いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

ヒトの悟りの体験は仏の側から仏自らによる情報開示と存在証明によって行われる

2009-10-07 08:02:44 | 悟りの体験
○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に入れ子構造の図解を描いてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境  (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ    (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
         妄想
Ω神= 〔A→   ∥Z→ (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→(M)))))∥〕    Ω=神の国
  ∥        ↑  理法  自然   物的   俗・人・子・文歴  記憶
(心的なD)    M(記憶)        Ω人   人・生・孫・化史  ↓
唯一絶対                                 Z→→→Z


○悟りの体験の持つ自然科学的な客観性について
 前に、悟りの体験の仕方の説明の中で、創造主である神の存在証明は、創造主である神自らにさせる、という説明をしました。
 ところで、悟りの体験は、これを体験するヒト個人の心の中だけで行われます。
 悟りの体験は、物質的な何かに係わる体験、例えば神を名乗る人物に面会するような体験ではなくて、純粋にヒトの心の中だけで行われる体験であることを最初に知る必要があります。
 悟りの体験は、これを体験するヒトの心の中の体験だと言うと、直ちに、それは、個人的なものであり、主観的なものであり、特殊なものであって普遍性が無く、したがって自然科学的な客観性など何も無い個人的な妄想に近いものか妄想そのものだと断言する人たちが現れます。これを(心の存在証明の仕方も知らない)心理学的に或いは大脳生理学的に証明しようとしたり、これができたと主張する人たちが実際にいます。
 しかし、本物の悟りの体験は、悟りの体験をする心の客観的実在性(この存在証明が必要です。一般法則論ではこれをしています)と私たちが生まれ住んでいるこの世界の成り立ちと仕組みの客観的実在性(この存在証明が必要です。一般法則論ではこれをしています)の上に客観的に成り立っています。
 このことは、この文の先を読んで頂けると自然に分かります。
 また、悟りの体験の鍵言葉/キーワードは、一瞬間で行われる「(絶対的)無意識の意識化」です。
 一瞬間で行われる無意識の意識化は、何も悟りの体験の中でのみ行われるのではありません。
 私たちの日常生活の中でもたびたび体験する、何かの記憶を思い出す体験や、「アッ分った!!!」体験でも、無意識の意識化が一瞬間で行われています。
 ただ、悟りの体験では、その殆どがヒトの無意識に在るこの世界の成り立ちと仕組みの全体が丸ごと一瞬間で意識化されるのです。この規模の大きさが、日常生活における記憶を思い出す体験や、例えば中々答えが見つからない数学の問題の答えが「あっ分った!!!」体験するのとは異なる点です。
 以上の話を踏まえて、以下の文を読んでください。

○創造主である神の存在証明の仕方は創造主である神自らにさせる
 本物の悟りの体験がある道元禅師は、悟りの体験の瞬間を「仏の側から(自動的かつ必然的にかつ自然に)行われて(この道元が)仏になる」と表現しました。
 道元禅師が悟りの体験をした瞬間は、道元禅師が「意識のある心」の働きが持つ「意思の力」を使って「これが仏の存在だ」と思い込んだのではありません。
 その瞬間、道元禅師は、「意識のある心」の働きが私たちが普段日常的に体験している範囲を「無意識の心」の奥深くまで拡大するいわゆる「意識の変性状態」になり、自らの「意識のある心」の働きの中核を担っている「自我」/各人の存在の核になっている個人的な「魂」の働きを一瞬間だけ失う「無我」の境地になったのです(注記1)。

○注記1 ここで言う「自我」の説明
 ここで言う「自我」とは、神仏の存在を含めた諸々の存在やこれにまつわる多種多様で様々な思い込み/観念を作り出しそれらを真実の実在のように思い込む「意識のある心」の働きのことです。
 自らの存在と自らが存在し生きている世界に関する自我的なしばしば妄想的な思い込みは、禅の修行では「魔境」と言います。仏教一般では「無明」と言います。一般法則論では、これを「Z」と表現しています。
 注記1の終わり

