○このブログを初めて読んでくださる方は次の文を先に読んで下さい
「哲学の道具箱」という本で哲学的思考の大前提を再確認する 2009-07-02 05:01 掲載
この文は、紙に印字して良く読んでくださることを、お願いいたします。
○一般法則論の世界観の図解
以下のものを参考に、入れ子構造の図解を、まずしてください。
入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。
この文は、紙に印字してよく読んでくださることをお願いします。
世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境 (世界Ⅲ(世界Ⅳ (世界Ⅴ (世界Ⅵ (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
妄想
Ω神= 〔A→ ∥Z→ (B→ (C→ (D→ (H→E→F→G→(M)))))∥〕 Ω=神の国
∥ ↑ 理法 自然 物的 俗・人・子・文歴 記憶
(心的なD) M(記憶) Ω人 人・生・孫・化史 ↓
唯一絶対 Z→→→Z
○筆者の意図を述べたこのブログの最初の文、2004年10月下旬に始まる文を読んで下さい。
一般法則論は、私たちが生きているこの世界の成り立ちと仕組みをΩ神=創造主である神(とその天地創造の目的)、自然法則、エネルギーの3語で客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に説明し尽くすことを意図する文/論文です。
このために、必要最小限の術語/一般法則論の考え方を説明する「専門用語」を「例えば~」という形の実例で定義をしながら使っています。
何かについて、理論的に首尾一貫した説明するときには、日常言葉だけでは不便で、自動的かつ必然的にこのために客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に定義された専門用語/専門の術語が作られます。
なお、一般法則論を説明するための術語を、あなたの好みの自分語に置き換えて作ることも出来ます。
その物を指す「正しい名前」/「正しい言葉」/「正しい言語」は、原理的に無いからです。
一般法則論は、日本語でしか説明が出来ないものではありません。英語や中国語という言語は無いので、例えば北京官語にも翻訳できます。
これは、一般意味論を学んだヒトの常識です。
そこで、国語で言う「イヌ」を英語では「dog」と言えるわけです。
但し、一般法則論を説明するために筆者が考えて造った専門語を、あなたの「自分言葉」に取り替えることは、実用的にはしない方が良いでしょう。
ヒトを表す名前は私の姓名以外にはあってはならず、他人に、この私を表す姓名以外の、私が知らない独自の固有の個人的/主観的な姓名をそのヒトの為に勝手に付けられては、私には理解出来ないからそれを認めず許さない、など式のことを言い張ってはいけません。
自分は他の誰でも無い独自の存在であり、自分独自の世界を築くために、何を表現するのでも自分独自の言葉を発明する式のつもりで、
例えば、「電気回路は、抵抗器、コンデンサ、コイル、以上の三つを組み合わせて作ることが出来る機能素子で全て出来ている」(電気回路、抵抗器、コンデンサ、コイル、機能素子は、それぞれ専門用語)という文を、全部自分独自の用語に置き換えてしまうと、後で他人と電気回路に関して情報交換が出来なくなります。
このようなことを、自覚的な知識にしておられない方々がいますので、念のために説明しました。
2009年12月31日追加
○この世界の成り立ちと仕組みは世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)で出来ていることを体感化する工夫
この世界の成り立ちと仕組みは、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)で出来ている、と一般法則論では説明しています。
これを体感する一つ方法をここに説明します。
それは、筆者が、毎日の祈りの中で実際に使っている方法です。
○自然史と人類史の理解
この世界の成り立ちと仕組みは、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)出来ています。
全体は、世界Ⅰから始まって、途中途切れることの無い連続した時間で、世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)まで一つに繋がって出来ています。
この内、(世界Ⅰ~世界Ⅱ~)世界Ⅲ~世界Ⅴまでは、「自然史」と呼ばれています。
「世界Ⅰ~世界Ⅱ」の部分が括弧の中に入っているのは、自然史を記録し書くヒトたちが、その存在を知らなかったり、認めていないことを、一般法則論の立場で表したものです。、
自然史とは、ヒトがこの世界に誕生する前からそれ自体で存在し、ヒトが作ったのではない天然自然の世界の歴史のことです。
正確に言えば、自然科学者や科学哲学者は、自然科学とは、物質的な世界=世界Ⅳ以下の成り立ちと仕組みを自然法則とエネルギーの2語(世界Ⅲ)のみで説明し尽くそうとする学問だ、という自覚的な知識がありません。
そこで、科学者は、実際には、((世界Ⅰ~世界Ⅱ~)世界Ⅲ~)世界Ⅳ~世界Ⅶ式に物質世界を説明しようとしていることになるでしょう。
一般法則論的には、自然史の全体は、私たちヒトという存在と私たちが住む世界を創造したΩ神=創造主である神(とその天地創造の目的)+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在=世界Ⅰから始まり~世界Ⅴまでです。
