いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

希望学という新学問

2009-05-10 03:14:40 | 一口解説/一口メモ
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境     (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ      (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
空の世界     妄想の世界
Ω神= 〔A→  ∥Z→    (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→ (M )))))∥〕 Ω=神の国
  ∥  創造神  ↑      Ω神の 天然自然  物的   俗・人・子・文歴  記憶
 霊的      M     理法  の世界   Ω人   人・生・孫・化史  ↓
 心的     ^(記憶)                           Z→→→→→Z
存在のΩ人 

 コメント欄から転載。

○希望学という学問
最近、「希望学」という学問を確立しようとしている人たちがいる、と知りました。
 ヒトにとって、「希望」とか「夢」が果たす役割に気付いて、このことに関する普遍的な理論を確立したい、ということのようです。
 しかし、希望学の先生方は、未だ、ヒトの生き方の原理があることや潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法の存在をご存知ではないようです。
 或いは、非学問的でいい加減なものに見える、潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法とは異なるものを発見するのか発明しようとしているのかも知れません。

 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

http://project.iss.u-tokyo.ac.jp/hope/


Ω神はオメガシンということなど、問い合わせのあった方々への回答

2009-05-08 03:57:11 | 余談
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境     (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ      (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
空の世界     妄想の世界
Ω神= 〔A→  ∥Z→    (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→ (M )))))∥〕 Ω=神の国
  ∥  創造神  ↑      Ω神の 天然自然  物的   俗・人・子・文歴  記憶
 霊的      M     理法  の世界   Ω人   人・生・孫・化史  ↓
 心的     ^(記憶)                           Z→→→→→Z
存在のΩ人 


最近ここにコメントをしてくださった方々にまとめてお答えします。

☆つくりもの さんのコメント
○一般法則論の理解とマスター法について
 ①一般法則を自分が理解し、哲学など諸学問をそのレベルにまで到達させたいです。そうすれば完全な社会に近づきますよね?
 ②一般法則を身につけるにはどうしたらよいのでしょうか?教えてほしいです。
 
 ①この通りです。
 ②これを簡単に説明する方法を模索中です。
 当面は、世界Ⅰに存在するΩ神(オメガ神=天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー三位一体不可分の存在の創造主である神)から始まるこの世界の成り立ちと仕組みの図解を、2008年12月03日の説明を参考にして描いてください。
 そして、なぜこうなっているのかを、なぜこれでよいのかを、ご検討ください。
 次に、潜在意識の活用法の本や引き寄せの法則の本に説明されている方法を実際に試してみてください。この活用法のノウハウについて、一般法則論はまだ説明が済んでいませんが・・・。
 メモ
1 志/使命/目標/目的/夢等とこれを何が何でも達成したい、実現したいという意欲と熱い思いが最初にある
2 志/目標等を実現することができる手段・方法とこれに関する理論とこれを具体化するシステム造りに関する知識・ノウハウと技術とこの発見/開発/導入/採用等に関する検討
 志/目標/夢等を実現した暁には、それがΩ神(おめがしん)が実現を意図している地上の神の国の秩序に調和しその一部になっていることを、事を成す前と後で確認することも必要です。
3 理論の具体化による志/目標の実現にむけての実践行動=システム造りとこの運用
  準備→基礎的なことを身につける基礎的練習→(システムとこの運用法の改良・改善/システムの再設計→)習熟→身につく→自立
  守・破・離→無限大の修行

☆自覚めを求めるものより さんの書き込み
○Ω神(おめが神)とヒトとの関係
 「こう表現してはどうでしょう? 『人は神から分離している限り自由な主体者としては存在できず、神の魂の外へ出て妄想の世界に住む以外のことはできません。』
 神からの分離を止めるには、他者を正しく見る(他者を神の表れとして認識する)必要があると、私は理解しています。
 俗人の魂を見て、俗人の言動には反応せず、
 もし気に入らないことや、頭にくることがあれば、その気持ちを個人として処理するのではなく、精霊(Holy Sprit)に渡してしまうのが良い方法ではないでしょうか。』

