Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

至恩郷と伊勢の旅2004年2月

2009-07-23 20:39:26 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

二見の夫婦岩前で

2003年2月28日 岡本天明さんの至恩郷と29日伊勢神宮にお参りした。

実は、まだ日月神事は中矢伸一さんの艮の戦を読んだばかりで、驚きの方が強く、もう一つ呑み込めてなかった。

四日市駅で合流し、至恩郷に行った。今回、以前出版社に勤めており、先月亡くなられた三典婦人にお会いした事があるという人が同行した。

三典婦人はお出かけになる前で、焼け残っていた月の宮でお相手してくだっさった。

至恩通信を頂き、画集と本を分けていただき、お出かけ前なので、失礼した。

近くに自然薯の茶々という店があり大変込んでいたが、とろろと、珍しい古代米を頂き、とてもヘルシーで量が多く、美味しかった。

 電車での旅だったので、二見に着いたのは、夕方近く、上の写真になぜか、十字架の影が写っているが、何かあるのだろうか?2年後また行ったが、判らなかった。

その夜は鳥羽で宿を取り、伊勢海老を堪能したが、お昼を食べ過ぎたのと、疲れとで、あまり手が出せなかった。(アベックならば1万円と言うプラン、若い二人には気の毒だが、それで申し込んだ。当然、女同士、男同士の部屋割り)

翌日は外宮にお参りし、内宮にお参りした。鳥居をくぐったとたん、エネルギーが違うのを感じた。

お仕事をするノワタリさん

内宮をお参りしているとき、風も無いのに、白い幕がフワ~と上がり、中を見せてくださった。この時を含めて、3回お参りしたが、あり難い事にいつもそういうことが有った。両神宮の木々はとても立派で、手を当てて、エネルギーの暖かさを実感した。

一緒に行った元出版社にいたと言う人は、今は造園業で仕事中に足の指を骨折しており、その職場では事故が多いと言う。ノワタリさんとはその怪我が縁で知り合ったと言う。木を切る前にお清めして、お断りをしてからすると、事故は起きないそうである。

その後、おはらい町とおかげ横丁を見物し、豚捨ての2階で伊勢牛を頂いた。何とお代わりをしたのです。(肉食して、すみません

今回はお宮さんよりも、食事ばかり記憶にある。

2年後、伊勢神宮をゆっくりお参りしたので、その時に、神宮の事は書きたいと思う。

写真はすべてノワタリさんのものです。

 

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玉置神社

2009-07-21 21:39:55 | 日々のつぶやき

さて、本来の旅行の話に戻ります。

阿蘇から戻り、年が明けて、知り合いの人が家を建て替える間、私に向いた本を100冊程預かった。又、小耳に挟んだ本のタイトルで、必要と思える物は探して購入した。

ノワタリさんと熊野に行く約束をしたが、「熊野に行くんだけど、はっきりしないのよ。一つは滝、一つは山、そして岩なんだけど何処なのかわからない。」と言われていた。(ずいぶん前なので、これも不確かだけど)

どのコースを歩こうかとか、宿は何処にとろうかと思案していたところ、参加者が一人増えたと連絡があった。

1月のある晩10時頃、その男性から電話を貰った。始は互いに「よろしく」とかの挨拶だったが、何故か、電話を切る頃には、互いに譲らず言い争いになった。何で揉めたかなと思い返しているうちに、思い出した...。(顔をあわしたことも無い人と喧嘩するのも、珍しいと人に言われた。私もそう思う。)

私の立てかけているプランは壊され、彼は自分の計画を強引に押し通した。なぜ、途中から割り込んできた彼に振り回されないといけないのか?苦労して前日から夜行バスに乗り電車を乗り継いで、松阪迄行って合流するはずなのに、現地集合とは...行ける筈がない。「それも判らないのか、大バカ野郎!」と思ったが、ぐっと堪えて、それは口にしなかった。後で、彼に聞いたら、向こうもイラついて、を投げたそうだ。お互い様