(世界Ⅴ~)世界Ⅵ~世界Ⅶ(+Z)は、「人類史」と一般に呼ばれています。
人類史は、世界Ⅴで誕生したヒトが、自らの生活/人生と文化・文明を自ら作って来た歴史です。
人類史は、自然史の延長線上にあります。
人類史は、自然史の延長線上にあるだけではなく、自然史を基礎にし、自然史をインフラにして成り立っています。
これは、一般法則論が発見した事実でも、一般法則論者の私が勝手にでっち上げたものでもありません。
これは、いまや人類的な常識に属しています。例えば、地球温暖化の議論。
しかし、多くの人たちは、自分が生きるための基礎になっている世界Ⅰ~世界Ⅴの存在とその役割が持つ意味を知りません。
言い換えると、人類/各人が抱える問題を、(世界Ⅴ~)世界Ⅵ~世界Ⅶ(+Z)の中だけで解決できると間違って思い込み、実際にこうしています。この結果は、常に挫折しかありません。例えば、核兵器の全廃や地球温暖化対策の世界各国の主張。
一般法則論や、一般法則論がその理論的な根拠を与える、潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理の活用法は、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)からなるこの世界の成り立ちと仕組みの全体を丸ごと認識し、丸ごと利用して生きる生き方です。
自然史と人類史という区分を知らないとか認めないとか信じられない方は、例えば次の本を読んで下さい。
和田純夫著 宇宙創成から人類誕生までの自然史 140億年の9つの進化を探る 読んで楽しむ教科書 ベレ出版 2004年3月
(世界Ⅲ~ ~世界Ⅴ)
嶺重慎/編著 小久保英一郎/編著 宇宙と生命の起源 ビッグバンから人類誕生まで 岩波ジュニア新書 477 岩波書店
(世界Ⅲ~ ~世界Ⅴ)
本では無くて、東京の上野公園にある国立科学博物館のような自然史博物館の展示でも、自然史を知ることかできます。
個人的には、小学生のころから、ここへ何度も通ったものです。
人類史に関する本は、ずばり「人類の歴史」という題の本から、世界史、日本史、英国史、文化・文明史、宗教史、哲学史、戦争の歴史、服装史、栽培植物の起源など、枚挙に暇がありません。
今、インターネットで「歴史 本」を検索用語にして検索すれば、沢山の本が出てきます。
人類史など無いとか知らないと言い張る方々は、これらの中からあなたに合った本を是非探して読んで下さい。
○世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)を六畳の部屋の構造に見立てて体感する
前置きが長くなりました。
この世界が、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)で出来ている。
これを、私は祈るときの前提であり基礎に使っています。
具体的には、我が家の六畳の仏間全体を、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)に見立てて、祈ることにしています。
仏間とは、仏壇がある部屋の意味です。
六畳の間とは、畳が6枚敷いてある部屋のことです。
畳一枚は、縦の長さを1とすると、横が2の長さになっています。
我が家の六畳の仏間は、仏壇が東側の壁の中に嵌め込み式になっているので、丸々六畳の広さが使えます。
部屋の南は、一間半の廊下があり、ガラス戸を介して、屋外に繋がっています。
廊下と部屋の間には敷居があって、障子で部屋と廊下を仕切ることができます。障子は普段開いています。
部屋の北側は、襖がある押入れがあります。普段、押入れの襖は閉じています。
この部屋は、畳がつぎの様に敷いてあります。
仏壇の前は、廊下に立って部屋の中を見ると(自動的かつ必然的に北向きに立つことになります)、畳が二枚縦に敷いてあります。
そして、廊下と平行に畳が横に一枚、押入れの前に横に一枚畳が敷いてあります。
残りの二枚は、縦に並べて敷いてあります。
このブログの中で図解する方法を知らないので、この文を読んだあなたが、我が家の六畳の部屋の図解をしてみてください。
このような我が家の仏間を、次のように、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)に見立てています。
廊下は、Ω神が存在する世界Ⅰです。こう見立てています。
廊下と部屋の間にある敷居は、Z/魔境の世界のつもりです。ここには障子が嵌められています。
廊下から障子の嵌っている敷居を跨いで部屋に踏み込んで最初に踏む畳は、天地創造の活動に入ったΩ神=創造主である神(とその天地創造の目的)+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きが行われている、世界Ⅱ~世界Ⅲに見立てています。
これに続く縦に並んだ畳との間には、畳の縁があります。これを目安にして、縦に並んだ畳全体を世界Ⅳに見立てています。
ここは、物質的→生物的→心理的→霊的な進化の自然史の世界です。
この縦の畳と、押入れの前に横に敷いてある畳との間の境界には畳の縁があります。これを世界Ⅴに見立てています。
世界Ⅴは、世界Ⅳの進化の頂点であり、Ω神の天地創造の目的物である、Ω神自らの化身かつ分身の存在の、意識のある心を持つΩ神としてのヒトが誕生した所です。
押入れの前に横に敷いてある畳は、世界Ⅵ=この世の全て=人間世界の全てに見立てています。
押入れの襖は、ヒトの記憶の世界を意味する世界Ⅶに見立てています。
