、ここで「一般法則論」の名で説明している、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られているこの世界の成り立ちと仕組みに則って、この秩序に常に調和して考え行動する方法です。
 心が赴くところにしたがって、しかも法を超えず、の世界があります。

 万有引力の法則の実在に疑念のある方は、今、直ちに実験して確かめてください。
 例えば、仮令落しても危険の無いモノを手に持って、その持つ手を放してみて下さい。

 分かっているつもりの方々も、実際にこの実験を試してみてください。
 「事実は小説よりも奇なり」といわれるように、これによって思わぬ発見があったりするものです。

 万有引力の実在を否定するあなたのために、この法則は働かず、持つ手を放しても、そのモノは空中にそのまま浮いているいるかどうかを、確かめてください。
 もし、そのモノが落ちてしまったら、なぜか、その理由、その原因をお考え下さい。

 一部の人たちは、というよりも、地球大で言っても、人類の大部分の人たちが、自然法則+エネルギー一体不可分の働きの存在についての実感を持っていません。
 で、しばしば、自然法則+エネルギー一体不可分の働きなど、この世に存在していないが如くに振舞います。
 そして、例えば、自分の会社で作った器具や器械・機械で人身事故が起こっても、最初は、「それは偶然の事故でわが社の製品には関係が無い」とか「本当かどうかを確認するまでは何もしないで放っておくのが良い」式の発想をして、更に人身事故を拡大させます。

 因果必然の絶対法則である、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全て支配され造られているこの世界の中で、偶然など一切ありません。
 自分は科学者或は科学的な思考をする人、と自ら言う人たちが、とても安易に「偶然の可能性」をいうことに、常に驚きを禁じ得ません。

 筆者のように、自然法則+エネルギー一体不可分の働きの存在を有り難い!!! などというのは、「詩的な表現」以上の意味など何もない、という、自然法則+エネルギー一体不可分の働きに実感を持って無い人らしい、愚かなことを言う方々も少なくはありません。

 こういう素地の上に、(社会)構成論的な考え方も生まれたし、その間違った考え方を支持し勢い付けさせているのでしょう。

 そこで、この本の著者の立場は、「構成論的アプローチ」に則っている、と知っただけで、この本の中身は間違っている、と断定できます。

 なお、筆者の理解する「構成論的アプローチ」は、次のような考え方を指します。
 即ち、この世界の成り立ちと仕組みは、天然自然の世界のことも含めて、人が思った通りに決めることが出来るし、現にこうするのが正しいし、その中で、人類全体には仮令通用しなくても、特定の文化の中では有力な意見や民主主義の原理に則った多数意見が正しい、という考え方をするもの。

 この本の著者及び評者の複雑系の理解の仕方も、推して知るべし、だと分かります。

 しかし、茂木氏によると、「著者は、日本における『複雑系』の研究の第一人者。」だそうです。

 この本の著者は、複雑系を考察するときに、複雑系を支配している自然法則とエネルギーの持つ、存在目的、性質、機能、働き方の原理、両者の関係等を解明し理解する哲学的=科学基礎論的な考察を、省いたないしは無視した、に違いありません。
 或は、この本の著者が参照した、国内外の複雑系を含めたこれまでの科学の諸論文全てが、自然法則とエネルギーに関する、このような哲学的=科学基礎論的な考察を一切して来なかった、ということでしょう。

 念のために確認しておきます。
 自然法則とエネルギーに関して、哲学的=科学基礎論的な考察を、これまで世界中の科学者が自覚的に意図的にしていなかったのは、自然法則とエネルギーには、その存在目的、性質、機能、働き方の原理、両者の関係など、最初から一切存在しないためだ、ということではありません。
 現実に、自然法則とエネルギーには、一般法則論で解明している通り、その存在目的、性質、機能、働き方の原理、両者の関係等にしっかりと基づいて働いています。

 こうだ、と思いませんか?!
 でも、これまでの科学知識のままで良いのでしょうか?!
 一般法則論のような考え方の方こそ、自然科学的な根拠を全く欠く、世の中を惑わす、危険な間違った考え方ですか?!

 しかし、真理は全ての人にとって、唯一絶対的に、普遍に、不変的にかつ客観的に決まっているもの、ということを認めず、知らず、自分達学者仲間で決めるのが正しい!
というのが、しばしば学問の世界のお約束。
 で、素人、門外漢は口を一切だすな! ということになります。

 しかし、全ての人たちが、科学者その他の専門家が接し生きている世界に、同じく全面的に接して生きています。
 この世界を、一部の人たちただけが独占して生きることは出来ません。
 平たく言えばーーー
 ある人が、株式投資で大儲けしたのならば、その人を真似して、他の人たちも同じく株式投資で大儲けできる、ということです。
 この世の常識を働かせましょう。

 この辺は、常に複雑怪奇な人間社会の現実と向き合い、そこに正義の秩序を確立するために実用的であることを必須の課題にしている法律家や法学を学んだ者とは、趣が異なります。

 法律家には、人間の社会生活を作り支配している法則・原理・原則の存在の解明から説き起こして、体系的に、網羅的に、首尾一貫して物事を哲学的に考えることを良しとする、古代ローマ法以来の伝統があります。
 このような考え方は、人類の知的遺産の一つ、といえます。

 法学部で学ぶと、否応無しに、このような発想法に接し、これを身に付けます。
 しかし、自然科学者を含めて、非法学部出身の方々は、世界を支配している法則・原理・原則の理解から説き起こして、この世界を、体系的に、網羅的に、首尾一貫して考える、という方法を、トンとご存知ではないようです。
 で、しばしば、「正しさの根拠」を自分において、人との議論に負けて自分の面目が失われないようにするために、目先の辻褄合わせの、思い付きが勝った話をするようです。

 「動きが生命をつくる」 副題は、「生命と意識への構成論的アプローチ」。
 この本は中身を読まなくても、その副題から、この世界の成り立ちと仕組みの理解の仕方が、根本的に間違っている、と一般法則論的には断定できます。

 例により、誤記等は気が付き次第、訂正します。