結局、電話を置いた途端、腹立しさが収まらず、眠気は吹っ飛び、イライラしてもう寝るという事はできなくなっていた。仕方なく、預かった本でも読もうと1冊の本を取った。

「万世一系の原理と般若心経の謎」霞ヶ関書房 浜本末造著であった。

偶然にも、この中に熊野大社の奥宮と言われる玉置神社の事が書いてあった。

天啓で書かれたような不思議な内容で、ぐいぐいと引き込まれた。

これはと思い、ノワタリさんにメールを送った。夜中の2時になっていた。

「ネコちゃん、これです。その神社に行きます。」との連絡が来た。瓢箪から駒とはこの事だろう。でも、言い争いがなければ、これって見つからなかったのだろうか?

この玉置神社には、それから毎年のように、お参りに行く事になる。

その前に、至恩郷と伊勢神宮に行く事になった。

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突然の訪問者

2009-07-20 20:05:25 | 霊現象

昨晩は、疲れており9時半頃に横になり寝てしまった。12時過ぎに一度目が覚め、ポーランドに住んでいる人の夏休みの過ごし方を聞いているうちにまた、寝てしまった。

どのくらいの時間だろう、コツコツと静かに階段を上がってくる靴音がする。そして、私の部屋の戸の開く音がした。

「あれ、鍵は閉めたはずだがな」と思ったが、やがて薄暗闇の中に黒い影だけが余計に黒く見えた。

「今夜、ここに休ませて下さい。」と、若い男の声して、私の足元に横になった。

「いや、それはまずい。おばさんだといっても、女の一人暮らしだから 出来ない。」とお断りしたが、出て行った記憶はない。ラジオから、山下達郎の高気圧ガールが流れていた。また、ウトウトと寝入ってしまった。(後で調べると、達郎の歌は、2時47分にかかったという事だった。)

 朝になり、夜中の事を思い出した。あれは、夢か?否、確かにやって来た。起き上がると、背中がいやに痛い。たぶん、何かよくない物が憑いているのではと思い、ノワタリさんに朝っぱらから電話をした。

訳を話すと、「ちょっと待ってね。あら、すごい寒気よ。う~ん、自殺者ね。あなたを頼って来たのよ。すぐお清めして!ほっといたら、心まで入られちゃうと、大変だからね」と言われた。

頼ると言われても、私にはそんな力はない。来るのは間違いだ。すぐさま、体を清め、玄関に盛り塩を置き、香を焚いた。

「すみません。のきましたでしょうか?」と、ノワタリさんに、お尋ねした。

「上手になったわね。大丈夫よ。」と褒められた。そりゃ、年がら年中、憑けて来ては、清め、憑けて来ては、清めを繰り返しているもんね。

が、 しかし、学生の頃、下宿で、やはり、ウトウトとしていると、廊下の窓の外を人影が見えた。「あれ~、カーテン閉め忘れたかな?」と思ったら、ドアがスーと開き、枕元にドスンとすわり、「は~~」と大きくため息をする女の声がした。下の部屋の女の子だと思い。彼女の名前を言おうとした途端、金縛りになってしまった。

体が自由になるとすぐ、私は枕を抱えて、起きている人の部屋に駆け込み、その夜を過ごした。

その下宿はエネルギーが悪く、私は1ヶ月もしないうちに体調も悪くなったが、なぜか、4年間そこに住み続けた。出て行った後、1ヶ月余で 私の真上の部屋の人が自殺したと、人に聞いた。祓えない時は、本当に大変でした。

昨夜の事を母に話すと、ケタケタと笑っていたが、「恐ろしかったでしょ。」と言われた。ノワタリさんのお陰で、今は、それほど怖くは無い。

今恐ろしいのは、こんなに政治が混乱しているのでは、ある日目覚めたら、昔、ヒットラーとスターリンが、青鉛筆と赤鉛筆でヨーロッパ地図に線を引いて分けたように、、また、ロシアとアメリカと中国に線引きされて、日本と言う国が無くなっているのではないかと思う事である。 極端な考えであろうか?