襖を開くと現われる押入れの中は、Z/魔境の世界です。
以上説明した様に、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)を、我が家の仏間の構造に見立てています。
これを、実際の祈り方の中でどう使うかの説明は、次です。
○Ω神とヒトによる天地創造の順序と過程を仏間の構造で確認
祈る私は、最初に、Ω神が存在している世界Ⅰに見立てた廊下に立ちます。
つまり、祈る私は、この世界の成り立ちと仕組みの創造主であるΩ神が存在している世界Ⅰの所に、自らの生き方を自由に主体的に選んで決めることが出来る機能を備えた意識のある心を持つΩ神として、絶対的無意識の存在のΩ神と一緒に立つ、ということです。
Ω神が存在する世界Ⅰに見立てた廊下にΩ神と一緒に立つとは、祈る私は、私たちが生れ住むこの世界の成り立ちと仕組みの唯一・絶対・普遍の創造主であるΩ神が自動的かつ必然的に持つ属性の全てと、Ω神の天地創造の意図を認め、受け入れ、全て自分の物にすると決めて、こう宣言するという意味と目的がある行為です。
そして、常に必ずここから祈りを始めます。
Ω神による天地創造の順序と過程は、世界Ⅰに始まり、世界Ⅴでひとまず終わります。
何かの実現の為に祈るとは、世界Ⅰ~世界Ⅴ(~世界Ⅶ)からなるΩ神による天地創造の過程をなぞることです。
そこで、廊下から歩を進めて、世界Ⅴに見立てた畳の縁まで来て、ここで一度立ち止まります。
ここから一歩前に足を運ぶと、そこは、世界Ⅵに見立てた押入れ前の畳の上に立っていることになります。
世界Ⅵからは、「Ω神の化身かつ分身の存在としてのヒト」=「Ω人」が作る世界です。
この通りのことを、世界Ⅰに見立てた廊下に立って、仏間に入り、世界Ⅵに見立てた押入れ前の畳まで進み、世界Ⅶに見立てた押入れの襖を手で触ってここが記憶の世界だと確認します。
そして、閉じられた襖に隠れて見えないけれども、押入れの中は、Z/魔境の世界のことだと確認します。
こうしてから、世界ⅠのΩ神の所である廊下に直ちに戻ります。
そして、Ω神と共に廊下に立って、特定の願いを実現する祈りをします。
祈ったことの実現は、文字通りの意味で全知全能のΩ神の理法/潜在意識の法則/引き寄せの法則/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理に任せてしか出来ません。
Ω神が存在する世界Ⅰに見立てた廊下でする何か特定の目的を実現するための祈りは、本来、自動的かつ必然的に全知全能の実現力を持つ世界Ⅱ以下の働きに取り上げられ、世界Ⅶ/この世の成り立ちと仕組みの中で実現することになります。
何かを祈ると/何かを考え思いイメージすると自動的かつ必然的にこう思ったことが世界Ⅶの、私たちが「現実の世界」/「実際の世界」/「この世」と呼んでいる物質世界で実現することになります。
こうなのですが、何をするのでもヒトである自分の意志の力や家族や誰か特定の他人や策略やお金の力や腕力や暴力や権力や法律的な力等に頼って事を実現しようとする悪弊に慣れ親しんでいる人たちが少なくない事実があります。
そこで、自覚的に意図的に、祈ったらその実現は、全知全能のΩ神の理法に全面的に、洗いざらい引き渡して、その実現を任せる、と明確に言葉にすることが役立つわけです。
理屈はこうですが、世界Ⅰに見立てた廊下でΩ神と共に祈ったことは、世界Ⅱ以下の過程を自動的かつ必然的に踏んで、世界Ⅵで自動的かつ必然的に実現していることを、即ち、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)の構造を仏間の構造に見立てたのですから、廊下から押入れの前の畳まで歩を進めて、ここに立ち、祈ったことがここで既に実現していることを確認し、感謝し、その嬉しい感じを世界Ⅶ体験として味わうことにします。
こうすることは、「祈るとき、それは既に得ているものと思いなさい」というイエスの教えにも適っています。
イエスのこの教えは、ヤッホーと叫べは、ヤッホーとこだまが返ってくるようにΩ神の理法は働く、という原理に根拠があります。
そこで、何事をするのでも、自分にはそれが出来る或いは出来ないと思ったとおりの結果をΩ神の理法から返事をもらうことになるわけです。
そして、Ω神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みの中では=原理的には、全てのヒトが、Ω神の化身かつ分身の存在としてのヒトであり、ヒトがしたいと思うことを実際に実現してくれるのは、全知全能のΩ神の理法ですから、このことが本当に理解できれば、原理的には、原則的には、ヒトに不可能は無いことになります。
以上で、一つの祈りが出来たことになります。
そして、私が祈るときには、祈るたびごとに、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶの全部の過程を、我が家の六畳の仏間の構造に置き換えてすることになります。
○物質的な身体は世界Ⅵに、非物質的な存在の心/精神は世界Ⅰにあることを確認する
上の通りに、Ω神とヒトによる天地創造の過程を確認すると、私は、世界Ⅵに見立てた押入れ前の畳の上に立っていることになります。
ここ、世界Ⅵは、世界Ⅳに始まる物質的な世界の一部です。
そして、これは、祈る私の物質的な身体は、世界Ⅵに在ることを示しています。
しかし、祈る私の心/精神は、非物質的な存在です。
で、祈る私の心/精神は、物質で出来ている世界Ⅳ~世界Ⅵには存在していないことになります。
では何処に、私の心/精神はあるのか?