 道元禅師の心が「無我」の状態になった瞬間に、これに自動的かつ必然的にかつ自然に伴って、全てのヒトの「無意識の心」の根底/奥底に在る「絶対的無意識の心」という存在の「仏」(注記2)が道元禅師の「意識のある心」の中に絶対的に意識化されたのです。
 これが道元禅師の悟りの体験の瞬間です。
 そして、その瞬間には、道元禅師の自我の働き/意識のある心の働きは一瞬間停止しているのです。
 即ち、悟りの瞬間は、道元禅師の意識のある心の働きで、仏の存在を自分勝手にでっち上げたのでは無い、ということです。
 そこで、道元禅師は、自らの悟りの瞬間を次のように的確に表現することが出来たのです。

 悟りの体験の瞬間は、「仏の側から(自動的かつ必然的にかつ自然に)行われて(この道元が)仏になる」。

○注記2「絶対的無意識の心」という存在の「仏」
 全てのヒトの「意識のある心」と「無意識の心」からなる心(注記3)の仕組みの根底/奥底に在る「絶対的無意識の心」という存在の「仏」については、一般法則論で説明している「世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)からなるこの世界全体の成り立ちと仕組み」で言えばーーーー、
 世界Ⅳで初めて物質(三次元の空間)と時間(一次元の不可逆の時間の矢)が誕生する前の、非物質的=精神的/心的で、無次元で無時間の永遠の「今、ここ」しか存在し得ない世界Ⅰに存在するΩ神(天地創造の目的を最初から持っている創造主である神+自然法則+エネルギー三位一体不可分の存在)に当たります。
 注記2の終わり

○注記3 意識のある心と無意識の心の成り立ち
 全てのヒト(宇宙大では宇宙人一般)の心は、意識ある心と無意識(潜在意識)の心で出来ています。
 ヒト(宇宙大では宇宙人一般)の心の誕生とその起源は、世界Ⅰの絶対的無意識の存在のΩ神の心が、物質的→生物的→心理的(大脳的)→霊的進化の過程を経て、絶対的無意識の心の一部が意識のある心の働きとして全面的に機能するようになったヒト(宇宙大では宇宙人一般)の心の仕組みになっていることは、別の文で説明。
 注記3の終わり

 道元禅師の言葉を、以下のように表現し直します。
 「仏の側から自動的かつ必然的に自然に行われて自分が仏であることに目覚める」。

 前から使っている表現の仕方をすればーーー

 神は、岩石の中では眠り、植物の中では目覚め、動物の中では活動し、人の中では自らに目覚める。
 
 これが、悟りの体験、と言われるものです、それも、本物の悟りの体験。
 ヒトが体験する悟りの瞬間は、言い換えると、仏/Ω神の側から自らの存在について情報開示をする瞬間です。
 そこで、本物の悟りの体験をすれば、そのヒトは誰でも、自らの言葉で客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的かつ正確に的確に 仏/Ω神とは何かについて語ることができるようになります。
 「自分は悟りの体験をした」と公言しながら、仏とは何か、悟りの体験とは何かを、悟りの体験の無い人達に理解することができる言葉で語れないのは、その悟りの体験は、「仏/神仏自らが、悟りの体験をしたヒトに、自らの存在に関する情報開示をしてくれた」本物の悟りの体験では無い、と断定するこができます。
 一般法則論者の私も、悟りの体験を1963年の秋にしたとこのブログの中で公言しました。
 今、上で説明したような、悟りの体験の瞬間に、仏の側/Ω神の側から進んで自らの存在に関する情報の自己開示をし、自らの実在性の存在証明を私のためにしてくれた瞬間であったかどうかは、このブログで説明している一般法則論の内容がその真偽を証明しています。

○道元禅師の言う「仏」は一般法則論ではΩ神のこと
 道元禅師が悟りの体験でその存在を知った/発見した「仏」とは、一般法則論で言う「創造主である神(の天地創造の目的)+自然法則+エネルギー三位一体不可分の存在のΩ神」と一つ同じ存在です。

