いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

悟りの体験が一気に一瞬間に行われる仕組みの解明

2009-06-27 06:05:52 | 悟りの体験
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境     (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ      (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
空の世界     妄想の世界
Ω神= 〔A→  ∥Z→    (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→ (M )))))∥〕 Ω=神の国
  ∥  創造神  ↑      Ω神の 天然自然  物的   俗・人・子・文歴  記憶
 霊的      M     理法  の世界   Ω人   人・生・孫・化史  ↓
 心的     ^(記憶)                           Z→→→→→Z
存在のΩ人 


○jackさんから「唯物論を論破する」の文に書き込みを頂いた質問に答えたいと思います

>悟りの体験っていきなりくるものなんですか?  →頓悟説
>ちょっとずつ見えてきてあるときぱっとひらけるってことですか?  →漸悟説

悟り方の本質をついたとても良いご質問です。
 答えは以下のようになります。

○悟りの体験は「あっ、分かった!」体験と原理的に同じ
 悟りの体験は、私たちの日常生活の中でも体験する、「あっ、分かった!」体験と原理的に同じです。
 つまり、悟りの体験でも「あっ、分かった!」体験でも、この体験に関連する無意識にある情報の全部が一気に一瞬で意識化されることなのです。
 この時に、「喉の所までそれが出掛かっているのだけれども・・・」という体験が先行することがあります。
 しかし、この段階では、意識化されるべき無意識の情報は何か分かりませんし、先行する知識との関連も分かりません。

○手品師が帽子の中から鳩を取り出すように
 悟りの瞬間は、長い話の結論だけを言うと、手品師が帽子の中から例えば鳩を取り出す時は、鳩を丸々一羽分を一気に全部取り出すように、無意識の情報が丸ごと全部が取り出されます。
 すなわち、悟りの体験の時には、Ω(おめが)神とΩ(おめが)神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みの全体が丸ごと一気に全部瞬間的に意識化されます。

○ばらばらにされた鳩の体の一部分が時間をかけて順に或いは脈絡も無く出てくるのではない
 手品師が、帽子の中から鳩を取り出すとき、ある瞬間には鳩の羽一枚、別の瞬間には鳩の足の一部分が出てきて(この段階では何が出てきたのかその全体像は不明ですね)、この積み重ねである日鳩の体全体が全部過不足なく揃って、初めて帽子の中から出てくる筈だったのは鳩だと「悟る」ことになる式ではありません。この式だと間違って思い込んでいる人に限って、悟りの体験がありません。
 鳩は、常に必ず、一羽が丸ごと全部一気に手品師の帽子の中から出てくるのです。
 なぜ、こうなのでしょうか?

○鳩が丸ごと一羽単位で出てくるこの世界の成り立ちと仕組みがある
 鳩は手品師の帽子の中から一羽が丸ごと出てくる。
 この理由は、Ω(おめが)神が、この世界の仕組みを、鳩一羽単位、猫一匹単位、犬一匹単位・・・・で造っているからです。
 より正確に言うと、Ω(おめが)神は、この世界の成り立ちと仕組みを、鳩一羽単位、猫一匹単位、犬一匹単位で「量子化」し、構造化し、システム化する形で全て造っているのです。
 世界Ⅵ存在の私たちの世界では、Ω(おめが)神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みはこのように最初から造られているのです。
 つまり、例えば鳩を認識し理解するのは常に鳩一羽分を一気に丸ごと認識し理解する方法が、Ω(おめが)神がこの世界の成り立ちと仕組みの全てを造っているこの世界の中での「お約束事」なのです。
 悟りの体験と特に言われる体験は、Ω(おめが)神とΩ(おめが)神が造っているこの世界の成り立ちと仕組み全体がひとつの単位になって意識化されることになります。
 具体的には、世界Ⅰから世界Ⅶ+Zで出来ているこの世界の成り立ちと仕組みの全体構造/世界システムの全体が、悟りの瞬間に一気に一瞬間で分かることになります。

○なぜ悟りの体験は一瞬間で行われるのか?
 なぜ悟りの体験は一瞬間で行われるのか?
 この答えは、悟りの体験も「あっ、分かった!」体験も、共に「心の中の体験」だからです。
 ヒトの心の起源は、世界Ⅰに存在するΩ(おめが)神の心にあります。
 即ち、ヒトが世界Ⅴ~世界Ⅶ+Zの物質で造られた世界の存在になっても、ヒトの心は、世界Ⅰにのみ永久に永遠に常在し常住するΩ(おめが)神の心そのものであり、世界ⅠでΩ(おめが)神の心と常に一緒で一つなのです(この仕組みがΩ(おめが)神の心がする正しい思考のあり方から外れたヒトの間違った思考を絶対的にリセットできる原理、言い換えると病気等を絶対的に癒せる原理/ヒトを全ての害や敵意等から絶対的に守ることが出来る原理になっているのですが、この意味・機能の説明は別の文にします)。
 そして、世界Ⅰは、未だ時間も空間も生まれていない「永遠に今、ここ」の世界です。
 悟りの体験も「あっ、分かった!」体験も、共に「心の中の体験」として、常に必ず世界Ⅰの中でのみ行われます。
 即ち、悟りの体験も「あっ、分かった!」体験も、共に「心の中の体験」として一気に一瞬間でおこなわれるし、こうである筈のものなのです。

○まとめ
 悟りの体験は、一気に一瞬で行われる(漸悟の悟り方では無くて頓悟の悟り方)わけが、あなたにもお分かり頂けるような説明ができましたでしょうか・・・。

 以下は余談。

○悟りの体験は「仏の側から行われる」
 道元禅師は、悟りの体験の瞬間を「仏の側から行われて」悟りの体験ができることを正しく知っておられます。
 即ち、悟りの体験は、ヒトの意思の力では出来ないのです。
 これは、記憶にあるものを、意思の力で強制的に思い出すことができないのと原理的に同じです。
 バイアグラを必要とする方々が存在するのも、原理的に同じです。
 しかし、Ω(おめが)神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みがこう出来ているお陰で、それをする正しい方法が何かまったく分からなくても、「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」式の試行錯誤を繰り返す中で、正しい方法で正しく行われた一回があればこの瞬間に、仏の側から、即ち、Ω(おめが)神またはΩ(おめが)神の理法=自然法則+エネルギー一体不可分の存在とその働きが自動的にかつ必然的に行われて、的に鉄砲の弾が当たることになります。
 「仏の側から、常に、自動的にかつ必然的に行われる」。
 本当に有り難い仕組みですね。
 こう思いませんか?
 余談の締め

 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

唯物論者を論破する

2009-06-25 04:12:04 | この世界の成り立ちと仕組み
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境  (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ    (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
         妄想
Ω神= 〔A→   ∥Z→ (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→(M)))))∥〕    Ω=神の国
  ∥        ↑  理法  自然   物的   俗・人・子・文歴  記憶
(心的なD)    M(記憶)        Ω人   人・生・孫・化史  ↓
唯一絶対    

○Ω神には姿・形が無いことの確認
 この文では、Ω神/創造主である神に姿・形が無いことを説明します。
 これによって、「神が存在するなら、見せてみろ!」と迫る唯物論者を撃退する方法を伝授します。
 なお、Ω神/創造主である神に姿・形が無い理由、この必要性は別の文にします。

○唯物論者とその主張とは?
 唯物論者は、私達が生きているこの世界の成り立ちと仕組みは/この世界に存在する全ての存在物は、私達が「物質」と名付けて呼ぶ「物的存在」を、全ての起源にしている、と主張する人達のことです。
 唯物論をこの世界の成り立ちと仕組みが造られた最初に持ってくれば、「唯物論的天地創造の原理」がある、という唯物論者の(根本的に間違っている!)主張になります。
 唯物論者は、少なくとも一部の無神論者、自然科学者の殆ど、「科学的な考え方は人類にとって最良・最善・最高の知の在り方である」と言う人達、マルクス主義者、「唯物論はもう200年も前に確立した絶対的な真理」だという言葉を聞いて丸暗記する人達に広く受け入れられています。

○唯心論的天地創造の原理
 唯物論とは正反対の考え方をする人達がいます。
 この世界の全ての存在物は、ヒトの五感ではその存在を知ることができない非物質的な存在の心の働きが源になって生み出されたものだ、と主張する人達です。
 このヒトたちは唯心論者と言われます。
 例えば、今、あなたがインターネットをするためにお使いのパソコンを例にとってみましょう。
 すると、物であるパソコン、またはこの一部品の例えば中央演算装置/パソコンの本体の部品/CPUがパソコンを創り出すことが出来ないのは明らかです。
 パソコンは、バソコンという「アイデア」を心に描いたヒトがいて、このアイデアを(非物質的な存在の)自然法則+エネルギー一体不可分の働きに則ってパソコンという物の形に作り出したのです。
 即ち、パソコンは、ヒトの心の働きの中で生まれた「パソコン」というアイデアが元/起源/原因になって、非物資的な自然法則+エネルギー一体不可分の働きによって、初めてヒトの五感でその存在が分かる姿・形のある物に生まれたのです。
 唯心論を、私達が生きているこの世界の成り立ちと仕組みが造られた天地創造の最初に当て嵌めると、Ω神が「唯心論的天地創造の原理」に則ってこの世界を造った、になります。
 また、これが正しい真理であることになります。

 しかし、唯物論者は間違っている! と言い切って仕舞う前に、唯物論者の言い分をもう少し丁寧に拾ってみることにします。
 世の中から唯物論者を退治しないと、今現在の人類の状態がこの儘でこの先も永遠に続くことになりますから。

○人がその存在を五感で知ることが出来ない姿・形の無いものは存在しない説
 唯物論者は、言います。
 存在する物は常に必ずヒトの五感でその存在が感覚的に分かる姿・形や色等がある。
 ヒトの五感でその存在が分かる姿・形や色等がある物が、物質と言うものだ。
 この世界に姿・形が無い物は、即ち、ヒトの五感で感覚的に姿・形を確かめることができないものは、文字通りの意味でこの世界に実在していないのだ。
 言い換えると、この世界の中では、物質しか存在しないし、物質しか存在し得ない。
 非物質的なもの、言い換えると、ヒトの五感でその存在を知ることが全くできない、姿・形が全くない心/精神/魂と言われるものは、存在し得ないから存在しないのだ!
 だから、この世界に存在しない心/精神/魂と言われるものから何かが生まれるのは有り得ない。
 そこで、「この世界の始まりにあったものは五感で感覚的にその存在を確かめることが出来る物質だ」と考えることになります。
 唯心論者が、この世界は始まりは、姿・形がなく、五感で感覚的にその存在を知ることが出来ない心/精神のような非物質的なものである、と言うのを唯物論者が聞くと、もうどうしようもない非科学的迷信で、何としても改めさせ、唯物論の正しさを認めさせなければならない! と思うことになります。これは現に唯物論に基づいた共産主義が国家の宗教になっている中国で行われています。
 しかし、この主張は、こう主張する唯物論者の方々が自分(たち)でこうだと勝手に決めて、これを絶対的かつ普遍的かつ客観的真理として、他人にもこれを認めるように強く要求しているだけのものです。

○唯物論者の主張は思考の大前提が間違っている
 この世界に存在するものは全て、常に必ず、ヒトの五感で感覚的にその存在を確かめることができる物質的な姿・形がある、この筈だ、と唯物論者。
 しかし、こうであるかどうかは、ヒトが勝手に決めることができません。
 唯物論が間違っているのは、ヒトとヒトが住む世界の創造主であるΩ神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みから自動的かつ必然的に分かります。
 ヒトとヒトが住むこの世界の天地万物の創造主である神が実在するかどうかも含めて、私達全てのヒトに先立って絶対的に普遍的に存在し、私達ヒトという存在も創造したΩ神がその全体を造っているこの世界の成り立ちと仕組みによって、私達がとやかく言う前に、全ての人にとって、既に、この世界を創造した原理は唯心論的天地創造の原理である、と客観的に絶対的に普遍的に不変・不動的に、一義的/一意的に明確に確定的に決まっていて、この通りに全てのヒトに等しく絶対的に普遍的に不動の真理として与えられているのです。
 Ω神の存在、自然法則、エネルギーについても、この理屈が当て嵌まります。
 唯物論者は、この簡単な事実/真理を知りません。

○この世界の成り立ちと仕組みが造られた天然自然の時間的/論理的順序の確認
 私達が生まれ住んでいる世界は、私達全てにとって、それ自体で、絶対的に普遍的に不動に、私達に先立って存在し、私達の存在を造り出した存在です。
 私達が世界Ⅵの中で行う全ての思考と行動は、この事実を大前提にし、この上になりたっています。
 ヒトは、誰も、私達全てに絶対的に普遍的に所与のものとして既に最初から決まっているこの事実/真理に異議を唱えることはできません。
 ヒトは、この事実/真理を絶対的で宇宙大で普遍的な真理として受け入れて、これを大前提にしてのみ、この世界の成り立ちと仕組みを認識し理解し、この上に自らの人生を築くことが出来ます。
 そして、一般法則論が一義的/一意的に明確に確定的に発見している真理によれば、五感でその存在が感覚的に分かる物質的な存在がこの世界に世界Ⅳ段階で現れる前の世界では、世界Ⅳを創造した、姿・形が一切無く、したがって物質存在のように五感で感覚的に知ることがまったくできない、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の存在のΩ神の魂/心/精神の世界があるのです。