この答えは、祈る私の心/精神は、心の故郷であり、心の発祥地である世界Ⅰに存在する非物質的な存在のΩ神の心の所に、常に必ずΩ神と共にあります。
即ち、祈る私の物質的な身体は常に世界Ⅵに、祈る私の心は常に世界Ⅰに、Ω神の心と共にあることになります。
そして、意識のある心を持つΩ神としてのヒト=Ω人として、世界Ⅱ~世界Ⅲ=潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理の活用法に則って、自らの日々の生活と一生涯と文化・文明を創造することが出来ることになります。
そこで、祈るために、祈る私は、世界Ⅰに見立てた廊下に戻り、ここに立って、絶対的に無意識の存在のΩ神と常に共に在って、意識のある心を持つΩ神として、仏間全体=Ω神が創造した世界全体=世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)全体を視野に入れて、これを丸ごと物にし、利用し、活用して、実際に祈ることになります。
○Ω神の魂とヒトの魂=Ω人の魂
心とこの働きは、「非物質的なΩ神という存在」を意味する「Ω神の魂」の心であり、その活動です。
私たちが生まれ住んでいるこの世界は、私たちヒトの存在を含めてその全体が全て、Ω神の魂が持つ心の活動一つから誕生したものです。
全てのヒトは、唯一・絶対・普遍の存在のΩ神の化身かつ分身の存在としてのヒトです。
ヒトが持つ心/精神は、Ω神の心/精神から誕生しました。
しかし、幾つもの存在に分離・分割することが、創造主である神の属性として原理的に絶対に出来ないΩ神の唯一・絶対・普遍性により、結局、全てのヒトが、唯一・絶対・普遍の存在のΩ神のただ一つの心を共有して使うことになります。
祈るヒトは、以上の事実/宇宙大で普遍的で絶対的な真理に基礎を置いて祈ることになります。
○ヒトの身体も心も全て世界Ⅵ~にあるという誤解が人類的な常識
物質的な身体は世界Ⅵに、非物質的な存在の心/精神は世界Ⅰにある。
これは、一般法則論の発見です。
また、潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理の活用法での常識です。
しかし、これまでの人類的な常識は、心も体も全て世界Ⅵ~世界Ⅶの中だけに在る、と考えてきた、と申し上げて良いでしょう。
言い換えると、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Z存在のヒトには、世界Ⅰ~世界Ⅴは、意識のある心にはその存在を知ることが出来ない無意識の世界の中に在って、事実上、存在していないのです。
この結果は、ヒトがこの世に在って生きることとは、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの中だけで成り立っている、ということになります。
具体的には、ヒトの意志の力が全て、遺伝子に根拠のある才能の有無が全て、お金や財産の多寡が全て、政治が全て、腕力や暴力や権力が全て、学歴や卒業した大学のブランドが全て、競争に勝つことが全て、法律/平和憲法が全て・・・、という生き方になります。、
そこで、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zを超えるいわゆる神仏の存在を持ち出して、これに頼って生きるのは、科学的で合理的な精神が働かない、心が弱い迷信的なヒトのみがする行為であり、科学時代を生きる成熟した大人の人間は、科学と自分自身以外の如何なる存在も頼りにはしないものだ!!! という主張が、もっともらしく唱えられたりします。
しかし、こう主張する人たちは、世界Ⅰ~世界Ⅴが存在し果たしている役割について無知です。
上掲の、「和田純夫著 宇宙創成から人類誕生までの自然史」などをたとへ読んでも、自分が生まれ住む「世界Ⅵ~世界Ⅶ+Z」の世界の外にあって自分とは直接関係の無い世界としか受け止めることが出来ないのが一般的です。
こういう方々は、意志の力もお金も才能も、権力も政治も法律も憲法も学歴等も全く通用しない、例えば不治の病などに侵されたときに初めて、これまでの自分の生き方の基礎にしてきた考え方が無力だと知ることになります。
いや、こうだと気付くのは、それでも一部の人たちのみです。
心の闇/無明の闇は深いのです。
しかも、心は世界Ⅵ存在だと決め込んでいたのでは、癒す力を持つ心本来の力を発揮させることが出来ません。
癒す力を持つ心の働きは、世界ⅠでΩ神と共にあって、Ω神と共に祈って初めて本来の力を発揮できます。こうだと、絶対的に決まっています。
○「世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの世界だけが世界のすべて」人間が目覚めるとき
「世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの世界だけが世界の全て」の人間、即ち、仏間で押入れの前の畳にいて、自分が生きている世界はここが全てと間違って思い込んでいるヒトが、例えば不治の病を病んで、いわゆる精神世界/スピリチュアルな世界/心霊世界に関心を持つとします。
これは、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)を仏間の構造に見立てた場合、北向きに、即ち押入れの前に畳みに立ち、押入れの方を向いていたのを、180度振り返って、南の方を見て、自分が来た道である世界Ⅰ~世界Ⅴを確認することを意味します。
しかし、世界Ⅰ~世界Ⅴは、このヒトにとって、その殆どが無意識の世界に属しているのが普通です。
特に、世界Ⅰ存在のΩ神は、その手前にある障子=Z/魔境に妨げられて見えないことが一般的です。
もちろん、Ω神側から見れば、常に、障子が嵌っている敷居=Z/魔境は一切存在していません。