 以上の説明は、「悟りとはつまり思い込みの事ですね。」という問いに関する答えです。
 本物の悟りの体験には、原理的に、個人的で主観的な思い込みが入り込む余地はまったくありません。
 なぜならば、上で説明したように、ヒトの悟りの瞬間は、悟りの体験をするヒトのために、仏/神仏/Ω神自身が、自らについての情報を自己開示をして、自らの客観的実在性とその本質を明らかにするものだからです。
 また、「『哲学の道具箱』という本で哲学的思考の大前提を再確認する(2009/07/02)」の中でも説明した通り、世界Ⅴで初めてこの世界の成り立ちと仕組みの中に誕生したヒトにとって、この前から存在し、世界Ⅴでヒトを誕生させた世界Ⅰ~世界Ⅳの存在の実在性は、所与のものであり、その実在性は万人にとって絶対的に客観的な存在です。
 そして、世界Ⅰ~世界Ⅴは、私たちの日常の言葉では「天然自然の存在」の世界を意味します。
 「天然自然の存在」の世界とは、ヒトが人工的に作った物では無い、という意味です。
 この中には、世界Ⅰ存在の天然自然の存在のΩ神も当然に含まれて居ます。
 天然自然の存在は、自然科学の解明対象です。したがって、天然自然の存在のΩ神の存在も、本来自然科学の解明対象になります。
 理屈から言っても、世界Ⅴの段階で、天然自然の存在の一部としてこの世界の中に誕生し、世界Ⅵ以降で実際に活動を始めたヒトという存在が、自らがこの世界に誕生する前の天然自然の世界を作ることが出来るわけがありません。
 しかし、この極めて当たり前のこの事実を、自らの自覚的な知識にしていない多くの人たちが、「天然自然の世界もヒトの心が作り出して存在させているものだ」という「(社会)構成説」などの形で知られている珍説を大真面目で唱えている始末です。
 この世界の成り立ちと仕組みを認識し解明し理解するヒトの心という存在とその働き/機能ですら、ヒト(宇宙大では宇宙人一般)が自ら作ったのでは無いのは明らかであるというのに!!!!!
 天然自然の世界の創造主である神は、世界Ⅰ存在のΩ神です。これのみです。
 繰り返していいますが、Ω神は、天然自然の存在の一部どころか、世界Ⅰ~世界Ⅴからなる天然自然の世界を創造した唯一絶対普遍かつ不変かつ不動の第一原因者である創造主である神として、世界Ⅰに実在するものです。
 このΩ神に関する自然科学的な知識が、原理的に、個人的で主観的な見解や多数決や信仰で決まるものであるはずがありません。
 また、Ω神の存在を含めて、世界Ⅰ~世界Ⅶ(+Z)からなるこの世界の成り立ちと仕組みの全体をヒト(宇宙大では宇宙人一般)の心の働きで認識し解明し理解できるようになっているのも、Ω神が自らの化身かつ分身の存在に造ったヒト(宇宙大では宇宙人一般)の心がそうできるように造られていることに根拠があります。
 これを、Ω神がこの世界の成り立ちと仕組みを造っている原理=この世界の成り立ちと仕組みを認識し解明し理解する原理=各人の人生と文化・文明的な諸文物を創造する原理=これらのことを認識し解明し理解しまた創造するヒト(宇宙大では宇宙人一般)の心の成り立ちと仕組み、という関係があることも、既に説明済みです。
 以上の説明を全部ひっくるめて、初めて悟りの体験が可能であることの根拠やその中身の自然科学的な客観性が説明できることになります。

 世界の進化の世界Ⅴ段階(約6万年前)にヒトがΩ神の化身かつ分身の存在として誕生してから現在まで、全人類が総掛かりでその解明に取り組んできたこの世界の成り立ちと仕組みを、一般法則論の形で統合し総合化して説明するという試みをしている、という自覚が、この前の文を書き終わって次の文を書いている最中に突然に生まれて、書いている文を中断して改めて私自身の知識の棚卸しをしておりました。
 この中で、この文は、あるブログに投稿する前に説明しておかなくてはならない、と突然に思いついて書いた文で、内容も構成も未処理です。


 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。