○唯物論は自然科学的に世界Ⅳの世界の成り立ちと仕組みを説明できない
 唯物論者は、科学は世界を認識し理解する方法として、殆ど唯一絶対普遍的に正しい、と考えている人達です。
 この唯物論者が、そこには五感で感覚的に分かる存在がある故に実在すると認める世界Ⅳの物質的な天然自然の世界は、この世界Ⅳに先立つ、世界Ⅰ~世界Ⅲの世界の存在とこれらの一体不可分の働きにより初めて誕生したものです。
 そして、世界Ⅰ~世界Ⅲの世界は、五感で分かる物質で出来ている世界ではありません。
 世界Ⅰ~世界Ⅲの世界は、非物質的な、魂/心/精神と呼ばれる世界であり、ヒトの五感で感覚的に分かる姿・形が一切無い無意識の世界です。
 自然法則+エネルギー一体不可分の存在とその働きは、超感覚的です。
 例えば、食べた物が体の中で消化され栄養分に成る物が取り入れられ体のあちこちに配られる過程や自然治癒力がヒトの体の中で自動的かつ必然的に働くこと自体は、ヒトの五感では分かりません。

○唯物論者の考え方は自然科学にも反する
 前から繰り返し言っているように、自然科学は、物質的な世界の成り立ちと仕組みを(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体不可分の働きで説明し尽くそうとする学問です。
 世界Ⅳの存在に先立つ(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体不可分の存在とこの働き(世界Ⅰ~世界Ⅲ)抜きでは、世界Ⅳの物質的な世界は誕生し得なかったのです。
 そして、(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体不可分の存在は、一般法則論が明らかにしているように、非物質的=心的/精神的な存在です。

○唯物論者も非物質的存在の自然法則の存在を認めないと世界が存在する根拠う失う
 世界Ⅳから始まる物質的世界は、非物質的な存在の(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体不可分の存在とこの働きで全て造られている。
 この説明を認めないと、世界Ⅳの世界がどのようにして造られ動いているのかを、自然科学的に説明することが出来なくなります。もう少し具体的に言えば----
 例えば、姿・形が全く無い非物質的な存在の自然法則が定めているコンピューターの原理的仕組みは、コンピューターという物の形になっても、コンピューターの中を開けても、そこにコンピューターを造っている非物質的な存在の原理的仕組みを発見することはできません。
 コンピューターの原理的仕組みは目には見えなくても、それでも、物としてのコンピューターは間違いなく、自然法則が決めている、目で見える姿・形が一切無い「コンピューターの原理的仕組み」を基にしてできています。
 唯物論者のように、目には見えない物は存在せず、自然科学の研究対象にも成りえないと言うと、生物の目には見えない「コンピューターの原理的仕組み」で作られているコンピューターは存在し得ない筈のものになります。
 要するに、唯物論者は、自然法則とエネルギーとは何かについて哲学的な考察が足らないどころか、これについてそもそも何の哲学的な考察をして来なかったのです。
 こう断定せざるを得ません。

○唯物論者には非物質的な存在は自動的かつ必然的に見えなくなる
 唯物論者が、この世界に存在する物は全て五感で感覚的に分かる筈のもの、と勝手に決めると、唯物論者にとっての理屈の中で、またこの中でのみ、非物質的な魂/心/精神の存在は自動的かつ必然的にこの世界には一切存在し得ないものになります。
 しかも、非物質的な魂/心/精神の存在だけでなく、物質的な存在さへも、全ての唯物論者も生得的に持って生まれている彼/彼女自身の非物質的な魂/心/精神の存在の働き抜きには知ることはできません。
 こうであることさへ、唯物論者は自覚的な知識にしていません。
 で、全ての唯物論者が、生得的に持って生まれている彼/彼女自身の非物質的な魂/心/精神の存在の働きで、唯物論をもう200年余り前から確立した哲学的/自然科学的真理だ、と断定して、そこに何の矛盾を感じないのも、唯物論者にとっては「当たり前」の世界/常識の世界なのでしょう。
 しかし、Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組みに照らし合わせて、変なものは変です。

○心の存在を認めない唯物論者は人間的な成長ができないし望めない(2009/06/25 14:38 追加)
 唯物論者は、心の存在を認めません。当然、ヒトの心の起源が、自他共に絶対肯定/絶対愛のΩ神の心にあることも知りません。
 ヒトを人間的に成長させ、人格を高め、善良な市民を作るのは、一口に要約して言うと、そのヒトの心の働きに懸かっています。
 そこで、心の存在を認めない唯物論者には、自らの皮膚の内側の心の中で自発的に自らの倫理・道徳性を高め、人間的に成長することを期待できません。
 しかし、ヒトとして社会的共同生活を否応なしにしなければなりませんから、そこでは必然的にそれなりに人として立派な善良な市民を必要とします。この一般的な規範となる社会的・公共的な倫理・道徳を必要とします。
 では、どうするか?
 この答えは、唯物論者各人の皮膚の外側にある社会/国家の統治者が、「ああせい、こうせい」といちいち命令をしてこれに従わせることです。唯物論者の中国人は、そこで、先日、ジャッキー・チェン氏がいみじくも言ったように、国家により、支配され、たがをはめられないと収まらないということになります。
 それにしても、唯物論者が、金持ちをうらやみ、嫉妬し、金持ちから税金の形で持っている金を根こそぎ奪い取れ!  などと公の場で臆面も無く言える神経は、他人に対してうらやみや嫉妬の感情を持つことはとても恥ずかしいという感覚を持つ者には、理解を超えています。

○姿・形も色も匂い等が元々無い物を姿・形があるものと描くことは本来できない
 Ω神は、世界Ⅵ存在の私達にとってはそれを五感で知ることが出来ない、世界Ⅰ存在の姿・形も色も匂い等も無い、非物質的存在=心的/精神的かつ魂と呼ばれる存在です。
 非物質的=心的/精神的存在の自然法則とエネルギーについても、同じく、姿・形も色も匂い等がありません。
 したがって、姿・形も色も匂い等も無いΩ神や自然法則+エネルギー一体不可分の働きを、何か姿・形があるものに描くことは本質的にはできません。
 イスラム教は、このことをよく知っていて、神を偶像化して姿・形の有る物として描くことを強く戒めています。

○Ω神(創造主である神)には物質的な姿・形が無いことの証明の大前提
 一般法則論は、私が1963年、23才の時にいわゆる悟りの体験(説明は別文)をした中で発見した、いわゆる創造主である神(Ω神)と、この創造主である神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みについて発見したことに基づいています。
 この発見を、「一般法則論」と名付けて、ここで説明しています。
 発見したこの世界の成り立ちと仕組みは、大雑把に描けば7(+Zで8)重構造の同心円の形に図解できます。これを、この文の冒頭に掲げています。
 この図解を手掛かりにして、Ω神(創造主である神)には姿・形が無いことの証明を行います。

○私達が存在している世界は世界Ⅳ以降の物質的な世界
 このブログの文を今この瞬間ここで書いている私や、このブログを読んで下さっているあなたが、今、ここに存在し生きている世界を、一般法則論の世界観の図解では、世界Ⅳ~世界Ⅵと名付けています(世界ⅦとZは記憶の世界であり、非物質的な心の世界)。
 この世界は、私達が「物質」と名付けている物で造られている世界です。
 これを、もう少し丁寧に説明すると、次のようになります。
 なお、私達が生きているこの世界が、なぜ物質と呼ばれるもので出来ている必要があるかの説明(裏返すと、この世界の成り立ちと仕組みの創造主であるΩ神は姿・形のある物質的な存在では無いことが必要な説明)は、長文になりそうなので、別の文にします。

○物質で造られている世界の誕生の仕方
 一般法則論の世界観の図解を一先ず正しいものとして、これを基にしていえば----
 世界Ⅳは、137億年前の「宇宙大爆発」で始まった、縦×横×高さで造られている空間3次元と時間の1次元からなる「物質」で出来た(ヒトが作ったのではない)天然自然の世界です(この世界が4次元の世界である根拠の説明は別文)。
 地球の誕生は46億年前。
 そして、世界Ⅳ(地球という大自然)の中に、進化の過程を経て今から約6万年前に誕生した現世人類(世界Ⅴ存在)=生物としてのヒト=Ω人が生まれました。
 現世人類=生物としてのヒト=Ω人とは、Ω神の化身かつ分身の存在として完成した生物学的な存在のヒトであり、絶対的無意識の存在のΩ神を絶対的に意識化して、自覚的に認識し理解できる「鮮明な意識のある心」を持つ存在になった生物としてのヒトという意味です。この事実が、ヒトとヒト以外の生物とを区別する絶対的基準になります。
 世界Ⅴ存在のΩ人は、(最近の学説によると)今から6万年前頃にアフリカで誕生し、ここから全地球に活動の範囲を広げ、幾つもの人種に分化し分節し、各人の人生を作り、多種多様な文化・文明を作り、全体でただ一つの人類の歴史を作り、そして、今、現在に至っています。
 世界Ⅵは、今日まで、Ω神の存在を知らず、Ω神の化身かつ分身としての発見と自覚が未だ無いΩ人=「俗人」として実際に生きてきた歴史を一つにまとめて認識する目的で名付けたものです。
 以上をまとめると、姿・形のあるこの世界の成り立ちと仕組み(これは縦×横×高さの空間3次元と時間の1次元を持つ物質的存在に限られます)が宇宙史の中で初めて誕生したのは、世界Ⅳの天然自然の世界---宇宙や太陽や地球や身近な自然の誕生からです。
 私達が生まれ住んでいる世界Ⅴ以降は、この世界Ⅳの中に全て包含されて存在しています。
 これは、一般法則論の世界観の図解を基にして機械的に出て来る結論です。

○余談その1 人類の歴史を簡単に要約すると----
 約6万年前に始まって今現在に到る人類史があります。
 そして、これまで6万年の間、人類は、ここで一般法則論の形で説明している、Ω神の存在を含むこの世界の成り立ちと仕組み、これに基づいた神観、人間観(Ω神の化身かつ分身の存在としてのヒト)、自然観、世界観等について、正しくて正確な事は殆ど何も知らないできました。
 また、ヒトの生き方の原理があり、これをハウツー化した潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法もあることについて、殆ど無知のまま、間違った人間観、世界観、自然観に基づいたインチキ思想や宗教等を根拠にして、意志の力、腕力、暴力、金の力、政治権力等を振り回して強引に生きてきた訳です。
 この因果必然の結果としての、今現在の人類の状態、ということです。
 しかし、これで良いわけがありません!!!

○余談その2 人類史の到達点
 なお、人類史の究極の到達点は、一般法則論の理解では、地上にΩ神の国(これは唯物論者が作り唯物論者が熱烈に支持する憲法9条が世界国中の憲法に取り入れられた状態のことでは断じてありません)を造ることにあります。
 人類は、これを未だ理解しない儘、この究極の到達点に向けて、幾つもの間違いをしでかしながら、しかし、確実に歩みつつあります。
 この事実も、一般法則論の世界観の図解から、機械的に出て来る結論です。

○世界Ⅳの天然自然の物質的世界の造られ方の再確認
 世界Ⅳの天然自然の物質的世界は、一般法則論のこの世界の成り立ちと仕組みに関する図解を持ち出して確認すれば------
 世界Ⅳに先立つ世界Ⅰ~世界Ⅲの存在とこの働きによります。
 こうであることを、図解でご確認ください。

○世界Ⅰ~世界Ⅲは未だ姿・形の有るものが存在しない非物質的=心の世界
 姿・形がある物、即ち、私達が「物質」と名付けて呼ぶ物が、この世界に初めて誕生したのは、物質的な天然自然の世界が誕生した世界Ⅳからです。
 世界Ⅳが始まる前の世界、即ち、世界Ⅰ(創造主である神+自然法則+エネルギー三位一体不可分の存在のΩ神そのもののみが存在する世界)~世界Ⅱ(Ω神が生得的に持つ天地創造の意図にしたがって天地創造を開始したΩ神=創造主である神)~世界Ⅲ(自然法則+エネルギー一体不可分の働き)は、未だ姿・形のある物質的な存在物が何も無い世界です。