 このご意見/ご提案に対する答えは、「あなたが理解されている通りです。」でひとまず良いでしょう。
 但し、一般法則論では、精霊は、自他共に絶対的肯定の構えを持つ絶対愛の存在のΩ神(オメガ神)が活動する法則=Ω神(おめがしん)の理法=Ω神(オメガ神)の天地創造の目的を実現するために本来存在している自然法則+エネルギー一体不可分の働きと理解しています。
 つまり、自然法則+エネルギー一体不可分の働きを、台所で使う包丁を作り、これをその通りに台所包丁の形で使うのは正しいことになりますが、その包丁をヒトを傷つけるために使うのは、間違いであることになります。
 推測するに、あなたが精霊と言われているものは、一般法則論では、創造主である神+自然法則+エネルギー三位一体不可分の存在の働き方をするΩ神(オメガ神)のことに当たるようです。
 そこで、一般法則論では、世界Ⅲの精霊=自然法則+エネルギー一体不可分の働きに任せるのではなくて、Ω神(オメガ神)が存在する世界Ⅰに戻って、ここから再発想/再評価/再意味づけし、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の存在の働きに全てを任せて過去全体をリセットする式の考え方、やり方をします。
 即ち、第一に、善人だけでなく、悪人も含めて、生きている者だけでなく意識のある心を失っただけの死者も、今これからこの世界に生まれようとしている子供たちをも全て含めて、全てのヒトが本質的に不変的にΩ神(オメガ神)の化身かつ分身の存在、と正しく認識し理解し観ずることを常にすることです。
 第二に、現実に私たちが存在し生きている世界ⅥーⅦ+妄想的な、自然観/人間観/世界観/人類史観/文化文明史観が行われている世界=俗世界を超越して、一般法則論の世界観の図解でいえば、世界Ⅰに絶対的無意識の存在のΩ神(おめがしん)とともにいる、意識のある心を持つΩ神(おめがしん)の化身かつ分身の存在の私を確認することです。
 第三に、世界Ⅰで絶対的無意識の存在のΩ(おめが)神が意識のある心を持つΩ(おめが)神の化身かつ分身の存在になっているヒトの立場で全てを見て行動することを確認し、実際にこのように行動に出ることです(注記3)。
 この意味では、即ち一般法則論の立場では、今、ここに実在しているヒトは常に全てΩ神(おめがしん)の化身かつ分身のヒト(宇宙大で言えば宇宙人一般)そのものであり、これ以外の如何なる存在でも無い! と断言することになります。
 言い換えると、一般法則論の世界観を図解した図で言えば、世界Ⅰにおいては、世界ⅤーⅥーⅦーZにおいて当たり前のように行われているΩ人(オメガ人)と俗人の区別、敵と味方の区別、善人と悪人の区別、年齢や性別の区別、人種や民族の区別、地域や文化・文明の区別、健康なヒトと病気のヒトとの区別もありません。
 この世とあの世の全て人たちは、常にΩ神の化身かつ分身の存在そのものです。
 こうであることを、誰も拒めないし、これを否定し、自分はΩ(おめが)神の化身かつ分身の存在でありたくないと言い張っても、Ω(おめが)神の化身かつ分身の存在を止めることはできません。
 もちろん、Ω(おめが)神の化身かつ分身の存在ではないかのように振舞うことは簡単にできます。
 しかし、Ω(おめが)神は、全てのヒトをΩ(おめが)神自らの化身かつ分身の存在に造り、Ω(おめが)神の化身かつ分身の存在として振舞うときにのみ普通に生きることができるようにヒトという存在を含めてこの世界の成り立ちと仕組みを造っているのです。

 こう申し上げてもなお、科学と何か、科学を科学たらしめているものは何か、科学をするヒトの心とは何か等の説明も一義的に明確に確定的にできない科学を絶対化して、一般法則論は創造主である神を持ち出すから非科学的なオカルト説だと言い張る人たちがいます。
 また一般法則論が説明している、Ω(おめが)神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みを説明することができないこれまで宗教信仰を絶対化して、一般法則論を排除しようとします。
 話がくどくなりましたが、お分かり頂けたでしょうか・・・。

☆和久希世 さんからの問い合わせ
○Ω神はおめがしんで、オームしんではありません
 「お説、私がなんとなく感じていたものを言い表して下さっているような感じがしているのですが、ちょっと気になった言葉が有るのです。
 一般法則論は・・・/一家に二人のヒーラーを!の中に書いておられる神の名についてなのですが、(無学なもので、文字どおりお尋ねしたいのですが)Ω神という名前の事です。
 Ω神というのはオーム真理教でも使っていたと記憶するのですが、どういう意味があるのでしょうか?」

 一般法則論でいう「Ω神」は、「オメガ シン」と発音します。
 なぜ、ヒトが作ったのではない、全てのヒト(宇宙大でいえば宇宙人一般)に絶対的に先立ってあるがままに存在している天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー三位一体不可分の存在の創造主である神を、他の名前では無くて「Ω神(おめがしん)」と名付けのか、その理由をここに説明します。

 昔、「私はアルファでありオメガである」、英語式に言うと、「私はAからZである」、と言った神様がいたそうです。
 つまり、「私は天地万物全ての創造主である神である」とその神様は言ったのです。
 一般法則論でも正に天地万物の創造主である神としてのアルファでありΩ(オメガ)の神の意味です。
 そこで、オーム真理教と間違えられるΩ(オメガ/電気回路に登場する抵抗器の抵抗力の大きさを表す単位ではオームと読みます)神ではくて、ΑΩ(アルファオメガ)神と表記すれば良かったのかも知れません。
 しかし、一般法則論では、ΑΩ神には敢えてしなかったのです。
 一つ目の理由は、テイヤールド シャルダンの「現象としての人間」 人間の宇宙における地位 という本を読んで、人類史の究極の到達点を「おめが点/Ω点」と名付けているのを頂いたものだからです(注記1)。
 なお、Ω点は、一般法則論では地上のヒトの世界を神の国として実現することです。

