goo blog サービス終了のお知らせ 

保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

保津峡が色づきはじめました。

2018-11-09 09:07:19 | 保津川下り案内
2018年、今年も保津峡の紅葉が色づきはじめてきました。

保津峡、一番最初に色づくのは昔、丹波亀山藩の殿様が魚釣りをして遊んだと云われる「殿様の漁場」
そして、最も紅葉が美しいと云われる「女渕}が続きます。

JR保津峡駅とトロッコ列車が交差するトンネル前の若い紅葉(写真)は色合いの鮮やかさが際立つ所です。

秋の保津峡の先頭を切って赤くなるカエデたち。これらの木々が赤く染まる、保津峡の紅葉のスタートです。

黄色から橙色、赤色へと山の風景は徐々に移り変わっていきます。

四季の移ろいをリアルに感じることができる季節。

保津川下りで体感してみて下さい!

皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げます。

京都の紅葉スポット・保津川下りの船頭ゆかりの嵯峨・常寂光寺

2018-11-02 16:56:32 | シリーズ・京都を歩く
京都はこれから紅葉の季節。保津川下りの終着地・嵯峨嵐山にも紅葉の名所が数多くあります。

その中で、私のお気に入りの紅葉スポットといえば「常寂光寺」です。
小倉山を背に清らかで静寂の佇まいの中、ひっそりと建つこの山寺は、
仏教の理想郷永遠・絶対の浄土である常寂光土に遊ぶ風情があるところから
「常寂光寺」と名付けられたと云われています。

時の権力者豊臣秀吉の出仕令に従わなかったことで寺を追われ、
この小倉山の地に庵を構え隠棲していた日禎上人が建立したお寺。

この小倉山の地を寄進したのが保津川下りの生みの親・角倉了以と義父の栄可です。

保津川船頭を育てた瀬戸内から呼び寄せた船頭さんも、このお寺の檀家として嵯峨の地に永住されたました。

その縁で同寺には木造小舟と櫂、竿、舵緒などの舟運道具などが奉納されています。

また『古今和歌集』の編者としても知られる藤原定家が山荘「時雨亭」を置き
『小倉百人一首』を編集した所とも云われており、
定家の木像を祀る謌僊祠(かせんし)や時雨亭趾碑が建てられています。

これから京都の紅葉に出掛けられる時は、ぜひ、お立ち寄りください。

保津峡のりもの物語 京都~千年の記憶~

2018-10-30 10:07:43 | 保津峡・桂川のりもの物語
2億5千万年前、旧赤道の深海底で浮遊微生物(プランクトン)の化石が積み重なった層が隆起して生まれた保津峡。

延暦3年(784)長岡京造営時から筏による木材輸送が始まり、平安京遷都造営事業により水運事業が活発になる。

412年前、慶長11年(1606)に角倉了以翁により舟運が開かれ、農産物や薪炭などの丹波産物が京の都へ供給される。

明治32年(1899)に京都鉄道(現嵯峨野観光鉄道)が開通し、京都⇔丹波⇔丹後間の人・もの・情報などの流通や交流が盛んとなる。

そして現在、世界中から人々が年間約150万人も訪れる峡谷となっている。

「船が下り、鉄道が走る!」1000年の‘とき’を刻む京都の峡谷・保津峡。

全時代に渡り、その時々の最先端の知識と技術、さらに膨大な資金を投入して切り拓いた場所だ。
そのには、地域。故郷の発展を願う‘信念と夢’希望を賭けて大自然に挑んだ人類の歴史物語が息づいている。

全精力を傾けても、切り拓かねばならなかった峡谷、それが保津峡だった。

その先人たちの英知と精神の記録をたよりに、壮大な歴史スペクタクルとして描いていきたい。

経験したことのない自然災害に知る逆境観

2018-10-29 08:41:55 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今年の夏は、これまで川で生きてきて経験したことない自然災害に見舞われました。

7月の記録的な西日本豪雨にはじまり、超猛暑日が続き、台風のラッシュへ!

20号、21号、24号が近畿に上陸し、その合間にも記録的短時間豪雨が降るなど、
年間降雨量を超える雨が夏期だけ降りました。

川で生業をする我々船頭にとって、台風や豪雨は河川に洪水を生み出し、長期に渡り引かない水量で
仕事ができない日が続く事を意味しています。

今年は7月に約1ヶ月、更に8月から10月までの約2ヶ月、計3か月も仕事ができない日が続きました。
こうなると、会社自体に収入が入らず、出来高払いの船頭にも給料を払えないのです。
数億もの収益が見込めず、苦しい運営の中、一日も早く営業再開を目指して復旧作業の毎日。
やっと目途が立ったと希望が出てきた矢先、次の台風がやってきてすべての希望を押し流していきました。
復旧作業をしては潰され、また作り直したら潰されるの繰り返しです。
もう、修行をしている様な精神状態です。心身ともに疲弊していく日々が2ヶ月も続きました。