○世界Ⅰ~世界Ⅲに存在したもの
 世界Ⅰ~世界Ⅲの世界に在ったのは、以下の2つのみです。
①心そのもの、精神そのものであり、かつ、心/精神をいわば道具に使ってこの世界の成り立ちと仕組みを創造する思考をした絶対的自由を持つ主体的存在の「Ω神の魂」
②私達が心とか精神と名付ける存在の、自然法則(姿・形の無いΩ神の天地創造の原理)とエネルギー(姿・形の無いΩ神の身心そのもの)で、Ω神の天地創造の目的を物質で出来た世界の形に具体化しているもの
 世界Ⅰ~世界Ⅲ、特に世界Ⅰの世界は、Ω神の化身かつ分身の存在のヒトの心/魂でのみ知ることが出来る(→悟りの体験)世界です。
 魂/心という存在は、非物質的な心でできています。
 ですから、これを物質的な存在を知るような方法で知ることは、原理的にできません。

○Ω神が存在している世界Ⅰの特質
 私達が生まれ住んでいるこの世界と私達ヒト(宇宙大で言えば宇宙人一般)は、世界ⅠのΩ神を唯一絶対普遍かつ不動の起源にして誕生しました。
 Ω神が存在している世界Ⅰの特質は、非物質的な心/精神と言われるものそのものの世界であり、魂そのものの世界であることです。
 言い換えると、Ω神が存在する世界Ⅰは、未だ縦×横×高さの物質的な空間も時間の存在しない、非物質的ゼロ次元の世界であり、ゼロ時間の世界です。
 したがって、物質のみが持つ色、臭い、感触、質感、個性等も、Ω神の非物質的存在の心/精神、魂は一切全く持っていません。
 このことは、自然法則とエネルギーにもその儘当て嵌まります。

○唯物論者のやり方では精神世界は発見できない
 唯物論者が物質的世界(世界Ⅳ以降の世界)を知る手掛かりにしている物質のみが持つ色、臭い、感触、質感、個性/個別性等で、非物質的な存在の魂や心/精神と名付けられたΩ神(世界Ⅰ)、天地創造を開始したΩ神=創造主である神(世界Ⅱ)、自然法則+エネルギー一体不可分の存在とその働き(世界Ⅲ)を直接知ることは出来ないことになります。

○神には姿・形が元々無いことの再確認
 Ω神は、最初から、姿・形が無い、心、精神、魂と呼ばれる形で、世界Ⅰに、永遠不滅で不動に存在し続けています。

○心かと精神と名付けて呼ぶ非物質的な存在の果たしている役割
 私達が心かと精神と名付けて呼ぶ非物質的な存在は、ヒトの目には一切見えませんし、感触で知ることもできません。
 一般法則論での創造主である神の存在証明でしているように-----
 世界Ⅳの唯物論的自然科学が解明の対象にしている天然自然の物質的世界は、姿・形も匂いや色等も全く無い自然法則+エネルギー一体不可分の存在とその働きにより造られたものです。
 また、その自然法則+エネルギー一体不可分の働きは、「慣性の法則」に厳密に従っていてこれのみでは私達が知っている世界Ⅳの天然自然の世界は造れません。
 そこで、世界Ⅳの天然自然の世界を、自然法則+エネルギー一体不可分の働きを言わば道具に使って造った存在であるΩ神を必要としているのです。

○まとめ
 以上、大雑把にですが、唯物論はΩ神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みには一切根拠の無い間違った考え方であることを説明しました。
 当然に、唯物論を有力な根拠の一つにしているマルクス主義も間違いであることになります。


 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。


追記
 このブログの頭の絵=テンプレートを元のに似たユリの花に換えました。
   以上


対豪州戦に負けた現実を乗り越えて・・・・・

2009-06-20 19:25:23 | 潜在意識の活用法
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境     (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ      (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
空の世界     妄想の世界
Ω神= 〔A→  ∥Z→    (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→ (M )))))∥〕 Ω=神の国
  ∥  創造神  ↑      Ω神の 天然自然  物的   俗・人・子・文歴  記憶
 霊的      M     理法  の世界   Ω人   人・生・孫・化史  ↓
 心的     ^(記憶)                           Z→→→→→Z
存在のΩ人 

○豪州に逆転負け
 6月17日は、豪州とAグループ一位をかけたサッカー、日本は前半の一点を守りきれず、後半に技の2点を入れられて、負けてしまいました。
 カタールと引き分けた後、岡田武史監督が、豪州代表に勝てなければW杯4強に残れない、と言っていたのに・・・。
 厳しい・・・。

○W杯に日本が出場を決めたという6月10日未明の文に述べたことを確認
 6月10日未明の文の終わりの方に次のように述べました。

 「現実の厳しさ」というのは、世界Ⅵ~世界Ⅶ(過去の記憶/自らに限界を設ける間違ったセルフ・イメージ)や個人的/家族・部族的/民族的/人類的な妄想の塊であるZに根拠を置いているものです。
 Ω(おめが)神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みとこれを造り支える原理を知る者にとって、この働きを妨げる「現実の厳しさ」など何も無いことを知っています。

○大口を叩くとすぐにこれを試す試練がくるものです
 野球で、試合中選手が交代すると、交代したばかりの選手の所にボールが飛んで来ることがよくあります。
 この世界の成り立ちと仕組みを知っている者には、「現実の厳しさなど何も無いことを知っています。」となどと言うと、さっそくこれに関する試練が来ます。

○神が与える厳しい試練
 他人はとにかく、「私にはできる!」と思って、事に臨んでみた。
 しかし、そうは簡単に問屋は卸してくれなかった。
 こういうことがあると、改めて、現実の厳しさを克服する原理の存在とこの実際について、その真偽や有効性や実用性や、この原理を自覚的に意図的に目的的に採用して従う自らの覚悟と決意と脇目もふらずの献身と信念の確かさ等について、自覚的に意図的に再確認する必要性に否応なしに迫られるものです。
 本当に実現する価値のある目標は、これを実現する過程で、何度も本気でその目標を実現するために自らが持てる物を全て捧げる決意と覚悟があるのかを試されます。
 これには「神が選んだ者に与える試練」と言う言葉がある位です。
 また、こういう試練があってこそ初めて、目標実現に向けての覚悟と決意を日々新たに出来る、というものです。
 そして、事がなった暁には、「釣った魚に餌をやる馬鹿はいない」や「次の獲物は何にするか?」では無くて、謙虚に「今からが本当の目標実現のスタートであり本番でありその実現した果実を味わい楽しむときだ」/「初心忘れるべからず」(注記1)/「勝って兜の緒を締めよ」/「当たっているとき(調子の良いとき)にはその儘を続ける」(ラニー・バッシャム メンタルマネージメント 勝つことの秘訣の中の、訓練のガイドライン---補強の原則の続き 83頁~84頁)ということになります。

○試練に応え耐える
 「神が選んだ者に与える試練」。
 そして、試練に応え、試練に耐える。
 この試練に耐えられず、また、心技体一体不可分の取り組みが常に要求される芸事の世界などでは、師匠から「ここぞ!」と言う試練が与えられた瞬間にこれに気付かず、これに直ちに真剣に応えられず、師匠に見放される弟子もいる訳です。
 しかしまた、物になる弟子は初めから決まっているようです。
 物になる弟子は、最初の弟子入りのときから他の弟子とは決意と覚悟のほどが違ったりするものですし、師匠から「ここぞ!」と言う課題が与えられた瞬間を見逃さず、これに応えることができるように、普段から心を研ぎ澄まし、技を磨く稽古にも熱心です。
 実際、実力を決めるのは持って生まれたセンスの良さよりも、無我夢中では無い、自覚的に意図的に知的に行われる稽古の量のようです。
 人に師匠とか先生と言われる人達は、目の前の人物の立ち居振る舞い方を見て、将来物になる弟子かどうかを最初の瞬間に直観的に見極めることができる人たちです。
 年令的に人に教える立場になって、このことを強く意識するようになりました。
 この点で、プロ野球の「スカウト」と呼ばれる人達の人を見る目の無さを知った、と思った幾つかの話を思い出します。
 一般法則論が明らかにしているこの世界の成り立ちと仕組みでは、原理的に、全てのヒトがΩ神の化身かつ分身の存在で、有り余る才能/能力を持って生まれて来ています。
 しかし、これに一生涯を通して気付かず、これを自らの内から引き出す修行を自ら課す決意と覚悟ができない人達が一般的だ、ということなのでしょうか・・・。

○ゴールの瞬間はいつも完全完璧で理に適っている
 17日のNHKのサッカーの試合の生中継放送では、豪州戦の前半が終わった後、後半戦が始まる前に、予選で日本チームが得点した全ゴールをまとめて放送しました。
 これをみると、どのゴールも、入るべくしてその通りに正しく入っています。
 見ていてとても気持ちが良いものでした。
 即ち、「現実は厳しい」ことも、正しい原理に基づいた正しいやり方(システム)に正しく則れば、このように自然に自動的かつ必然的に巧く行くことを、改めて確認できた、と思いました。
 これを見て、何事も、「成功するまでもう何度でも挑戦してやるぞ!」という新たな決意をしたものです。

○自然に正しく巧く行っている例を枚挙して知る効用
 何かの成功例を知る。
 自然に正しく巧く行っている例を枚挙して見るとき、この通りに正しくやれば良いのだ! と元気付けられる、ということです。
 潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法で病気の平癒を祈るときなどでは、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの常識では「難治の病気」がいとも簡単に癒された成功的な事例などを自覚的に意図的に求めて確認することを勧めることがあります。
 もちろん、全ての病気の平癒の祈りを含めて、それがたとえ世界で最初の例であっても、全知全能で不可能を知らず、世界Ⅲ以下を絶対的に超越して存在し全知全能的に機能する世界ⅠのΩ神の知恵を頼りにする方法(潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法)に頼る限り、「事が巧く行かないかも・・・」と余計な心配をする必要がありません。

○現状は無視する
 潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法では、何をするのでも、現状は無視するということが必要です。
 詳しいことは、別文。

○まとめ
 現実に来る試練を乗り越える方法について、簡単に説明をしました。

○注記1 映画「ディア・ドクター」の西川美和監督の話
 2009年6月19日の読売新聞の夕刊に、映画「ディア・ドクター」の西川美和監督の話が載っています。「ニセ医者が問う『本物』」が記事の見出し。

 医療機器メーカーの営業マンで、医者に憧れ、見よう見まねでニセ医者になり、僻地医療に携わることになった主人公の伊野が、「医者になりたかったから、仕事は嫌いではないし、患者にも優しい。本物(の医者)と違うのは、(医師)免許がないことだけだが、医師を志した動機は忘れかけ、日々の仕事に追いまくられる」ことになり、最後は、「住民の信頼を得ながら、姿を消した後の不在を惜しまれる」という物語だそうです。
 この物語を創作したのは、西川監督。
 西川監督ご自身も、「夢やあこがれに突き動かされて、映画の仕事を始めたけど、純粋な思いは遠くに置き忘れてしまった。それでも仕事をしているのは、日々こなさないといけない課題をつきつけられているから。嫌いな仕事でないから、楽しいけど、それは本物の映画監督なんだろうか」と言う思いがおありとのこと。
 所期の目的を達成するとは、その目的を実現できる何か特定のシステムを作り出すことに成功し、これを運用することを意味します。
 そして、そのシステムの運用を習慣的に日々継続する内に、初心を忘れ、最初の頃にあった純粋で新鮮な驚きの心を失い、マンネリ化する、ということは、日々殆ど同じことの繰り返しで成り立つ人間関係の典型である、男女/夫婦の間でもよく有る話ですね。
 何かの職場で仕事をする、という場合でもこれがあり、また、この結果の慣れが、思わぬ事故を引き起こす原因にもなります。
 工場の作業現場に火災報知器を設置したけれども、その装置の度々の誤作動(注記2)による火災警報にうんざりして、その装置の作動を止めていたら、実際に火災が発生して、被害を大きくし、火災報知器を設置した所期の目的を達成できなかったという話をよく聞きます。
 しかし、例えば寄せ芸人さんのように、一回一回の舞台が真剣勝負の場であり、芸のマンネリ化を避ける良い刺激を絶えず観客から頂ける人達がいます。
 夫婦の場合でも、日々殆ど同じことの繰り返しの生活を、日々新たなものとして受け止め、日々新しく創造する工夫をする、これが自然に出来る人達がいますね。
 前にここで話しましたが、修行を積んだ禅僧は、坐禅中に、同じ鐘を音を、間を置いて何度聞かされてもその音に決して慣れることがなく、鐘の音が聞こえるとその度毎にそれに鋭く反応したことが分かる脳波の型が現れ、しかも、この後すぐに元の瞑想状態の脳波の型に戻ることを繰り返すとのことです。
 しかし、好きで坐禅をしている人達は、何年もの坐禅の経験があっても、坐禅で瞑想中に鐘の音を聞かされるとその内に慣れてしまって、鐘の音を無意識の内に無視して反応しなくなったり、鐘の音を聞いた後、瞑想中の脳波が乱れたままで中々元に戻らない傾向があるそうです。
 これから学べるのは、「初心忘れるべからず」を維持できる心の構えがあるし、これを確かに実現できる、ということでしょう。
 Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組みの中には、潜在意識の法則/引き寄せの法則が実在し、この法則により、「思えば叶う」のですから(注記3)、自覚的に意図的に目的的に、「初心忘れるべからず」と思うことが必要であり、また実際に役に立つということです。