たとへいわゆる精神世界/スピリチュアルな世界/心霊世界について解説しているヒトたちの話を頼りにしても、この人たちの殆ど全てが、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)からなるこの世界の成り立ちと仕組みの全体を知りません。
いわゆる精神世界/スピリチュアルな世界/心霊世界を説く人たちの多くは、また、潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理の活用法のことをよく知りません。
このために、いわゆる精神世界/スピリチュアルな世界/心霊世界でも説く祈りをしても、効果が出なかったりします。
世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)から成るこの世界の成り立ちと仕組みを説明する一般法則論の出番になります。
年をまたぎそうなので、ひとまず投稿。
例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。
「哲学の道具箱」という本で哲学的思考の大前提を再確認する 2009-07-02 05:01 掲載
この文は、紙に印字して良く読んでくださることを、お願いいたします。
○一般法則論の世界観の図解
以下のものを参考に、入れ子構造の図解を、まずしてください。
入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。
この文は、紙に印字してよく読んでくださることをお願いします。
世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境 (世界Ⅲ(世界Ⅳ (世界Ⅴ (世界Ⅵ (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
妄想
Ω神= 〔A→ ∥Z→ (B→ (C→ (D→ (H→E→F→G→(M)))))∥〕 Ω=神の国
∥ ↑ 理法 自然 物的 俗・人・子・文歴 記憶
(心的なD) M(記憶) Ω人 人・生・孫・化史 ↓
唯一絶対 Z→→→Z
○筆者の意図を述べたこのブログの最初の文、2004年10月下旬に始まる文を読んで下さい。
一般法則論は、私たちが生きているこの世界の成り立ちと仕組みをΩ神=創造主である神(とその天地創造の目的)、自然法則、エネルギーの3語で客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に説明し尽くすことを意図する文/論文です。
このために、必要最小限の術語/一般法則論の考え方を説明する「専門用語」を「例えば~」という形の実例で定義をしながら使っています。
何かについて、理論的に首尾一貫した説明するときには、日常言葉だけでは不便で、自動的かつ必然的にこのために客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に定義された専門用語/専門の術語が作られます。
なお、一般法則論を説明するための術語を、あなたの好みの自分語に置き換えて作ることも出来ます。
その物を指す「正しい名前」/「正しい言葉」/「正しい言語」は、原理的に無いからです。
一般法則論は、日本語でしか説明が出来ないものではありません。英語や中国語という言語は無いので、例えば北京官語にも翻訳できます。
これは、一般意味論を学んだヒトの常識です。
そこで、国語で言う「イヌ」を英語では「dog」と言えるわけです。
但し、一般法則論を説明するために筆者が考えて造った専門語を、あなたの「自分言葉」に取り替えることは、実用的にはしない方が良いでしょう。
ヒトを表す名前は私の姓名以外にはあってはならず、他人に、この私を表す姓名以外の、私が知らない独自の固有の個人的/主観的な姓名をそのヒトの為に勝手に付けられては、私には理解出来ないからそれを認めず許さない、など式のことを言い張ってはいけません。
自分は他の誰でも無い独自の存在であり、自分独自の世界を築くために、何を表現するのでも自分独自の言葉を発明する式のつもりで、
例えば、「電気回路は、抵抗器、コンデンサ、コイル、以上の三つを組み合わせて作ることが出来る機能素子で全て出来ている」(電気回路、抵抗器、コンデンサ、コイル、機能素子は、それぞれ専門用語)という文を、全部自分独自の用語に置き換えてしまうと、後で他人と電気回路に関して情報交換が出来なくなります。
このようなことを、自覚的な知識にしておられない方々がいますので、念のために説明しました。
2009年12月31日追加
○この世界の成り立ちと仕組みは世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)で出来ていることを体感化する工夫
この世界の成り立ちと仕組みは、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)で出来ている、と一般法則論では説明しています。
これを体感する一つ方法をここに説明します。
それは、筆者が、毎日の祈りの中で実際に使っている方法です。
○自然史と人類史の理解
この世界の成り立ちと仕組みは、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)出来ています。
全体は、世界Ⅰから始まって、途中途切れることの無い連続した時間で、世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)まで一つに繋がって出来ています。
この内、(世界Ⅰ~世界Ⅱ~)世界Ⅲ~世界Ⅴまでは、「自然史」と呼ばれています。
「世界Ⅰ~世界Ⅱ」の部分が括弧の中に入っているのは、自然史を記録し書くヒトたちが、その存在を知らなかったり、認めていないことを、一般法則論の立場で表したものです。、
自然史とは、ヒトがこの世界に誕生する前からそれ自体で存在し、ヒトが作ったのではない天然自然の世界の歴史のことです。
