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保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

保津川という自然との戦いから学ぶ、共生の技術と知恵、そして心。

2012-07-30 17:20:29 | 船頭の目・・・雑感・雑記
平成7月15日未明、京都市北部と亀岡市を記録的な豪雨が襲った。
1時間に約90ミリ~100ミリも降ったという猛烈な雨は、我々の仕事場である保津峡にもその鋭い牙を剥いた。
保津川では、川幅が狭くなる渓谷部の水量が僅か1時間余りで通常の6倍以上も上昇し、
激流と化した川の流れは護岸と河床を荒らした。

翌日、雨雲が去り、川の水位が減少するにつれて、その被害状況に愕然とする。
川は巨岩が多数流石し、河床の高低も大きく変化している模様。
また、渓谷に降った激しい雨は山々をも崩し、観光列車の線路を埋め塞いだ。
遊船組合は協議の結果、7月末までの運休を決定した。
また、渓谷を走る嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車も8月上旬までの運休を決めた。

本来なら賑やかな観光客の歓声がこだまする夏休み前の保津峡は、この豪雨により静かな夏を迎えることとなった。

振り返ってみると、保津川下りの歴史は自然という川との戦いにより綴られている。
その戦いの中で気付かされるのは、自然との共生する知恵と心だ。

広大な丹波山地の谷川を多く集め、亀岡盆地のはずれ、JR山陰線馬掘駅付近から深い渓谷へ入り、
山々を縫い蛇行しながら嵐山へ流れていく間を保津川と呼ぶ。
太古、徐々に地表面が隆起し、川が長い年月をかけて侵食して生み出した
穿入蛇行(せんにゅうだこいう)のV字形の渓谷だ。
川底の侵食が隆起部を勝っていたために、流路をあまり変えることなく、
もとの蛇行形は残してはいるものの、渓谷内は川幅も狭く、流れも強く複雑なため、
自然の要害と呼ばれ筏しか流すことができない川だった。

この様な渓谷の川に、舟の通行を可能したのが、嵯峨の豪商・角倉了以・素庵親子であったことは、
ここでも何度も書いている通りだ。
記録によると、開削前の保津川は、いたるところに巨岩群があり、
その岩を除去または破砕して航路を確保しなければならなかった。
今回のように水中にある大岩は、舟に櫓を組んで、梃子を応用して除去、
また今も変わらない滑車によって引っ張り上げた。
水面に出ている巨岩は火を炊いて熱し、水をかけ破砕した。
川幅の広い浅瀬は、水寄せと呼ばれる石積みの水制工や木工沈床などを設置し水を絞り、流れをつくった。
また、小さな浅瀬は深く掘り下げ、滝のように落差の大きい瀬は、底を削って下流との差を少なくするなど、

了以たちは、当時では最先端の土木技術を駆使して、舟の航路をつくり出した。
自然のままの保津川に、人工の工法、人の手を加えて舟の通行を可能にしたのだ。
ただ、自然はいつも、人工の構造物をそのままにして許しておかない。
元の原風景への復元を望むかの様に、度々猛威を振るい構造物を押し流し、河床を埋め戻す。
その度に、舟は運航不可能に陥る。船頭は丘に上がらなくてならなかった。

私が知っているだけでも、平成7年の梅雨の豪雨や平成16年の台風23号では大増水による
巨岩流石で20日以上の運航中止。
さらに保津川開削400周年の年であった平成18年の壁岩落石での約1ヶ月にも及ぶ運航中止もあった。
自然の猛威はなにも豪雨だけではない。平成6年には日照り続きの夏となり、
大渇水による40日運航中止なども強烈な思い出として脳裏に残っている。

このような自然の無情ともいえる差配の度に、我々船頭は職を守るために懸命に戦ってきた。
そして、今回の事態もこれまで同様に、果敢な挑戦を挑んだ。
「川でいきる」ためには、自然への挑戦をあきらめる訳にはいかない。
険しい渓谷内には重機を入れることは適わなく、人の手作業・人海戦術でしか川の工事はできない。
船頭は今も昔も、了以以来から継承されている川工事の技術を駆使して、再び航路確保の川工事を行うのだ。
そして、その度に運航再開に漕ぎつけ、開削以来、406年途絶えることなく、
保津川に舟が流れる風景を守ってきた。
しかし、これは川を制し、川との戦いに勝利したのでは決してない。
もともと、自然との戦いに勝者も敗者もいない。
航路を確保したとしても、一時的に川を制したに過ぎず、また、いずれやってくる
自然の猛威の前に脆くも崩れ去ることを私たちは知っている。
結局、船頭たちは自然へ僅かの手を加えさせて貰っているに過ぎない。
自然が起こす現象を、まずは全て受け入れ、その後に先人から培ってきた伝統の知恵と技術で対応するだけだ。
そうして船頭たちは、何度も何度も川の工事、作業を繰り返し、今まで生きてきた。
自然のどんな姿もすべて受け入れ、生きるために手を加えていく。
自然の計らいで姿を自由自在に変える川と‘共生’する知恵の学びが保津川では展開されてきた。
川に生きる‘川人’たちは川があるから生きていくことができる。
その川に、少し人工の工夫を施すことで生きていくことを、期間限定付きで許されているだけだ。