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コンサートに行ってきました。

2009-07-19 14:19:08 | 日々のつぶやき

昨夜、久しぶりのジャズコンサートがあり、ボーカルのチカ.シンガーと地元のジャズトリオに友達のチエさんと行ってきた。  その町の駅前

少し離れた明治から昭和初期の面影を残す町にあった。久しぶりに通るその商店街は丁度、夜市で、金魚すくいや,かき氷や、たこ焼き、ゲームなど町の人達が準備していたが、立派な古い昔の家屋も私の住んでいる所と同じく閉まった所が目に付き、寂しさを感じた。 

 大正時代に造られた古い劇場で催されたが、世話人が私の町の人なので、顔見知りが多かった。「スイングしなけりゃ意味が無い」で始まり、よく知られているスタンダードナンバーが多く、観客は中高年ばかりで、みんな乗っていた。アットホームな雰囲気で、おしゃべりもうまく、花束贈呈などもあり、7時から始まったコンサートは途中の休憩も10分余りで、後半はチカさんは、ドレスを着替えて熱唱し、あっという間に2時間足らずのコンサートは終わった。サインの入ったCDもよく売れたそうだ。

風情のある古い劇場

帰り道、坂本冬美の公演と ケイコ.リーのコンサートを思い出した。

 昨年、偶然手に入った坂本冬美ちゃんのコンサートに同じくチエさんと行った時、入り口で、チケットと交換にこれからの演歌歌手の公演の案内と割引券の入った厚い紙袋を渡された。

その夜の観客も前半分は、地元ファンと追っかけらしく、みんなプレゼントを用意していたり、冬美ちゃんグッズを持っていた。

ファンではない私達も、和太鼓奏者や尺八の演奏もあり十分楽しめ、満足したのだが、最後の曲になり、緞帳がまだ下まで下りないうちに、人が席を立って 動き出した。

我先に出口へ向かっている。冬美ちゃんも緞帳の下をくぐって手を振っていたが、...。前半分の人たちはアンコールを待っている様子であったが、私達もしらけてしまい、もう歌を楽しむという気もしなくなってしまったので、外に出た。

唖然としたのは、床にはちぎれてクズクズになったオアシスと、「坂本冬美さんへ」と書かれた花入れの札が散乱しており、ステンレ製の花入れがころがっていて、おばさん達が贈られた花の争奪戦が始まっていた。何と 恥ずかしい! たぶんこの人達は、割引券で公演に行き慣れた人だろうと思うが、とても嫌な気がして、コンサートの余韻も吹っ飛んでしまった。 

大通りに出るまで、数人のおばさんが、誇らしげに、戦利品を誇示するかのように花を抱きかか得ているのを目にした。中には葉物しか持っていない人もいた。嘆かわしい! 

10年近く前、ケイコ.リーのコンサートに数人の友達と行った。開演時間の7時をちょっとすぎて始まった。どういう歌を歌ったかはもう覚えていないが、休憩時間が長く、20分たっても出てこない30分たっても、結局、45分以上待たされ、演奏者たちは明らかに、飲んでましたと言う顔ででてきた。 終了したのは、10時近く、アンコールの要望もなく、観客は一目散に出口にドドドドーと向かい、出て行った。誰もCDを買わず、帰った。

演奏者の皆さん、田舎の夜は早いのだ~。

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グアム慰霊の旅 2

2009-07-17 22:36:39 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

グアム3日目は まず、アデラップ岬に行った。

上記の写真に小さなオーブがいくつか写っているが、ここに立っただけで、、とても悲しくなった。

「ねえー、歌ってよ」と言っている気がしたが、ノワタリさんが「若い少年兵たちが、たくさんいて、『お母さん!お母さん!』と言って泣いているわ。唱歌を歌って欲しいそうよ」。と言われ、私達3人は知っている小学唱歌を泣きながら歌った。母さんの歌、ふるさとなど、何度も繰り返し歌った。