この逆境に見舞われ、追い詰められる日々、ドン底の心理状態で洪水の川を眺めながら思考を巡らせ瞑想していました。

ドン底にある人間には、普段では浮かばない思考が生まれるものです。ドン底にいる人間は強いのです。
ある日、はっと気づきました。
ドン底の心理状態の中で自分の心は死んでいた。死んだ心で浮かぶことは、
「なぜ、こんな目にあうのだろう?あんなに好調に走っていたのに・・・」
「こんなことになり、これから、どうなってしまうのか・・・」とため息をつきながら、
思い悩んでばかりいる自分に気付いたのです。
つまり、過去にとらわれ悔しがり、未来の不安に苛まれる心。この心が原因で心身ともに疲弊していったのです。
「これではダメだ!この逆境をどのように解釈するか?その心持ち次第で、今後の展開は変わってくる。」
「それには過去は過ぎ去ったこと、未来は未定のこと、現実にあるのは‘今’このときしかない!」
「あるのは永遠に続く今だけだ!今を生きろ!今を精一杯生きろ!」と心が叫び出したのです!
心の奥底から叫び声は、未熟な自分に何かを掴ませようとされる‘天の声’だ!

この瞬間、自分はこの逆境に意味を持たせたのです。

そう、心を定めた瞬間、まわりの景気が一変しはじめます。
そしてさらに、思考を深める実践の日々が始まりました。
それは人間としての成長への日々の始りだったのです。

逆境から学んだこと。次回はその思考と行動の旅路を書き綴っていきたいです。



京都鉄道博物館で講演をしてきました!

2018-10-28 08:01:09 | 保津川下りものがたり
昨日は京都市の梅小路にある京都鉄道博物館で「保津峡のりもの物語」と題して講演会を行いました。

2億5千年前、浮遊微生物の化石が海底で積み重なった層が隆起して生まれた保津峡。
延暦3年(784)長岡京道営時から筏による木材輸送が始まり、平安京遷都道営事業により水運事業が活発になります。
412年前、慶長11年(1606)に角倉了以により舟運が開かれ、農産物や薪炭などの丹波産物が京の都へ供給されました。

明治32年(1899)に京都鉄道株式会社(現嵯峨野観光鉄道)開通し、京都~丹波~丹後間のひと・もの・情報の
流通や交流が盛んになりました。

そして現在、世界中から年間約150万人も人々が訪れる峡谷となっています。

「船が下り、鉄道が走る!」

京の峡谷・保津峡には全時代に渡り、人々の最先端の知恵と膨大な資金が投入されています。

そこまでしても、この峡谷の流通経路を整備しなくてはならない歴史こそ、
保津峡という自然の要害が繋ぐ京の都と丹波地域の関係性をあらわしています。

京の都と丹波という地の相互における重要性を知る事できます。

世界史に類をみない「千年の都・京都」を造り、支えた保津峡。
そしてその流通を担った「のりもの」たちに賭けた人々の夢と希望、そして強固な精神で
自然に挑んだ歴史物語に焦点を当て、お話をいたしました。

今後もその視点を大事にして、保津峡の日本史的価値を問ていきたいと思います。

角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた「舟中規約・其の参」

2018-06-19 14:07:29 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた「舟中規約・其の参」

(原文)
「上堪下与の間、民胞物与、一視同仁、況んや同国人に於いておや、況や同舟人おや、
患難、疾病、凍あれば同じく救わん。恰も独り脱れんと欲するなかれ。」


(訳)
「天と地の間にあって人間はすへて兄弟であり、
ましてや同国人や同じ船に乗り合わせる者同士においてはなおさらである。
ひとしく愛情を注くべき存在てあるから、病や飢え、寒さなど苦労をともにする時こそ、
助け合わなければならない。その苦しさから一人だけ逃げようと考えてはならない。」


角倉船は長崎から出航するのが常で、冬の北風を活かし安南(ベトナム)やカンボジア、
ルソン(フィリピン、)シャム(タイ)などアジア諸国をめざし、
翌年の春から夏にかけて南風を受け帰国するコースをとっていました。
船員には日本人だけでなく、操縦技術に優れていたヨーロッパ人を先頭に、
黒人やインド人など航海経験豊かな外国人を多数雇用し、国際色豊かな日本の船でした。
その航海の中、相互扶助の精神を徹底することで、大海原を乗り切ったのでした。

角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた「舟中規約・其の弐」

2018-06-18 17:00:50 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた「舟中規約・其の弐」