 なお、6月20日の午前0時10分からのNHKのTV番組「トップランナー」に西川監督が登場しました。
 話を聴いていて、西川監督が脚本を書いて作った映画(全て注目されるもの)の中身は、一般法則論の世界観の図解の中に位置づけると、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの世界が自分の世界の全てのような人物を描くもののようだ、と思いました。
 また、西川監督ご自身も、そのお話から、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの「俗世界」にどっぷりと浸って生きておられる人で、この俗世界を超える世界を知っていて、これを生きている人の前では何か落ち着かない気分になられるようです。
 俗世界の人間の有り様を如何に鋭く典型的に描いて見せても、また、これによって、「確かにそんな人が世の中にはいる、いる!」/「私もその登場人物に共感し自分をその人物に投影し共に生きることができる」と観客に言わせることに大いに成功しても、しかし、それだけでは、ヒト本来のΩ神の化身かつ分身としての能力と才能の発揮を妨げる俗世界の生き方を克服し、これを超えるように観客をして目覚めさせるには適切ではありません、一部の既に自ら目覚めつつある人達を除いて----。
 端的に言えば、俗世界の人間の有り様を如何に鋭く典型的に描いて見せても、Z、即ち人類的な妄想の世界/魔境の世界を強化するだけで、Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組みの全体を発見することには殆ど役立ちません。このことは、人類史が既に証明しています。
 いつの日か、西川監督も、このことに気付かれることになるでしょう。
 もって回ったりせずに、Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組みの全体をずばり描く日が!
 注記1の終わり

○注記2 システムの誤作動は中々防げないもの
 システムの誤作動を止めるのは、システムによってはとてもとても難しいものです。
 株式投資で株価の特定の値動きの型を基にして投資のタイミングを決める式のものでは「騙し」というのものが必ずあります。
 この場合、そのタイミングでの投資後に初めてそれが騙しだ、と分かる訳です。
 騙しがあるからと言って、現実には、そのシステムが正しく作動したときには大いに役立つ訳ですし、この為にこそ、時には誤作動するシステムを敢えて使い続ける選択と決意をする訳です。
 この対処方法は、騙しと分かった時に直ちに損切りをするなどをすることです。
 この例のように、システムの誤作動と後から/結果から分かった時点で、事後に機敏に適切に対応するしか方法が無いことがよくあります(注記3)。
 これは、「リスクを取る」例です。
 しかし、予め計算のできる/制御されたリスクの取り方の例です。
 注記2の終わり

○注記3 紫吹 淳さん 「人生は自分で切り開くもの」
 「私の原点、心の風景」(2009年6月20日 読売新聞朝刊)に、元宝塚スターで女優さんの紫吹 淳さんの話が載っています。
 ダンス場面で初めて単独の踊りを「もらった」舞台公演の最中にせりに挟まれて大怪我をして休業しているときに学んだのは、次のことだとか・・・。
 「周囲の応援は支えになるけれど、最後は自分の力で起き上がらないといけないのだということ。逆に言うと、自分次第で物事はどうにでもできる、と考えるようになりました。」
 正にこの通りですね。
 注記3の終わり

○余談 北海道から電話で蟹の売り込み
 この文を書いているとき、北海道からと称する、蟹の売り込みの電話を家族の者が受けていました(蟹と言えば、身がない蟹を高く売る商売への苦情があるとテレビのニュースで最近聞いたばかりです)。
 電話の応答の仕方で、この相手は蟹を買う積もりは無い! と直ちに判断すれば良いものを、「あう言えばこう言う」式の長々とした売り込みをして、最後はお気の毒にも断られていました。
 電話セールスでは、最初にずばり自分が売っている商品/サービスを告げて、電話の相手がそれを必要としているのかを確かめてから、必要としていないのならば直ちにそこで「またの機会によろしく!」と言って電話を切って、次の見込み客を探すというやり方をするものです。
 このやり方は、世界Ⅵ~世界Ⅶ+Zの俗人の世界の中で、「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」の原理で事を成功的に成す確率を高める方法として有効なものでしょう。
 なお、その商品/サービスが必要だという相手には、購買を決定する権限があるかどうかを確認して、しかるべき人と電話を代わってもらうことになります。
 余談の締め

 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

喉に刺さった魚の骨が取れたのは当たり前ではない

2009-06-15 19:50:35 | 自然法則
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境  (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ    (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
         妄想
Ω神= 〔A→   ∥Z→ (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→(M)))))∥〕    Ω=神の国
  ∥        ↑  理法  自然   物的   俗・人・子・文歴  記憶
(心的なD)    M(記憶)        Ω人   人・生・孫・化史  ↓
唯一絶対                                 Z→→→Z


○喉に刺さった魚の骨が取れたのは「当然だ」という人達へ
 世の中には、何かと言うと、そんなこと「当たり前だ!」とか「当然だ!」という人達がいます。
 しかし、何が、それを「当然」や「当たり前」にしているのか、とその人達に直接その機会に質したことはありませんが、多分間違いなく、その根拠は説明出来ないに違いありません。
 私の喉に刺さった魚の骨(2009年6月03日 このことは6月13日の文で説明)は、因果必然の自然法則(+エネルギー一体不可分)の自動的かつ必然的な働きにより、刺さるべくして刺さり、取れるべくして取れたのです----根拠が曖昧の「そんなこと当然だ」ということによるのではなくて!

○警官の引ったくり事件
 先日、現役の警察官がひったくりをして、高校生二人に現場で捕り押されられた事件がありました。
 「世も末だ」とその高校生が言っていましたね。
 しかし、現役の警察官がひったくりをしないのは「当たり前」や「当然」であっても(それでもなおこの正当な根拠は問題になります)、ひったくりをするのは「当たり前」や「当然」だとは言えないでしょう。

○京都教育大学での事件
 京都教育大学で、女子学生に無理に強いお酒を飲ませて泥酔させ、数人の男子学生がその女性を強姦した事件がありました。
 この後、その女学生が警察に被害届けを出すまで、大学は事件のことを知っていて警察に届けなかった、と報道されました。
 これは当然でも当たり前でもありません。教育機関にとって致命的な事の重大性が未だ京都教育大学の関係者には飲み込めていないようです。
 また、加害者の友人たち(女学生もこの中に)が、それは合意だったとか、強姦されたのは女性が悪い、前途有望な男子学生の将来を奪ったのは許せない! という意見をインターネットのサイトに書き込んだことが問題になっていますね(なお、問題は被害者の女性の人権尊重以上のものです。人権教育で問題は解決できません)。

○合意が仮令あったとしても・・・
 強姦事件には、よくそれは合意の上だ、という弁明が行われます。
 時には、女性側から積極的に挑んで来たので応じたのだ、という弁明がされることがあります。
 しかし、仮令合意があり、女性側から積極的に挑んで来た場合でもなお、「据膳食わぬは男の恥」/「雉も鳴かずば撃たれまい」では無くて、ごく常識的な公序良俗に照らして「不都合な関係」/「不適切な関係」になるのならば全く一切手を出さない「良識」を維持することの方が「当たり前」であり「当然」でしょう。
 誘惑は、否応なしに来るものです。
 こうだと心得ていて、たとえ誘惑が来ても、Ω(おめが)神の化身かつ分身として、誘惑を絶対的に超越できるのだ、と知っていることが役立ちます。
 誘惑に負けるな! です。

○私が高校一年生の時に頂いた教え
 私は、それが何の機会だったかを思い出せませんが、高校一年生の時に、K大の大学院生と聞いていた世界史の先生から、ご自身の危うい体験を例に、そのような誘惑が来る場面では迷わず即座に! 「良識」に従って断固とした行動に出るのが良い、と個人的に教えを頂きました(このときの先生のお顔は今も覚えています)。
 これを自覚的な知識にしていたお陰で(正に「知は力なり」で)、その後、私にとって実際に何度も役立つ知識になりました(注記1)。
 この教えは、トランプ・ゲームで金を賭けよう、と友人に誘われた時に、即座にきっぱり断ることにも役立ちました。

○大事なことは自覚的な知識にしておく
 まったく、警察官が泥棒を働かないのは「当たり前だ」としても、なお、その覚悟と決意をし、これを、常日頃、自覚的に意図的に確認したり、これを潜在意識化=無意識の習慣化=信念化することをしたりしておく必要があるものです。
 私自身の自戒を込めて、こう言っています。

○注記1 余談
 余談ですが、二年前ある講演会に行って、その帰りに、その日の飛び切り美人の女性講師をそこから最寄りのJRの某駅に車でお送りしようと考えたのですが(これは私の「年の功」だと思っています)、結果としてはこれをしませんでした。
 そのJRの某駅は、二・三日前のテレビ・アニメの中で話のネタに使われるほど、タレントや芸能人等が御用達のラブ・ホテル街があることで著名だとは、その時に私はまだ知りませんでした。
 が、もしその時にそのJRの某駅までお送りしましょう、と私が言ってしまったら、私にはそんな積もりは全くありせん、と後で幾ら弁解しても、中々額面通りには受け取って頂けなかったかも知れないと思ったものです。
 この恥をかかずに済んだのも、先に先生から頂いた教えが私を無意識の内に導いてくれたのだ、と解釈し理解し感謝しています。

 以下は更に、余談の余談。
 「壁に耳あり。障子に目あり。」と昔の諺に言います。
 今、盗聴・盗撮が流行りのようです。
 前に人が住んでいたマンション/アパートに置き土産として、また、新築のマンションやアパートにも盗聴器が予めセットしてあったりする、と先日テレビの報道で知りました。
 最近は、盗聴器のデジタル化が進んでその発見が難しくなりつつあることも知りました。
 これから推測/想像力を逞しくすれば、タレントや芸能人等が御用達のラブ・ホテルには、当然のように盗聴器や盗撮機が仕掛けられているのかも知れませんね。
 注記1の終わり

 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

注記 自然法則は因果必然の法則であって確率的偶然で働く法則では無い

2009-06-15 18:42:22 | 自然法則
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境  (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ    (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
         妄想
Ω神= 〔A→   ∥Z→ (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→(M)))))∥〕    Ω=神の国
  ∥        ↑  理法  自然   物的   俗・人・子・文歴  記憶
(心的なD)    M(記憶)        Ω人   人・生・孫・化史  ↓
唯一絶対                                 Z→→→Z


○自然法則は因果必然の法則であって確率的偶然で働く法則では無いという前文の注記をここに
 一万字の字数制限で食み出した二つの注記をここに載せます。

○注記1 もの思う鳥たち 鳥類の知られざる人間性
 セオドア・ゼノフォン・バーバー著 笠原敏雄訳 もの思う鳥たち 鳥類の知られざる人間性 日本教文社 2008年
 この本を読むと、鳥たちは、本能によって自動機械的に行動しているのではなくて、ヒトと同じように心を持ち、状況に合わせて柔軟に知的に目的的に考え行動する知能と感情を持っていることを、「65名の研究者たちのすばらしい研究や学識からえられた」(著者の謝辞の中の文)豊富な実例を挙げて説明しています。
 以前はヒト以外の生物が心や知性を持つなど有り得ない! と考えていたというこの著者は、ヒト以外の生物は心や知性や感情を持って居ない、という常識的な考え方に真向から反対しています。
 しかし、心とは何か、知性とは何か、個性とは何か、この起源は何かを知らないこの本の著者は、ただ鳥たちも心を持って考え合理的に目的的に行動している実例を挙げるに止まっています。
 心の存在とその起源と役割、また、知能/才能・知識の起源について説明する一般法則論では、ヒトの心と知能が生まれるまでの連続した進化の過程(正確には、量子論的に飛び飛びの過程を踏んで)を認めますから、原理的にヒト以外の生物が、それぞれにそれなりの心と知能/才能を持っていることを大肯定しています。

 なお、この本の中で特に感銘を受けたのは、鳥の愛情表現です。
 前に、家の物干し場でキジバト/ヤマバトの番いのとても仲睦まじい光景を目撃したとここに述べた記憶があります。
 この本の中にも、ブルーバードと名付けられた♂のセキセイインコの話は感動ものです。
 第8章 人と鳥との個人的な友情の中のセキセイインコのブルーバード(創造的歌唱/性的行動(107頁~111頁)/遊び/飛ぶのを喜ぶ)。
 ブルーバードの性的行動の観察の中で、生殖以外の目的で行われた性行為の「擬人化された」報告があります。
 ヒトの場合でも、生殖以外の目的の性行為=性的快楽の絆で結ばれる男女の関係があります。
 先日(ノートにメモしたものが見つからず日時の特定ができません)、NHKでアメリカABCテレビを観ていたときに、あるカトリックの神父が、これまでの教会が性行為を否定的に考えて来たのは間違いである、神が寝室から性愛を締め出して来たのは間違っていた、という教義を唱えていることを報告していました。
 彼のこの演説を記録したCDは全米で350万枚売れているそうです。
 但し、この神父は、性的快楽の絆で結ばれる男女の関係には否定的でした。
 しかし、正式の夫婦の間でも、生殖には関係の無い性的快楽の絆で結ばれる関係は、とても大事な意味があります。このことに関する、しばしば「癒し」とも結びついた感動的な話を幾つも知っていますが、ここではそれを述べません。
 生殖には関係の無い性的快楽の絆で結ばれる関係では、性的なテクニックは問題では無いようです。しかし、この大切さと重要性はよく知っておく必要があると言えます。
 注記1の終わり