ここは太平洋戦争国立公園で、米軍が、上陸した激戦地だという。日本統治時代はこの辺一帯はの水田地帯の長閑な写真があった。

ここには、古い砲台の残骸やトーチカがあった。「先ほどのアデン岬と対象的に、年配の兵士達なので、覚悟をされて戦った。」と、ノワタリさんは言い、歌いながら回られていた。「ここ!ここ!」と言われた所に、水や粗塩を私達はまき、般若心経、光明真言を唱えた。大正生まれの父によると、グアムは戦勝国の米国は日本よりも犠牲者が多く、日本は死守する為に、粘ったそうだ。ただ、トーチカは火炎放射器で焼かれたり、ガソリンを投げ込まれたらしい。惨い!とても 気が重い。

そうするうちに、日本人夫婦が慰霊にやって来た。

そう遠くない所にマリンパークがあったが、知ったら、遊ぶ気もしないだろう。

私達は南へ進んだ。グアムには珍しく山道になった。

山を降りると、ずっと海沿いの道を走り、南端へ行った。集落のお店で、水と塩を買い、ノワタリさんがコカコーラを買った。ここのコーラは日本で飲んだよりも、ずっとスッキリして美味しく思った。これは3人共意見が一致した。(帰国して飲んだが、なんか違う。)

南端は低く、海の中に林のように木が生えていた。

いくつかの集落を過ぎ、太平洋側の岬を目指した。山側に横井さんの住んでいた所の反対側の海辺に向かって進んだ。太平洋は見えているが、道が途中で無くなったり、分岐の道を誤り、行ったりきたりした。

それ以上進むと、車を出せなくなると思い、途中で、車を置き、徒歩で進んだ。前方の草むらの中から、子供達の声がして来た。トラックが置いてあり、その先には洞窟があった。  洞窟の入り口

 洞窟の中は広く、7~8人の家族が泳いでいた。外の海とつながっているらしく、やはりここも、日本人が逃げてきた所らしい。邪魔をしないようにお清めをした。

おばあちゃんと両親と子供達だった。親切に車の所まで乗せて行ってくれたが、車のトランクは何者かに、開けられており、私達はみんな ぞっとして背筋が寒くなった。近くにまだ誰か潜んでいる気がして、怖いので、広い道に出るまで、誘導してもらい、別れた。

ノワタリさんはあの家族は上(神様)が使わされたのだろうと言った。

その後、パゴ岬の近くに行き、お清めしたら、もう夕方になっていた。それで終了。

その晩、疲れて、ノワタリさんはオイルマッサージを頼んだが、オイルが合わなかったといって、返って辛そうだった。私は、いきなり左肩にドン!と来たと、思ったら、背中の痛みがぶり返した。

最後の朝は、ゆっくりと、ハイアットリージェシーで、(私達が泊まったホテルとは段違い)朝食を楽しみ帰国した。

後で、気づいたが よくガイドなしで回ったなと思った。

グアムと言えば、マリンスポーツとゴルフとお買い物だが、全部 私達には関係なく自分に買ったのは日除けに買ったキャップだけだった。

東京駅で 春に熊野古道に行く事を約束して別れた。

電車の中で座っていたが、急におなかの内臓を摑まれ、五臓六腑をシャッフルされたようになった。電車の支柱を掴み、ほんの数十秒だと思うが脂汗が出てきて動けなかった。後にも先にも、このような経験はない!これって 何

ノワタリさんの所に その夜、立派な将校姿の人がお礼に現れ、敬礼して姿を消したそうだ。

例のぎっくり腰を治してくれたおじいさんにも、グアムに行ったことを話すと、さめざめと泣かれ、お礼を言われたそうだ。(おじいさんも、戦争でグアムに行っていた。)

この写真もノワタリさんの撮影です。

 

 

 

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