Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2005年広島 宮島

2009-11-27 09:31:44 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

2005年8月の平和記念日の前日の広島に行った。原爆が投下されて60年もたっているのに水を口にしてはいけないと言われていた。当然、食べ物も駄目で残念ながら広島風のお好み焼きも食べる事ができない。一番最初に着いた私は駅の構内の飲食店の看板を横目に見ながら、ペットボトルの水を買った。しばらくして、ノワタリさんと妹と駅で合流した。いつもの酒や水、塩の他お花やお線香を用意してきたが、駅の売店にそれは多く置いてあった。まずお茶を飲んで一息つくと言う所だが今回はそれもままならない。

すぐタクシーに乗り平和記念公園の方に出かけた。角を曲がった途端、ノワタリさんが「あら、やだ~呼んでるわ。おいでおいでって言ってる。」と言って苦笑した。その方向を見るとコンクリートの建物の上の赤い鳥居のお稲荷さんが見えた。それは帰りによる事にした。前日とあって、催し物の案内や平和団体がスピーカーで叫びながら行進しているのを目にした。

まず最初に、爆心地に行った。もし、普通の家が建っているのなら怖いなと思ったが、繁華街の駐車場だった。説明版があり、それを読みながら付近を歩いた。

平和公園の中に入ると沢山の人お掃除をしたり、翌日の準備をされていた。

原爆死没者慰霊碑、原爆供養塔、いろいろな石碑、平和の鐘、周ってお参りした。亡くなられた同胞の方達の慰霊碑に韓国の人達もお参りされていた。はすの花が咲いていたように思う。そしてドーム前の川でお水や塩、御神酒を撒き、花を流し、ノワタリさんは歌われた。その間私達は般若心経、観音経、光明真言を唱え、お参りした。護岸は綺麗に整備してあり、水は綺麗だった。しばらく祈り、又公園内に入ると、原爆の子の像があり、沢山の千羽鶴が奉納されていた。そこに来ると人も多かった。そこを離れ 人気の無いベンチで一休みして、昼食代わりに持参したラスクを口にした。

30年前、友人がもっと河口の方に住んでいる時、「今でも川から人骨が出るのよ。」と言っていたのを思い出した。母が呉の海軍工廠に挺身隊で行っている頃、学徒動員で多くの学生達が来ていたが、先生になるといって広島に帰った学生達達が運の悪い事に犠牲になったと言う話を思い出した。毎年、この頃原爆の特番が多いがその頃被災に遭う会う前の町の地図を復元したという番組あった。戦争とは言え、一般の市民を犠牲にしてしまうとは惨い。小学校5,6年の頃その写真集が図書館にあり、開けたが余にも惨く最後まで見ることは出来なかった。今、この国、世界のあちこちににたくさんの原子力発電が作られているが、ミサイル一つで一瞬にこれ以上の被害がでてしまう。生活の利便性と引き換えにそんな危険と背中合わせに私達は生活している恐怖を感じた。

大田川は先ほどの川とは全く違い、船が多く停留していたが生活排水で濁り、臭さかった。こちらの川で亡くなられた方も多いはずだが...と思っていたら、ノワタリさんが「ここもお清めよ。」と言われたので、近くのコンビニに走り、川辺まで降りて水、塩、御神酒を撒いたが、1度では済まず、何度も何度もコンビニを往復した。花が無いので丁度川沿いの木に赤い花が咲いていたので、それをみんなでもぎ取って川に投げ込んだ。又そこで、ノワタリさんが歌われ、私達はお経を上げた。歌が終わる頃、澱んでいた川の水は花と一緒に流れていき、臭いも鼻につかなくなった。「喜んでいるわ」とノワタリさんが言われた。駅に行く前に先ほどお呼びのあった神社でを降りて、びっくりした。「水木しげる、荒又宏、京極夏彦」という怪しげなお三方の名前の書いてある幟がはためいている。

それだけでも怖い稲生神社と書いていなり神社と読むそうだ。ご祭神様は豊受大神、大国主命、稲生武太夫公霊神とある。この最後の神様が妖怪退治をされたと言うので幟の訳は解った。五穀豊穣、商売繁盛、魔よけのご利益があるそうだ。享保年間の大火災を免れた事から火災よけの神様であるとも書いてあった。

コーヒーを飲む事も、食事も出来ないので宮島の船乗り場までJRで出た。船乗り場でもうここまで来ればよいだろうと思い、シューアイスを買って食べたが、袋を見て、大笑いした。製造は広島市内だった。

 

 

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 沖縄慰霊の旅 2005年6月 | トップ | 2005年広島 宮島 2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

神社 エネルギースッポトを巡る旅」カテゴリの最新記事