○注記2 真理が真理である根拠
 真理は、Ω神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みにのみ根拠があります。
 そこで、例えば、元は何の事件だったかは忘れましたが、これに関連した確か週刊文春の記事で、「初夜は殆ど強姦に等しいのが(我々の知っている)真理だ」というのが間違いだと言えるのだし、また、こう思い込むことにもそれなりの真理がある、ということができるようになります。
 注記2の終わり


 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

自然法則は因果必然の法則で確率的偶然で働く法則では無い

2009-06-15 18:19:08 | 自然法則
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境  (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ    (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
         妄想
Ω神= 〔A→   ∥Z→ (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→(M)))))∥〕    Ω=神の国
  ∥        ↑  理法  自然   物的   俗・人・子・文歴  記憶
(心的なD)    M(記憶)        Ω人   人・生・孫・化史  ↓
唯一絶対                                 Z→→→Z


○最初に
 2009年6月3日の夕食に食べたカレイの縁側の部分にある骨を喉に刺して仕舞いました。
 この骨を取る祈りを、Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組みを基礎にして働いている自然治癒力を働かせて、一週間余りかけて取った話をひとつ前の文でしました。
 この文の最後に、喉に魚の骨が刺さったのも、これが自然に取れたのも、必然性など無い、単なる偶然だと言われる方々がいると思うと一言付け加えました。
 そこで、この文では、Ω神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みの中には偶然など無い話をします。
 なお、ここでは少し哲学的に踏み込んだ話をします。ついて来て下さい。

○喉に刺さった魚の骨は偶然に取れたのでは無いことの確認
 喉に刺さった魚の骨は、祈ったりしなくても、「自然に=偶然に」取れたのだ、とお考えになる方がおられるかも知れません。
 この考え方は間違っていることを、これから説明します。

○自然科学とは如何なる学問かの定義  一般法則論の理解
 自然科学は、縦×横×高さからなる3次元の空間と時間の1次元で出来ている、人が作ったのではない、かつ、人がこの世に誕生する前から存在していた、天然自然の物質的な世界(一般法則論の世界観の図解では世界Ⅳに当たります)の成り立ちと仕組みを、自然法則+エネルギー一体不可分の働きのみで全て説明しようとする学問です。
 眼目は、この世界の成り立ちと仕組みを、一般法則論が発見しているΩ神/創造主である神の存在を抜きにして、自然法則+エネルギー一体不可分の働きのみで全て説明し尽くそうとするのが、自然科学だ、ということです。
 これは、一般法則論から観た、これまでの自然科学の定義です。
 なお、自然科学は、世界を自然法則+エネルギー一体不可分の働きで説明する学問だと自然科学者が自ら説明しないのは、自然科学者が、自然法則とエネルギーとは何かについて未だ充分に哲学的な考察をしておらず、この結果として、それについての自覚的な知識を持っていない為だ、ということができます。

○一般法則論的な世界観の再確認---念の為に
 本当は、一般法則論が明らかにしているように、この世界の成り立ちと仕組みは、ヒト(宇宙大で言えば宇宙人一般)を全て含めて、創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の働きで造られています。
 しかも、この世界は偶然に出鱈目に造られているのではありません。
 一般法則論の発見と理解では----
 絶対的無意識の存在のΩ神が、意識のある心を持って自らの生き方を主体的に自由に選び決めて様々な人生を創造する能力を持つ、Ω神自らの化身かつ分身のヒト(宇宙大で言えば宇宙人一般)を無限に造りだして、その一人ひとりになって様々な生き方を試し遊び楽しみたいと意図して、この目的を実現することができる世界の成り立ちと仕組みを創造したのです(ヒトの存在理由・存在目的と意識のある心を生きているヒトが持つ目的とその根拠の説明)。
 そして、この目的に合うように、Ω神は、天然自然の物質的な世界と精神的世界の成り立ちと仕組みをその隅から隅まで網羅的に完全完璧に造っている訳です(ヒトの姿・形を含めて、なぜ、この世界が今私達が知っているような姿・形に造られているのかの理由と存在目的の説明)。
 しかし、このことは、ここではしばらく脇に置いて話をすることにします。
 自然科学者の自然法則観についての説明に話を戻します。

○自然法則は因果必然の法則という自然科学者の伝統的な理解
 この世界の成り立ちと仕組みを造っている自然法則は、因果必然の法則である、というのが、量子力学が誕生するまでの自然科学者の常識でした。
 正確に言えば、実際には、自然法則の持つ因果必然の法則性について、多くの科学者は丸暗記でそう知っているだけで、この世界の成り立ちと仕組みの中でそれが果たしている役割や意味について、哲学的な考察を余りして来なかった、と言って良いでしょう。
 この一つの現れが、天然自然の存在の偶然の法則/確率的偶然の法則がある、という考え方です。

○偶然の法則も在るという考え方
 自然法則(+エネルギー一体不可分の)存在とその働きは、自然科学者ならば、これは因果必然の法則だ、と言うでしょう。
 しかし、因果必然の働き方をする自然法則には、自然科学者にとってはもう一つの側面があって、偶然に或いはそれ自体で勝手に働く性質がある、ということです。
 こうお考えになっている自然科学者は、少なくないようです。
 特に、いわゆる「意味のある偶然の一致」とかいわゆる超能力的現象や潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法で現れた現象については、もう向きになって、それは偶然だ! と言い張る自然科学者は少なくはありません。
 即ち、そこには、因果必然の天然自然の法則が存在せず、そこに在るのは、因果必然性を持たない、これも天然自然の存在の「偶然の法則」だ、という訳です。
 この意味の「偶然の法則」は、「確率的に働く天然自然の法則」とも表現されます。
 そこで、自然科学者の中には何かと言うと、「それは偶然だ」と言って、したり顔をする人が結構よくいます。
 なお、こう考えることは、ニュートンの発見した「慣性の法則」は、「自然法則(+エネルギー一体不可分)は自らの意志や意図で偶然に或いは勝手に働くことが無い」という意味であることを否定することになります。

○この世界は存在目的も存在理由もなく偶然に造られたという説
 137億年前に、いわゆる「大爆発」で始まったとされる宇宙(私達の住む太陽系の第3惑星の地球もこの中にあります)のその始まりは、量子論的な確率的偶然の揺らぎで始まった、と自然科学者の天文学者は言います。
 つまり、私達が住むこの世界は何かの存在理由や存在目的を持って因果必然的に誕生したのではない、ということです。
 また、この後の宇宙で行われた、物質的→生物的→神経系的・心理的→霊的進化の過程も何の目的も意味も無く、偶然に行われものであって、もちろん、ヒトにはその存在理由や存在目的が無いし、心は物質的な脳の働きが勝手に生み出す現象で、これ独自の存在目的や機能など無い、というのが、自然科学者/生物学の公式見解です。
 即ち、人類史上一番成功している学問である自然科学は、この宇宙にも人と言う存在にも、その存在目的と存在理由が一切全く無い! と断言していることになります。
 自然科学という学問がこうであるものですから、自然科学以外の、自然科学を最高のモデルにして学問している人達は、自然科学の見解に反する見解を述べることは、学者であることを名乗る限り学問上で禁止になっている、と申し上げても良いでしょう。

○自然法則は存在目的も存在理由もないこの世界を造ったのか?
 自然法則は偶然に働いて、この世界の成り立ちと仕組みを造った。
 だから、今私達が知っているような世界/宇宙の存在とその仕組みは、そうでなければならない目的と必然性は何もない。
 ヒトの存在を含めて、この世界の成り立ちと仕組みには、なんらの存在目的も存在理由もない。
 自然法則は、何の目的もない確率論的偶然で働いて、正に、この世界の成り立ちと仕組みに何の目的も意味ももたらさないように働いた、と自然法則の働き方は偶然説はいう訳です。
 自然法則が確率論的偶然で働く時、正に、この世界の成り立ちと仕組みに何かの存在理由や存在目的を絶対的にもたらす為に必然的に働いて、これに相応しい宇宙の構造を造る理由は、何も無いことになります。
 そこで、物理学者の中には、私達が住んでいる宇宙を造った自然法則/物理法則の他に、別の自然法則/物理法則があって、これで造られている別の宇宙がある、と言う人達がいます。
 確かに、自然法則が確率的な偶然で働くものならば、こうならざるを得ません。
 また、野生動物(例えばチンパンジー)の行動を観察して記録している学者は、その行動を何か意味や目的のある行動として、特に擬人化して記録することができません。
 しかし、現実には、その行動に何かの目的や意味がある、と思う誘惑に勝てる学者は少ないようです(注記1)。
 更に、自然を深く観察する内に、そこに偉大な知性---しばしば神と呼びたくなる知性の働きを発見する科学者も少なからずいます。

○天然自然の自然法則に人が持つような知性がある訳が無いという無意識的信念
 自然法則は、知性を持つヒトが考えて法律のように作った物ではなくて、全てのヒトに先立ってそれ自体であるようにしてある天然自然の存在です。
 ということは、この宇宙で人間以外に知性を持つ存在はある訳がないので、知性のある人間が作った法律ではない、天然自然の存在の自然法則に知性など元々ある筈がない! ということになります。
 そこで、天然自然の存在の自然法則には、知性などなく、偶然に、何の意味もなく自動機械のように働くだけのもの、と科学者は考えています。
 これは、自然科学者の殆ど無意識の信念/思い込みです。
 元はといえば、市井の人々の常識としての、人間以外に知性を持つ存在はこの世界には無い! という何の根拠も無い思い込みを、科学者になってもその儘持っているということでしょう。
 言い換えると、市井の人達はもちろん、科学者や哲学者でも、ヒトが持つ知性や才能の起源を知らない、ということです。
 一般法則論では、これは全て、ヒトを自らの化身かつ分身の存在として創造した全知全能のΩ神から直接来る、と考えている訳ですが----。

○自然法則は本来何かの目的を実現する為に働くもの
 自然法則は、本来何かの目的を実現するために存在し働きます。
 例えば、私達の身の回りにある文化・文明的な利器は全て、何か特定の目的を実現する為に存在し働いています。
 例えば、パソコン、携帯電話機、テレビ、冷蔵庫・・・・。
 これらの文化・文明的利器を実際に作り動かしているのは、自然法則(+エネルギー一体不可分)の働きです。
 このどれを取り上げても、自然法則(+エネルギー一体不可分の存在)は、パソコンとして使える物を、携帯電話機として使える物を・・・、作ってその通りに働くようにその役割を果たしています。
 こう断言することができます。
 また、こうであるので、ヒトは、絶対的にかつ普遍的にかつ非個人的に=非主観的に=客観的に存在して働く自然法則を絶対的に頼りにして、これら文明の利器を安心して作り使える訳です。
 そして、文化・文明的利器を作り使うためにヒトが利用している自然法則は、元々天然自然の自然法則(+エネルギー一体不可分の存在)そのものです。
 こうだと分かれば、天然自然の世界/宇宙を造っている自然法則は、偶然に働いて、その存在理由も存在目的も存在する意味も無い宇宙を造っているのではなくて、何か特定の存在理由や存在目的を実現し、これを存在意義のある物にすべく因果必然的に働いている、と考えるのが自然の理でしょう。
 実際、自然法則は、エネルギーと一体不可分で、Ω神の天地創造の目的を実現する為に最初からΩ神と共に存在し、実際にこの世界の成り立ちと仕組みの全てを意味のある存在に造っています。
 この事実に気がついている自然科学者は実在します。
 例えば、自然定数の存在。
 もし、重力定数/万有引力定数が、現在知られている数値6・672×10のマイナス11乗よりも大きくても小さくても、今現在私達が生まれ住んでいるこの世界の成り立ちと仕組み/宇宙の構造は不安定になって存在する事が出来なくなる、と言います。
 この他の、プランク定数とか光の速度、電気素量などの自然定数についてもこう言えるそうです。

○偶然の法則が実在するというと起こること
 もし偶然をもたらす、天然自然の存在の偶然の法則が実在するのならば、言い換えると、世の中は全て或いはその一部でも偶然で動いている=この世界の中ではその一部でも「因果必然の法則の存在とその支配が無い」のならば、私が一週間余り体験した、偶然に喉に刺さった魚の骨が必然的に抜けることは絶対的に有り得ません。
 喉に刺さった魚の骨は、偶然に抜けるかその儘次の偶然が起こらず私が死ぬまで抜けることは無いこともあり得ます。