自然から受ける恩恵はこの上なく大きい。
しかし、一番、恐ろしいのも自然である。
美しかった川が一転、牙を剥けば、川人の生活はたちまち窮し、最悪の場合、命すら脅かされる。

観念や想像ではなく、生活に直結する実体験として自然の恩恵と畏怖を味わい、
その両面を合わせ持つ保津川の本当の姿を一番知っているのは川人である船頭たちだろう。
だからこそ、川と人との関係性を、先人から受け継いだ知恵と技術、そして記憶の中から、
時代を超えて導きださねばならい。
独自の自然観を後世に伝えていく使命があると強く感じている。

今日から保津川下りの運航が再開する。
間違いなく今年は400年の歴史に残る年になったと思われる。
ぜひ、今回の記憶から得たものは何か?後世にしっかり伝えていかねばと思っている。

台風接近!荒れ狂う自然の猛威から気づくこと。

2012-06-19 14:10:31 | 船頭の目・・・雑感・雑記
強い勢力を保ちながら日本列島に近づく台風4号は、今日の12時には足摺岬の南約210kmにあり、
北北東の方向へ毎時55kmで進んでいます。中心気圧は965hPa、中心付近の最大風速は35m/s。
すでに京都では午前中から激しい雨が降り、保津川の水位も徐々に上昇しております。
この調子で近畿に接近または上陸を果たすと、今後、河川増水も十分に予想されることから
流域並びに支流河川附近の方々は水位の変化に十分な注意をして頂きたく思います。

また、東シナ海上を北上する台風5号も日本列島をめざして進行中なので、ダブル台風に挟まれた
梅雨前線が著しく刺激される可能性もあり、今後の降り方がとても心配になってきました。

しかし、近年、自然の猛威は本当に凄まじいものがあります。
降れば豪雨で土砂崩れと洪水を招き、照れば40度の炎天下、寒くなると豪雪で機能マヒ、
吹けば竜巻がとぐろを巻く。そして、大地震で大地を激しく揺らし、海からは津波が。
そういう運命を背負った国といってしまえばそれまですが、近年における自然の暴れ具合は
本当に戦慄すら覚える激しいものとなっています。

そして、いつの時代も人間はこの自然の猛威の前にまるで無力です。

いくら近代科学文明が発達したところで、ひとたび自然が凄まじい勢いで牙をむけば
人はなすなすべのなく、逃げ惑うしかない。これは今も昔も変わることがない。

「いや、人はその英知で自然を一部制御することができたではないか」と主張される方もいると
思いますが、所詮、最低限の防御をしているに過ぎず、いわゆる想定外などと表現される
自然のパワーの前には微力な抵抗でしかなく、結局は安全といわれる、これまた自然が
つくり出した場所に逃げるしかない。
たしかに、自然という本質を生み出さない、間借り人である人間が、微力でも避難する人の
安全を確保できる科学技術を持ったことの偉大さは評価するとしても、やはり、自然の
大いなる力の前には、人間の英知を結集しても完全な制御はかなわず、役に立たないことを痛感させられます。

この自然は人間がつくり出したものではありません。人間も自然の一部ですが、人間自身も
人間がつくり出したものではありません。山も、川も、海も、空も、大地も人間が創造したもの
ではなく、また花や虫、動物などの、この世界に生きるすべての‘いのち’も
けして人間がつくり出したものではありません。
人間は、自然の恵みにより‘生かされている’存在であり、恵みがなくなれば、ひと時も
生きていくことができない存在であることも、また間違いのない事実なのです。

「太陽の光」や「水」そして「空気」という自然の中に当たり前に存在する世界の中で
人間をはじめ命あるもの全ては生きていくことができます。
この‘火’`水’‘風’の恵みこそ‘いのち’の根源であることに気づく。