正確に言えば、自然科学者や科学哲学者は、自然科学とは、物質的な世界=世界Ⅳ以下の成り立ちと仕組みを自然法則とエネルギーの2語(世界Ⅲ)のみで説明し尽くそうとする学問だ、という自覚的な知識がありません。
そこで、科学者は、実際には、((世界Ⅰ~世界Ⅱ~)世界Ⅲ~)世界Ⅳ~世界Ⅶ式に物質世界を説明しようとしていることになるでしょう。
一般法則論的には、自然史の全体は、私たちヒトという存在と私たちが住む世界を創造したΩ神=創造主である神(とその天地創造の目的)+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在=世界Ⅰから始まり~世界Ⅴまでです。
(世界Ⅴ~)世界Ⅵ~世界Ⅶ(+Z)は、「人類史」と一般に呼ばれています。
人類史は、世界Ⅴで誕生したヒトが、自らの生活/人生と文化・文明を自ら作って来た歴史です。
人類史は、自然史の延長線上にあります。
人類史は、自然史の延長線上にあるだけではなく、自然史を基礎にし、自然史をインフラにして成り立っています。
これは、一般法則論が発見した事実でも、一般法則論者の私が勝手にでっち上げたものでもありません。
これは、いまや人類的な常識に属しています。例えば、地球温暖化の議論。
しかし、多くの人たちは、自分が生きるための基礎になっている世界Ⅰ~世界Ⅴの存在とその役割が持つ意味を知りません。
言い換えると、人類/各人が抱える問題を、(世界Ⅴ~)世界Ⅵ~世界Ⅶ(+Z)の中だけで解決できると間違って思い込み、実際にこうしています。この結果は、常に挫折しかありません。例えば、核兵器の全廃や地球温暖化対策の世界各国の主張。
一般法則論や、一般法則論がその理論的な根拠を与える、潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理の活用法は、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)からなるこの世界の成り立ちと仕組みの全体を丸ごと認識し、丸ごと利用して生きる生き方です。
自然史と人類史という区分を知らないとか認めないとか信じられない方は、例えば次の本を読んで下さい。
和田純夫著 宇宙創成から人類誕生までの自然史 140億年の9つの進化を探る 読んで楽しむ教科書 ベレ出版 2004年3月
(世界Ⅲ~ ~世界Ⅴ)
嶺重慎/編著 小久保英一郎/編著 宇宙と生命の起源 ビッグバンから人類誕生まで 岩波ジュニア新書 477 岩波書店
(世界Ⅲ~ ~世界Ⅴ)
本では無くて、東京の上野公園にある国立科学博物館のような自然史博物館の展示でも、自然史を知ることかできます。
個人的には、小学生のころから、ここへ何度も通ったものです。
人類史に関する本は、ずばり「人類の歴史」という題の本から、世界史、日本史、英国史、文化・文明史、宗教史、哲学史、戦争の歴史、服装史、栽培植物の起源など、枚挙に暇がありません。
今、インターネットで「歴史 本」を検索用語にして検索すれば、沢山の本が出てきます。
人類史など無いとか知らないと言い張る方々は、これらの中からあなたに合った本を是非探して読んで下さい。
○世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)を六畳の部屋の構造に見立てて体感する
前置きが長くなりました。
この世界が、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)で出来ている。
これを、私は祈るときの前提であり基礎に使っています。
具体的には、我が家の六畳の仏間全体を、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)に見立てて、祈ることにしています。
仏間とは、仏壇がある部屋の意味です。
六畳の間とは、畳が6枚敷いてある部屋のことです。
畳一枚は、縦の長さを1とすると、横が2の長さになっています。
我が家の六畳の仏間は、仏壇が東側の壁の中に嵌め込み式になっているので、丸々六畳の広さが使えます。
部屋の南は、一間半の廊下があり、ガラス戸を介して、屋外に繋がっています。
廊下と部屋の間には敷居があって、障子で部屋と廊下を仕切ることができます。障子は普段開いています。
部屋の北側は、襖がある押入れがあります。普段、押入れの襖は閉じています。
この部屋は、畳がつぎの様に敷いてあります。
仏壇の前は、廊下に立って部屋の中を見ると(自動的かつ必然的に北向きに立つことになります)、畳が二枚縦に敷いてあります。
そして、廊下と平行に畳が横に一枚、押入れの前に横に一枚畳が敷いてあります。
残りの二枚は、縦に並べて敷いてあります。
このブログの中で図解する方法を知らないので、この文を読んだあなたが、我が家の六畳の部屋の図解をしてみてください。
このような我が家の仏間を、次のように、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)に見立てています。
廊下は、Ω神が存在する世界Ⅰです。こう見立てています。
廊下と部屋の間にある敷居は、Z/魔境の世界のつもりです。ここには障子が嵌められています。
廊下から障子の嵌っている敷居を跨いで部屋に踏み込んで最初に踏む畳は、天地創造の活動に入ったΩ神=創造主である神(とその天地創造の目的)+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きが行われている、世界Ⅱ~世界Ⅲに見立てています。
これに続く縦に並んだ畳との間には、畳の縁があります。これを目安にして、縦に並んだ畳全体を世界Ⅳに見立てています。
ここは、物質的→生物的→心理的→霊的な進化の自然史の世界です。
この縦の畳と、押入れの前に横に敷いてある畳との間の境界には畳の縁があります。これを世界Ⅴに見立てています。