○魚の骨が喉に刺さったのもこれが取れたのも必然
 Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組みの中で、私の喉に刺さった魚の骨は、そこに刺さるべくして刺さったのです。
 また、Ω神の化身かつ分身の一人の私の身心の全体の構造上、喉に魚の骨が刺さった儘になってはいけないので、自動的かつ必然的に取れることになっている訳です。
 これは、宇宙大で、絶対的かつ普遍的かつ不変の真理です(注記2)。
 こういう訳で、私の喉に刺さった骨は偶然に刺さったのでも、偶然に抜けて取れたのでもありません。

○因果必然の自然の法則の実在を確認
 一般法則論の理解では、Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組みは全体でただ一つの世界です。
 この中では、人が作り定めたのでは無い、ヒトを含めた天地万物全ての存在(世界Ⅳ~世界Ⅴとこれ以降の世界)に先立って、それ自体で在るようにしてあり(世界Ⅰ~世界Ⅲ)、それ本来の属性と機能に自動的かつ必然的に則って働く、因果必然のただ一つの天然自然の存在の自然法則が、この世界の全てを造り、この世界の全てを支配し、この世界の全てを全体でただ一つの調和関係を造り出すように秩序付けています(具体例は福岡正信氏が実践しておられた本物の自然農法が知っていて頼りにしている全体でただ一つの自然の生態学的秩序や「ガイア仮説」でいうまるで一つの生命体のような地球の存在)。
 この世界の中(世界Ⅳ以降の世界)で、針の先端だろうと因果必然の法則が働いていて、そこに偶然の法則が存在し働くことはできません。この余地は全くありません。

○自然法則の因果必然の法則性を否定する科学者
 量子論に関するインチキ説明が横行していて、これによって因果必然の法則の存在はこの世界が造られている根源の世界から根本的に否定された、という風潮が支配しています。
 哲学者は、自然科学の見解を否定できるほどこの世界の成り立ちと仕組みを知りません。
 そこで、殆どの哲学者は、因果必然の法則は否定されたという間違った説をその儘受け入れている、と言って良いでしょう。もっとも、(自然)科学などまったく無視している哲学者も少なくは無いようですが・・・。
 量子論に関するインチキ説明は、一般法則論で正しく説明し直さなければなりません。

○因果必然の法則の存在はヒトの自由な創造的生き方を妨げるので要らないという人達
 この世に因果必然の法則などがあると思い込んでいるから(→決定論)、人の自由な創造性が妨げられ、生き方の自由が制限・制約されるのだ! と言う人達がいます。
 そして、因果法則など要らない! とこの人達は言う訳です。
 困ったものです。
 真理はこの反対で、全知全能の自然法則に頼って行動できるからこそ、ヒトは、この自然法則を利用して無限の底抜けの創造性を確実に発揮できる訳です。

○科学者の使命
 因果必然の法則など要らない! という人達がいる。
 これは、この世界の成り立ちと仕組みが天然自然の存在の自然法則に絶対的にかつ普遍的にかつ不変に支配され、秩序付けられ、そして、これに則り、これに基礎付けられて、私達全ての生存と生活が成り立っていることを世の人々に教える役割を担っている筈の科学者が、この大事な使命を果たしていないことの結果です。
 この世界の成り立ちと仕組みを(創造主である神+)自然法則+エネルギー一体不可分の働きで全て説明し尽くそうという仕事をしている筈の科学者が、この仕事をしっかりと果たして来なかった、ということです。

○因果必然の自然の法則の下で病気になり病気を治す----Ω神が決めた健康観
 「体がある日突然に勝手に偶然に病気になる/怪我をする」と思い込んでいる人達か世の中には沢山います。
 かっては「成人病」といわれ、今はその人の生活習慣の積み重ねがその人の病気を作り出すという意味で「生活習慣病」と言われるようになった今でも、身心がある日勝手に病気になる、と思い込んでいる人達は減らないようです。
 しかし、因果必然の天然自然の法則は、ヒトの身心も、Ω神の天地創造の目的に合わせて絶対的に普遍的に不変的に造り支配しています。
 これは、ヒト本来の身心の正常な状態=完全完璧に健康で健全な状態が何かも既に決まっているということです。
 そして、これは、完全完璧に健康であり、病気を知らないという意味です。
 Ω神の化身かつ分身の存在としてのその存在目的に沿った存在と生き方を全てのヒトに等しく保障するには、原理的に最初から一律に、全てのヒトが病気になることなど無いことになって居なかったら、話になりません。
 更にこれは、自然治癒力の形で働く仕組みによって担保されています。
 この下で、以上のこの世界の成り立ちと仕組み/理屈を大前提にして、Ω神の化身かつ分身のヒトは、自らの在り方を創造する力を/自らの身心の健康状態をその通りに維持し管理する力を持って生まれています。
 これが、一般法則論でいう「祈る」/潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法という方法です。
 しかし、ヒトである自分は絶対的無意識の存在のΩ神が意識のある心を持つに到った、Ω神の化身かつ分身の存在であり、これに自動的かつ必然的に伴うヒトの生き方の原理やこれを実用化した潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法の発見/学習による自覚的な生き方を知らないままに、Ω神の化身かつ分身の存在らしからぬ考え方/生き方をして、この因果必然の結果として、自らの身心の正常性=健康さや健全性を自ら損ね、自ら害することをヒトはよくします。
 しかし、幸い、原理的にはヒトは病気では無い状態=完全完璧に健康で健全であるのが正常な状態です。
 しかも、身心の正常性を保つようにする自然治癒力が存在し、これが自動的かつ必然的に働いています(ヒトの身心に備わる免疫系、神経系、内分泌系、恒常系/ホメオスターシスなどがこれに当たります)。
 また、ここには因果必然の自然の法則が常に変わらず不断に支配し働いているので、この自然の因果必然の法則に則って、病気の状態=異常の状態を自覚的に意図的にリセットして、ヒト本来の完全完璧な健康さや健全さを取り戻すことができる訳です。
 この天然自然の理を自覚的な知識にしていないヒトには、病気になるのも病気が治るのも偶然の運命に支配されている事態で、事実上病気になったらお手上げ状態になる/万事休すの状態になるしか無いでしょう。
 しかし、私達人間存在に絶対的に普遍的にかつ不変・不動的に先立って存在し、全知全能のΩ神が私達ヒトの存在を含めて全て造ったこの世界の成り立ちと仕組みの中では、健康さが正常で、病気は異常だ、と最初から決まっているのです。
 即ち、異常の状態は、Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組みの中では、本来それを支える宇宙的な真理に根拠が無い、常に一時的な偽りの現象であり、恒常状態では無いが普通です。
 そして、因果必然の自然法則の存在も、これを言わば道具にしてこの世界の成り立ちと仕組み=天然自然の物質的な世界を造り、天然自然の世界から進化の過程を踏んで、天然自然から生え抜きのヒトを造り、天然自然の世界をヒトの生活基盤にすると決めたΩ神の存在も知らないし認めないと言い張る人達の為にも、因果必然の法則も自然治癒力も存在し働いています。
 そして、いつでも、Ω神の因果必然の法則と自然治癒力は、そのヒトがこれを認めて自覚的に意図的に利用しようとすれば、自動的かつ必然的にその望む通りに働いて結果を100%確実に出してくれます。
 言い換えると、Ω神はヒトの過去の失敗を一切咎めず、過去はともかく、今からでも直ちに心を入れ換えて、ヒトの創造主であるのΩ神が常にしているように、正しく考え、正しく行動する者には直ちに因果必然的にその通りの正しい結果を惜しみなく与えてくれます。これは、法華経と新約聖書に出て来る「放蕩息子の譬え話」としても知られているものです。
 これは、とても有り難いことです。

○まとめ
 この文では、自然法則(+エネルギー一体不可分の)働きに偶然は無いことを、急ぎ足で説明しました。
 喉に刺さって魚の骨が取れたのは偶然ではなかったのです。
 この世の中は偶然の法則が支配している、と言う迷信を信じるのはもう止めにしたいものです。

 なお、字数の制約で、注記1と2は次の文に移します。


 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

横山紘一 唯識で読む般若心経 の書評を読んで

2009-06-14 19:12:01 | 創造主である神
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境  (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ    (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
         妄想
Ω神= 〔A→   ∥Z→ (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→(M)))))∥〕    Ω=神の国
  ∥        ↑  理法  自然   物的   俗・人・子・文歴  記憶
(心的なD)    M(記憶)        Ω人   人・生・孫・化史  ↓
唯一絶対                                 Z→→→Z


 ここに載せる文の順序の予定を変更して、読売新聞の2009年6月14日の書評蘭に取り上げられていた次の本に関する紹介記事を基にして、簡単なコメント。

 横山紘一 唯識で読む般若心経 大法輪閣

 先ずは、小倉紀蔵氏によるこの本の紹介の文の冒頭をその儘引用。

 「一人一宇宙」という言葉が何度も出てくる。「人人唯識」という唯識の教理から著者が作った言葉。
 誰にも共通の世界や宇宙などというものは存在しない。
 自分自身の阿頼耶識(もっとも深層の根源的な心)(注記1)の中から流れ出てきて、一人一人別々の世界や宇宙があるだけである。
 だから、その世界や宇宙での出来事は、すべて自分の心の内に起こっている現象にしかすぎない。
 ところが、これを実体と考えて執着するところから、すべての苦しみが生まれる。
 引用の終わり
(以下省略)

 「誰にも共通の世界や宇宙などというものは存在しない。」!
 もし、本当にこうであるのならば、では、例えば----
 ある人同士の間で、「この夏、一緒に富士山に登りましょう。」という約束や「今年中か来年早々には結婚しましょう。」という約束は、どういう根拠で出来るのかが説明できなくなります。
 その友人同士の間だけでなく、大きく出れば全地球人類の間で、私達がそこに生まれ住んでいるこの世界の成り立ちと仕組みの中で、「富士山」そのものもや「富士山」という観念も、そして、「この夏」、「一緒」、「登る」という言葉の意味も一つに共有して一義的/一意的に明確に確定的に客観的に、お互いに認識し理解できることになっているからこそ、「この夏、一緒に富士山に登りましょう。」という約束ができるのではありませんか!?
 「今年中か来年早々には結婚しましょう。」という約束は、富士山に登る約束よりもこれを実現する為に準備することが多いかも知れませんが、それでもこの約束の意味は誰にでも分かります。

 歯に絹を着せぬ厳しい言い方をすれば、この本の筆者は、一般法則論が発見しているΩ神が造っている全体でただ一つのこの世界の成り立ちと仕組みを未だ知らず、ヒトがこのこの世界の成り立ちと仕組みを「悟り」、認識し、理解できる原理を知らず、これをするヒトの心とは何かを知らない、ということでしょう。

 物を考えるのに、両腕を組んで天井を見つめて考えることを習慣にしていると、こういうことになりがちです。
 もっと、日常の生活の中で色々と観察できることや否応なしに知ることになることを元にして、常識を働かせて考えれば、間違っても「誰にも共通の世界や宇宙などいうものは存在しない。」式の認識/理屈は出て来ない筈です。
 反対に、全てをヒトの認識と理解の限界と壁を超えて、万人が一つに共有する世界認識とこれに基づいた共通理解があって、これによって共同生活する社会が成り立っている、と言う結論になる筈です、日常の生活の中で色々と観察できることや否応なしに知ることになることを元にして、常識を働かせて考えれば---。
 「誰にも共通の世界や宇宙などというものは存在しない。」ということに関して、著者の本を未だ読んでいない私のここでの理解の仕方が、もし仮に間違っているとしても、「誰にも共通の世界や宇宙などというものは存在しない。」式の、ちょっと考えればすぐに変だ! と思うような表現はすべきでは無いでしょう。

 「すべて自分の心の内に起こっている現象にしかすぎないその世界や宇宙での出来事を実体と考えて執着するところから、すべての苦しみが生まれる。」。
 しかし、苦しみの本当の原因は、Ω神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みを知らず、ヒトに生まれた自分が、絶対的無意識の存在のΩ神が「意識のある心」を持った、Ω神の化身かつ分身の存在であることを知らず、Ω神の化身かつ分身の存在の自分がヒトとして生きる原理的仕組みがあるのにこれに正しく則って生きることを知らず出来ないことの因果必然的な結果としての苦しみであることを知らないことによる訳です。
 言い換えると、ヒトの生き方の原理の存在やこれを実用化した潜在意識の法則/引き寄せの法則の活用法を知って使えるようになれば、生老病死の苦しみは解決し解消できる、ということです。
 なお、この本のような考え方を、先日私が手に入れて読んでいる本の中に、次のような図式にとまとめてくださる方がいます。

 宮元啓一 ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ 春秋社 2004年

 欲望→行為(善悪の業)→輪廻
 この輪廻の業を解脱するには----
 欲望の滅→行為(善悪の業)の滅→輪廻の滅(=解脱)(48頁)