この広大な自然なるものの働き、この事実を意識するだけでも、自然は人間の力を超えた
大いなる存在であることに容易に気づくはずです。

しかし悲しいかな、人間は恵みだけを享受していては、これが当たり前だと勘違いし
その恩恵をついつい忘れがちになるものです。
さらに、自らの英知のみを過信し、自然を我がものとして自由に利用できる考えてしまいます。
そして人は遂に「原子」の力さえ、自由自在に操れると科学技術を盲信し、人類を何度も
破局に向かわせるほどの力がある兵器すら手に入れてしまったのです。

人間が自らの科学技術に慢心し、自然を制御しようとすればするほど、自然は
さらにその技術を上回るほどの猛威を見せ、人に迫ってくるかのようです。

台風をはじめ時折、見せるこの自然の猛威は、私たち人間に謙虚になることを促し、
新たな価値観のもと、共生して生きていくことの必要性を教えてくれているのでは・・・

私はいつもそう感じるのです。


‘おもてなしの心’恐るべし嵯峨野観光鉄道トロッコ列車!

2012-04-10 17:13:45 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今、嵯峨野観光鉄道トロッコ列車の人気が凄い!

我々保津川下りと同様に京都嵯峨亀岡の「保津峡観光」を盛り上げている
嵯峨野観光鉄道トロッコ列車。年間約100万人の乗車客を誇る観光列車だ。

昨年、トロッコ嵯峨駅横に併設し開業した「ジオラマ館」は今年、
新たにプラネタリウムを開設した。
リニューアルしたジオラマ館は連日、大勢の観光客でにぎわっている。

この嵯峨野観光列車が保津峡に姿を現したのは、平成3年とまだ20年弱。

このルートはかつてのJR山陰本線の一部だった。

単線ディーゼル列車という不便さから平成元年に廃線になった路線だ。

有効活用の視点から観光列車として復活はされたが、当初はまったく
期待はされておらず「まあ、3年くらいやってみて、ダメだったら廃線にしよう」
くらいの感じではじめられた事業だった。

そこにはたった8人の社員がJRから出向され、親会社から与えられたのは
「切符売り場の小屋」と「屋根なしホーム」そして現役を引退したディーゼル列車一台のみ。

この最低限の設備投資を見てもまったく期待されていないことが明らかにわかる。

廃線の線路は雑木や竹、草が生い茂り、眼下の保津川などまったく見えない。
「美しい保津川の展望」など何処にもなかった。

専門業者など雇う予算など全くなかった。

社員たちは毎日、総出で腐った枕木や沿線に散乱するゴミを回収し、
雑木や竹を刈り取る作業に精を出した。
車庫も社屋もすべて手作りだった。

そして迎えた開業の日、平成3年4月27日、列車は終日、満員御礼!
初年度は計画の3倍に当たる68万人を計上した。

それでも周りは「いっときのブームだろう~」「3年見ないとなんとも・・」
などと、トロッコの人気継続には懐疑的な目を向けていた。

そんな危機感は当然、社員にもわかっていた。

でも、大事なのは周りの評価ではない。
お越し頂いたお客様にどう喜んでいただくかそれが大事だ!
まさに‘おもてなしの心’!

その年から社長自ら駅務の合間を縫って、嵯峨から亀岡間の保津峡沿線に
桜やモミジの木を植樹した。社員たちも力を合わせ景観美の創造に汗を流した。
なんとその数7000本。
四季折々の美しい渓谷美をご覧になって頂き、幸せな気分に浸ってもらう列車の旅。

その心が観光客に伝わっているかは、現在、トロッコ列車に毎年平均100万人
が訪れるお客様と不動の人気スポットになっていることが証明している。

トロッコ列車事業の成功を評価され、JR本社の取締役となった
現社長の長谷川氏は、その栄転のポストを捨ててトロッコ列車に
戻ってきた。
創業当時に苦労を共にした社員たちと生涯仕事がしたい!
その思い入れの強さがわかるエピソードだ。

そして今、トロッコ列車はさらにお客さまへのおもてなしの心を進化
させている。

鉄道の新しい魅力を伝えたいと、駅舎の隣に19世紀ホールを建設
D51蒸気機関車の展示や鉄道ファンを魅了するオリジナルグッズ、
そしてカフェなどなど・・・
昨年は日本有数の規模を誇るジオラマ館の建設、そして今年は続いて
そのジオラマ館の上空をプラネタリウムの☆の光で飾った。
常に新規の設備投資を投入し、訪れる人を楽しませる仕掛けを忘れない。

また、社員によるマジックショーや歌のイベントなども手作りで行い
お客様と一体感のある催し企画が好評を博している。

恐るべき嵯峨野観光トロッコ列車!