 今一つの理由は、この世界の成り立ちと仕組みの成立の順序を、Ω神(おめがしん)から始まって、A→B→C・・・G→Mとし、この究極はZであり、これはしばしば神格化され絶対化される妄想の世界を表す記号に決めたので、実在する真実の神である天然自然の創造主である神は、英文字ではなくて、ギリシャ文字で大文字のΩ神(おめがしん)と表記することにしたのです。

 以上二つの理由で、世界Ⅰー世界Ⅶから成るこの世界の成り立ちと仕組みを造った天然自然の存在の創造主である神+自然法則+エネルギー三位一体不可分の存在の創造主である神を、Ω(おめが)神、ということに決めたのです。
 スイスの時計で、オメガ/Ωというのがありましたね。

○注記1 Ωに関する個人的なこだわり
 これには、私の若い頃の記憶にまつわる個人的な思い入れがあります。
 もう三十年以上も前の話ですが・・・。
 ある女子大の大学祭で「カトリック研究会」の学生たちと出会って、その当時はまだ一般法則論とは言っていませんでしたが、一般法則論の世界観と人間観について話をしたのです。
 そうしたら、テイヤール ド シャルダンの考えに似ている、と言われて、週一回、昼休みに、大学内の教室で、グロータス神父のご指導の下で、その本を読んでいるので参加しませんかというお誘いを受けて、これに学生たちが卒業するまでの間一年位でしたか、その読書会に参加させて頂いたのです。

 茶目っ気のあるグロータス神父には、
 「良心にも値段があります。あなたの良心の値段は幾らですか?」(注記2)
と質問されたり、
 神父「あなた、隣人を愛さなけばいけません。」
 男 「神父さま、奴は隣りに住んでいるんではなくて、二階に住んでるんでさ。」
という小話を紹介してくださったりなど、その謦咳に接する貴重な機会をいただきました。
 注記1の終わり

○注記2 良心の値段
 良心に値段が付くのは、世界Ⅵー世界ⅦーZの世界=俗世界においてのみです。
 世界Ⅰ存在のΩ(おめが)神にも、Ω(おめが)神と一体不可分の関係にあるこの化身かつ分身の存在のヒトの心/魂に値段が付くことは絶対にありません。
 但し、肉体が世界Ⅵー世界ⅦーZに存在するヒトには、肉欲の誘惑がきますし、自他の良心に勝手に値段を付けて売り買いしようとするようなヒトは相当のワルですから、「私の良心を買い取ることができる値段などありません!」などと言い張ると何をされるか分かりません。
 そこで、「清濁併せ呑む」とか「長いものには巻かれろ」とか騙された振りとか死んだふりをする知恵が昔から説かれているとおりです。
 あるいは、イエス・キリストが教えてくれたように、こういう試みに遭わないように、自分は常に世界ⅠにΩ神(おめがしん)とともにある、と普段から自らを祈り上げておくことがお薦めです。

 その読書会には、時々シスターが参加されました。
 その中に絵に描いたような美人のシスターがおられて、しかも、聖職者らしいとても心が澄んでいる雰囲気に溢れていて、傍に一緒にいるだけでこちらまで心が洗われる感じになったものでした。
 このことは、禅の修行をしている若い僧に接するときにも感じるものです。
 伝統芸能を真面目に真摯に修行中の人の中にも、とても心が澄んだ雰囲気を漂わせているヒトがいますね。
 注記2の終わり

○注記3 病気のヒトを見る目
 いま、何かの病気だと診断されたヒトが、目の前にいるとします。
 世界Ⅵの中=俗世界では、その人は正に病人です。
 これは、紛れも無い現実だ、ということになります。
 しかし、一般法則論の世界観では、その人は、本来病気など知らないΩ神(おめがしん)の化身かつ分身の存在です。
 その人は、今間違って、病気だと言われる状態にあるわけです。
 この証拠に、その人には、即座に、自動的かつ必然的に自然治癒力が働き出しているのです。
 つまり、目の前のヒトの病気がどんなに絶望的に見えても、それは、一切無視してしまうことが肝心です。
 そして、そのヒト本来の絶対的な健康さを約束されて生まれている状態が全てのヒトにとっての正常な状態であることを確認し、正にそのとおりになる、というのが、Ω神(おめがしん)が造っているこの世界の成り立ちと仕組みを理解した者のあるべき態度です。
 間違っても、偽りの状態の病気を見つめるようなことはしないことです。
 靴下に開いた穴を気にしていじくるとその穴が拡大するように、病気を見つめて、「大変なことになってしまった!」と嘆いたり恐れたり動揺したりするのは、偽りの状態の病気を間違って真実化することになります。
 間違ったものが何か分かったら、速やかにそれから目を離して、ヒト本来の正しい在り方を決めているΩ神(おめがしん)の視点で、それを正しく見直すことです。
 注記3の終わり


 例によって、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気が付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。