 これに関するブッダの独創的な大発見(! と宮元氏)を図式化すると次のようになります。

 根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)→欲望(貪と瞋)→善悪の業→輪廻(苦)
 これから解脱するには-----
 根本的な生存欲の滅→欲望の滅→善悪の業の滅→輪廻の滅(=解脱)(55~56頁)

 宮元氏の説明が正しいのならば、仏陀の悟り/発見は、「人はなぜこの世に生まれたのか? その存在目的や存在理由は何か?」という問いに答えず、人がこの世に生まれた意味など何も無い! 早く死んでしまうのが良い、ということを意味し、一般法則論的には根本的に間違っている考え方だ、ということになります。
 これでは、「悟りの体験」の原理的仕組みも役割も、仏陀は知らなかったことになります。
 このことに関しては、後に別文の予定。

○注記1 阿頼耶識=もっとも深層の根源的な心
 阿頼耶識=もっとも深層の根源的な心は、一般法則論で発見し理解している、Ω神(創造主である神+自然法則+エネルギー一体不可分の存在)の働きで全て造られているこの世界の成り立ちと仕組みの図解では、世界Ⅰの絶対的無意識の存在のΩ神の心のことになります。
 注記1の終わり


 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

喉に刺さった魚の骨を取る  自然治癒力を実感する体験をする

2009-06-13 23:16:57 | 祈り方
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境  (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ    (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
         妄想
Ω神= 〔A→   ∥Z→ (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→(M)))))∥〕    Ω=神の国
  ∥        ↑  理法  自然   物的   俗・人・子・文歴  記憶
(心的なD)    M(記憶)        Ω人   人・生・孫・化史  ↓
唯一絶対                                 Z→→→Z


○自然治癒力を実感する体験をする
 自然治癒力を実感することで、これが確かに存在し働いていることを実感する体験をしました。
 この体験を通して再確認したことを、以下に述べます。
 文は長文になりましたので3つに分けます。これはその第一文。

○喉に刺さった魚の骨が取れるまで
 2009年6月3日の夕食に食べたカレイの縁側の部分にある骨が喉に刺さって仕舞いました。
 魚の骨が喉に刺さることは前にも何度か体験があります。そのときには、御飯の塊を飲み込むと簡単に取れたものです。
 しかし、6月3日の時にはこれが巧く行きませんでした。
 この時から、声を出しても、首を回しても、顎を上に向けても骨が刺さっている喉が痛いし、水を飲んでもそれが刺さっている魚の骨に当たるのか、喉が痛い状態が続きました。
 そして、6月10日の夕食の後、喉に刺さった儘の魚の骨が、首の付け根/鎖骨の当たりまで下がってきて、その後更に食道当たりで引っ掛かっている感じがしていました。
 この時には既に声を出しても首を回しても顎を上に向けても喉の痛みは有りませんでした。
 更に、今日6月11日の昼食のときに、やっと喉に刺さっていた骨が取れた、という感じになりました。
 多少喉に残っている違和感は、残留思念なのでしょう。

○自然治癒力に自覚的に意図的に頼る試み
 6月3日の夕食の時に魚の骨を喉に刺し、これを御飯の塊を何度か飲み込んでも取れない、と分かった時に考えたのは、翌日医者に行くか、一般法則論で説明している「Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組み」を基にして働いている「自然治癒力」を頼りにして、自然に任せて喉に刺さった骨が自然に取れるのを待つか、何方にするのか? ということです。
 結論は、自然治癒力に頼る方を迷わず選択しました。
 医者に喉に刺さった骨を取って貰うのは、力任せの強引な方法だ、という感覚もありました。
 また、医者の治療も、結局、私の中で働いている自然治癒力を頼りにしているのですから、それならば医者に行かなくてもこの場合は済そうだ、ということになりました。

○喉に刺さった魚の骨を取るための祈り
 喉に刺さった魚の骨を取るのに自然治癒力を頼りにする。
 これは、具体的には、一般法則論で説明している「Ω神が全て造っているこの世界の成り立ちと仕組み」を大前提にして祈ることです。
 で、思いました/祈りました/イメージしました。

 私の喉に刺さった魚の骨は、私の間違った行動の因果必然の結果だ。これを認める。
 しかし、同時に、私の喉に刺さった魚の骨は、Ω神の化身かつ分身の存在の私の身心の生得的な構成物の一部/ひとつでは断じて無い!
 だから、喉に刺さった骨は、当然に私の身心から観ると余計なもの、要らないものだ。
 したがって、私の喉に刺さった魚の骨は必ず自然に取れて無くなる。
 こう断言することができる。

 こう声に出して言いながら(しかし、声を出すごとに喉が痛い!)、喉に刺さった魚の骨が自然に抜けて、食道の方に落ちて行くイメージを何度か繰り返し描きました。
 そして、このイメージ通りに事を行うことが出来るのは、Ω神の天地創造の理法=潜在意識の法則/引き寄せの法則であり、これしか頼りにできる天然自然の法則は無いので、私を無にしてこれに任せ切ることにしました。
 同時に、仮令声を出したり首を動かしたりする時や食べ物や水等を飲み込む時に喉に痛みや違和感があっても一切全く気にしないことにする、と自覚的に意図的に明確に確認して、安心することにしました。

 こんな簡単な祈り方でも効果はあります。
 この結果は、既にお話ししたように、喉に刺さった魚の骨は、一週間以上掛かって、思った通りに、自然に取れました。

○結果が出るまで----イエスはたった一度の祈りで充分だった
 喉に刺さった骨を、自然治癒力に自覚的に意図的に頼って、取った。
 しかし、祈って、その結果が出たのは、即座で無かった訳です、こう願ったのですが・・・。
 イエスは、二度・三度と祈る必要が無く、常に一度の祈りで、即座に祈ったことの成果を得ていました。
 イエスと同じでは無い・・・・・。
 だからと言って、がっかりする必要はありません。
 自分が祈るとき、イエスのように一度の祈りで即座に祈った効果を得られなくても、自分は正しい祈り方をしていると分かっているのならば、望む結果が得られるまで、何日でも何回でも祈りを続ければ良い訳です。こうだ、と割り切ることです。
 こう考えて、後は、迷わず、嘆かず、焦らず、苛立たず、諦めず、自分を責めずと決めて、成功的な成果を得るまで忍耐強く祈り続けることにしました。

○祈りの結果は本来即座に出る
 祈りの効果は、Ω神の観点では常に必ず即座に出ています。
 祈りは、世界Ⅵに居るヒトの心では無くて、常に世界ⅠにいるΩ神の心になって祈るのです。
 この時にのみ、ヒトが作り出した間違った現状をリセットできます。
 そして、Ω神の存在している世界Ⅰは、零時間でゼロ次元の永遠の今のみの世界ですから、祈りの効果は常に必ず即座に出る訳です。
 しかし、祈るヒトが、Ω神と同じ心に即座に成りきれないと、結果は即座には現れません。
 私の体験は正にこの例でした。

○一回一回の祈り方
 一度の祈りで、望んだ結果が出なかったとします。
 この場合は、どうするのか?
 これを弓矢で的を狙って射る場合を例に説明すると、次のようになるでしょう。
 普通、誰でも、最初、一度で的を射る積もりで弓を引く筈です。
 しかし、一度で的を射ることに失敗したら、的に矢が当たるまで弓を引き続けることになるでしょう。
 この時、一回一回を、それが初めての機会であるかのように、弓矢で的を射る為の動作(弓矢で的を射る原理的仕組みに基づいた完全完璧なシステム)をそのたび毎にその全体を一切の省略や手抜きなどをしないで完全完璧に作り、その動作(システム)を完全完璧に行う必要があります。
 祈り方でも話は全く同じです。

○まとめ 自然治癒力に自覚的に意図的に頼るその過程を実感する
 喉に刺さった魚の骨が自然治癒力の力で取れる一週間余りの過程を、自覚的に体験できました。
 この体験は、本当に自然治癒力なるものがあって、それが確かに働くのだ! という実感を私にもたらしてくれました。
 普段、腰が痛いとか膝が痛いと思うことがあっても、「その内に(更に悪くなることなく!)自然に治るさ」とちょっと思って、それから暫くして気が付くといつの間にか治っていて、自然に治る過程を実感することがありません。
 しかし、今回は、治る過程を意識化し実感することが出来ました。
 この実感は、何かで次に祈るときに、単なる理屈=一般法則論的世界観と人間観に、血を通わせてくれます。
 言い換えると、体験から学んだことを元にして、その分自信と信念を持って祈ることができる、ということです。
 この結果は、イエスの治療技術に更に一歩近づける、ということです。

○魚の骨は私の喉に偶然に刺さり、またそれは偶然に取れたのか?
 私の喉に刺さった魚の骨が取れたのは「偶然にすぎない」とお考えになる方もおられると思います。
 この点については、次の文で説明します。

 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

○追記 対カタール戦のこと
 W杯、6月10日に行われた対カタール戦は、日本チームは、選手の行動がバラバラで、注意散漫なプレイが目立ち、全く酷い内容でしたね。
 それでもよく引き分けで済みました。
 祈るのみ。
 以上

日本のサッカー・チーム代表がW杯出場を決めたという嬉しい話

2009-06-10 01:15:39 | 余談
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境     (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ      (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
空の世界     妄想の世界
Ω神= 〔A→  ∥Z→    (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→ (M )))))∥〕 Ω=神の国
  ∥  創造神  ↑      Ω神の 天然自然  物的   俗・人・子・文歴  記憶
 霊的      M     理法  の世界   Ω人   人・生・孫・化史  ↓
 心的     ^(記憶)                           Z→→→→→Z
存在のΩ人 


○日本のサッカー・チーム代表がW杯出場を決めたという嬉しい話
 今日6月7日の未明、サッカーの2010年ワールド・カップ(W杯)南アフリカ大会に向けたアジア最終予選で、予選リーグA組の日本チームは、「世界を驚ろかす覚悟がある。」という文字が入ったユニホームを着て、ウズベキスタンのタシケント(「絹の道」上にある)で、ウズベキスタンを1対0で破り、4大会連続の出場を決めました。
 試合開始後9分で流れるような見事な速攻の連携プレイで、岡崎慎司選手が点を入れました。
 この後、試合終了まで、日本選手のプレイに厳しい審判が度々ありました。
 とうとう岡田武史監督まで退席処分になりました。
 それでも、日本の選手は冷静で、最後まで集中力を失わず、1点を守り抜きました。
 このことは、すでにあなたも御存知の通りです。
 サッカーのことも余り詳しくない私ですが、日本の選手は、20年位前から比べると、格段に上手になっていることを知っています。

○岡田武史監督の決意と采配
 W杯出場を決めた日本チームの監督は、岡田武史氏。
 新聞報道によると、「『戦術論なら誰にも負けない』と言い切る」岡田監督は、「本気で世界のベスト4を目指さないか」と選手たちに求め、戸惑う選手たちに向かって、「行けない理由などない。ただし、適当に練習、(適当に)試合して、夜は酒をかっ食らって行けるか。本気とは生半可なことじゃない」と世界の4強になるために必要で大切なそれなりの覚悟と決意と行動を選手たちに促したとか。
 岡田監督の求めに従って、選手たちは実際に本気になり、やる気になった結果が、今日の未明のウズベキスタン戦の勝利になった、と言えます。
 これは、いわゆる「成功哲学」の教科書通りのような話です。

○世界の4強になるために必要なそれなりの覚悟と決意と行動とは何か?!
 世界の4強になるために必要なそれなりの覚悟と決意と行動とは何でしょうか?
 これは、サッカーをすることに直接に役立つ技を鍛えぬくことに尽きます。
 より具体的には、岡田監督が言う、「パスを出しても足を止めるな」とか「ボールを奪われたらすぐに奪い返せ」とかいうよう基本的なこと(的を射た、連続プレイで成り立つ他の事にも広く通じる示唆に富む指摘です)を、全ての選手がこの通りに自然に体が動いてできることでしょう。
 言い換えると、これらのことが試合中に連続して出来ることが、試合に勝つことに向けて集中した行動をすることになります。
 前回のW杯世界大会の時にもテレビの中継の中で目撃しましたが、試合中に、自分がプレイしたあと、審判の判断が出ない内にそこで一つのプレイが終わったと勝手に判断したのか、ボールの行方から目を離し、下を向いて、自分のポジション/定位置に戻るつもりなのか、スタスタ歩き出す日本の選手がいました。
 注意して外国の選手をみたら、同じように行動する選手がいることが分かりました。
 しかし、こういう選手がいるチームは結局生き残れません。
 また、自陣のペナルティ・ゾーンで、パスされたボールで相手選手と足技を執拗に競う選手がいます。他の味方選手もこれに絡もうとしません。
 挙げ句の果てに反則を取られて、相手にペナルティ・ゴールキックを与える選手がいます。
 このような場合、ラグビーだったら速やかにボールを場外に蹴り出して試合をそこでリセットするか、相手側のフィールドに遠く蹴り込んで、とにかく目先のピンチから逃れることをするのが常識なのに・・・。