これだけ徹底したおもてなしの心、サービス精神はどこからくるのか?

私は、創業時の精神が今も息づいていることが大きいと思っている。

苦労を共にし、夢に向かって歩んできた心が、その精神を生み出し、
企業精神として根付き息づく、とどまることがない躍進の原動力になっている。

我々、保津川下りが学ぶべきところは多いと感じる。

そして我々も角倉了以という偉大な創業者を持つ企業なのだ。
了以は、16世紀に海外貿易と河川開削による舟運事業という公共事業の先見性、
さらには事業の合理性と計画性の高さ、そして何より冒険心と志に裏付けられた
意志の高さと強さ、スケールの大きさを有した稀代の企業経営者だった。

それだけではない。
東南アジアの貿易に際し「人を捐(す)てて己を益するに非ず」という「舟中規約」
まで残している。その中には
「他人に損失を与えて、自分の利益を得ようとしない」という角倉家の
商道徳を掲げるという近代企業モラルの原型ともいえる精神が息づいている。

了以の持っていたこれらの精神を今、我々の企業に甦らすことで、
保津川下りもきっと未来永劫、隆盛を得ることができるはずだ。

組合員一同の奮起を期待したい!


こんな人生の物語~誕生日を迎えて~

2012-02-24 01:15:43 | 船頭の目・・・雑感・雑記
21日にこの世に生を受けて46回目の誕生日を迎えることができました。

気がつけばもう46年も生きているのですね。

「人生は短い」という言葉もありますが、本当に月日の経つ早さに驚きを禁じえません。

いったい、いつこんなに歳をとったのだろうか?

夢を抱いて勉学した学生時代。

ガムシャラにつっ走ってきた新米社会人。

そして結婚。

子供が生まれても、まだ「俺には若さがある。俺の人生はこれらからだ!」
などといつも思っていたような気がします。

それが気がつけば、もう人生の折り返し地点をとっくに済んでいる歳になっていたのですね。

これから、自分にはどのくらい時間が残されているのかな~なんて考えることが最近はよくあります。

そして、一日一日がとても大切に感じられます。

今、こうして生きて、PCに向かい自分の思いを文章に残せることに
言いようのない幸福感を味わっています。

今できること、書くこと、話すこと、走ること、跳ぶこと、すべてがうれしいいのです。

この思いに至ることができたことが、先人たちのいう人生の深みを知るということなのでしょうか?

若い頃には感じることができなかった人生への愛おしさというヤツでしょうか。

この思いに至ったこの誕生日を機に、私の生きた記録として自分史を書きはじめようと思います。

いったい自分にどれくらいの時間が残っているか、わかりませんが、
私という人間が確かに生きていたという証明のため、
そしてなにより自分自身に自らの人生の価値を確認するために。

どんな内容で構成するか、どこから書き始めるか、まだまだ漠然としていますが、
書いていくうちに、どうにか恰好がついてくるでしょう。

川で生きる男のこんな人生の物語・・・さて、舟を漕ぎだすとします。


川で生きるもののアイデンティティ~清滝川と私~

2012-01-26 01:02:03 | 船頭の目・・・雑感・雑記
皆さま、お久しぶりです。

書き上げなくてはならない原稿が3つも重なるというハードな日々の
お蔭でブログを更新する時間が取れず、更新が滞ってしまいました。

やっと、すべて目途が立ったことで、2週間ぶりの書き込みです。

先日、少し時間ができたので嵯峨清滝という愛宕山麓の小さな集落へ
遊びに行ってきました。

この集落を象徴するのが山間の谷を流れる清滝川です。

その名前の通り、透明度の高い澄んだ清らかな水が流れる川です。

そして、この川こそ、私が泳ぐというファーストコンタクトを体験した川でもあります。

まだ、小学生にもならない頃のある夏の日、この集落で生まれ育った父に
この川岸に連れてこられ、パンツ一丁で川に放り込まれたのです。

放り込まれた瞬間の水の冷たさと川底まで見えた透明さの感覚と記憶は、
今でも鮮明に覚えています。

手足をバタバタさせながら、流されまいと必死で泳ぎました。
とはいえ、水泳などしたことがなく、泳げるわけはないのですが
体は流れに乗り、自然と浅瀬へ運ばれ、足を川底に付け、立ち上がることができました。