世界Ⅴは、世界Ⅳの進化の頂点であり、Ω神の天地創造の目的物である、Ω神自らの化身かつ分身の存在の、意識のある心を持つΩ神としてのヒトが誕生した所です。
押入れの前に横に敷いてある畳は、世界Ⅵ=この世の全て=人間世界の全てに見立てています。
押入れの襖は、ヒトの記憶の世界を意味する世界Ⅶに見立てています。
襖を開くと現われる押入れの中は、Z/魔境の世界です。
以上説明した様に、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)を、我が家の仏間の構造に見立てています。
これを、実際の祈り方の中でどう使うかの説明は、次です。
○Ω神とヒトによる天地創造の順序と過程を仏間の構造で確認
祈る私は、最初に、Ω神が存在している世界Ⅰに見立てた廊下に立ちます。
つまり、祈る私は、この世界の成り立ちと仕組みの創造主であるΩ神が存在している世界Ⅰの所に、自らの生き方を自由に主体的に選んで決めることが出来る機能を備えた意識のある心を持つΩ神として、絶対的無意識の存在のΩ神と一緒に立つ、ということです。
Ω神が存在する世界Ⅰに見立てた廊下にΩ神と一緒に立つとは、祈る私は、私たちが生れ住むこの世界の成り立ちと仕組みの唯一・絶対・普遍の創造主であるΩ神が自動的かつ必然的に持つ属性の全てと、Ω神の天地創造の意図を認め、受け入れ、全て自分の物にすると決めて、こう宣言するという意味と目的がある行為です。
そして、常に必ずここから祈りを始めます。
Ω神による天地創造の順序と過程は、世界Ⅰに始まり、世界Ⅴでひとまず終わります。
何かの実現の為に祈るとは、世界Ⅰ~世界Ⅴ(~世界Ⅶ)からなるΩ神による天地創造の過程をなぞることです。
そこで、廊下から歩を進めて、世界Ⅴに見立てた畳の縁まで来て、ここで一度立ち止まります。
ここから一歩前に足を運ぶと、そこは、世界Ⅵに見立てた押入れ前の畳の上に立っていることになります。
世界Ⅵからは、「Ω神の化身かつ分身の存在としてのヒト」=「Ω人」が作る世界です。
この通りのことを、世界Ⅰに見立てた廊下に立って、仏間に入り、世界Ⅵに見立てた押入れ前の畳まで進み、世界Ⅶに見立てた押入れの襖を手で触ってここが記憶の世界だと確認します。
そして、閉じられた襖に隠れて見えないけれども、押入れの中は、Z/魔境の世界のことだと確認します。
こうしてから、世界ⅠのΩ神の所である廊下に直ちに戻ります。
そして、Ω神と共に廊下に立って、特定の願いを実現する祈りをします。
祈ったことの実現は、文字通りの意味で全知全能のΩ神の理法/潜在意識の法則/引き寄せの法則/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理に任せてしか出来ません。
Ω神が存在する世界Ⅰに見立てた廊下でする何か特定の目的を実現するための祈りは、本来、自動的かつ必然的に全知全能の実現力を持つ世界Ⅱ以下の働きに取り上げられ、世界Ⅶ/この世の成り立ちと仕組みの中で実現することになります。
何かを祈ると/何かを考え思いイメージすると自動的かつ必然的にこう思ったことが世界Ⅶの、私たちが「現実の世界」/「実際の世界」/「この世」と呼んでいる物質世界で実現することになります。
こうなのですが、何をするのでもヒトである自分の意志の力や家族や誰か特定の他人や策略やお金の力や腕力や暴力や権力や法律的な力等に頼って事を実現しようとする悪弊に慣れ親しんでいる人たちが少なくない事実があります。
そこで、自覚的に意図的に、祈ったらその実現は、全知全能のΩ神の理法に全面的に、洗いざらい引き渡して、その実現を任せる、と明確に言葉にすることが役立つわけです。
理屈はこうですが、世界Ⅰに見立てた廊下でΩ神と共に祈ったことは、世界Ⅱ以下の過程を自動的かつ必然的に踏んで、世界Ⅵで自動的かつ必然的に実現していることを、即ち、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)の構造を仏間の構造に見立てたのですから、廊下から押入れの前の畳まで歩を進めて、ここに立ち、祈ったことがここで既に実現していることを確認し、感謝し、その嬉しい感じを世界Ⅶ体験として味わうことにします。
こうすることは、「祈るとき、それは既に得ているものと思いなさい」というイエスの教えにも適っています。
イエスのこの教えは、ヤッホーと叫べは、ヤッホーとこだまが返ってくるようにΩ神の理法は働く、という原理に根拠があります。
そこで、何事をするのでも、自分にはそれが出来る或いは出来ないと思ったとおりの結果をΩ神の理法から返事をもらうことになるわけです。
そして、Ω神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みの中では=原理的には、全てのヒトが、Ω神の化身かつ分身の存在としてのヒトであり、ヒトがしたいと思うことを実際に実現してくれるのは、全知全能のΩ神の理法ですから、このことが本当に理解できれば、原理的には、原則的には、ヒトに不可能は無いことになります。
以上で、一つの祈りが出来たことになります。
そして、私が祈るときには、祈るたびごとに、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶの全部の過程を、我が家の六畳の仏間の構造に置き換えてすることになります。
○物質的な身体は世界Ⅵに、非物質的な存在の心/精神は世界Ⅰにあることを確認する
上の通りに、Ω神とヒトによる天地創造の過程を確認すると、私は、世界Ⅵに見立てた押入れ前の畳の上に立っていることになります。
ここ、世界Ⅵは、世界Ⅳに始まる物質的な世界の一部です。
そして、これは、祈る私の物質的な身体は、世界Ⅵに在ることを示しています。
しかし、祈る私の心/精神は、非物質的な存在です。
で、祈る私の心/精神は、物質で出来ている世界Ⅳ~世界Ⅵには存在していないことになります。
では何処に、私の心/精神はあるのか?