 試合に集中し、ボールから目を離さず、自他のプレイに集中し、試合の流れに集中することをしないで、自分一人で勝手に判断して、自分ひとりだけのプレイをするのでは、チームの全員が一丸となってチーム・プレイすることで初めて成り立つチームの仕事とこの上に成り立つチームの目標の実現ができませんね。

○サッカーそのものをすること
 サッカーの試合に勝つには、「サッカーの原理的仕組み」を基にして作られる「サッカー・システム」そのものをすることです。
 しかし、何をどうすることが、サッカーそのものをする事になるのかは、サッカーに限らず、それは自明のようでいて、実際にはこれが不明であるのが普通です。
 実際には、サッカーについて自覚的に意図的に学び(普通はサッカーとは何かを既に知っている人=師匠から学ぶのが手っ取り早いと言えます)、考え、試し、実際の試合に臨んで自分自身の経験から学ぶことが必要になります。

○サッカーをする以前の話
 色々な試験/試合がありますが、合否/勝ち負けを問うことができる程度に事前の準備が万全に出来ていて試験/試合の本番に臨むことができるのは、受験者/選手の中のほんの一握り、という指摘があります。これは私にも身に覚えがあります。
 サッカーの世界選手権に出場する場合にもこれは当て嵌まるでしょう。
 幸いと言うか、岡田ジャパンは、この段階は既に達成していると言っても良い、と私は判断しています。
 この点に関して、釜本邦茂氏は、岡田ジャパンは未だ世界に通用しない、と言っておられるようですが(週刊ポスト 2009年6月19日号)・・・。

○心技体
 およそ身体的活動を伴うことをする場合には、それが何であっても、相撲道や柔道でよく知られている、「心技体」、即ち、心(精神)と技(技術)と体(物質的身体)を一体不可分のものとして総合的に使うことを覚える必要があるようです。
 詰まり、何をするのでもそれを成功的にやり遂げるには、単なる技術以上のもの、意志の力や精神力や創意工夫や努力以上のもの、体力以上ものを必要とする、ということです。
 心と技と体とを個々バラバラに使うのではなくて、これらを一つにして総合的に使うことができることが必要です。
 即ち、何か特定の目的/夢を実現する為の心技体三位一体不可分(+お金+物+情報。しかし、これらは心技体三位一体不可分の行動の中で自然に与えられることになります)のシステムを造って動かすことです。
 話が飛びますが、全ての電子回路は、抵抗器とコンデンサとコイルと機能素子(例えばトランジスターや集積回路)を2つ以上組み合わせた回路の形で作られています(注記1)
 しかし、電子回路を作る目的の違いによって、例えばラジオの原理的仕組みで作られるラジオ(・システム)と、テレビの原理的仕組みで作られるテレビと、携帯電話機の原理的仕組みで作られる携帯電話機と、コンピューターの原理的仕組みで作られるコンピューターとでは、そのシステムを作るためにこれらが使われる数もその組合せ方も異なります(電気信号の増幅を目的とする電子回路では定石的な型が複数発明されて使われています)。
 この場合、もちろん、ラジオを作る抵抗器とコンデンサとコイルと機能素子からなる電子部品は、ラジオの原理的仕組みに忠実に基づいて作られるラジオ・システムという一つの形/装置に組み立てられる必要が常にあります。
 ラジオを作るのに必要にして十分の電子部品が揃えられて作業台の上に整然と並べられてあっても、それがラジオの原理的仕組みに忠実にラジオの・システムの形に組み立てられて、更にこれを動かすエネルギーを供給する装置(ラジオの場合、その電子回路に合った適切を電圧と電流を供給する電源装置・電池やAC電源)が追加されなければ、実際のラジオ受信機としては使えません。
 このことはもちろん、サッカーにも当て嵌まります。
 一般法則論は、Ω神が全てのヒトの為に造り用意してくれたこの世界の成り立ちと仕組みとこれを実際に造り支える原理を丸ごと利用して、夢を実現する方法に関する説明をしています。
 もちろん、サッカーにも一般法則論を当て嵌めることができます。

○メンタル・マネージメント 勝つことの秘訣 という本のこと
 心技体に関する一般法則論的な考察は別の機会にして、次の本を改めてお薦めしておきます。
 ラニー・バッシャム/藤井 優 メンタル・マネージメント 勝つことの秘訣 ヨルダン社(1988年)
 100頁足らずの本ですが、特に自分にあることが成功的にできるかどうかの限界を、しばしば自覚の無い儘に自ら決めてしまう「セルフ・イメージ」の役割について、自覚化させてくれることだけでもこの本は有用です。

○私自身の体験 セルフ・イメージに関して
 私自身についてのセルフ・イメージの発見/気付きの一つは、日常生活を滑らかに行う為の「体力作りの運動」(結構きつい運動)をすることが自分にとって必要で、また実際にしなければならないことについて、それをすると自分の健康を損なう! と勝手に思い込んでいて、いつもこう思いながらそれをしている、という発見をしたことです。
 これに気が付いて、この間違っている考え方を自覚的に意図的に否定し、この否定的な間違った考え方の代わりに、Ω神の化身かつ分身の存在の私は、私が生きることに必要とする全ての行動を健康的に健全に楽々と力強く行うことが出来る、という風に考え方を改めました。
 また、私が行動する為のエネルギー=体力は、私の体内にある使い捨ての「乾電池」のような架空のものにあるのではなくて、Ω神の無尽蔵のエネルギー源から直接必要なだけ幾らでも供給される、と考えることにしました。
 こう考えるようにしてから、正にこの通りになっているようです。

○見当外れの考え方
 6月7日午前に放送のNHKテレビの番組案内の中で、「2つのスピカ」というドラマを取り上げていました。
 このドラマは、宇宙飛行士になりたい! という夢を持つ高校生の少女の物語だそうです。
 そして、この少女が通う学校の先生は、「現実は厳しく、叶わぬ夢がある」ことを教える役回りになっているのだそうです。
 また、俳優としても先輩のその先生役の男性俳優は、俳優人生の現実の厳しさをその少女役の俳優に教えることも自分の大事な役回りだ、と言っていました。
 これを聞いていて、この先生/俳優の考え方は間違っている! と思いました。
 その夢が何であっても、それが正しく成功的に実現できるように考え行動するのが、夢の叶え方です。
 これを支え可能にする絶対的かつ普遍的かつ客観的にその存在を指摘することが出来るヒトの生き方の原理が、Ω神が造って全てのヒトに等しく絶対的に普遍的に与えてくれているこの世界の成り立ちと仕組みの中に、私達全ての存在に先立ってある訳です。
 この過程で、夢を実現するのに必要不可欠な、必ずしも楽しくは無いかも知れない基礎的な練習/基本的な修行を地道に継続して行う必要が必ずあります。
 この基礎的で根本的な修行を継続することを、面倒がり嫌がり怠り手抜きをすることをしては「行けない!」と言われていることが「現実は厳しい」ことの中身だと理解するようだったら、最初から本気でその夢を叶える覚悟が出来ていないことになります。
 実際には、何か特定のことを自分の一生涯の仕事に選んだ人は、この実現に向けた凡ゆる修行を「千里の道も一歩から」でも少しも厭わずに、喜んで受け入れてするものです。
 6月9日の午前のNHKのラジオの番組に、宝塚の元男役スターの鳳蘭さんが出演されました。
 鳳蘭さんは、この中で、宝塚歌劇団に入学して歌やバレーや日本舞踊等の厳しい基礎訓練漬けの二年間を過ごしたけれども楽しい幸せな時間だったし、退団後に知った世間の厳しさと比べたら、劇団の中ではその厳しさから保護されていたことがよく分かったし、世間に流布している劇団内の女同士の争いなど「おままごと」のようなものだった、という話をされていました。
 こう自ら言うことが出来る人たちは、傍目にもキラキラ輝いていて、本当に「恰好いい!」ものです。

○「現実の厳しさ」と言う根拠
 夢を必ず叶えることが出来る原理は、一般法則論の世界観では、その図解の中に位置づけると、人が現に生きている世界Ⅵ(俗世界)にあるのではなくて、これを絶対的に普遍的に超越して存在し働いている世界Ⅴ(進化として知られている過程をへて、絶対的無意識の存在のΩ神が意識のある心を持つ自らの化身かつ分身の存在=ヒト=Ω人として完成して生まれた世界)以前にあります。
 この究極は、ヒトとヒトの住むこの世界の成り立ちと仕組みとヒトの生き方の原理の全てを造った、自他ともに絶対肯定の構えの神聖不可侵のΩ神が実在する世界Ⅰにあります。
 そして、「現実の厳しさ」というのは、世界Ⅵ~世界Ⅶ(過去の記憶/自らに限界を設ける間違ったセルフ・イメージ)や個人的/家族・部族的/民族的/人類的な妄想の塊であるZに根拠を置いているものです。
 Ω神が造っているこの世界の成り立ちと仕組みとこれを造り支える原理を知る者にとって、この働きを妨げる「現実の厳しさ」など何も無いことを知っています。

 日本のサッカー代表がW杯出場を決めたことに関連して、思うことを述べました。

○注記1 電子回路は抵抗器・コンデンサ・コイルの3つの素子+機能素子で出来ている話の根拠
 電子回路が、抵抗器・コンデンサ・コイルの3つの素子+機能素子(これらの電子部品)で出来ている話の根拠は何処にあるのか?
 この事は、つぎの本の48頁以下に説明があります。

 藤村安志 電気なんかこわくない! 電気・電子回路入門 誠文堂新光社 1991年 東京

 なお、誰が、何時、どこで、何の話の中で、そう言っているのかを、一般法則論のこのブログの中ではその出所を明示することを殆どしていません。
 しかし、このブログの中でする話の殆どは、本やマスコミ報道などの既に公に知られている情報に基づいています。
 電子回路が抵抗器・コンデンサ・コイルの3つの素子+機能素子で出来ていることは、この筋/この分野の趣味を持つ方や専門家には常識に属する知識でしょう。
 しかし、このことに関して専門外の私であり、かつ、この本が手近の目に見える所にあるものですから、ここにこの本を示したわけです。
 注記1の終わり

○終わりに お断り
「三歩前進、二歩後退」という成句があります。
 ここに一般法則論の形で説明することがまだまだ沢山あり、かつ、一般法則論で説明していることが本当に正しいのか、本当に役立つのか、その全体を再吟味する何回目かの試みをしていて、ここへの書き込みがしばらく途絶えていました。
 この間、何冊もの本を手に入れて読んでいました。この結果は、一般法則論は、基礎的で普遍的な哲学/ハックスリの言う「永遠の哲学」としてよく出来ている、という確信を益々深めました。
 また、一般法則論が全地球人類の常識(工業製品の規格で言えば「世界標準」 注記2)に速やかになるように、一般法則論の世界観の図解を基にして毎日祈っていました。
 また、人様のブログへの書き込みを殆ど毎日のように続けていました。

○注記2 哲学の世界標準
 今日6月9日の読売新聞の朝刊の第一面と第二面に、「日本の活力」/「世界標準」敗戦続きという記事が載っています。
 ご興味のある方は、この記事を読んで下さい。
 日本で作っている物を自覚的に意図的に戦略的に「世界標準化する」ことの必要性と大切さを知らずに、世界標準から外れた、日本国内でのみ通用する高性能の工業製品を「ガラパゴス化」商品と揶揄して、日本国内でしか通用しない高い性能の商品を作るのはさっさとやめにして、中国やインドの物作りのように機能を基本的なものに絞った安い物を日本でも作るべきだ、という人達がいます。
 しかし、人類全体のニーズと福祉等の未来を考えると、高性能で品質の高いかつそれなりに安い物作りをする日本の工業製品の考え方は、とても貴重なものです。
 物作りの世界を離れた、学問・教育や科学や哲学・宗教・思想等の世界にも、「事実上の世界標準」(デファクト・スタンダート)があります。
 しかし、ヒトがこの世界に存在するようになる前から実在し、ヒトとは何かを絶対的に普遍的に決めている自然法則+エネルギー一体不可分の働きでこの世界の成り立ちと仕組みの全てを説明し尽くそうとしている自然科学でさへ、全人類的にみれば、世界標準どころか、「事実上の世界標準」とも言い難いと言えます。
 更にこれらは、創造主である神+自然法則+エネルギー三位一体不可分の働きで造られているこの世界の成り立ちと仕組みとこれに基礎を置いてヒトの生き方の原理があることを、未だ意識化され自覚化された知識にして、これに基づいてその考えが展開されているとは言えません。
 この世界の成り立ちと仕組みを造り支配している原理を意識化し自覚化して徹底的に説明している一般法則論は、この意味で、この世界の成り立ちと仕組みを造り支えている原理が何であるかを解明する目的で存在する哲学の本質に沿った世界標準の有力な哲学の候補として、先ずは世界に広く知られるようにしなければ・・・、と思う次第です。
 注記2の終わり

 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。