立ち上がるとすぐに「なんということをするのか!」と一瞬、
父の行動が信じられない気持ちになりましたが、そこはここで育った人です。
初めての泳ぐ子でも、ここが安全な場所であることを熟知していたのですね。

普段は温厚で優しい父ですが、こんな荒っぽい方法で水泳を教えるとは、
さすがは山峡の里で育ってきた者独特の野生の教育方法です。
今から思うと、この時の思考の中に、この山峡の地で300年暮らしてきた
一族のアイデンティティとそこで育ってきた男の一面を垣間見せたのだという気がします。

父曰く「我が家の子どもは代々、こうして川に馴染み、泳ぎを覚えた」
ということらしく、泳ぎ方も知らないうちに川に放り投げて、
「生存本能を刺激することで泳ぎを覚える」というやり方でした。

この時の川中の風景を私は忘れることができません。
保津川で洪水の後に行う川作業で、石を撤去したり川底を整える為に
川底へ潜ると、その時の風景が瞬間的にフラッシュバックする時がありました。
初めての水とのふれあいは、私の潜在意識の中にしっかり埋め込まれたようです。

こうして清滝川で「泳ぐこと」と出会った私は、小学生になると
独自の水泳術を継承している京都踏水会の夏期講習を毎年受け、
琵琶湖遠泳も経験し、川と湖という自然の水環境の中で水泳を学びました。

それらの経験は、川のよさを知ると同時に、川や湖などの強大で得体のしれない
自然環境の「不気味さ」と「怖さ」を、直に「触れる」という体験の中で、本能的に
感じることでことができる回路も自分の中に植え付けていったと思っています。

でも「川は怖い」という感覚だけでなく「川は楽しい」という思い出もあります。
中学の時に学校の友達6名と自転車を漕いで清滝川へやって来て、
水中メガネとお手製の銛を持って、川へ素もぐりして
川魚を捕獲し(今から考えると違反行為…)川辺で串に差して
焼いて食べた楽しい思い出もあります。

そんな子供時代を過ごした私が今は、船頭という「川で生きる」職業を
選んでいることに何とも言えない因縁と必然性のようなものを感じる次第です。

清滝川は私にとって特別な川です。

そして今、私は再びこの川と深いかかわりを持つことになります。

ここにきて、川で生きるアイデンティティが益々研ぎ澄まされていく、
そんな予感を感じる今日この頃です。



散り紅葉が語りかける‘いのち’の大河。

2011-12-16 09:36:29 | 船頭の目・・・雑感・雑記
季節は師走に入り、めっきり初冬らしい寒い日が多くなってきました。
保津川下り乗船場のモミジもそろそろ散る時を迎えております。

紅葉の散る姿には、ものの哀れを感じさせます。

紅葉は終焉の近づきを感じると、自らで水分と養分を断ち、
葉緑素を壊して、緑から赤へと色づいていくといわれます。

自ら終焉の時を悟ったモミジの葉は、最後に残った‘いのち’の
炎を燃やすように真っ赤に染まっていきます。

その鮮やかな姿に、見る人は思わず驚嘆のため息を出します。

その時、モミジは見る人から最高の賛美を貰い‘いのち’のフィナーレを迎えるのです。

赤の染まり具合が極みに達した葉は、冬を呼ぶ寒い風で煽られたり、
雨露の重みに耐え切れず、力尽きるように散っていきます。
まるで‘いのち’の炎が燃え尽きて落ちていくように・・・

落ちたモミジの葉は、地面に赤く敷き詰めた絨毯のように広がり木々を囲みます。

そして落葉たちは、木の根に残り火を吸い込まれるように枯れていき、
来年また葉をつける木々の栄養となり、永遠となります。

生まれ変わり、出変わりしながら、姿を変え永遠に続く‘いのち’の大河となって・・・

自然の移ろいは私たち、人に‘いのち’とは何かを語りかけてくれている そう感じるです。


*保津川下りは12月から「冬季船」時間となっております。
始発船は朝10:00、最終船は2時30分となります。
定期便は10:00、11:30 1:00 2:30。
定期船はお客様お一人でもおられれば出航いたします。

冬季船にご乗船の方はお気を付け下さい。

保津川下り‘船頭物語’~厳しく寒い冬の船頭生活から~

2011-12-08 16:53:17 | 船頭の目・・・雑感・雑記
この時期になると、保津川下りの船頭たちの話題は「冬の仕事のこと」です。

川下りが閑散期になる冬は、船頭にとっても寒い季節。
冬期の間、若い船頭を中心に約3分2の船頭が他の仕事へ移っていきます。
世情厳しい昨今です。みんな、今年はいい仕事がみつかるかな??毎年不安があります。