この答えは、祈る私の心/精神は、心の故郷であり、心の発祥地である世界Ⅰに存在する非物質的な存在のΩ神の心の所に、常に必ずΩ神と共にあります。
即ち、祈る私の物質的な身体は常に世界Ⅵに、祈る私の心は常に世界Ⅰに、Ω神の心と共にあることになります。
そして、意識のある心を持つΩ神としてのヒト=Ω人として、世界Ⅱ~世界Ⅲ=潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理の活用法に則って、自らの日々の生活と一生涯と文化・文明を創造することが出来ることになります。
そこで、祈るために、祈る私は、世界Ⅰに見立てた廊下に戻り、ここに立って、絶対的に無意識の存在のΩ神と常に共に在って、意識のある心を持つΩ神として、仏間全体=Ω神が創造した世界全体=世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)全体を視野に入れて、これを丸ごと物にし、利用し、活用して、実際に祈ることになります。
○Ω神の魂とヒトの魂=Ω人の魂
心とこの働きは、「非物質的なΩ神という存在」を意味する「Ω神の魂」の心であり、その活動です。
私たちが生まれ住んでいるこの世界は、私たちヒトの存在を含めてその全体が全て、Ω神の魂が持つ心の活動一つから誕生したものです。
全てのヒトは、唯一・絶対・普遍の存在のΩ神の化身かつ分身の存在としてのヒトです。
ヒトが持つ心/精神は、Ω神の心/精神から誕生しました。
しかし、幾つもの存在に分離・分割することが、創造主である神の属性として原理的に絶対に出来ないΩ神の唯一・絶対・普遍性により、結局、全てのヒトが、唯一・絶対・普遍の存在のΩ神のただ一つの心を共有して使うことになります。
祈るヒトは、以上の事実/宇宙大で普遍的で絶対的な真理に基礎を置いて祈ることになります。
○ヒトの身体も心も全て世界Ⅵ~にあるという誤解が人類的な常識
物質的な身体は世界Ⅵに、非物質的な存在の心/精神は世界Ⅰにある。
これは、一般法則論の発見です。
また、潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理の活用法での常識です。
しかし、これまでの人類的な常識は、心も体も全て世界Ⅵ~世界Ⅶの中だけに在る、と考えてきた、と申し上げて良いでしょう。
言い換えると、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Z存在のヒトには、世界Ⅰ~世界Ⅴは、意識のある心にはその存在を知ることが出来ない無意識の世界の中に在って、事実上、存在していないのです。
この結果は、ヒトがこの世に在って生きることとは、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの中だけで成り立っている、ということになります。
具体的には、ヒトの意志の力が全て、遺伝子に根拠のある才能の有無が全て、お金や財産の多寡が全て、政治が全て、腕力や暴力や権力が全て、学歴や卒業した大学のブランドが全て、競争に勝つことが全て、法律/平和憲法が全て・・・、という生き方になります。、
そこで、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zを超えるいわゆる神仏の存在を持ち出して、これに頼って生きるのは、科学的で合理的な精神が働かない、心が弱い迷信的なヒトのみがする行為であり、科学時代を生きる成熟した大人の人間は、科学と自分自身以外の如何なる存在も頼りにはしないものだ!!! という主張が、もっともらしく唱えられたりします。
しかし、こう主張する人たちは、世界Ⅰ~世界Ⅴが存在し果たしている役割について無知です。
上掲の、「和田純夫著 宇宙創成から人類誕生までの自然史」などをたとへ読んでも、自分が生まれ住む「世界Ⅵ~世界Ⅶ+Z」の世界の外にあって自分とは直接関係の無い世界としか受け止めることが出来ないのが一般的です。
こういう方々は、意志の力もお金も才能も、権力も政治も法律も憲法も学歴等も全く通用しない、例えば不治の病などに侵されたときに初めて、これまでの自分の生き方の基礎にしてきた考え方が無力だと知ることになります。
いや、こうだと気付くのは、それでも一部の人たちのみです。
心の闇/無明の闇は深いのです。
しかも、心は世界Ⅵ存在だと決め込んでいたのでは、癒す力を持つ心本来の力を発揮させることが出来ません。
癒す力を持つ心の働きは、世界ⅠでΩ神と共にあって、Ω神と共に祈って初めて本来の力を発揮できます。こうだと、絶対的に決まっています。
○「世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの世界だけが世界のすべて」人間が目覚めるとき
「世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの世界だけが世界の全て」の人間、即ち、仏間で押入れの前の畳にいて、自分が生きている世界はここが全てと間違って思い込んでいるヒトが、例えば不治の病を病んで、いわゆる精神世界/スピリチュアルな世界/心霊世界に関心を持つとします。
これは、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)を仏間の構造に見立てた場合、北向きに、即ち押入れの前に畳みに立ち、押入れの方を向いていたのを、180度振り返って、南の方を見て、自分が来た道である世界Ⅰ~世界Ⅴを確認することを意味します。
しかし、世界Ⅰ~世界Ⅴは、このヒトにとって、その殆どが無意識の世界に属しているのが普通です。
特に、世界Ⅰ存在のΩ神は、その手前にある障子=Z/魔境に妨げられて見えないことが一般的です。
もちろん、Ω神側から見れば、常に、障子が嵌っている敷居=Z/魔境は一切存在していません。
たとへいわゆる精神世界/スピリチュアルな世界/心霊世界について解説しているヒトたちの話を頼りにしても、この人たちの殆ど全てが、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)からなるこの世界の成り立ちと仕組みの全体を知りません。
いわゆる精神世界/スピリチュアルな世界/心霊世界を説く人たちの多くは、また、潜在意識の法則の活用法/引き寄せの法則の活用法/病気や誤った信念や思い込みを癒す原理の活用法のことをよく知りません。
このために、いわゆる精神世界/スピリチュアルな世界/心霊世界でも説く祈りをしても、効果が出なかったりします。
世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)から成るこの世界の成り立ちと仕組みを説明する一般法則論の出番になります。
年をまたぎそうなので、ひとまず投稿。
例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。