(原文)
「異域之我国に於ける、風俗言語異なると雖も,其の天賦之理、未だ嘗て同じからざるなし。
其の同じきを忘れ、其の異なるを怪しみ、少しも詐欺慢罵すること 莫れ。
彼且つ之を知らずと雖も我豈之を知らざらん哉。信は豚魚に及び、機は海鷗を見る。
惟うに天は偽欺を容れず。我か国俗を辱むる可からず。
若し他に仁人 君子に見れば、則ち父師の如く之を敬い、
以て其の国の禁諱を問い、而て其の国之風教に従え。」
(訳)
「異国とわが国とを比べれば、その風俗や言語は異なるが、天より授かった人間の本性においては
、なんの相違もない。お互いの共通するところを忘れ、違いを怪しんだり、あざむいたり、あざけったりすることは、いささかもしてはならない。たとえ先方がその道理を知らずにいようとも、 自分はそれを知らずにいても良いものか。
人のまごころはイルカにも通し、心ないカモメさえも、人のたくらみを察する。
天は人の偽りを許さないだろう。心ない振る舞いによって、わが国の恥辱をさらしてはならない。
もし異国において、仁徳に優れた人と出会ったら、これを父か師のように敬って、
その国のしきたりを学び、その他の習慣に従いなさい。」

何度もいいますが、これは16世紀後期、西欧諸国が「七つの海」を制覇する夢を持ち、
アジアなど発展途上の国に進出した時のものです。この先進性は、まさに目を見張る商業思想であり、
それを遵守させ、実践したことに世界経済史に燦然と輝く事業家として、偉大なる価値を覚えるのです。

角倉了以率いる角倉船に掲げた「舟中規約」其ノ壱

2018-06-17 07:57:07 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
角倉了以率いる朱印船「角倉船」に乗船する条件として掲げた
「舟中規約・其ノ壱」

(原文)
(原文)凡そ回易の事は、有無を通して人・己を利するなり。
人を損てて己を益するには非ざるなり。利を共にすれば、小と雖も還りて大なり。
利を共にせざれば、大と雖も還りて小なり。謂う所の利は義の嘉会なり。
故に曰く、貪之を五とすれば、廉賀は之を三とすと、これを思え。

(訳)貿易の事業は一方にあって他方にないものを互いに融通し合うもので,、
相手にも自分にも利益をもたらすものである。相手に損失を与えることによって、
自分の利益を図るためのものではない。ともに利益を受けるならば、
その利は僅かであっても、得るところは大きい。利益をともにすることがなければ、
利は大きいようであっても、得るところ は小さいのだ。ここにいう利とは、
道義と一体のものである。だからいうではないか、
貪欲な商人か五つのものを求めるとき、清廉な商人は三つのもので満足すると。
よくよく考えよ。

という訳になります。今の時代は当たり前ともいえる「均等な分配」という
貿易のグローバルスタンダードですが、時は16世紀後期、西欧列強が大航海時代として
世界の海に繰り出し、アジア諸国を植民地化していった時代に、
民間でありながら世界的視野に立った「共益の精神」で貿易を実践したことは
当時の世界状況を考えると、その先見性と人間性には驚嘆いたします。

世界交易を崇高な精神で実践した日本人実業家

2018-06-16 09:42:02 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人と渡り合った豪商・角倉了以とその子素庵。

河川流通の祖であり、近世日本を代表する交易商です。

「様々な国土開発を私財で実行し、交易により日本の発展に貢献した偉大な事業を数々実施しましたが、
その素地となった精神が「利他・共生の志」でした。「人を損(す)てて己(おのれ)を益するに非ず」
と思想でした。

その思想を乗船の条件として乗員に遵守させ、ベトナムやタイ、フィリピン、台湾など
東南アジア易諸国と貿易を展開しました。

「他国に損失を与えて、自国の利益を得ようとしてはならない」との思想を
ビジネスの現場でしっかり実践してみせたことで、
対等な立場での「ビジネスパートナー」として交易相手国の信頼を得ました。

欧州諸国がアジアへ進出した16世紀後半の大航海時代に、
ここまで崇高な精神により事業を実践した角倉親子とその一族の存在を、
日本人は忘れてはならない。

その事業を引き継ぐ者としての強い信念から、
来年も諦めることなく再度「日本遺産」認定を目指していきます。

皆さんのご支援を何卒、よろしくお願いいたします。

近世京都の物流革命を構築せよ!

2018-06-08 09:49:44 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
1606年、保津川を開削し川船を開いた角倉了以は、1614年の高瀬川開削により、
京都の洛中二条と伏見を結ぶ、物流の大動脈を築きました。

この舟運整備により、保津川が流れる京都の背後地・丹波・丹後の経済圏と京都洛中経済圏、
さらに伏見の港を出入り口とする大坂経済圏をつなぐ物流ルートを構築しました。

この事業は政治の中心が江戸に移り、経済の中心が海外に開かれた海を持つ大坂に移ったことを受け、
衰退の危機にあった近世初期の京都の命運を左右するもので、
京都そのものの改造を何う一大プロジェクトでした。

河川を活かした物流革命に成功により、京都の物価は下げ止まりで安定し、
経済のみならず技術や文化も高水準に保つことができ、京都は大いに活性化し栄えました。

日本文化の源として地方各地に影響を与え続けた近世の京都は、江戸、大坂と並び3大都市として発展しました。

了以の卓越したビジネスモデルは近代化へむかう京都の礎を築いたのでした。