とにかくこれから、遊船事務所もすっかり寂しくなります・・・

私は大学から新聞社記者を経て、結婚を期に京都の伝統的な観光業である
「保津川下りの船頭」へと転職し‘川’と‘渓谷’という自然の中で
生きる人生を選択しました。

今だ江戸時代のままの「手漕ぎ」にこだわる、伝統の操船技術を習得する為に
約3年間、二人の師匠に付き、連日、厳しい修業と伝統的な風習や習慣が色濃く残る
人間関係の中で‘人間力’を磨く日々でした。

観光都市・京都の一翼を担う観光業・保津川下りも、川という自然環境が「冬」の
イメージとつながりにくいこともあり、冬期は訪れる人もめっきり少なくなります。

出来高給料制の所得形態である我々船頭には、冬の収入は皆無等しい額になります。
しかし、各自が独立して事業にあたる企業組合という性格上、会社はなんの保障制度
もなく、冬期は自力で仕事を探してきて、飯の種を手に入れないといけません。

私も、保津川下りに入社以来、冬の3ヶ月間は様々な仕事をしてきました。

地元亀岡の農家で聖護院かぶらの収穫手伝いや農業用のビニールハウスの設営作業。
また、市公共工事の日雇い土木作業員から、砂防ダムや橋梁の型枠大工見習い。
京都の中央市場で老舗蒲鉾屋の冷蔵庫作業員や配達人や地元にある大手乳製品工場
専門の深夜のトラック運転手などなど・・・一体、この17年間で
どれだけの仕事をしたことだろう。

いつも唇をかみ締めるような忍耐の必要な仕事が多く、偉そうな元新聞記者などという
プライドなど木っ端微塵に砕かれるような、立場の弱い内容の仕事も多く経験しました。

あらためて振り返ってみると、自らの歩んできた人生ながら「こんな人生があるのか?」
と思えるほど、波乱万丈であり、ある意味一種、奇跡的な人生を歩んでいるとさえ感じます。

経験のない新たな仕事では、すべて先輩に頭を下げて教えて貰う事ばかりです。
先輩といっても私より若い社員さんも多く、屈辱的な言葉を投げかけられたこともしばしばです。

「所詮、冬の間だけのアルバイト」いやなら辞めればいいだけのこと。
でも、何か負けた気がして絶対にいやだったです。それは、指導される上司ということでは
なく、自分自身の「心の弱さ」に負けるのがいやだったからです。

「本職は船頭だが、ここでバイトしている時は、その仕事のプロにならないと!」
そう思って意地をみせながら取り組んできました。

今、振り返るとこの経験と克服しようとする精神力を涵養できたことこそ、
私の人生の上での大きな財産になっているとさえ思えます。

様々な現場で仕事をして、そこで生きる人たちの思いを実体験で知り、体感した私。

記者時代、様々な仕事や職種の問題や課題などとそこに生きる人を取材してきた私。
でも、聞くのと自分がするのでは雲泥の差があることを知りました。
聞いてわかった気になっていた自分の甘さを思い知らせれました。

でも、誰もが経験したことのないであろう、こんな稀有な‘人生’だからこそ、
自分で歩んでいくこと事体「私が生きる意味」でもあると感じています。

人生はかくも面白いのだ。

こんなご時世です。
多くの人が、職場現場で絶望的だと思えるような辛く厳しい時も多々あると思います。
しかし、一度や二度の挫折、厳しい今の立場や状況に折れることなく、いつも心は陽気に
前を向いて仕事に工夫と改善を加えて行く姿勢で、一生懸命‘自分磨き’をしていれば
‘チャンス’は必ず訪れるものと信します。

これからの厳しい社会へ飛び込んでいく若者こそ、そう思ってほしいと思います。

船頭の厳しい冬・・・多くの社会経験を学び、自分を磨く良い機会になると
思えば、それも無駄ではないと思えるのです。

もちろん、遊船事業が冬期に今のような現状であることを改善することが
最も大切な企業的課題であることはいうまでもないですけどね・・・

保津峡‘紅葉物語’~渓谷の自然が教えてくれること~

2011-12-05 20:39:08 | 船頭の目・・・雑感・雑記
保津峡・・・四季折々の美しい情景が息づく渓谷という名の
大自然が生み出した巨大な空間。

悠久の時が刻んだ渓谷が見せてくれる「自然の摂理」には、
人が生きていく上での貴重なヒントをいくつも教えてくれていると
感じることがあります。

今年も渓谷を錦絵のように彩った紅葉の秋が去ろうとしており、
もうすぐ山は静寂の冬へと向かいます。
秋から冬にかけて渓谷の風景はまた、著しい変化をみせるのです。

晩秋の保津峡は、それまで緑一色だった木々の葉にさまざまな色が付き始め、
華やかな彩に包まれます。紅葉はカエデの葉ばかりではなく、
イチョウやケヤキ、サクラ、フジなどもあり、それらは黄葉へと染まり、
スギなどの針葉樹の緑と相まって美しいコントラストを現します。
保津川沿いのカエデは、秋の風光に照らされ、艶やかに赤色を浮かび上がらせ、
保津峡の紅葉美を一気に際立たせます。

川岸という厳しい自然条件のもとで育った保津峡の紅葉には、
社寺仏閣のような手入れされ大事に育てられた上品な美の演出はないものの、
自然に鍛えられた荒々しい力強さと逞しさを持ち、野趣に富んだ美しさを醸しだします。
度々襲う洪水の激流や焼けつく様な日照りに晒されるという、
まさに‘逆境’に耐え抜いたものが醸し出す赤色です。
岩盤の地面にしっかり根を張り、川への延びる幹、赤く染まる葉の姿は、
どの様な苦難にも耐え抜いたものだけが到達できる誇り高き‘美’であり、
見る者に困難に負けず、生き抜くことの大切さと勇気を与えてくれるのです。

そして、紅葉の散りゆく姿は‘いのち’の終焉という深いメッセージが潜んでいます。

秋の到来とともに、紅葉は葉先から緑、黄緑、黄、朱という色順序で色づき
、葉全体を赤く染めていきます。
しかしそれは、葉が落ち、終焉へと向かう姿でもあります。
終焉が近いことを悟った木々は、糖分を葉に残し、自らの水分や養分を絶つことで
葉緑素を壊して‘紅葉’と呼ばれる赤色へ変わっていきます。

それはまるで‘いのちの炎’を燃やしきるかのような赤さです。
やがて葉は雨露の重みや強い秋風に吹かれ散り、落葉となり、いのち尽きます。
だが、落葉に残した糖分は土壌へと浸み込み、木々の根へと栄養を運び、
次の‘生’をつなげる大事な役割があるのです。

木の根は‘冬’という眠りの間に土壌の養分を吸い上げ、
春に芽吹く新しい‘いのち’を育てていく。
「死」が、新たな「生」を支え‘永遠’となり‘いのち’は繋がっていきます。

一年という時間に凝縮された‘自然のサイクル’は
「あらゆる命あるものの死が、終局を意味しない」ということを
私たち人間に語り掛けてきます。

死したものは生まれ変わり、出変わりして、
滔々と尽きることなく‘いのちの大河’は流れていきます。

私はここを仕事場に選び、17年の月日が流れました。

そして今日も舟を操り、自然が語りかけてくる‘声’を
体と心で感じながら、清流を下っていくのです。




保津峡‘紅葉物語’。トロッコ沿線のモミジと自然生えのモミジから~

2011-12-01 16:20:34 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今日から12月。でも保津峡の紅葉は今が盛りです!

葉の染まり具合も深みが帯び、目に沁みる赤さと
心もまで温かくさせる朱色へと進んできました。

なかでも鮮やかさで観光客の目をくぎ付けにするのが、
トロッコ列車・嵯峨野観光鉄道沿いの紅葉です。
まだ背丈も2mそこそこの小さく若いモミジたちですが、
若々しくイキイキとしたまぶしい赤さを出す木々たちです。

この若いモミジたちこそ、トロッコ列車創業に賭けた男たちの
熱い思いの結晶ともいえるモミジたちなのです。

今から20年前の1990年の春、JR(当時は国鉄)山陰本線の
複線電化バイパス化計画に伴い廃線となっていた保津峡区間の鉄道を、
観光用鉄道として復活させ活用する為に創業された嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車。

今でこそ年間1千万人を超える観光客が訪れる日本一の観光列車であり
京都嵯峨野観光屈指の人気施設として知られるトロッコ列車ですが、
開業した時は、線路には雑草が生い茂り、ゴミも散乱、沿線は
雑木でうずもれ、線路下を流れる保津川など見えないほどの荒廃ぶり。
しかも、駅舎もなく切符売り場の小屋と一本のホームがあるだけ。
JRから与えて貰ったのは古いディーゼル列車のみという、最悪の
条件、まったく期待されないところからのスタートでした。

それどころか、無茶な観光列車計画に「赤字確実、もっと3年・・・」という
見通しを示す会社幹部もいたほどでした。

そこへ社長として派遣されたのが、当時40歳前半で1000名を超す
部下のトップとしてエリートコースをばく進していた
現・嵯峨野観光鉄道社長長谷川一彦氏でした。
移った新規会社嵯峨野観光鉄道の社員は僅か8名・・・
荒廃しきった線路・・・
まったく見通しのたたない事業で「もって3年」と揶揄される・・・
まさに屈辱的な絶望感からのスタートだったのです。

そんな中、悔やんでばかりいても何が変わる訳でもないと、発想を変え、
「どうせ、3年しかない命なら、何かを残して死んでやろう!」
と社長は沿線に「木」を植えることを思い付かれたのです。
「鉄道は姿を消しても『木』はこれからも残っていくやろ~」
それはアーバンネットワークが進む当時のJRの中で、人気もない
深い渓谷の荒れた廃線に取り残された鉄道マンたちの意地でもあったのです。

社長以下社員一同が手にスコップとバケツを持ち、背丈以上もある
雑木や雑草を一つひとつ取り除き、嵯峨野から保津峡、そして亀岡までの
沿線間を歩きながら、モミジやサクラの苗を一本一本手作業で植えていかれたのです。
それから20年、沿線には4千本を超える木々が植樹され、3年もたない、と
いわれた観光列車は、現在年間100万人以上が訪れるJR西日本最強の子会社
といわれ、今の隆盛を得たのでした。

たった9人の鉄道マンの意地とプライドが生み出したモミジたちは、
川沿いの傾斜に自生している自然生えのモミジたちと一緒に
保津峡の秋を鮮やかに彩っているのです。

厳しい環境を耐え抜いてきた自然生えのモミジと逆境から始まった
トロッコ列車の方々が植えられたモミジは、どちらも京都の寺院などで
丁寧に育てられたそれとは異なり’どこか逞しさを備え、
凛とした野趣にとんだ美しさを感じるのです。

逆境に耐えて克服してきたものだけが醸し出すことができる美しさです!

まだまだ紅葉は見頃ど真ん中です。

これから保津峡の紅葉をご覧になられる方々は、是非、自然と人が
織りなす「保津峡の‘紅葉’物語」を思い浮かべながらご覧ください。

きっと、強さと温かさをこみ上げ、紅葉がより赤く見えることでしょう。


嵐山の紅葉風景と出会って17年目に思う。

2011-11-24 23:04:21 | 船頭の目・・・雑感・雑記
保津川下りの歴史は405年。

毎年、この季節になると渓谷を鮮やかな赤色で彩る紅葉風景が楽しめます。

先人たちもこの美しい赤い風景を見ながら、保津川で仕事をしてたのか・・・
と思うと、不思議に感慨深いものがあります。

私もこの「保津川の船頭」という仕事に従事してから、早いもので17年の歳月が経ちました。
ということは、もう17回もこの紅葉風景を見てきたことになります。

この仕事に就いた一年目、早く操船技術を覚えようと無我夢中で身体を動かし
仕事をしていた時期。まわりの山々の風景など眺めている余裕なんかなかった日々でした。
ひたすら川の流れと前方に底岩に気を取られ、水面という下ばかり見ていた頃です。

その秋も深まったある日、急流をすべて終え、緩やかな流れとなる嵐山で、
ふと見上げた山々の紅葉風景に心が奪われたのを覚えています。
それは急な斜形の嵐山の木々が赤、朱色、黄色、黄緑という色とりどりの
色彩を見せ、斑点模様のように混在していたのです。

「なんと、きれいな所なんだろう~」
仕事の疲れも、つらさも忘れさせてくれる美しい風景が目の前に広がります。

その一年間で、もう数百回は下ったでろう嵐山の景色、見慣れた風景に
だと思っていた所で見た紅葉の景色は、私の心を一瞬で奪うほどのものでした。

「ここは間違いなく‘天下の名勝’だ!」と実感しました。

そして、ここから私の自然を見る目、感性が築き始めてきたんだと、
今、振り返ってみて、そう思います。

そして17年目の紅葉。

そろそろ、紅葉の盛りを迎える嵐山と保津峡の色彩はどうでしょうか?

そして、保津川の長い歴史の中で、今年の保津川の紅葉はどのランクに位置付けられるのかな?

今年で17回目の紅葉風景はどんな色彩をみせるか今から、楽しみです。


この写真は昨年の嵐山での紅葉風景です。